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第1章 黄泉の国から来た少女
#8 杏里、ふさぎこむ
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PC画面のマップ上で、メンバーが聞き込みを終えたエリアを黄色く塗りつぶしていく。
スマホに次々に入るメールを、ワードで文字に起こし、箇条書きにして報告書を埋めていく。
だが、得られた情報は大して多くない。
被害者の名は、南分ハイツ104号室の住人、三浦文代20歳。
本籍、岐阜県加茂郡白川町。
地元の県立高校を卒業するとすぐ、ここ那古野市に単身やってきて、現在の職場、フラワーショップ『ローズガーデン』に就職。
兄弟は地元で両親とともに農業を営む兄がひとり。
交友関係は狭く、恋人はおろか、男友達もゼロ。
ごくたまに同性の友人が訪ねてくることがあったが、それが誰かまではわからない。
趣味は映画鑑賞と漫画。
どちらもレンタルで済ませていたようで、職場近くのレンタルショップの会員証を持っていた。
鑑識から上がってきた報告では、死亡推定時刻は昨日の午後4時頃から7時頃の間。
仕事を休んで家にいたところを、何者かに襲われたらしい。
子宮をえぐり取られていたほかには、被害者の身体に外傷はなく、抵抗した跡も見られないことから、顔見知りの犯行の可能性もある、とのことだった。
だが、やっかいなのは、三浦文代に、”顔見知り”にあたる者がほとんど存在しないことである。
花屋のオーナー夫婦とアルバイト店員。
文代の周囲の人間関係といえば、それくらいなのだ。
もちろん、店の者が文代を殺したいほど憎むような動機も見つからず、捜査は初日ですでに行き詰まりの様相を呈していた。
そして、もうひとつ。
杏里の不満は、誰ひとりとして密室の謎に言及してこないことだった。
被害者の人間関係が希薄だったのなら、合鍵を第三者が持っているという可能性は低い。
だとすれば、あれはやはり密室殺人なのではないか。
あの部屋には、入り口のドアと窓以外に、人が出入りできるようなところはなかった。
鑑識からの報告では、財布やカード入れとともに、部屋の鍵はハンドバッグの中に入ったままだったという。
ならば、犯人が犯行後、被害者の鍵を使ってドアを施錠し、逃走したという推論も成立しない。
とっぷりと日が暮れるにつれ、聞き込み班からの報告もまばらになった。
「まだいたのか。もういい。きょうは上がれ」
夜8時過ぎに韮崎からかかってきた電話をしおに、杏里は帰宅することにした。
眠気に負けて、PCの前でちょうどうたた寝している最中だったからである。
バスで中川区にある自宅に向かう。
杏里のシェアハウスは、運河沿いに位置していて、照和署からバスで30分ほどかかる。
最寄りのバス停でバスを降り、運河の水の匂いを嗅ぎながら家の前までたどり着くと、1階も2階も電気が消えていて、どの窓も真っ暗だった。
よもや、気が変わって夜逃げ?
