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第2章 百合と髑髏の狂騒曲
#4 杏里、反論する
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翌日、いつも通り照和署に出勤すると、瑞穂署からきのうの事件の報告が届いていた。
報告の内容は、公園周辺の聞き込みの結果、赤ん坊の母親が見つかったというものだ。
瑞穂署の刑事の予想通り、公園のトイレに赤ん坊を産み落としたのは、近所の私立高校の女生徒だった。
学校帰りに突然つわりに襲われ、トイレに飛び込んでいきんだところ、赤ちゃんがあっけなく産まれてしまったというのである。
少女は妊娠が目立たない体質だったらしく、家族はもちろんのこと、クラスメートも彼女を妊娠させた当の恋人も、誰ひとりとして少女の妊娠に気づいていなかった。
堕ろすに堕ろせず、誰にも相談できないでひとり悩んでいるうちに、いつしか臨月を迎えてしまったということらしい。
だが、生みの親が判明したからと言って、それで事件が終わったわけではなかった。
胎児の殺害については、少女は断固として否定した。
自分は産んだ後、怖くなって逃げただけで、赤ちゃんを殺してなどいないし、ましてや首など切断していないと言い張るのだった。
「どういうことですかねえ」
韮崎の説明を聞き終えるなり、顎に手を当てて、考える人のポーズで三上が言った。
照和署の2階。
刑事部捜査一課のフロアである。
きのうの高山の言でわかるように、4月下旬の『赤い真珠』事件以来、ここのところ捜査一課はまったくの開店休業状態が続いていた。
殺人、傷害、強姦等の凶悪犯罪が、この2ヶ月というもの、1件も起きていないのだ。
政治家や公務員の犯罪を追う捜査二課、窃盗・すりなどを扱う捜査三課はいつも通り忙しそうなのに、韮崎たち6人だけが、この刑事部のフロアでまるで時の流れに取り残されたかのように、毎日暇を持て余しているのだった。
かくして自然、デスクワークに飽きた6人の話題は、他の管内で起きた凶悪事件のことになる。
「瑞穂署の見解では、頭は野良犬かカラスが持ち去ったのだろうってことらしい。餌と間違えて食い殺された挙句、頭まで盗まれるなんて、まったくかわいそうな話だな」
美味そうに煙草をふかしながら、韮崎が言った。
班長の韮崎は、『人間蒸気機関車』なる異名を誇るヘビースモーカーである。
ところかまわず喫煙するので、窓際に席が置かれている。
今も韮崎の向こうの窓は全開になっていて、その頭上にはまばゆいほどの夏空が見えていた。
「うーん」
思わず唸ってしまったのは、杏里である。
「でも、それって、ちょっとおかしくありませんか?」
我慢できず、つい発言してしまっていた。
「お、笹原か。どうした? きょうは珍しく起きてるみたいだな」
韮崎のからかいに、高山と野崎が今にも吹き出しそうな顔をする。
「おかしいって、何がだい?」
男刑事5人の中では最も紳士的な三上が、ちらりと杏里に視線を投げて、訊いてきた。
杏里には零という同性の恋人がいる。
それでも、イケメン男性に声をかけられるのはうれしいものだった。
「よく訊いてくださいました三上さん。だって、考えてみてくださいよ。食べるためなら、ふつう体のほうを持ち去るんじゃありませんか? 頭なんか持ってっても、食べるところ、ないと思うんですけど。その…脳味噌以外は」
口にしてから一瞬、しまったと後悔した。
かつて、零の主食が、サイコパスの脳の一部だったことを思い出したのだ。
2ヶ月前のあの事件の時には、外道の脳まで食べてしまった。
零に脳を破壊された者は、誰もが廃人になってしまう。
その『連続廃人化事件』を韮崎が思い出し、また蒸し返すのではないかと危惧したのである。
が、韮崎は、すでに2ヶ月が経過したあの曖昧な事件のことなど、すっかり忘れてしまっているようだ。
