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第1章 黄泉の国から来た少女
#15 杏里、目撃する
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猫が洞池へは、三上の運転するパトカーで向かった。
山田と野崎には韮崎が携帯で連絡を取り、聞き込み先から直接アジトへ向かってもらうことになった。
後部座席に座った韮崎に、杏里は助手席から事の次第を話して聞かせたところだった。
「ったくもう、あのヤチカってやつは」
こっぴどく叱られるかと覚悟していたが、韮崎はそうつぶやいただけだった。
元妻の手下だからか、ヤチカのことがよほど苦手らしい。
「しかし、信じられませんね。脱皮する人間なんて」
ハンドルを握って前方を注視したまま、三上が言った。
「そこまでいくと、人間を通り越してもう妖怪ですな」
「ヤチカさんもそう言ってました。もっとも、あの抜け殻は、今はもう、彼女のポルシェのトランクに入っちゃってますけど」
以前は三上の隣に座るだけで息が苦しくなったものだったが、杏里は不思議と落ちついている。
恋人ができたからだ、と今更ながらに気づいた。
零は女の子だけど、でも、今の私にとっては、一番大切な人なんだ…。
「おまけにのっぺらぼうと来てるんでしょ? 高山のやつ、大丈夫かなあ。ヤチカさんも、もっと早く連絡してくれればよかったのに」
確かに三上の言う通り、どうせ援軍を頼んで戻るのなら、あの時点で韮崎を通してメンバー全員に招集をかけておけばよかったのだが、ヤチカは韮崎の性格を先読みしたに違いなかった。
ケータイでヤチカと話したくらいでは動くまい。
おそらくそう判断したのだろう。
だから杏里の口から直接言わせたのだ。
それともうひとつ。
現場でのヤチカのあの奇矯な行動。
明らかにヤチカは目的を持って、何かを調べていた。
だからどうしても、第二の事件の現場に行って、実際に自分の目でその何かを確かめてみたかった、ということなのだろう。
「今度の被害者と、この前の被害者との間に、何か接点があるんでしょうか? 歳が同じ20歳ですよね? そこがどうも気になるんですけど」
韮崎の不気味な沈黙に耐え切れなくなって、杏里はどちらにともなく、そう疑問をぶつけてみた。
「さあ、どうかなあ。そこは中署の地取りの結果をこっちの情報と照らし合わせてみないとね。かたや花屋の店員、かたや女子大生。接点があるとしたら、現在ではなく、過去だろうね。例えば、卒業した高校が同じとか」
答えてくれたのは、予想通り三上のほうだった。
韮崎は、パトカーの中が禁煙なのも気に入らないのか、さっきからじっと押し黙ったままだ。
「ニラさんは、どうして今度の事件のこと、わかったんですか? 管轄が違うのに」
思い切って訊くと、
「俺は本部に居たんだよ。本部には所轄中の情報が真っ先に上がってくるものなんだ」
やっと、そう答えが返ってきた。
「あ、なるほど、そうでしたね」
バックミラー越しに上司の不機嫌そうな顔を眺めながら、杏里はうなずいた。
韮崎は、報告ついでに類似の事件がないか調べてくる、と言い置いて出て行ったのだ。
「類似の事件のほうはどうでした? 何かめぼしいの、ありましたか?」
「さすがに今回ほどの猟奇事件はなかったな。諦めて署に戻ろうとした途端、あの一報だ。まったく、運がいいのか悪いのか、とにかく明日には中署かうちに合同捜査本部が立つだろう。できればそれまでに、できるだけ犯人の足取りを詰めておきたいところだな。もちろん、ここで逮捕できれば、言うことなしなんだが」
「そう願いたいですね。でも、相手が妖怪じゃなあ」
パトカーの利点は、ポルシェほどの馬力がなくとも、赤信号や渋滞で止まらなくてもよいところである。
だから三上が猫が洞池の無料駐車場にパトカーを止めたのは、現場を出発して20分もしないうちだった。
「あそこです。あの林の中」
池の柵まで近づくと、杏里は北のほうにある黒々とした木々の塊を指で指し示した。
「慎重に行くぞ」
韮崎が先に立って階段を下りていく。
その次を杏里、しんがりを三上が歩く。
水面から吹きつけてくる風が、さっきヤチカと来た時より冷たくなっている。
池の周囲の遊歩道を半周し、林の入り口にさしかかった時のことだった。
意外なほど近くで、銃声がした。
「な、なんだ?」
「高山ですね」
棒を呑んだように、韮崎と三上が立ち止まる。
突然、ガサガサっと葉擦れの音がして、黒い何かがいきなり繁みから飛び出してきた。
「止まれ!」