真っ青になり、玄関の鍵を開けるのももどかしく、中に飛び込んだ。
「どうしたの? 零、いるの?」
返事はない。
1階の廊下と洋間を照らしているのは、窓から射し込む月明かりだけである。
「零、零ったら!」
廊下にバッグを放り出して、2階への急な階段を駆け上がる。
2階に上がると、廊下の突き当りの部屋のドアが少し開いていて、お香のような匂いがそのすき間から漂ってきていた。
ドアを引き開け、中に飛び込んだ。
部屋の真ん中に胡坐をかいた零がいた。
お香を焚いているらしく、部屋の中はむせかえるように煙い。
「んもう、いるならいるって言ってよね! どうしたのよ? 明かりもつけないで」
木の葉の模様の着物を身につけた零は、組んだ脚で囲んだ一点を凝視している。
零のむき出しの脚の間に置かれているのは、小さなガラス瓶に入ったあの赤い真珠だった。
「すまない。忘れてた」
杏里の剣幕に、零が白い顔を上げた。
非常灯に照らし出されたその顏は、いつ見てもどきりとするほど美しい。
「何してるの? それ、今朝見せてくれた呪いの真珠でしょ? どっかにしまっておかないと、ほんとに呪われちゃうかもしれないよ?」
「いや、これ自体に人を呪う力はない。この真珠は、たぶん触媒みたいなものじゃないかと思う」
「触媒?」
「そう。これ自体に力があるというよりは、これを使って何かを呼び出すみたいな…」
「何かって、何を?」
「そこまではわからない。まあ、どうせ、ろくでもないものに決まってるが」
「ろくでもないもの…?」
相変らず零の台詞は謎めいていて、杏里には理解不能だった。
「それより杏里、ばかに顔色が悪いが、どうかしたのか?」
小瓶を巾着袋にしまい込んで、袋ごと机の引き出しに放り込むと、零がいきなり話題を変えてきた。
真珠の件には、あまり触れられたくないということなのだろう。
「うん…もう、最悪」
杏里はスーツ姿のまま、零の隣にぺたりと横坐りになった。
「事件か」
零が下から杏里の顏を覗き込む。
「…私、あんなひどい死体、初めて見た」
思わずそうつぶやいていた。
「交番勤務時代にさ、そりゃ交通事故とか、自殺とか、色々死体を見てきたよ。でも、きょうのはひどかった。人が人をあそこまでひどくできるなんて、私にはとても、信じられない…」
「殺人事件なのか」
零の瞳が光った。
漆黒の瞳孔の中心の赤い輝きが、ふいに強さを増したのだ。
「子宮が、なかったんだって」
杏里は込み上げてくる悲しみを、懸命に抑え込もうとした。
今更ながらに、可愛そうだと思う。
被害者は、私より年下の少女なのだ。
聞き込みで浮かび上がってきたのは、真面目につつましく生きていた少女のプロフィール。
殺されなければならない理由なんてどこにもない。
まして、あんなひどい殺され方をされなきゃならない理由なんて…。
「よければ、話せ」
そっと杏里の肩に手を乗せて、零が囁くように言った。
「もちろん、口外はしない。というより、私には口外する相手もいない」
「そうだね…」
杏里はうなずいた。
「そういうのって、規則違反なんだけど…でも、聞いてくれるかな」
スマホに次々に入るメールを、ワードで文字に起こし、箇条書きにして報告書を埋めていく。
だが、得られた情報は大して多くない。
被害者の名は、南分ハイツ104号室の住人、三浦文代20歳。
本籍、岐阜県加茂郡白川町。
地元の県立高校を卒業するとすぐ、ここ那古野市に単身やってきて、現在の職場、フラワーショップ『ローズガーデン』に就職。
兄弟は地元で両親とともに農業を営む兄がひとり。
交友関係は狭く、恋人はおろか、男友達もゼロ。
ごくたまに同性の友人が訪ねてくることがあったが、それが誰かまではわからない。
趣味は映画鑑賞と漫画。
どちらもレンタルで済ませていたようで、職場近くのレンタルショップの会員証を持っていた。
鑑識から上がってきた報告では、死亡推定時刻は昨日の午後4時頃から7時頃の間。
仕事を休んで家にいたところを、何者かに襲われたらしい。
子宮をえぐり取られていたほかには、被害者の身体に外傷はなく、抵抗した跡も見られないことから、顔見知りの犯行の可能性もある、とのことだった。
だが、やっかいなのは、三浦文代に、”顔見知り”にあたる者がほとんど存在しないことである。
花屋のオーナー夫婦とアルバイト店員。
文代の周囲の人間関係といえば、それくらいなのだ。
もちろん、店の者が文代を殺したいほど憎むような動機も見つからず、捜査は初日ですでに行き詰まりの様相を呈していた。
そして、もうひとつ。
杏里の不満は、誰ひとりとして密室の謎に言及してこないことだった。
被害者の人間関係が希薄だったのなら、合鍵を第三者が持っているという可能性は低い。
だとすれば、あれはやはり密室殺人なのではないか。
あの部屋には、入り口のドアと窓以外に、人が出入りできるようなところはなかった。
鑑識からの報告では、財布やカード入れとともに、部屋の鍵はハンドバッグの中に入ったままだったという。
ならば、犯人が犯行後、被害者の鍵を使ってドアを施錠し、逃走したという推論も成立しない。
とっぷりと日が暮れるにつれ、聞き込み班からの報告もまばらになった。
「まだいたのか。もういい。きょうは上がれ」
夜8時過ぎに韮崎からかかってきた電話をしおに、杏里は帰宅することにした。
眠気に負けて、PCの前でちょうどうたた寝している最中だったからである。
バスで中川区にある自宅に向かう。
杏里のシェアハウスは、運河沿いに位置していて、照和署からバスで30分ほどかかる。
最寄りのバス停でバスを降り、運河の水の匂いを嗅ぎながら家の前までたどり着くと、1階も2階も電気が消えていて、どの窓も真っ暗だった。
よもや、気が変わって夜逃げ?
