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第2章 百合と髑髏の狂騒曲
#5 杏里、里へ行く
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「プール?」
床から顏を上げて、零が言った。
「なんでこのクソ暑いのに、外に出なきゃいけないんだ?」
ここ2ヶ月で、零の部屋はすっかり彼女の好みに統一されていた。
床のカーペットも、ベッドカバーも、壁紙も、カーテンもすべて黒一色。
だから、床に寝そべった零の白い裸身が、よけいに妖しく浮き上がって見える。
零は黒いいブラとパンティしか身に着けていない。
梅雨が明けてからずっとこうだ。
元より服を着るのが嫌いなのだという。
だから彼女はあの目玉模様の”戦闘服”以外、いまだにろくに服というものをもっていない。
「だって、せっかくお休みもらったんだよ? なのに家の中でごろごろして暮らすなんて、もったいないじゃない」
7月3日の夜。
ここのところ定時の帰りが続く杏里は、部屋着に着替えて零の部屋に来ていた。
杏里が部屋に入ると、零は床に寝そべってスマホで音楽を聴いているところだった。
音楽と言っても、零が聴くのは常人には理解しがたい不思議なシロモノである。
以前一度、イヤホンの片方を借りて一緒に聴いたことがあるが、杏里の耳には何も聞こえてこなかった。
「これ何? 壊れてるの?」
たずねると、
「いや」
とその時、零は首を振ったものである。
「私が聴いているのは、”静寂”だ。すなわち”無音”。これがいちばん落ち着く」
わざわざ静寂を聴くというのがどういうことなのか、杏里にはさっぱりわからない。
だから今では、
「何聴いてるの?」
とたずねる気にもならないのだ。
「行きたいなら、杏里がひとりで行けばいい」
素っ気なく零が言った。
「まだ新月から日が経っていないし、正直あまり動きたくないんだ」
「零のケチ。馬鹿。人の気も知らないで」
悔しさと情けなさで涙が滲んできた。
「なかなかお休みがとれなくて、一緒に出掛けたりする機会がないから、こうして誘ってるのに。やっぱりあれなんだね。零にとっては私なんてただの家主で、おなかが空いたとき用の検血係に過ぎないんだよね」
「またそれか」
やれやれといった感じで、零が身を起こした。
「誰もそんなことはひと言も言っていない。何を怒ってるんだ? 私のかわいい人魚姫は」
零が近づいてくる。
サラサラの長い髪が左右に分かれ、その間からどきっとするほど美しい顔が現れる。
漆黒の瞳孔の真ん中の、深紅の点が杏里を見る。
抱き締められ、部屋着の上から胸をまさぐられると、自然と切ないため息が口から洩れた。
「プールは気が進まないが、そんなに言うなら川でもいいか?」
杏里の乳首を指先で巧みに弄びながら零が言った。
「川?」
意外な言葉に杏里はうっとり閉じかけていた眼を開けた。
「なんで川が出てくるの?」
「里への道の近くに、きれいな清流があるのを思い出したんだ。あそこなら、誰にも見られず泳ぎ放題、泳ぐことができる」
「別にいいけど…里には帰れないんじゃなかったの?」
「この前の真珠の件を、お館さまに報告に行こうと思う。ちょっと知恵も借りたいし、何よりも杏里、おまえを紹介したい」
「私を…?」
「そうだ。おまえを見れば、お館さまもきっとお喜びになる。なんせ、本物の人魚姫なんだ」
零はこの2ヶ月の間に、2度九州に出かけていた。
4月の終わりに1回。
5月の終わりに1回。
ともにあの呪われた真珠を噴火口に沈めるためである。
2回目は相馬葵の手術の後だった。
杏里が葵に子宮の検査を奨めると、案の定内部に異物が見つかった。
手術で摘出したものはちゃんともらって帰るよう念を押し、これは呪われているから、と杏里が葵本人から引き取り、零に渡したのである。
報告というのは、そのあたりの事情も含めてということなのだろう。
紆余曲折を経て、5つの真珠はようやくこの世界から姿を消したのだ。
「ちょっと怖いな…」
杏里がつぶやくと、零がそっと頬を寄せてきた。
「大丈夫だ。里のみんなはいい人ばかりだよ。それに、あの時じくの実も食べ放題ときている。むしろ、問題は水着だな。私はそのようなものは一着も持っていない」
「途中で買おうよ。私もちょうど、新しいの欲しかったんだ。零に似合うの、選んであげるから」