特に脳の話題に触れてくることもなく、あっさりとした口調で反論を返してきただけだった。
「別に食べるために首を食いちぎったとは限らないだろう。ほら、子犬や子猫なんかはよくボールで遊ぶし、知能の高いカラスもひょっとしたらそうかもしれん。生まれたばかりの赤ん坊の首の筋肉なんて、おそらく牛の筋肉より柔らかいだろう。大きめの動物がちょっとひっぱっただけでた易く抜けてしまうということは、十分あり得ると思うがな」
「そうでしょうか…」
ただ遊びたいためだけに、警戒心の強い犬やカラスがそんな危険を冒すだろうか。
だいたい、もしそうだとしても、それなら公園内に首が落ちていてもおかしくはない。
「ま、とにかくこの事件はこれで終わりだな。ついでといっては何だが、笹原、おまえもずいぶん超過勤務が溜まってるだろう? 明日あたり、なんなら振休でもとったらどうだ。せっかくの夏だ。いい若いもんが仕事仕事で潰れてしまうのは気の毒だからな。彼氏と一緒にプールにでも行ってこい」
団扇で首のあたりに風を送りながら、韮崎が締めくくった。
「お、俺も一緒に振休、いいですか?」
手を挙げたのは研修生の野崎である。
「杏里先輩のビキニ姿、絶対見たいっすよ! ね、高山さん」
「そ、そりゃそうだが、バカやろ、なんで急に俺に振る?」
うろたえる高山の童顔が、見る間に紅潮していく。
「ダメに決まってるだろうが。振休は交代で取れ。だいたい野崎、おまえは研修中なんだから、振休など存在しない。もっとまじめに働け」
「はいはい、わかってますって」
長髪をかき上げ、ふてくされる野崎。
「杏里ちゃんとデートだなんて、てめえみたいな半人前には、十年早いんだよ」
山田刑事がそのやせた肩を後ろからどついた。
笑いをかみ殺し、杏里は頭を下げた。
「班長、ありがとうございます。では早速あした、お休みさせていただきます!」
元気よく言って、おどけたように敬礼してみせた。
うれしくて、自然に笑みがこぼれてしまう。
プールかあ。
いいなあ。
よし。
零を誘ってみよう。
そう思ったからだった。
報告の内容は、公園周辺の聞き込みの結果、赤ん坊の母親が見つかったというものだ。
瑞穂署の刑事の予想通り、公園のトイレに赤ん坊を産み落としたのは、近所の私立高校の女生徒だった。
学校帰りに突然つわりに襲われ、トイレに飛び込んでいきんだところ、赤ちゃんがあっけなく産まれてしまったというのである。
少女は妊娠が目立たない体質だったらしく、家族はもちろんのこと、クラスメートも彼女を妊娠させた当の恋人も、誰ひとりとして少女の妊娠に気づいていなかった。
堕ろすに堕ろせず、誰にも相談できないでひとり悩んでいるうちに、いつしか臨月を迎えてしまったということらしい。
だが、生みの親が判明したからと言って、それで事件が終わったわけではなかった。
胎児の殺害については、少女は断固として否定した。
自分は産んだ後、怖くなって逃げただけで、赤ちゃんを殺してなどいないし、ましてや首など切断していないと言い張るのだった。
「どういうことですかねえ」
韮崎の説明を聞き終えるなり、顎に手を当てて、考える人のポーズで三上が言った。
照和署の2階。
刑事部捜査一課のフロアである。
きのうの高山の言でわかるように、4月下旬の『赤い真珠』事件以来、ここのところ捜査一課はまったくの開店休業状態が続いていた。
殺人、傷害、強姦等の凶悪犯罪が、この2ヶ月というもの、1件も起きていないのだ。
政治家や公務員の犯罪を追う捜査二課、窃盗・すりなどを扱う捜査三課はいつも通り忙しそうなのに、韮崎たち6人だけが、この刑事部のフロアでまるで時の流れに取り残されたかのように、毎日暇を持て余しているのだった。
かくして自然、デスクワークに飽きた6人の話題は、他の管内で起きた凶悪事件のことになる。
