30 / 157
第1章 黄泉の国から来た少女
#29 杏里、抗う
しおりを挟む
男の顏は、今や原型を留めないほどに変化を遂げてしまっていた。
目鼻が溶け、単なる模様と化し、渦を巻く墨汁のようにしばし顔面をさまよった後、残ったのは丸い口だけだ。
口だけになったムンクの『叫び』。
とでも形容すればいいだろうか。
杏里の海馬の深層で、忌まわしい記憶がかすかに蠢いたようだった。
この口。
見たことがある。
あの時、惨殺された両親の死体を見下ろして笑っていた、あのブラックホールみたいに大きな口…。
それから、あの腕。
5本の指が融合し、手首から先が尖った鎌の刃みたいに変形している。
先端には、爪がひとつに溶け合ってできた、ぎざぎざの鋭い鉤爪が生えている。
父と母を切り裂き、幼い私の腹をえぐったのは、もしかしたらナイフなどではなく、これと同様の異形の爪だったのではないだろうか。
すなわち、あれも、こいつらの仕業だったのではなかろうか…。
でも、今はそれどころではない。
まず、こいつにはっきりと白状させるのだ。
それを聴きさえすれば、韮崎達も動き出せるはずだから。
こみ上げる恐怖を押さえつけて、杏里は言った。
「つまり、そこにある赤い真珠は、三浦文代と鬼頭千佳の体内から取り出したもの。そういうことなのね? そしてあなたは今、相馬葵の体内で育つもうひとつの真珠を回収に来た。なぜって、8年前の神隠し事件は、あなたの仕業だったから。あなたは、何の罪もない3人の少女を誘拐して、その幼い子宮に真珠の核とやらを植えつけた。そう、8年後に真珠として取り出すために。そしてふたりを殺し、今また残りのひとりを…」
「そうですよ。だからさっきから、そう言ってるじゃないですか。真珠を回収した後、母体がどうなろうと、それは私の知ったことじゃない。私にはこの赤い真珠が5つ必要なんだ。あなたたちの中で育てた3つと、去年別の個体2体から回収した2つ。ところが、そのうちのひとつは、忌々しいことに、”邪道”の使いに奪われてしまった。だから、あなたの体内のひとつは、何があろうと絶対に回収しなければならない。つまりはそういうわけなのです」
男の長広舌を聴きながら、杏里はもう一度箱の中に目をやった。
そうなのだ。
赤い真珠は3つある。
文代と千佳以外に、人知れず殺された女性がほかにもいるという証拠だ。
男の言葉が正しいとすると、それもひとりではなく、ふたり。
そしておそらく、奪われたひとつというのが、零の持っているあの形見の真珠だろう。
「5つ集めて、どうするの?」
「それをあなたに教える義務はありません。ただひとつ確かなのは、奪われたひとつの代わりをつくるために、これから更に8年も待つことはできないということ。失われたひとつの代わりは、即席の、もっと強力な呪物で埋め合わせるしかありません」
「即席の、呪物?」
なんのことだろう?
またオカルトだ。
杏里はひどい眩暈を覚えた。
セカイがいびつに歪み始めている。
セカイの表面のきれいな肌が裂け、血みどろの臓物がこちら側に溢れ出しかけているのだ。
「もういいでしょう」
苛立ちを滲ませた口調で、男が言った。
「時間がないのです。今を逃せば、次のチャンスは半年後だ。地龍は眠ってしまうと、なかなか起きないのでね」
「地竜?」
「会話は終わりだと言ったはずですよ」
男が無造作に右腕を振り上げ、振り下ろした。
「きゃっ」
杏里は危ういところで、椅子を倒して飛びのいていた。
テーブルが真ん中から真っ二つに割れている。
「逆らっても無駄です」
男が今度は水平に左腕で空を薙ぎ払った。
のけ反りざま、杏里の右足が伸びた。
前蹴りが男の喉仏を正確に直撃する。
ゴム人形を思いっきり蹴りつけたような感触だった。
「あうっ」
杏里は反動で後ろに吹っ飛び、柱の角にしたたかに背骨を打ちつけた。
そのままずるずると床に座り込む。
痛みで一瞬気が遠くなっていた。
短すぎるチアガールのスカートが、災いした。
無意識のうちに股が開き、M字開脚の姿勢を取ってしまっている。
開いた太腿の間の三角ゾーンがちょうど男の正面を向き、今や格好の的となってしまっていた。
「もらいますよ」
男がもう一度、鎌状の腕を頭上に振り上げた時だった。
「おまえが欲しいのは、これだろう」
男の肩越しに、声がした。
いつのまに部屋から出て来たのか、零が立っていた。
あの赤い真珠を乗せた右手の掌を、男に向かって突き出している。
「貴様…」
零のほうを振り向いて、男が呻いた。
