63 / 157
第4章 百合と外道と疾走するウロボロス
#7 杏里、弱音を吐く
しおりを挟む
いつのまにか、気を失っていたらしい。
気がつくと、下着姿で零のベッドに寝かされていた。
昨夜目の当たりにした事件現場の惨状の記憶。
徹夜の疲労。
合同捜査会議で受けたショック。
それらが一気に襲いかかってきて、杏里の精神を一時的に麻痺させてしまったのだ。
「目が覚めたか」
相変わらずギーコギーコと砥石で苦無を研ぎながら、零が声をかけてきた。
「スマホが蝉みたいにうるさく鳴ってたけど、仕事はいいのか」
「早引きしちゃった」
掛け布団から鼻から上だけ出して、杏里は弱々しく答えた。
「相当疲れてるみたいだったが」
零が身を起こす。
研ぎ終えた苦無を窓枠に並べると、タオルで手を拭きながら杏里のほうに戻ってきた。
「何か食うか? 杏里が注文してたケーキなら、きのう店員が届けに来たぞ」
そうだった。
杏里は思い出した。
クリスマスイブを零とふたりで過ごそうと思って、近所の洋菓子店にクリスマスケーキを予約しておいたのだった。
なのにあの事件のせいで…。
「ケーキなら、冷蔵庫に入れておいた。どうせ食べるのはおまえだ。持ってきてやろうか?」
「うん」
杏里はうなずいた。
食欲はほとんどない。
でも、せっかくの機会なのだ。
零も生クリームぐらいなら、舐めてくれるに違いない。
箱に入ったケーキを丸ごと持ってきて、零がサイドテーブルに置いた。
「蝋燭立てていいか?」
箱を開くなり、妙なことを訊く。
「いいけど…バースディケーキじゃないんだよ」
杏里は上体を起こし、ベッドの端に腰かけた。
「蝋燭の炎、好きなんだ」
雪のように白いケーキに大粒のイチゴが4つ。
その間に赤い蝋燭を4本立て、零が百円ライターで火をつけた。
「蝋燭の、炎? どうして?」
「なんだか、人の命を見てるような気がしてさ」
「人の、命?」
「そう。儚く脆い、人の命。いつか私の命の火も、こんなふうに消えるのかと思うと、ちょっとばかり、ぞくぞくするんだよ。もっとも、杏里。おまえの命の蝋燭は、特別製なんだろうけれど」
言いながら、零がふうっと息を吐いた。
つむじ風のような吐息に煽られて、3本の蝋燭の火が消えた。
「ほら、これが杏里の命」
ただひとつ、残った炎を指さして、零が言う。
「永遠の生命を持つという、人魚姫の蝋燭だ」
「それは、皮肉?」
少しムッとして、杏里は言った。
「いや、事実だ。この世のすべての生命が息絶えても、不死族は生き残る」
オシラサマのお館様も、そのようなことを言っていた気がする。
でも、杏里にはそこまでの実感はない。
ただ普通の人間より、ほんの少しだけ回復力が高いと思っている程度だ。
不死族。
人魚の肉を食らい、その血を呑んだ者たち…。
そんなものが、かつて本当に存在したのだろうか。
そもそも、人魚って何?
「この星に宿疴がある限り、淀みは生まれ続ける。淀みが実在する以上、外道や邪道は存在する。ということは、その対極の存在である人魚や不死の一族も、間違いなく実在するということさ。たとえおまえがその最後のひとりであろうとも」
「それなら、こうすればいいじゃない」
杏里は手を伸ばし、火のついた蝋燭をつまみあげた。
その炎で、消えた残り3本の芯に再び火をつける。
「私が本当に人魚姫なら、いくらでも零の命に、火を灯してあげられるってこと」
「まあな」
零が美しい顔で苦笑した。
「いつかそんな日がくる気がするよ」
「あのね」
杏里は溜息をついた。
「消えた命の話、してもいいかな」
「事件か」
「うん。とってもひどい事件。これまでで最悪。見て聞いて、死にたくなったくらい」
「いいよ。その前に、食べな。そのケーキ」
零が付録の紙皿にケーキを切り分ける。
自分は包丁についたクリームを、先の割れた舌でぺろりと舐め上げた。
「コーヒー淹れるよ。零はホットミルク?」
「いや、冷やで」
「お酒じゃないんだから」
くすっと笑うと、少しだけ、気分が軽くなった。
準備が整い、熱いコーヒーを一口すすると、杏里は話し始めた。
わずか一日で消えてしまった8つの命の無残極まりない末路に関する、悲しいストーリーを…。
気がつくと、下着姿で零のベッドに寝かされていた。
昨夜目の当たりにした事件現場の惨状の記憶。
徹夜の疲労。
合同捜査会議で受けたショック。
それらが一気に襲いかかってきて、杏里の精神を一時的に麻痺させてしまったのだ。
「目が覚めたか」
相変わらずギーコギーコと砥石で苦無を研ぎながら、零が声をかけてきた。
「スマホが蝉みたいにうるさく鳴ってたけど、仕事はいいのか」
「早引きしちゃった」
掛け布団から鼻から上だけ出して、杏里は弱々しく答えた。
「相当疲れてるみたいだったが」
零が身を起こす。
研ぎ終えた苦無を窓枠に並べると、タオルで手を拭きながら杏里のほうに戻ってきた。
「何か食うか? 杏里が注文してたケーキなら、きのう店員が届けに来たぞ」
そうだった。
杏里は思い出した。