「瑞穂署の見解では、頭は野良犬かカラスが持ち去ったのだろうってことらしい。餌と間違えて食い殺された挙句、頭まで盗まれるなんて、まったくかわいそうな話だな」
美味そうに煙草をふかしながら、韮崎が言った。
班長の韮崎は、『人間蒸気機関車』なる異名を誇るヘビースモーカーである。
ところかまわず喫煙するので、窓際に席が置かれている。
今も韮崎の向こうの窓は全開になっていて、その頭上にはまばゆいほどの夏空が見えていた。
「うーん」
思わず唸ってしまったのは、杏里である。
「でも、それって、ちょっとおかしくありませんか?」
我慢できず、つい発言してしまっていた。
「お、笹原か。どうした? きょうは珍しく起きてるみたいだな」
韮崎のからかいに、高山と野崎が今にも吹き出しそうな顔をする。
「おかしいって、何がだい?」
男刑事5人の中では最も紳士的な三上が、ちらりと杏里に視線を投げて、訊いてきた。
杏里には零という同性の恋人がいる。
それでも、イケメン男性に声をかけられるのはうれしいものだった。
「よく訊いてくださいました三上さん。だって、考えてみてくださいよ。食べるためなら、ふつう体のほうを持ち去るんじゃありませんか? 頭なんか持ってっても、食べるところ、ないと思うんですけど。その…脳味噌以外は」
口にしてから一瞬、しまったと後悔した。
かつて、零の主食が、サイコパスの脳の一部だったことを思い出したのだ。
2ヶ月前のあの事件の時には、外道の脳まで食べてしまった。
零に脳を破壊された者は、誰もが廃人になってしまう。
その『連続廃人化事件』を韮崎が思い出し、また蒸し返すのではないかと危惧したのである。
が、韮崎は、すでに2ヶ月が経過したあの曖昧な事件のことなど、すっかり忘れてしまっているようだ。
特に脳の話題に触れてくることもなく、あっさりとした口調で反論を返してきただけだった。
「別に食べるために首を食いちぎったとは限らないだろう。ほら、子犬や子猫なんかはよくボールで遊ぶし、知能の高いカラスもひょっとしたらそうかもしれん。生まれたばかりの赤ん坊の首の筋肉なんて、おそらく牛の筋肉より柔らかいだろう。大きめの動物がちょっとひっぱっただけでた易く抜けてしまうということは、十分あり得ると思うがな」
「そうでしょうか…」
ただ遊びたいためだけに、警戒心の強い犬やカラスがそんな危険を冒すだろうか。
だいたい、もしそうだとしても、それなら公園内に首が落ちていてもおかしくはない。
「ま、とにかくこの事件はこれで終わりだな。ついでといっては何だが、笹原、おまえもずいぶん超過勤務が溜まってるだろう? 明日あたり、なんなら振休でもとったらどうだ。せっかくの夏だ。いい若いもんが仕事仕事で潰れてしまうのは気の毒だからな。彼氏と一緒にプールにでも行ってこい」
団扇で首のあたりに風を送りながら、韮崎が締めくくった。
「お、俺も一緒に振休、いいですか?」
手を挙げたのは研修生の野崎である。
「杏里先輩のビキニ姿、絶対見たいっすよ! ね、高山さん」
「そ、そりゃそうだが、バカやろ、なんで急に俺に振る?」
うろたえる高山の童顔が、見る間に紅潮していく。
「ダメに決まってるだろうが。振休は交代で取れ。だいたい野崎、おまえは研修中なんだから、振休など存在しない。もっとまじめに働け」
「はいはい、わかってますって」
長髪をかき上げ、ふてくされる野崎。
「杏里ちゃんとデートだなんて、てめえみたいな半人前には、十年早いんだよ」
山田刑事がそのやせた肩を後ろからどついた。
笑いをかみ殺し、杏里は頭を下げた。
「班長、ありがとうございます。では早速あした、お休みさせていただきます!」
元気よく言って、おどけたように敬礼してみせた。
うれしくて、自然に笑みがこぼれてしまう。
プールかあ。
いいなあ。
よし。
零を誘ってみよう。
そう思ったからだった。
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