「図ったな。これは、邪道の罠か」
さっきまでとは打って変わった、どす黒い怒りの滲む声だった。
「何とでも言え。この外道」
零が漆黒の着物の袂をばっと広げた。
瞬間、木の葉の模様が一斉にくるりと裏返り、無数の眼が現れる。
「目々漣…」
百の目玉に見据えられて、男が硬直した。
両手の鎌を振り上げたまま、凍りついたように立ち尽くしている。
蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだ。
風もないのに、零の顔の周りで、長い髪がさあっと扇形に広がった。
何かの合図のように、瞳が赤く光る。
「地獄に堕ちろ」
低いが、よく通る声で零が叫んだ。
次の瞬間、低く腰をかがめた零の口から、さっと舌が伸びた。
半ば開いたままの男の口に、その凶器のような舌が飛び込んだ。
ブルッと男が身を震わせ、
くあぁぁぁぁぁぁぁ。
と、か細い奇妙な声で鳴いた。
が、それだけだった。
零が舌を巻き戻すのと、男がクラゲかこんにゃくのようになって床にくず折れるのとが、ほとんど同時だった。
玄関の外で足音がして、韮崎達がドアを連打し始めたのは、その時だ。
「おい、笹原! 開けろ! 開けるんだ! あれほど鍵を開けるなと言ったのに、いったいどうなってるんだ?」
床に散らばった真珠の中から、零が赤い3つを掴み取り、袂にしまった。
「じゃ、杏里、後は頼んだ」
窓に歩み寄ると、鍵を開け、サッシ戸をいっぱいに開いて、跳んだ。
零が消えてしまうと、部屋の中に残されたのは、床に倒れて痙攣する化け物と杏里だけだった。
「終わったの…?」
柱に背をつけ、パンティも露わにへたり込んだまま、ただ呆然と杏里はひとりごちた。
「本当に、全部、終わったの?」
目鼻が溶け、単なる模様と化し、渦を巻く墨汁のようにしばし顔面をさまよった後、残ったのは丸い口だけだ。
口だけになったムンクの『叫び』。
とでも形容すればいいだろうか。
杏里の海馬の深層で、忌まわしい記憶がかすかに蠢いたようだった。
この口。
見たことがある。
あの時、惨殺された両親の死体を見下ろして笑っていた、あのブラックホールみたいに大きな口…。
それから、あの腕。
5本の指が融合し、手首から先が尖った鎌の刃みたいに変形している。
先端には、爪がひとつに溶け合ってできた、ぎざぎざの鋭い鉤爪が生えている。
父と母を切り裂き、幼い私の腹をえぐったのは、もしかしたらナイフなどではなく、これと同様の異形の爪だったのではないだろうか。
すなわち、あれも、こいつらの仕業だったのではなかろうか…。
でも、今はそれどころではない。
まず、こいつにはっきりと白状させるのだ。
それを聴きさえすれば、韮崎達も動き出せるはずだから。
こみ上げる恐怖を押さえつけて、杏里は言った。
「つまり、そこにある赤い真珠は、三浦文代と鬼頭千佳の体内から取り出したもの。そういうことなのね? そしてあなたは今、相馬葵の体内で育つもうひとつの真珠を回収に来た。なぜって、8年前の神隠し事件は、あなたの仕業だったから。あなたは、何の罪もない3人の少女を誘拐して、その幼い子宮に真珠の核とやらを植えつけた。そう、8年後に真珠として取り出すために。そしてふたりを殺し、今また残りのひとりを…」
「そうですよ。だからさっきから、そう言ってるじゃないですか。真珠を回収した後、母体がどうなろうと、それは私の知ったことじゃない。私にはこの赤い真珠が5つ必要なんだ。あなたたちの中で育てた3つと、去年別の個体2体から回収した2つ。ところが、そのうちのひとつは、忌々しいことに、”邪道”の使いに奪われてしまった。だから、あなたの体内のひとつは、何があろうと絶対に回収しなければならない。つまりはそういうわけなのです」
男の長広舌を聴きながら、杏里はもう一度箱の中に目をやった。
そうなのだ。
赤い真珠は3つある。
文代と千佳以外に、人知れず殺された女性がほかにもいるという証拠だ。
男の言葉が正しいとすると、それもひとりではなく、ふたり。
そしておそらく、奪われたひとつというのが、零の持っているあの形見の真珠だろう。
「5つ集めて、どうするの?」
「それをあなたに教える義務はありません。ただひとつ確かなのは、奪われたひとつの代わりをつくるために、これから更に8年も待つことはできないということ。失われたひとつの代わりは、即席の、もっと強力な呪物で埋め合わせるしかありません」
「即席の、呪物?」
なんのことだろう?
