サイコパスハンター零

戸影絵麻

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第1章 黄泉の国から来た少女

#29 杏里、抗う

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 男の顏は、今や原型を留めないほどに変化を遂げてしまっていた。

 目鼻が溶け、単なる模様と化し、渦を巻く墨汁のようにしばし顔面をさまよった後、残ったのは丸い口だけだ。

 口だけになったムンクの『叫び』。

 とでも形容すればいいだろうか。

 杏里の海馬の深層で、忌まわしい記憶がかすかに蠢いたようだった。

 この口。

 見たことがある。

 あの時、惨殺された両親の死体を見下ろして笑っていた、あのブラックホールみたいに大きな口…。

 それから、あの腕。

 5本の指が融合し、手首から先が尖った鎌の刃みたいに変形している。

 先端には、爪がひとつに溶け合ってできた、ぎざぎざの鋭い鉤爪が生えている。

 父と母を切り裂き、幼い私の腹をえぐったのは、もしかしたらナイフなどではなく、これと同様の異形の爪だったのではないだろうか。

 すなわち、あれも、こいつらの仕業だったのではなかろうか…。



 でも、今はそれどころではない。

 まず、こいつにはっきりと白状させるのだ。

 それを聴きさえすれば、韮崎達も動き出せるはずだから。

 こみ上げる恐怖を押さえつけて、杏里は言った。

「つまり、そこにある赤い真珠は、三浦文代と鬼頭千佳の体内から取り出したもの。そういうことなのね? そしてあなたは今、相馬葵の体内で育つもうひとつの真珠を回収に来た。なぜって、8年前の神隠し事件は、あなたの仕業だったから。あなたは、何の罪もない3人の少女を誘拐して、その幼い子宮に真珠の核とやらを植えつけた。そう、8年後に真珠として取り出すために。そしてふたりを殺し、今また残りのひとりを…」

「そうですよ。だからさっきから、そう言ってるじゃないですか。真珠を回収した後、母体がどうなろうと、それは私の知ったことじゃない。私にはこの赤い真珠が5つ必要なんだ。あなたたちの中で育てた3つと、去年別の個体2体から回収した2つ。ところが、そのうちのひとつは、忌々しいことに、”邪道”の使いに奪われてしまった。だから、あなたの体内のひとつは、何があろうと絶対に回収しなければならない。つまりはそういうわけなのです」

 男の長広舌を聴きながら、杏里はもう一度箱の中に目をやった。

 そうなのだ。

 赤い真珠は3つある。

 文代と千佳以外に、人知れず殺された女性がほかにもいるという証拠だ。

 男の言葉が正しいとすると、それもひとりではなく、ふたり。

 そしておそらく、奪われたひとつというのが、零の持っているあの形見の真珠だろう。

「5つ集めて、どうするの?」

「それをあなたに教える義務はありません。ただひとつ確かなのは、奪われたひとつの代わりをつくるために、これから更に8年も待つことはできないということ。失われたひとつの代わりは、即席の、もっと強力な呪物で埋め合わせるしかありません」

「即席の、呪物?」

 なんのことだろう?

 またオカルトだ。

 杏里はひどい眩暈を覚えた。

 セカイがいびつに歪み始めている。

 セカイの表面のきれいな肌が裂け、血みどろの臓物がこちら側に溢れ出しかけているのだ。

「もういいでしょう」

 苛立ちを滲ませた口調で、男が言った。

「時間がないのです。今を逃せば、次のチャンスは半年後だ。地龍は眠ってしまうと、なかなか起きないのでね」

「地竜?」

「会話は終わりだと言ったはずですよ」

 男が無造作に右腕を振り上げ、振り下ろした。

「きゃっ」

 杏里は危ういところで、椅子を倒して飛びのいていた。

 テーブルが真ん中から真っ二つに割れている。

「逆らっても無駄です」

 男が今度は水平に左腕で空を薙ぎ払った。

 のけ反りざま、杏里の右足が伸びた。

 前蹴りが男の喉仏を正確に直撃する。

 ゴム人形を思いっきり蹴りつけたような感触だった。

「あうっ」

 杏里は反動で後ろに吹っ飛び、柱の角にしたたかに背骨を打ちつけた。

 そのままずるずると床に座り込む。

 痛みで一瞬気が遠くなっていた。
 
 短すぎるチアガールのスカートが、災いした。

 無意識のうちに股が開き、M字開脚の姿勢を取ってしまっている。

 開いた太腿の間の三角ゾーンがちょうど男の正面を向き、今や格好の的となってしまっていた。

「もらいますよ」

 男がもう一度、鎌状の腕を頭上に振り上げた時だった。

「おまえが欲しいのは、これだろう」

 男の肩越しに、声がした。

 いつのまに部屋から出て来たのか、零が立っていた。

 あの赤い真珠を乗せた右手の掌を、男に向かって突き出している。

「貴様…」

 零のほうを振り向いて、男が呻いた。

「図ったな。これは、邪道の罠か」

 さっきまでとは打って変わった、どす黒い怒りの滲む声だった。

「何とでも言え。この外道」

 零が漆黒の着物の袂をばっと広げた。

 瞬間、木の葉の模様が一斉にくるりと裏返り、無数の眼が現れる。

「目々漣…」

 百の目玉に見据えられて、男が硬直した。

 両手の鎌を振り上げたまま、凍りついたように立ち尽くしている。

 蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだ。

 風もないのに、零の顔の周りで、長い髪がさあっと扇形に広がった。

 何かの合図のように、瞳が赤く光る。

「地獄に堕ちろ」

 低いが、よく通る声で零が叫んだ。

 次の瞬間、低く腰をかがめた零の口から、さっと舌が伸びた。

 半ば開いたままの男の口に、その凶器のような舌が飛び込んだ。

 ブルッと男が身を震わせ、

 くあぁぁぁぁぁぁぁ。

 と、か細い奇妙な声で鳴いた。

 が、それだけだった。

 零が舌を巻き戻すのと、男がクラゲかこんにゃくのようになって床にくず折れるのとが、ほとんど同時だった。

 玄関の外で足音がして、韮崎達がドアを連打し始めたのは、その時だ。

「おい、笹原! 開けろ! 開けるんだ! あれほど鍵を開けるなと言ったのに、いったいどうなってるんだ?」

 床に散らばった真珠の中から、零が赤い3つを掴み取り、袂にしまった。

「じゃ、杏里、後は頼んだ」

 窓に歩み寄ると、鍵を開け、サッシ戸をいっぱいに開いて、跳んだ。

 零が消えてしまうと、部屋の中に残されたのは、床に倒れて痙攣する化け物と杏里だけだった。

「終わったの…?」

 柱に背をつけ、パンティも露わにへたり込んだまま、ただ呆然と杏里はひとりごちた。

「本当に、全部、終わったの?」






 








 



 


 
 
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