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第10部 ヒバナ、アブノーマルヘブン!
#17 嵐の前②
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久しぶりに会う父は、ひどく小さく見えた。
背も肩幅も縮み、まるで何者かに生気を吸い取られたかのように、げっそりとやつれてしまっていた。
少年野球のコーチをしていた頃のスポーツマンの面影はまるでない。
たくましい体にあれほど似合っていた革のジャンパーが、今はだぶついている。
その襟元から覗く痩せた首に、喉仏だけが不自然に目立っていた。
通夜は玄関口で息を呑み、
「お父さん・・・」
そう声を絞り出すのが、せいいっぱいだった。
「悪かったな、こんな時間に」
父がきまり悪げに笑った。
声がかすれ、笑いも弱々しい。
「ううん」
通夜はかぶりを振った。
「でも、どうしたの? いきなり」
ぎこちない口調で、訊いた。
「急に夜の顔が見たくなってな」
父が答えた。
夜というのは、通夜の本名である。
艶野夜、というのが通夜のフルネームなのだ。
「人間、年を取ると、気が弱くなるのかもしれん」
冗談とも本気ともつかない、言い方だった。
「でも、まだ父さん、五十代じゃない。老け込むには早すぎるよ」
作り笑い浮べ、一応励ました。
実の父親を前に、通夜はひどく緊張していた。
妙なわだかまりが、まだ自分の中に残っているのがわかった。
「いや、もう、充分生きたって気がするよ」
父の声には相変らず覇気がなかった。
皺の増えた顔の中で、細い目が潤んでいる。
熱でもあるのか、それとも涙ぐんでいるのか、通夜には判別できなかった。
「それより、外で何か食べないか。どうせおまえ、ろくな食生活してないんだろう。父さんが奢るから」
中に入ろうともせず、玄関口に突っ立ったまま、父がいった。
「そんなことないよ」
通夜は苦笑して、首を横に振った。
否定したものの、我ながら説得力がない、と思った。
通夜は標準よりかなり痩せている。
スマートといえば聞こえはいいが、ひとつ間違えば欠食児童である。
風邪のせいであまり食欲はなかったが、
「うん」
とうなずいた。
少し、わだかまりが解けかけていた。
父とふたりだけで食事なんて、何年ぶりだろう。
記憶を探ってみる。
ひょっとしたら、これが初めてかもしれない。
そう思い至るのに、時間はかからなかった。
たたきに降りてブーツを履いていると、一足先に通路に出ていた父が、通夜を振り返って、いった。
「ちょっと見ないうちに、夜、おまえ、綺麗になったな」
通夜は動きを止め、固まった。
あまりにも意外な一言だったからである。
父が選んだのは、駅前の中華料理店だった。
見るからに値が張りそうなので、今までずっと通夜が敬遠していた店である。
一度入ってみたいとは思っていた。
が、まさかそれがこんな形で実現するとは・・・。
なんだか皮肉な気がした。
ボリュームのあるコース料理を注文したくせに、父は料理にはほとんど手をつけなかった。
その代わりに、生ビールをちびちび飲んでいた。
「食べないの?」
自分だけ夢中で食べていることに気づき、通夜は訊いた。
「どれもおいしいよ。体、あったまるよ」
実際、風邪がどこかに飛んでいってしまうほど、料理は美味だった。
「おまえが食べればいい。俺はそんなに腹、減ってないから」
父がほんのりと目のまわりを赤くして、いった。
店の明るい証明の下で改めて見ると、顔色がひどく悪いのがわかる。
皮膚が全体的に黄色っぽいのだ。
目の白目の部分も黄色く変色していた。
母の言葉が耳の奥に蘇る。
癌なんだって。
それも、肝臓癌・・・。
とたんに食欲がなくなった。
通夜は箸を置いて、うなだれた。
涙が溢れそうになる。
何を口にしていいかわからない。
これまで、お世辞にも仲のいい父娘とはいえなかった。
でも・・・こんなのは嫌だ。
何か、間違ってる。
そう思った。
「どうした?」
父がたずねた。
「私も、おなかいっぱい」
かろうじて、通夜は言葉を返した。
「そうか」
父がいい、またビールを舐めた。
「店のことは、心配しなくていい」
何も訊いていないのに、だしぬけにいった。
「鮎里が本腰を入れて、母さんを手伝ってくれることになった。おまえは、おまえの好きにすればいい」
鮎里というのは。ひとつ下の妹である。
昨年の春、高校を卒業したものの、定職に就くこともなく、たまに店を手伝いながらぶらぶらしている。
性格はちゃらんぽらんだが、姉とは対照的に誰にでも愛想が良く、回りから好かれていた。
そのうえ外見もそこそこ美人だった。
観光地の喫茶店の看板娘には、まさにうってつけのキャラクターである。
「そうなんだ」
予想の範囲内ではあったが、お通夜は大いにほっとした。
たとえ父が倒れたとしても、実家に帰る気はさらさらない。
対人恐怖症に近いお通夜に客商売は無理なのだ。
それは、この前の文化祭の模擬店で痛感していた。
自分で言うのもなんだが、お通夜はウェイトレスとしてまるで役に立たなかったのだった。
ヒバナが手伝ってくれなかったら、店自体が崩壊するところだった、と今でも思う。
「で、これから、どうするつもりなんだ?」
父が訊いた。
酔いが回ってきたのか、少し饒舌になっていた。
「今、公務員試験の勉強、始めたところ」
素直に、お通夜は答えた。
父に自分の人生設計を話す日が来ようとは、思ってもみなかった。
「うち、本が好きだから、図書館司書になれたら、と思って」
電子工学科に在籍しながら図書館司書、というのも矛盾した話だったが、最近お通夜は自分には理系は向いていないのでは、と思い始めている。
人並み以上にパソコンなどには強いが、鬱病の気があるため、性格的にSEやプログラマーは無理そうなのだ。
その道に進んだら、間違いなく自閉症になりそうな気がしたのである。
「最近、ちっちゃい子どもに絵本を読み聞かせるボランティアやったんだけど、それが意外に楽しくって」
父の顔をちらっと見て、いった。
「ほう」
父が目を細めた。
あれほど娘が読書する姿を見るのを嫌った父が、今はなぜかうれしそうに顔をほころばせている。
お通夜はそれがひどく不思議だった。
まさか今更「もっと社交性のある仕事にしろ」などとはいわないだろうが、いやみのひとつもいわれるだろうと思っていたのだ。
「おまえは昔からやさしい子だったからな。それ、案外、似合ってるんじゃないかな」
ビールの泡を白い髭のように上唇につけたまま、柔らかなまなざしで娘を見て、父がいった。
どうして、今なの?
お通夜は心の中で叫んだ。
どうして、今になってやさしいの?
「父さん・・・」
こらえきれなくなった。
熱い涙が頬を伝うのがわかった。
溢れ出る涙を拭おうともせず、お通夜は父のやさしい瞳を見つめていた。
これで帰る。
精算を済ませ、店を出ると、父はいった。
泊まってってよ。
お通夜はすすり泣きながら引き止めた。
ばか、あんな狭い部屋で寝られるか。
父は笑って、駅の改札に消えていった。
もう、夜の十時を過ぎていた。
お通夜は、ホームの雑踏の中に茫然と佇んでいた。
そして、思った。
お父さんを、救わなきゃ。
その方法が、ひとつだけ、ある。
父さんを、絶対に死なせないで済む方法が。
スマホを取り出し、ヒバナにかけた。
「ほい?」
すぐに、ちょっと間の抜けた声が返ってきた。
「ヒバナさん、お願いがあります」
スマホに向かってお通夜は必死でいった。
「一生に一度のお願いです。どうか、うちのお父さんを、助けてあげてください」
背も肩幅も縮み、まるで何者かに生気を吸い取られたかのように、げっそりとやつれてしまっていた。
少年野球のコーチをしていた頃のスポーツマンの面影はまるでない。
たくましい体にあれほど似合っていた革のジャンパーが、今はだぶついている。
その襟元から覗く痩せた首に、喉仏だけが不自然に目立っていた。
通夜は玄関口で息を呑み、
「お父さん・・・」
そう声を絞り出すのが、せいいっぱいだった。
「悪かったな、こんな時間に」
父がきまり悪げに笑った。
声がかすれ、笑いも弱々しい。
「ううん」
通夜はかぶりを振った。
「でも、どうしたの? いきなり」
ぎこちない口調で、訊いた。
「急に夜の顔が見たくなってな」
父が答えた。
夜というのは、通夜の本名である。
艶野夜、というのが通夜のフルネームなのだ。
「人間、年を取ると、気が弱くなるのかもしれん」
冗談とも本気ともつかない、言い方だった。
「でも、まだ父さん、五十代じゃない。老け込むには早すぎるよ」
作り笑い浮べ、一応励ました。
実の父親を前に、通夜はひどく緊張していた。
妙なわだかまりが、まだ自分の中に残っているのがわかった。
「いや、もう、充分生きたって気がするよ」
父の声には相変らず覇気がなかった。
皺の増えた顔の中で、細い目が潤んでいる。
熱でもあるのか、それとも涙ぐんでいるのか、通夜には判別できなかった。
「それより、外で何か食べないか。どうせおまえ、ろくな食生活してないんだろう。父さんが奢るから」
中に入ろうともせず、玄関口に突っ立ったまま、父がいった。
「そんなことないよ」
通夜は苦笑して、首を横に振った。
否定したものの、我ながら説得力がない、と思った。
通夜は標準よりかなり痩せている。
スマートといえば聞こえはいいが、ひとつ間違えば欠食児童である。
風邪のせいであまり食欲はなかったが、
「うん」
とうなずいた。
少し、わだかまりが解けかけていた。
父とふたりだけで食事なんて、何年ぶりだろう。
記憶を探ってみる。
ひょっとしたら、これが初めてかもしれない。
そう思い至るのに、時間はかからなかった。
たたきに降りてブーツを履いていると、一足先に通路に出ていた父が、通夜を振り返って、いった。
「ちょっと見ないうちに、夜、おまえ、綺麗になったな」
通夜は動きを止め、固まった。
