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第1章 黄泉の国から来た少女
#25 杏里、退屈する
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キャリーバックの中身を片づけ、ダイニングのテーブルの下に盗聴器を設置し終わった頃には、すでに正午を過ぎていた。
盗聴器は、ゆうべのうちに韮崎に渡されたものである。
今頃韮崎達は、このマンションのどこかの空き部屋に陣取って、犯人の登場を今か今かと待っているはずだった。
覆面パトカーの中からマンションを見張る係は、山田と野崎のでこぼこコンビだ。
さっき窓から外を覗いた時、杏里は近くの路地にそれらしき車を発見して、ほっと胸を撫で下ろしたものだった。
チアのコスチュームのままキッチンに立ってインスタントラーメンを作っていると、テーブルの上のスマホが鳴った。
『こっちも準備完了だ。俺たちはおまえの真上、508号室にいる。危険を感じたらすぐに叫ぶんだぞ。盗聴器はそのためのものなんだからな』
「大丈夫ですよ。盗聴器なら、ダイニングキッチンのテーブルの下に取りつけましたから。ラーメンの煮える音、聞こえてません?」
『いいか、くれぐれも無茶はするな。いくらおまえがプラナリアなみに回復が早いと言っても、腹を裂かれちゃ、後が面倒だからな。できれば血を見るのは無しで済ませたい』
「あれ? 私のこと、心配してくれてるんですか? ゆうべはあんなひどいこと言ったくせに」
『のぼせるな。俺は血を見るのが嫌いなだけなんだよ』
ぶっきらぼうに通話を切ってしまう韮崎。
「んもう、本当にニラさんって、照れ屋なんだから」
切れたスマホに向かって、にやにや笑いながら、杏里はそうつぶやいたものだった。
腹ごなしが済むと、退屈だけが待っていた。
ふだん仕事で見られないテレビ番組でも見ようと思ったものの、考えてみれば葵はテレビを持っていないのだ。
本棚にも本の類いは一切なく、ファッション雑誌と芸能週刊誌が数冊あるだけ。
パソコンもタブレットも、いや、ラジオすら、ない。
つまるところ、この部屋には、娯楽にあたるものが一切ないのだった。
住まいこそ多少立派だが、葵もほかのふたり同様、つつましい生活を送っている証拠である。
クローゼットの中の服。
寝室のぬいぐるみ。
いつも持ち歩いているスマートフォン。
おそらくそれが、相馬葵の全財産なのだろう。
「零、退屈で死にそうだよ」
盗聴器に入らぬよう、努めて小声で寝室のドアに声をかけると、隙間から零が顔を出した。
「これまでの被害者は、どちらも夕方殺されてるんだろう。なら、あと2、3時間の辛抱だ」
「ひええ、2、3時間も? 長いよ。長すぎるよ」
「先に言っておくが、おまえとイチャイチャしてる時間はないぞ」
杏里の心を読んだかのように、単刀直入に零が言った。
「そ、そんなこと、言ってないでしょ!」
「顔に書いてある。私を抱いてくださいって」
「ばか! エッチ!」
杏里は真っ赤になった。
こんな綺麗な顔してるのに、どうしてこの子ってば、いつもこう不躾なの?
そう嘆かずにはいられない。
「それから、私は玄関わきの小部屋に移ろうと思う。あそこなら、外道の退路を断ちやすいからな。それに、杏里、おまえ、変な武術みたいなもの、身につけてるだろう? この前レイプ魔に食らわせたキック、あれはなかなか見事だった。いざという時は、構わないから立ち向かえ。私がベストポジションを取るまでの間、できるだけ時間を稼ぐんだ」
「この格好でキックボクシングは、あんまり気が進まないんだけど」
超ミニのスカートの裾を押さえて、杏里はぼやいた。
犯人に替え玉と思わせないために、ずっとチアの格好でいろ、というのが韮崎の命令なのである。
「この前もセーラー服だったじゃないか。今更何を恥ずかしがる必要がある?」
「そりゃまあ、そうなんだけどさ」
「窓の戸締りを怠るな。決着はこの家の中でつける。いいな」
「はいはい。了解しました。あ、それからあと、ダイニングには盗聴器が仕掛けてあるから、ここから先は気をつけて」
「わかった。ここを出たらもう口を利くのはやめる」
「だね。あ、そういえば零、月齢は大丈夫なの? きょうはもう19日でしょ?」
15日にレイプ魔騒動、そして零と出会った。
16日に第一の事件。
翌17日には、ヤチカと行動を共にして、犯人のアジトを発見。それと同時に第2の事件。
18日が合同捜査会議。午後から韮崎と岐阜へ。その夜、相馬葵と面会。
そしてきょう。
ただひたすら慌ただしい日々だったが、満月からすでに4日も経っているのだ。
零の力は月の満ち欠けの影響を受ける。
そう本人が言っていたのを、杏里は思い出したのだった。
「平気さ。そのためにきのうおまえの血を呑ませてもらったんだ。短時間ならMAXの力で戦える」
そう言うなり、零がいきなり杏里を引き寄せ、そっと抱きしめてきた。
「あ…」
驚きで硬直する杏里。
「心配するな。私は何があってもおまえだけは守る」
冷たい唇が、一瞬、瞼に触れたようだった。
「私の可愛い人魚姫」