真っ青になり、玄関の鍵を開けるのももどかしく、中に飛び込んだ。
「どうしたの? 零、いるの?」
返事はない。
1階の廊下と洋間を照らしているのは、窓から射し込む月明かりだけである。
「零、零ったら!」
廊下にバッグを放り出して、2階への急な階段を駆け上がる。
2階に上がると、廊下の突き当りの部屋のドアが少し開いていて、お香のような匂いがそのすき間から漂ってきていた。
ドアを引き開け、中に飛び込んだ。
部屋の真ん中に胡坐をかいた零がいた。
お香を焚いているらしく、部屋の中はむせかえるように煙い。
「んもう、いるならいるって言ってよね! どうしたのよ? 明かりもつけないで」
木の葉の模様の着物を身につけた零は、組んだ脚で囲んだ一点を凝視している。
零のむき出しの脚の間に置かれているのは、小さなガラス瓶に入ったあの赤い真珠だった。
「すまない。忘れてた」
杏里の剣幕に、零が白い顔を上げた。
非常灯に照らし出されたその顏は、いつ見てもどきりとするほど美しい。
「何してるの? それ、今朝見せてくれた呪いの真珠でしょ? どっかにしまっておかないと、ほんとに呪われちゃうかもしれないよ?」
「いや、これ自体に人を呪う力はない。この真珠は、たぶん触媒みたいなものじゃないかと思う」
「触媒?」
「そう。これ自体に力があるというよりは、これを使って何かを呼び出すみたいな…」
「何かって、何を?」
「そこまではわからない。まあ、どうせ、ろくでもないものに決まってるが」
「ろくでもないもの…?」
相変らず零の台詞は謎めいていて、杏里には理解不能だった。
「それより杏里、ばかに顔色が悪いが、どうかしたのか?」
小瓶を巾着袋にしまい込んで、袋ごと机の引き出しに放り込むと、零がいきなり話題を変えてきた。
真珠の件には、あまり触れられたくないということなのだろう。
「うん…もう、最悪」
杏里はスーツ姿のまま、零の隣にぺたりと横坐りになった。
「事件か」
零が下から杏里の顏を覗き込む。
「…私、あんなひどい死体、初めて見た」
思わずそうつぶやいていた。
「交番勤務時代にさ、そりゃ交通事故とか、自殺とか、色々死体を見てきたよ。でも、きょうのはひどかった。人が人をあそこまでひどくできるなんて、私にはとても、信じられない…」
「殺人事件なのか」
零の瞳が光った。
漆黒の瞳孔の中心の赤い輝きが、ふいに強さを増したのだ。
「子宮が、なかったんだって」
杏里は込み上げてくる悲しみを、懸命に抑え込もうとした。
今更ながらに、可愛そうだと思う。
被害者は、私より年下の少女なのだ。
聞き込みで浮かび上がってきたのは、真面目につつましく生きていた少女のプロフィール。
殺されなければならない理由なんてどこにもない。
まして、あんなひどい殺され方をされなきゃならない理由なんて…。
「よければ、話せ」
そっと杏里の肩に手を乗せて、零が囁くように言った。
「もちろん、口外はしない。というより、私には口外する相手もいない」
「そうだね…」
杏里はうなずいた。
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