またオカルトだ。
杏里はひどい眩暈を覚えた。
セカイがいびつに歪み始めている。
セカイの表面のきれいな肌が裂け、血みどろの臓物がこちら側に溢れ出しかけているのだ。
「もういいでしょう」
苛立ちを滲ませた口調で、男が言った。
「時間がないのです。今を逃せば、次のチャンスは半年後だ。地龍は眠ってしまうと、なかなか起きないのでね」
「地竜?」
「会話は終わりだと言ったはずですよ」
男が無造作に右腕を振り上げ、振り下ろした。
「きゃっ」
杏里は危ういところで、椅子を倒して飛びのいていた。
テーブルが真ん中から真っ二つに割れている。
「逆らっても無駄です」
男が今度は水平に左腕で空を薙ぎ払った。
のけ反りざま、杏里の右足が伸びた。
前蹴りが男の喉仏を正確に直撃する。
ゴム人形を思いっきり蹴りつけたような感触だった。
「あうっ」
杏里は反動で後ろに吹っ飛び、柱の角にしたたかに背骨を打ちつけた。
そのままずるずると床に座り込む。
痛みで一瞬気が遠くなっていた。
短すぎるチアガールのスカートが、災いした。
無意識のうちに股が開き、M字開脚の姿勢を取ってしまっている。
開いた太腿の間の三角ゾーンがちょうど男の正面を向き、今や格好の的となってしまっていた。
「もらいますよ」
男がもう一度、鎌状の腕を頭上に振り上げた時だった。
「おまえが欲しいのは、これだろう」
男の肩越しに、声がした。
いつのまに部屋から出て来たのか、零が立っていた。
あの赤い真珠を乗せた右手の掌を、男に向かって突き出している。
「貴様…」
零のほうを振り向いて、男が呻いた。
「図ったな。これは、邪道の罠か」
さっきまでとは打って変わった、どす黒い怒りの滲む声だった。
「何とでも言え。この外道」
零が漆黒の着物の袂をばっと広げた。
瞬間、木の葉の模様が一斉にくるりと裏返り、無数の眼が現れる。
「目々漣…」
百の目玉に見据えられて、男が硬直した。
両手の鎌を振り上げたまま、凍りついたように立ち尽くしている。
蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだ。
風もないのに、零の顔の周りで、長い髪がさあっと扇形に広がった。
何かの合図のように、瞳が赤く光る。
「地獄に堕ちろ」
低いが、よく通る声で零が叫んだ。
次の瞬間、低く腰をかがめた零の口から、さっと舌が伸びた。
半ば開いたままの男の口に、その凶器のような舌が飛び込んだ。
ブルッと男が身を震わせ、
くあぁぁぁぁぁぁぁ。
と、か細い奇妙な声で鳴いた。
が、それだけだった。
零が舌を巻き戻すのと、男がクラゲかこんにゃくのようになって床にくず折れるのとが、ほとんど同時だった。
玄関の外で足音がして、韮崎達がドアを連打し始めたのは、その時だ。
「おい、笹原! 開けろ! 開けるんだ! あれほど鍵を開けるなと言ったのに、いったいどうなってるんだ?」
床に散らばった真珠の中から、零が赤い3つを掴み取り、袂にしまった。
「じゃ、杏里、後は頼んだ」
窓に歩み寄ると、鍵を開け、サッシ戸をいっぱいに開いて、跳んだ。
零が消えてしまうと、部屋の中に残されたのは、床に倒れて痙攣する化け物と杏里だけだった。
「終わったの…?」
柱に背をつけ、パンティも露わにへたり込んだまま、ただ呆然と杏里はひとりごちた。
「本当に、全部、終わったの?」
0
お気に入りに追加
97
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
無能な陰陽師
もちっぱち
ホラー
警視庁の詛呪対策本部に所属する無能な陰陽師と呼ばれる土御門迅はある仕事を任せられていた。
スマホ名前登録『鬼』の上司とともに
次々と起こる事件を解決していく物語
※とてもグロテスク表現入れております
お食事中や苦手な方はご遠慮ください
こちらの作品は、
実在する名前と人物とは
一切関係ありません
すべてフィクションとなっております。
※R指定※
表紙イラスト:名無死 様
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる