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第10部 ヒバナ、アブノーマルヘブン!
#2 名状しがたいもの②
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「取り込み中なの」
焦った口調で、ヒバナはいった。
実験の真っ最中なんだ、とわけのわからない弁解をした。
玉子はフンと鼻で笑って通話を切った。
外見は小学生だが、中身は老練な大人である玉子にとって、通話器の向こうで何が行なわれているかは一目瞭然だった。
「ちぇ、うまいことやりやがって」
ぺっぺっと地面に唾を吐き、仕方なく漁船のほうに戻ろうとした、そのときである。
パタパタと軽い足音がして、浜のほうから小柄な若い女が駆けてきた。
赤い眼鏡。
髪はおさげにしている。
左胸にイルカのマークの入った作業着を着ていた。
「遅くなりましたー! 私、南三河ビーチランドの望月です!」
漁船に駆け寄ると、網の周囲に群がる漁師たちに向かってよく通る声で叫んだ。
玉子はすたすたと女に近寄った。
「桜子じゃん」
後ろから細い腰をつついた。
「あ、玉ちゃん」
振り返るなり、女が破顔した。
知り合いだった。
この島唯一のレジャー施設『南三河ビーチランド』は、玉子の縄張りのひとつである。
そこのゲームセンターが。玉子の大のお気に入りの遊び場なのだ。
中学生からお金を巻き上げて、懐に余裕のあるときには、ときどき水族館にも顔を出す。
望月桜子はそこの職員で、23歳。
イルカのショー係をしたり、巨大水槽の中を魚と一緒に泳ぎながら餌をやったりしている。
桜子が東京の大学を卒業してここの水族館にやってきたのは、去年の春のことだった。
だから玉子と顔見知りになって、約一年半になる。
「何しに来たんだ?」
ふたりは漁船の甲板に上がった。
「珍しいイカが網にかかったから、水族館で引き取れないかって漁協から連絡があってね。って、うは」
甲板から海面に広がった投網を見下ろして、桜子が素っ頓狂な声を上げた。
「こりゃ大物だわ。ダイオウホウズキイカの成体じゃない。すっごーい! 初めて見た」
眼鏡の奥で、子供のように目をきらきらさせている。
心の底から、海の生き物が好きなのだろう。
「まるで怪獣だな」
「そうねえ。有名なのはダイオウイカのほうだけど、このダイオウホウズキイカは、それよりもっと大きくなるの。でも、ここまで大きいのは珍しいなあ。なんか、尻尾が切れてるけど、完全な姿だったら大型観光バスより確実にでかいわね」
桜子は作業着のポケットからスマホを取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。
「そうなんです。ギネス級の大物です。たぶんもう死んでると思いますけど、液体プラスチックで固めて展示してみたらどうでしょうか? きっと大ニュースになりますよ」
どうやら職場への報告のようである。
「5トントラックを用意してくれるって」
スマホをしまうと、うれしそうにいった。
「さあ、いっそがしくなるぞー!」
腕まくりして、漁師たちの中に入っていく。
さすが入社二年目。
やる気まんまんと見える。
玉子も後に続いて、イカのよく見える場所に移動した。
気になる切断部分に目を凝らす。
刃物に切断されたというより、やはり何かに食いちぎられたように見える。
傷口がギザギザになっているのだ。
後方で騒ぎが起こったのは、そのときだった。
言い争う声に気づいて振り返ると、漁船の上り口に異様な風体の人物が立っていた。
「なんだ。おまえは?」
漁師のひとりがその前に立ちはだかっている。
それは、全身モスグリーンの奇妙な格好をした女だった。
頭には三角形のフード、体には長いローブをまとっている。
中世ヨーロッパの魔法使いか、クー・クラックス・クランみたいな感じの怪しげな姿である。
女とわかったのは、その声音からだった。
「これは破滅の予兆です」
両手を頭上に上げ、甲高い声で叫んでいるのだ。
「さあ、みなさん、今こそソフィアに祈るのです。そして、光の船を召喚してもらうのです」
「何だ?」
玉子がつぶやくと、
「ビーチランドの隣に、ほら中高一貫の私立学校があったでしょ」
近くにいた桜子が玉子の声を聞きつけて、解説してくれた。
「あそこが市内に移転して、その空いた土地につい最近、おかしな施設ができちゃってね。たぶん、そこの人だと思う」
「おかしな施設?」
「宗教団体なのか自己啓発セミナーの類いなのか、よくわかんないんだけど、確か『天国への階段』とかいう名前の」
「レッド・ツェッペリンかよ」
「え?」
桜子が、信じられないといったふうに目を丸くして、玉子の顔を覗き込んだ。
「玉ちゃん、小学生なのにツェッペリン知ってるの?」
「あたいに知らないことなんてないんだよ」
鼻の頭に小じわを寄せて、玉子は答えた。
「というわけだ。どう思う? じじい」
ちゃぶ台を挟んで対面に坐っている老人に向かって、玉子は訊いた。
その夜。
島の一角に位置する雑貨屋。
玉子の家の中である。
「ダイオウホウズキイカ、のう」
ひどくゆっくりした動作で箸を運びながら、老人がつぶやいた。
玉子の父、オオワダツミノカミである。
見た感じ、八百万の神というより、ただのボケ老人に見える。
「一度食べたことがあるが、アンモニア臭くて、とても食えたもんじゃなかったよ」
のんびりと、そんなとぼけたことをいった。
「食ったのかよ」
玉子がおかっぱ頭の下で、太い眉をひそめる。
「ああ。若い頃は、大海原を泳ぎ回って、たいていのものは食ってみたもんじゃ」
「暇な神様もあったもんだ」
「ともかく、あんまり良い知らせではないな」
「破滅の予兆だとかいってるやつもいたぞ」
「かもしれぬ」
老人がしわに埋もれた細い目で玉子を見つめた。
「大海原は、宇宙に匹敵するほど謎が多く、懐の深い世界じゃ。わしらの知らぬ何者かが潜んでいたとしても、ちっとも不思議ではない」
「海の神様でも、知らないことがあるのかよ」
「わしの守備範囲は、このヤマトの国の経済水域に限られておるからのう」
「たった370キロか。狭いな」
「だな」
オオワダツミでも知らぬ敵。
そんなものが、この三河湾に果たして存在するのだろうか。
「何だと思う? あのイカを襲ったやつ」
無駄とは思いつつ、玉子はそうたずねずにはいられなかった。
「それは、おそらく」
老人が声をひそめた。
「ゴジラじゃな」
「あんたまでそれをいうか」
玉子はあきれた。
「まじめに答えやがれ、って、あ?」
いびきが聞こえ始めた。
「おい、じじい、会話の途中で寝るな」
玉子は怒鳴った。
老人は、箸を握ったまま、眠りについてしまっていた。
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