韮崎が叫んだ。
飛び出してきたのは、スーツ姿の長身の男である。
手足が蜘蛛のように長く、やせている。
「こいつが?」
瞬間的に前へ出て、杏里を庇った三上が呻いた。
無理もなかった。
三上の肩越しに様子を窺った杏里は、見た。
男には、顔がなかった。
卵のようにのっぺりした白い頭部。
その表面を、黒い渦がぐるぐると動き回っているだけなのだ。
「動くな! 動くと撃つ!」
韮崎がもう一度叫んだ瞬間。
男が跳んだ。
信じがたい跳躍力だった。
杏里たち3人の頭上を軽く飛び越えると、水泳選手をほうふつとさせるフォームで、そのまま池の中に頭から飛び込んだ。
「くそ!」
追いかけようとする韮崎。
が、男は浮かんでこない。
しばらく待った。
緊迫した空気の中、瞬く間に3分ほどが経過した。
「どうなったんだ? おぼれ死んだのか?」
鏡のように凪いだ水面を凝視して、苛々と韮崎がつぶやいた。
「もしかしたら…」
三上が顎に手を当てて、考え込むような姿勢で言った。
「この池、天白川の水源になってると聞いたことがあります。水底にある横穴から、川のほうに逃げたのかもしれません」
そこに、林の入り口から、ふらふらと高山が現れた。
「いてててて。何なんですか? あいつ。小屋に飛び込んでくるなり、いきなり殴りかかってきやがって」
見ると、右目の周りがパンダみたいな青あざになっている。
「高山、おまえ、よく生きてたな」
呆れたように三上が言った。
「このくらいで死ぬもんですか。とっさに背負い投げくらわして、怯んだところで威嚇射撃してやったんですが、なんか気持ちの悪い奴で…。骨がないのか、蛸か烏賊みたいにくねくねしてるんですよ」
「骨がない?」
杏里はまたもゾッとして、両手でぎゅっと胸を抱きしめた。
ひょっとして、世界が狂い始めているのだろうか。
どこかで何かのタガが外れかけている。
そんな気がしてならなかった。
「明日にでも、池の浚渫作業を申請するか」
「無駄だと思いますよ。きっともうこの中にはいないでしょう」
「じゃあ、どうするんだ?」
「とりあえず、明日の帳場で報告して、上の指示を仰ぎませんか? 僕らだけでは、さすがに限界がある」
三上と韮崎が相談しているところに、
「だからあいつ、何者なんです? 俺にも教えてくださいよ」
と、高山が割り込んだ。
「おそらくこの一連の事件の犯人だ」
煙草に火をつけながら、韮崎が答えた。
「ただ、あれが人間であるという保証は、今のところどこにもない」
山田と野崎には韮崎が携帯で連絡を取り、聞き込み先から直接アジトへ向かってもらうことになった。
後部座席に座った韮崎に、杏里は助手席から事の次第を話して聞かせたところだった。
「ったくもう、あのヤチカってやつは」
こっぴどく叱られるかと覚悟していたが、韮崎はそうつぶやいただけだった。
元妻の手下だからか、ヤチカのことがよほど苦手らしい。
「しかし、信じられませんね。脱皮する人間なんて」
ハンドルを握って前方を注視したまま、三上が言った。
「そこまでいくと、人間を通り越してもう妖怪ですな」
「ヤチカさんもそう言ってました。もっとも、あの抜け殻は、今はもう、彼女のポルシェのトランクに入っちゃってますけど」
以前は三上の隣に座るだけで息が苦しくなったものだったが、杏里は不思議と落ちついている。
恋人ができたからだ、と今更ながらに気づいた。
零は女の子だけど、でも、今の私にとっては、一番大切な人なんだ…。
「おまけにのっぺらぼうと来てるんでしょ? 高山のやつ、大丈夫かなあ。ヤチカさんも、もっと早く連絡してくれればよかったのに」
確かに三上の言う通り、どうせ援軍を頼んで戻るのなら、あの時点で韮崎を通してメンバー全員に招集をかけておけばよかったのだが、ヤチカは韮崎の性格を先読みしたに違いなかった。
ケータイでヤチカと話したくらいでは動くまい。
おそらくそう判断したのだろう。
だから杏里の口から直接言わせたのだ。
それともうひとつ。
現場でのヤチカのあの奇矯な行動。
明らかにヤチカは目的を持って、何かを調べていた。
だからどうしても、第二の事件の現場に行って、実際に自分の目でその何かを確かめてみたかった、ということなのだろう。
「今度の被害者と、この前の被害者との間に、何か接点があるんでしょうか? 歳が同じ20歳ですよね? そこがどうも気になるんですけど」
韮崎の不気味な沈黙に耐え切れなくなって、杏里はどちらにともなく、そう疑問をぶつけてみた。
「さあ、どうかなあ。そこは中署の地取りの結果をこっちの情報と照らし合わせてみないとね。かたや花屋の店員、かたや女子大生。接点があるとしたら、現在ではなく、過去だろうね。例えば、卒業した高校が同じとか」