「別に裸で泳いでもかまわんのだが」
零が顔をしかめてみせた。
「あんな山奥、どうせ誰も来ないんだし」
床から顏を上げて、零が言った。
「なんでこのクソ暑いのに、外に出なきゃいけないんだ?」
ここ2ヶ月で、零の部屋はすっかり彼女の好みに統一されていた。
床のカーペットも、ベッドカバーも、壁紙も、カーテンもすべて黒一色。
だから、床に寝そべった零の白い裸身が、よけいに妖しく浮き上がって見える。
零は黒いいブラとパンティしか身に着けていない。
梅雨が明けてからずっとこうだ。
元より服を着るのが嫌いなのだという。
だから彼女はあの目玉模様の”戦闘服”以外、いまだにろくに服というものをもっていない。
「だって、せっかくお休みもらったんだよ? なのに家の中でごろごろして暮らすなんて、もったいないじゃない」
7月3日の夜。
ここのところ定時の帰りが続く杏里は、部屋着に着替えて零の部屋に来ていた。
杏里が部屋に入ると、零は床に寝そべってスマホで音楽を聴いているところだった。
音楽と言っても、零が聴くのは常人には理解しがたい不思議なシロモノである。
以前一度、イヤホンの片方を借りて一緒に聴いたことがあるが、杏里の耳には何も聞こえてこなかった。
「これ何? 壊れてるの?」
たずねると、
「いや」
とその時、零は首を振ったものである。
「私が聴いているのは、”静寂”だ。すなわち”無音”。これがいちばん落ち着く」
わざわざ静寂を聴くというのがどういうことなのか、杏里にはさっぱりわからない。
だから今では、
「何聴いてるの?」
とたずねる気にもならないのだ。
「行きたいなら、杏里がひとりで行けばいい」
素っ気なく零が言った。
「まだ新月から日が経っていないし、正直あまり動きたくないんだ」
「零のケチ。馬鹿。人の気も知らないで」
悔しさと情けなさで涙が滲んできた。
「なかなかお休みがとれなくて、一緒に出掛けたりする機会がないから、こうして誘ってるのに。やっぱりあれなんだね。零にとっては私なんてただの家主で、おなかが空いたとき用の検血係に過ぎないんだよね」
「またそれか」
やれやれといった感じで、零が身を起こした。
「誰もそんなことはひと言も言っていない。何を怒ってるんだ? 私のかわいい人魚姫は」
零が近づいてくる。
サラサラの長い髪が左右に分かれ、その間からどきっとするほど美しい顔が現れる。
漆黒の瞳孔の真ん中の、深紅の点が杏里を見る。
抱き締められ、部屋着の上から胸をまさぐられると、自然と切ないため息が口から洩れた。
「プールは気が進まないが、そんなに言うなら川でもいいか?」
杏里の乳首を指先で巧みに弄びながら零が言った。
「川?」
意外な言葉に杏里はうっとり閉じかけていた眼を開けた。
「なんで川が出てくるの?」
「里への道の近くに、きれいな清流があるのを思い出したんだ。あそこなら、誰にも見られず泳ぎ放題、泳ぐことができる」
「別にいいけど…里には帰れないんじゃなかったの?」
「この前の真珠の件を、お館さまに報告に行こうと思う。ちょっと知恵も借りたいし、何よりも杏里、おまえを紹介したい」
「私を…?」
「そうだ。おまえを見れば、お館さまもきっとお喜びになる。なんせ、本物の人魚姫なんだ」
零はこの2ヶ月の間に、2度九州に出かけていた。
4月の終わりに1回。
5月の終わりに1回。
ともにあの呪われた真珠を噴火口に沈めるためである。
2回目は相馬葵の手術の後だった。
杏里が葵に子宮の検査を奨めると、案の定内部に異物が見つかった。
手術で摘出したものはちゃんともらって帰るよう念を押し、これは呪われているから、と杏里が葵本人から引き取り、零に渡したのである。
報告というのは、そのあたりの事情も含めてということなのだろう。
紆余曲折を経て、5つの真珠はようやくこの世界から姿を消したのだ。
「ちょっと怖いな…」
杏里がつぶやくと、零がそっと頬を寄せてきた。
「大丈夫だ。里のみんなはいい人ばかりだよ。それに、あの時じくの実も食べ放題ときている。むしろ、問題は水着だな。私はそのようなものは一着も持っていない」
「途中で買おうよ。私もちょうど、新しいの欲しかったんだ。零に似合うの、選んであげるから」
「別に裸で泳いでもかまわんのだが」
零が顔をしかめてみせた。
「あんな山奥、どうせ誰も来ないんだし」
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