サイコパスハンター零

戸影絵麻

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第1章 黄泉の国から来た少女

#2 杏里、規則を破る

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 地面をごろごろ転がって難を逃れた。

 舗道際の木の幹にぶつかったところで、あわてて身を起こす。

 幹に背中を持たせかせたところで、杏里は左肩を押さえ、顔をしかめた。

 傷口からの出血は、早くも止まりかけている。
 
 しかし、かなり深く刺されたらしく、さすがにまだ痛みは残っていた。

 が、今はそれどころではない。

 あの子…。

 誰なのだろう?

 あの子がひょっとして…?

 でもね、まさかね。


 男は完全に、杏里から少女に標的を変えたようだった。

 月明かりに照らされて、目の前で男と少女がにらみ合っている。

 と、少女が跳んだ。

 天女が舞うような、音のない軽やかな跳躍だった。

 すごい。

 杏里は目を見張った。

 まるで鳥だ。

 重力のくびきから解き放たれたような大ジャンプ。

 並の人間に可能な技ではない。

 満月をバックに少女の着物の裾が広がった。

 着物の表面をびっしり埋め尽くした百以上の”眼”が、一斉に男を睨みつける。

 斜め上を向いたまま、男が硬直した。

 蛇に睨まれた蛙とは、まさしくこのことをいうのだろう。

 金縛りにあったように、動かない。

 そこに少女が舞い降りた。

「腐ったやつが、多すぎる」

 男の顏を両手で挟むと、ぐいと下に引き下ろし、己の顔を近づけた。

「地獄に堕ちろ」

 少女の口から何か飛び出した。

 舌だった。

 長い鞭のような舌が、一瞬にして半開きの男の口に吸い込まれたのだ。

「あぐ」

 男が呻いた。

 フードが後ろにずれ、坊主頭の大きな頭がむき出しになる。

 ぎょろりとした目が、ぐるりと裏返った。

 同時に、口と耳の穴から鮮血がほとばしった。

 少女が首を振ると、長い舌が鞭のようにしなり、するするとその小さな口に戻っていった。

 男はぶるぶる小刻みに震えたまま、立ち尽くしている。

 これだったんだ。

 呆然とその光景を眺めながら、杏里は思った。

 今のあのカメレオンみたいな一撃。

 あれが男の脳の一部を破壊したのに違いない。

 少女がふり向いた。

 抜けるように白い肌。

 重心の高い、スレンダーな肢体。

 日本人形の眼を大きくして頬をシャープにしたようなその顔は、月の光の中で恐ろしいほどに美しい。

 歳は杏里と同じくらいか、あるいは下かもしれない。

 いつのまにか、着物の文様が、女の眼から木の葉に戻っていた。

 ミニ丈の浴衣のような着物の下には、同じ模様のショートパンツを穿いているようだ。

 すらりと伸びた長い脚のその太腿の白さが、目にまぶしい。

「大丈夫か?」

 言いかけて、少女がハッと顏を上げた。

 危険を察知した、野生動物のような仕草だった。

 足音が近づいてくる。

 韮崎たちだろう。

 犯人が現れたのを見て、ここを先途とばかりに駆けつけて来たのに違いない。

「逃げて」

 考える前に、杏里はそう口走っていた。

「ここは私がなんとかごまかすから、逃げちゃって」

「でも、おまえ、その傷」

 少女が目を細め、杏里の肩口に視線を当てた。

「あ、これならもう、大丈夫」

 杏里はセーラー服の袖をめくってみせた。

 手のひらで血を拭うと、すべすべの肌が現れた。

 傷はすでに白い線となり、かすかに痕が残っているだけだ。

「私、特異体質なのよね。だからこのくらいは平気なの」

「特異体質…?」

「うん。多少の傷なら、すぐに治っちゃうんだ」

「本当に、いたのか」

 少女がつぶやいた。

 杏里の顔に戻した視線の先で、黒々とした双眸が妖しい光を放ち始める。

「え? いたって、何が?」

 杏里は首を傾げた。

「私の…人魚姫」

 少女が言った。

 人魚姫?

 誰が?

 あれ?

 それって、もしかして、この私?

 が、考え込んでいる暇はないようだ。

 足音が近くなる。

「笹原!」

「杏里ちゃん!」

 声が近づいてきた。

 何か言いたそうに杏里を最後に一瞥して、少女が身を翻した。

 深紅の着物が木々の間に溶けていく。

 そこに入れ替わるようにして、韮崎達がなだれ込んできた。

「おい、どうなってる? こいつ、レイプ魔じゃないか? 今、誰かもうひとりいただろう?」

「あっちです」

 杏里は、噴水塔のほうを指さした。

 少女が消えた森とは、逆方向である。

「すっごい怪しいやつでした。あたしはここにひっくり返ってて、何があったのかほとんど見てないんですけど、確かあっちのほうに逃げていきました」

「どんなやつだ? 人相は? 風体は?」

「浮浪者みたいな、中年男だったと思います。早く追っかけないと」

「よし、山田と野崎でこいつを署まで連行しろ。三上と高山は、俺と一緒に来るんだ」

  見ると、照和署の捜査一課のメンバーは全員そろっていた。

 おむすびそっくりな頭をした山田巡査長と、長髪ジーンズの研修生、野崎も来ているのだ。

「俺、杏里先輩の付き添いのほうがいいっす」

 ごねる野崎の後頭部を、パーンと音を立てて山田がはたく。

「研修生が文句垂れてどうする」

 野崎は杏里の一年後輩。

 ついこの4月、研修で照和署に仮配属されたばかりの青二才なのだ。

 韮崎達3人が駆け去り、痴呆状態に陥ったレイプ魔を山田と野崎がパトカーで連行すると、あたりは元のように静かになった。

 人気がなくなったのを確認して、杏里は森に足を踏み入れた。

「いる?」

 かすかな葉擦れの音がして、木々の間から少女が姿を現した。

 すぐ近くに隠れていたらしい。

「よかった」

 杏里は胸を撫で下ろした。

「二度と会えなくなったら、どうしようかと思った」

 少女が杏里を見つめた。

 表情のない、人形のような顔。

 でも、なんだろう…?

 私、まだドキドキしてる…。

「私は黒野零。おまえは?」

 少女が訊いた。

「笹原杏里。杏里って呼んで」

「杏里…」

「教えて。あなたは誰なの? いえ、何者なの? それからさっき言ってた、人魚姫って?」

「来るがいい」

 少女が杏里の手を取った。

 その瞬間、杏里は危うく声を上げそうになった。

 少女の手が、あまりに冷たかったからだった。









  
 
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