耳元で零が囁いた。
ああ、これで私も、心置きなく戦える。
陶然となった頭の隅で、杏里はふとそう思って、ひそかに涙ぐんだのだった。
盗聴器は、ゆうべのうちに韮崎に渡されたものである。
今頃韮崎達は、このマンションのどこかの空き部屋に陣取って、犯人の登場を今か今かと待っているはずだった。
覆面パトカーの中からマンションを見張る係は、山田と野崎のでこぼこコンビだ。
さっき窓から外を覗いた時、杏里は近くの路地にそれらしき車を発見して、ほっと胸を撫で下ろしたものだった。
チアのコスチュームのままキッチンに立ってインスタントラーメンを作っていると、テーブルの上のスマホが鳴った。
『こっちも準備完了だ。俺たちはおまえの真上、508号室にいる。危険を感じたらすぐに叫ぶんだぞ。盗聴器はそのためのものなんだからな』
「大丈夫ですよ。盗聴器なら、ダイニングキッチンのテーブルの下に取りつけましたから。ラーメンの煮える音、聞こえてません?」
『いいか、くれぐれも無茶はするな。いくらおまえがプラナリアなみに回復が早いと言っても、腹を裂かれちゃ、後が面倒だからな。できれば血を見るのは無しで済ませたい』
「あれ? 私のこと、心配してくれてるんですか? ゆうべはあんなひどいこと言ったくせに」
『のぼせるな。俺は血を見るのが嫌いなだけなんだよ』
ぶっきらぼうに通話を切ってしまう韮崎。
「んもう、本当にニラさんって、照れ屋なんだから」
切れたスマホに向かって、にやにや笑いながら、杏里はそうつぶやいたものだった。
腹ごなしが済むと、退屈だけが待っていた。
ふだん仕事で見られないテレビ番組でも見ようと思ったものの、考えてみれば葵はテレビを持っていないのだ。
本棚にも本の類いは一切なく、ファッション雑誌と芸能週刊誌が数冊あるだけ。
パソコンもタブレットも、いや、ラジオすら、ない。
つまるところ、この部屋には、娯楽にあたるものが一切ないのだった。
住まいこそ多少立派だが、葵もほかのふたり同様、つつましい生活を送っている証拠である。
クローゼットの中の服。
寝室のぬいぐるみ。
いつも持ち歩いているスマートフォン。
おそらくそれが、相馬葵の全財産なのだろう。
「零、退屈で死にそうだよ」
盗聴器に入らぬよう、努めて小声で寝室のドアに声をかけると、隙間から零が顔を出した。
「これまでの被害者は、どちらも夕方殺されてるんだろう。なら、あと2、3時間の辛抱だ」
「ひええ、2、3時間も? 長いよ。長すぎるよ」
「先に言っておくが、おまえとイチャイチャしてる時間はないぞ」
杏里の心を読んだかのように、単刀直入に零が言った。
「そ、そんなこと、言ってないでしょ!」
「顔に書いてある。私を抱いてくださいって」
「ばか! エッチ!」
杏里は真っ赤になった。
こんな綺麗な顔してるのに、どうしてこの子ってば、いつもこう不躾なの?
そう嘆かずにはいられない。
「それから、私は玄関わきの小部屋に移ろうと思う。あそこなら、外道の退路を断ちやすいからな。それに、杏里、おまえ、変な武術みたいなもの、身につけてるだろう? この前レイプ魔に食らわせたキック、あれはなかなか見事だった。いざという時は、構わないから立ち向かえ。私がベストポジションを取るまでの間、できるだけ時間を稼ぐんだ」
「この格好でキックボクシングは、あんまり気が進まないんだけど」
超ミニのスカートの裾を押さえて、杏里はぼやいた。
犯人に替え玉と思わせないために、ずっとチアの格好でいろ、というのが韮崎の命令なのである。
「この前もセーラー服だったじゃないか。今更何を恥ずかしがる必要がある?」
「そりゃまあ、そうなんだけどさ」
「窓の戸締りを怠るな。決着はこの家の中でつける。いいな」
「はいはい。了解しました。あ、それからあと、ダイニングには盗聴器が仕掛けてあるから、ここから先は気をつけて」
「わかった。ここを出たらもう口を利くのはやめる」
「だね。あ、そういえば零、月齢は大丈夫なの? きょうはもう19日でしょ?」
15日にレイプ魔騒動、そして零と出会った。
16日に第一の事件。
翌17日には、ヤチカと行動を共にして、犯人のアジトを発見。それと同時に第2の事件。
18日が合同捜査会議。午後から韮崎と岐阜へ。その夜、相馬葵と面会。
そしてきょう。
ただひたすら慌ただしい日々だったが、満月からすでに4日も経っているのだ。
零の力は月の満ち欠けの影響を受ける。
そう本人が言っていたのを、杏里は思い出したのだった。
「平気さ。そのためにきのうおまえの血を呑ませてもらったんだ。短時間ならMAXの力で戦える」
そう言うなり、零がいきなり杏里を引き寄せ、そっと抱きしめてきた。
「あ…」
驚きで硬直する杏里。
「心配するな。私は何があってもおまえだけは守る」
冷たい唇が、一瞬、瞼に触れたようだった。
「私の可愛い人魚姫」
耳元で零が囁いた。
ああ、これで私も、心置きなく戦える。
陶然となった頭の隅で、杏里はふとそう思って、ひそかに涙ぐんだのだった。
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