答えてくれたのは、予想通り三上のほうだった。
韮崎は、パトカーの中が禁煙なのも気に入らないのか、さっきからじっと押し黙ったままだ。
「ニラさんは、どうして今度の事件のこと、わかったんですか? 管轄が違うのに」
思い切って訊くと、
「俺は本部に居たんだよ。本部には所轄中の情報が真っ先に上がってくるものなんだ」
やっと、そう答えが返ってきた。
「あ、なるほど、そうでしたね」
バックミラー越しに上司の不機嫌そうな顔を眺めながら、杏里はうなずいた。
韮崎は、報告ついでに類似の事件がないか調べてくる、と言い置いて出て行ったのだ。
「類似の事件のほうはどうでした? 何かめぼしいの、ありましたか?」
「さすがに今回ほどの猟奇事件はなかったな。諦めて署に戻ろうとした途端、あの一報だ。まったく、運がいいのか悪いのか、とにかく明日には中署かうちに合同捜査本部が立つだろう。できればそれまでに、できるだけ犯人の足取りを詰めておきたいところだな。もちろん、ここで逮捕できれば、言うことなしなんだが」
「そう願いたいですね。でも、相手が妖怪じゃなあ」
パトカーの利点は、ポルシェほどの馬力がなくとも、赤信号や渋滞で止まらなくてもよいところである。
だから三上が猫が洞池の無料駐車場にパトカーを止めたのは、現場を出発して20分もしないうちだった。
「あそこです。あの林の中」
池の柵まで近づくと、杏里は北のほうにある黒々とした木々の塊を指で指し示した。
「慎重に行くぞ」
韮崎が先に立って階段を下りていく。
その次を杏里、しんがりを三上が歩く。
水面から吹きつけてくる風が、さっきヤチカと来た時より冷たくなっている。
池の周囲の遊歩道を半周し、林の入り口にさしかかった時のことだった。
意外なほど近くで、銃声がした。
「な、なんだ?」
「高山ですね」
棒を呑んだように、韮崎と三上が立ち止まる。
突然、ガサガサっと葉擦れの音がして、黒い何かがいきなり繁みから飛び出してきた。
「止まれ!」
韮崎が叫んだ。
飛び出してきたのは、スーツ姿の長身の男である。
手足が蜘蛛のように長く、やせている。
「こいつが?」
瞬間的に前へ出て、杏里を庇った三上が呻いた。
無理もなかった。
三上の肩越しに様子を窺った杏里は、見た。
男には、顔がなかった。
卵のようにのっぺりした白い頭部。
その表面を、黒い渦がぐるぐると動き回っているだけなのだ。
「動くな! 動くと撃つ!」
韮崎がもう一度叫んだ瞬間。
男が跳んだ。
信じがたい跳躍力だった。
杏里たち3人の頭上を軽く飛び越えると、水泳選手をほうふつとさせるフォームで、そのまま池の中に頭から飛び込んだ。
「くそ!」
追いかけようとする韮崎。
が、男は浮かんでこない。
しばらく待った。
緊迫した空気の中、瞬く間に3分ほどが経過した。
「どうなったんだ? おぼれ死んだのか?」
鏡のように凪いだ水面を凝視して、苛々と韮崎がつぶやいた。
「もしかしたら…」
三上が顎に手を当てて、考え込むような姿勢で言った。
「この池、天白川の水源になってると聞いたことがあります。水底にある横穴から、川のほうに逃げたのかもしれません」
そこに、林の入り口から、ふらふらと高山が現れた。
「いてててて。何なんですか? あいつ。小屋に飛び込んでくるなり、いきなり殴りかかってきやがって」
見ると、右目の周りがパンダみたいな青あざになっている。
「高山、おまえ、よく生きてたな」
呆れたように三上が言った。
「このくらいで死ぬもんですか。とっさに背負い投げくらわして、怯んだところで威嚇射撃してやったんですが、なんか気持ちの悪い奴で…。骨がないのか、蛸か烏賊みたいにくねくねしてるんですよ」
「骨がない?」
杏里はまたもゾッとして、両手でぎゅっと胸を抱きしめた。
ひょっとして、世界が狂い始めているのだろうか。
どこかで何かのタガが外れかけている。
そんな気がしてならなかった。
「明日にでも、池の浚渫作業を申請するか」
「無駄だと思いますよ。きっともうこの中にはいないでしょう」
「じゃあ、どうするんだ?」
「とりあえず、明日の帳場で報告して、上の指示を仰ぎませんか? 僕らだけでは、さすがに限界がある」
三上と韮崎が相談しているところに、
「だからあいつ、何者なんです? 俺にも教えてくださいよ」
と、高山が割り込んだ。
「おそらくこの一連の事件の犯人だ」
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