あまりにも意外な一言だったからである。
父が選んだのは、駅前の中華料理店だった。
見るからに値が張りそうなので、今までずっと通夜が敬遠していた店である。
一度入ってみたいとは思っていた。
が、まさかそれがこんな形で実現するとは・・・。
なんだか皮肉な気がした。
ボリュームのあるコース料理を注文したくせに、父は料理にはほとんど手をつけなかった。
その代わりに、生ビールをちびちび飲んでいた。
「食べないの?」
自分だけ夢中で食べていることに気づき、通夜は訊いた。
「どれもおいしいよ。体、あったまるよ」
実際、風邪がどこかに飛んでいってしまうほど、料理は美味だった。
「おまえが食べればいい。俺はそんなに腹、減ってないから」
父がほんのりと目のまわりを赤くして、いった。
店の明るい証明の下で改めて見ると、顔色がひどく悪いのがわかる。
皮膚が全体的に黄色っぽいのだ。
目の白目の部分も黄色く変色していた。
母の言葉が耳の奥に蘇る。
癌なんだって。
それも、肝臓癌・・・。
とたんに食欲がなくなった。
通夜は箸を置いて、うなだれた。
涙が溢れそうになる。
何を口にしていいかわからない。
これまで、お世辞にも仲のいい父娘とはいえなかった。
でも・・・こんなのは嫌だ。
何か、間違ってる。
そう思った。
「どうした?」
父がたずねた。
「私も、おなかいっぱい」
かろうじて、通夜は言葉を返した。
「そうか」
父がいい、またビールを舐めた。
「店のことは、心配しなくていい」
何も訊いていないのに、だしぬけにいった。
「鮎里が本腰を入れて、母さんを手伝ってくれることになった。おまえは、おまえの好きにすればいい」
鮎里というのは。ひとつ下の妹である。
昨年の春、高校を卒業したものの、定職に就くこともなく、たまに店を手伝いながらぶらぶらしている。
性格はちゃらんぽらんだが、姉とは対照的に誰にでも愛想が良く、回りから好かれていた。
そのうえ外見もそこそこ美人だった。
観光地の喫茶店の看板娘には、まさにうってつけのキャラクターである。
「そうなんだ」
予想の範囲内ではあったが、お通夜は大いにほっとした。
たとえ父が倒れたとしても、実家に帰る気はさらさらない。
対人恐怖症に近いお通夜に客商売は無理なのだ。
それは、この前の文化祭の模擬店で痛感していた。
自分で言うのもなんだが、お通夜はウェイトレスとしてまるで役に立たなかったのだった。
ヒバナが手伝ってくれなかったら、店自体が崩壊するところだった、と今でも思う。
「で、これから、どうするつもりなんだ?」
父が訊いた。
酔いが回ってきたのか、少し饒舌になっていた。
「今、公務員試験の勉強、始めたところ」
素直に、お通夜は答えた。
父に自分の人生設計を話す日が来ようとは、思ってもみなかった。
「うち、本が好きだから、図書館司書になれたら、と思って」
電子工学科に在籍しながら図書館司書、というのも矛盾した話だったが、最近お通夜は自分には理系は向いていないのでは、と思い始めている。
人並み以上にパソコンなどには強いが、鬱病の気があるため、性格的にSEやプログラマーは無理そうなのだ。
その道に進んだら、間違いなく自閉症になりそうな気がしたのである。
「最近、ちっちゃい子どもに絵本を読み聞かせるボランティアやったんだけど、それが意外に楽しくって」
父の顔をちらっと見て、いった。
「ほう」
父が目を細めた。
あれほど娘が読書する姿を見るのを嫌った父が、今はなぜかうれしそうに顔をほころばせている。
お通夜はそれがひどく不思議だった。
まさか今更「もっと社交性のある仕事にしろ」などとはいわないだろうが、いやみのひとつもいわれるだろうと思っていたのだ。
「おまえは昔からやさしい子だったからな。それ、案外、似合ってるんじゃないかな」
ビールの泡を白い髭のように上唇につけたまま、柔らかなまなざしで娘を見て、父がいった。
どうして、今なの?
お通夜は心の中で叫んだ。
どうして、今になってやさしいの?
「父さん・・・」
こらえきれなくなった。
熱い涙が頬を伝うのがわかった。
溢れ出る涙を拭おうともせず、お通夜は父のやさしい瞳を見つめていた。
これで帰る。
精算を済ませ、店を出ると、父はいった。
泊まってってよ。
お通夜はすすり泣きながら引き止めた。
ばか、あんな狭い部屋で寝られるか。
父は笑って、駅の改札に消えていった。
もう、夜の十時を過ぎていた。
お通夜は、ホームの雑踏の中に茫然と佇んでいた。
そして、思った。
お父さんを、救わなきゃ。
その方法が、ひとつだけ、ある。
父さんを、絶対に死なせないで済む方法が。
スマホを取り出し、ヒバナにかけた。
「ほい?」
すぐに、ちょっと間の抜けた声が返ってきた。
「ヒバナさん、お願いがあります」
スマホに向かってお通夜は必死でいった。
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