クリスマスイブを零とふたりで過ごそうと思って、近所の洋菓子店にクリスマスケーキを予約しておいたのだった。
なのにあの事件のせいで…。
「ケーキなら、冷蔵庫に入れておいた。どうせ食べるのはおまえだ。持ってきてやろうか?」
「うん」
杏里はうなずいた。
食欲はほとんどない。
でも、せっかくの機会なのだ。
零も生クリームぐらいなら、舐めてくれるに違いない。
箱に入ったケーキを丸ごと持ってきて、零がサイドテーブルに置いた。
「蝋燭立てていいか?」
箱を開くなり、妙なことを訊く。
「いいけど…バースディケーキじゃないんだよ」
杏里は上体を起こし、ベッドの端に腰かけた。
「蝋燭の炎、好きなんだ」
雪のように白いケーキに大粒のイチゴが4つ。
その間に赤い蝋燭を4本立て、零が百円ライターで火をつけた。
「蝋燭の、炎? どうして?」
「なんだか、人の命を見てるような気がしてさ」
「人の、命?」
「そう。儚く脆い、人の命。いつか私の命の火も、こんなふうに消えるのかと思うと、ちょっとばかり、ぞくぞくするんだよ。もっとも、杏里。おまえの命の蝋燭は、特別製なんだろうけれど」
言いながら、零がふうっと息を吐いた。
つむじ風のような吐息に煽られて、3本の蝋燭の火が消えた。
「ほら、これが杏里の命」
ただひとつ、残った炎を指さして、零が言う。
「永遠の生命を持つという、人魚姫の蝋燭だ」
「それは、皮肉?」
少しムッとして、杏里は言った。
「いや、事実だ。この世のすべての生命が息絶えても、不死族は生き残る」
オシラサマのお館様も、そのようなことを言っていた気がする。
でも、杏里にはそこまでの実感はない。
ただ普通の人間より、ほんの少しだけ回復力が高いと思っている程度だ。
不死族。
人魚の肉を食らい、その血を呑んだ者たち…。
そんなものが、かつて本当に存在したのだろうか。
そもそも、人魚って何?
「この星に宿疴がある限り、淀みは生まれ続ける。淀みが実在する以上、外道や邪道は存在する。ということは、その対極の存在である人魚や不死の一族も、間違いなく実在するということさ。たとえおまえがその最後のひとりであろうとも」
「それなら、こうすればいいじゃない」
杏里は手を伸ばし、火のついた蝋燭をつまみあげた。
その炎で、消えた残り3本の芯に再び火をつける。
「私が本当に人魚姫なら、いくらでも零の命に、火を灯してあげられるってこと」
「まあな」
零が美しい顔で苦笑した。
「いつかそんな日がくる気がするよ」
「あのね」
杏里は溜息をついた。
「消えた命の話、してもいいかな」
「事件か」
「うん。とってもひどい事件。これまでで最悪。見て聞いて、死にたくなったくらい」
「いいよ。その前に、食べな。そのケーキ」
零が付録の紙皿にケーキを切り分ける。
自分は包丁についたクリームを、先の割れた舌でぺろりと舐め上げた。
「コーヒー淹れるよ。零はホットミルク?」
「いや、冷やで」
「お酒じゃないんだから」
くすっと笑うと、少しだけ、気分が軽くなった。
準備が整い、熱いコーヒーを一口すすると、杏里は話し始めた。
わずか一日で消えてしまった8つの命の無残極まりない末路に関する、悲しいストーリーを…。
0
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
無能な陰陽師
もちっぱち
ホラー
警視庁の詛呪対策本部に所属する無能な陰陽師と呼ばれる土御門迅はある仕事を任せられていた。
スマホ名前登録『鬼』の上司とともに
次々と起こる事件を解決していく物語
※とてもグロテスク表現入れております
お食事中や苦手な方はご遠慮ください
こちらの作品は、
実在する名前と人物とは
一切関係ありません
すべてフィクションとなっております。
※R指定※
表紙イラスト:名無死 様
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
消された過去と消えた宝石
志波 連
ミステリー
大富豪斎藤雅也のコレクション、ピンクダイヤモンドのペンダント『女神の涙』が消えた。
刑事伊藤大吉と藤田建造は、現場検証を行うが手掛かりは出てこなかった。
後妻の小夜子は、心臓病により車椅子生活となった当主をよく支え、二人の仲は良い。
宝石コレクションの隠し場所は使用人たちも知らず、知っているのは当主と妻の小夜子だけ。
しかし夫の体を慮った妻は、この一年一度も外出をしていない事は確認できている。
しかも事件当日の朝、日課だったコレクションの確認を行った雅也によって、宝石はあったと証言されている。
最後の確認から盗難までの間に人の出入りは無く、使用人たちも徹底的に調べられたが何も出てこない。
消えた宝石はどこに?
手掛かりを掴めないまま街を彷徨っていた伊藤刑事は、偶然立ち寄った画廊で衝撃的な事実を発見し、斬新な仮説を立てる。
他サイトにも掲載しています。
R15は保険です。
表紙は写真ACの作品を使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる