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第10部 ヒバナ、アブノーマルヘブン!

#1 名状しがたいもの①

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 玉子はいつものように、机に頬杖をつき、外を見ていた。
 算数の授業中である。
 先生が黒板にチューリップの絵を描き、一生懸命説明している。
「わかる? だから、分数はそのまま足しちゃだめなのよ」
 クラスの半数の生徒は到底理解しがたいといった顔つきで黒板を見つめているが、分数の足し算など、玉子にとっては茶番もいいところだった。
 玉子は肉体的には確かに小学生だ。
 が、その本質は八百万の神のひとり、豊玉姫の化身である。
 数千年の昔から、転生を繰り返してこの人間界で目立たぬように生きてきた。
 だから、人間の子どもが習うことなど、当然潜在意識の底に刻み込まれてしまっている。
 理数系は比較的苦手だが、それでも高校一年の数学Aまでの知識は、難なく思い出すことができた。
 そんな玉子に、『分母が同じ数の分数の足し算』の授業を一から受けろ、というのは、どだい酷な話なのだった。
 せめて早く大人になりたいと思う。
 目下の目標はヒバナや緋美子のような『綺麗なお姉さん』になることだ。
 だが、今のところ、その道はかなり遠く、険しいといえた。
 ヒバナや緋美子の肢体が優雅な曲線を描くコーラの瓶とするなら、玉子の体型はどこまでもまっすぐな缶ジュースの缶である。
 第二次性徴期を迎えても、あんなふうに変身できるとはとても思えない。
 ふはああ。
 あくび混じりのため息をつき、玉子はまた外界に注意を戻した。
 
 教室の窓から港が見える。
 一艘の漁船が停泊していた。
 このあたりの漁港には珍しく、大きな船だ。
 その漁船は、なぜか傾いていた。
 投網を引きずったまま港に入ってきたらしい。
 よほど大きな獲物がかかっているのか、
 その網に引っ張られるようにして船体が海側に傾いでいるのだった。
 何だろう?
 玉子が身を乗り出してもっとよく見ようとしたとき、先生の叱責の声が飛んできた。
「大和田さん、何ぼーっとしてるの!」
 教室内にどっと笑いの渦がわき起こる。
「やーい、玉子が叱られた!」
「ブース、ブース!」
 丸刈りの男子生徒たちがこぞってはやしたてる。
「うっせえ」
 ばんと机を叩いて玉子は立ち上がった。
「てめえら、殺すぞ」
 ドスの効いた声でいい、まわりをねめまわす。
 いつのまにか、両手にヌンチャクを握っていた。
 教室中が、水を打ったように静まり返る。
 玉子は『やるときにはやるオンナ』として、島じゅうの小中学生に恐れられているのだ。
「お、大和田さん、そんなぶっそうなもの、授業中に出さないで」
 先生は若い女性である。
 玉子の迫力に完全に腰が引けている。
「センセ、あたいさ、ちょっと用事、思い出した」
 ぶんぶんヌンチャクを振り回しながら、玉子はいった。
「うちのジジイが朝から危篤なんだよ」
「え?」
「だから、悪いけど、ちょっくらここでフケさせもらうわ」
 ランドセルを背負うと、窓から飛び降りた。
 いつでも脱出できるように、玉子は常に土足である。
 そのままダッシュした。
「今度は停学になっても知らないから!」
 背後から金切り声が聞こえてきた。
 やれるもんならやってみやがれ。
 玉子は一直線に港に向かっている。
 この前自宅謹慎をくらったばかりである。
 岸田隆生作『麗子像』そっくりの顔で、にやりと笑う。
 今度は停学だと?
 そんなことしてみろ。
 教育基本法違反で訴えてやる。
 そう、思ったら、笑いがこみ上げてきたのだ。

 港は上へ下への大騒ぎだった。
 漁師たちの怒声が飛び交うなか、玉子はてくてくと騒動の中心に入っていった。
「どうしたん?」
 顔見知りの漁師を見つけて、気さくに声をかける。
「おう、玉ちゃんか」
 ごま塩頭に手ぬぐいを巻いた、中年の漁師が手を振った。
 玉子はその破天荒な振るまいゆえ、子どもたちには忌み嫌われているが、不思議と一部の大人たちには人気がある。
「何かあったのか?」
「あったもなにも、えらいもんがかかっちまってよォ」
「なんだ?」
「とにかく上がって見てみろよ」
 ひらりと、ひとっ飛びで甲板に飛び乗った。
 なんせ、ただ八百万の神の化身というだけではない。
 玉子は神獣”白虎”の御霊(みたま)を体内に宿している。
 身体能力の高さはオリンピック選手の比ではない。
 荒くれ男たちに挟まれ、甲板から身を乗り出して、海面に垂れ下がった投網を覗き込んだ。
 中に、気色の悪いものが入っていた。
 巨大なイカである。
 体長10メートルはありそうだ。
 とにかく、ものすごい大きさだった。
「ダイオウホオズキイカだ」
 漁師のひとりが解説してくれた。
「深海の生物でな、見ての通り、成長すると10メートル以上になるらしい」
「しかしこの三河湾で、こんなもんが捕れるとはなあ」
 別の漁師があきれたようにいう。
「しかも見ろよ。こいつ、胴体が三分の一、なくなってるだろ? もとは15メートル以上あったってことだぜ」
 胴体が、三分の一、なくなっている?
 玉子は目を凝らした。
 本当だった。
 イカの足とは反対の部分。
 ふつうなら三角形のひれのあるほうが、すぱっと断ち切られたように短くなっているのだ。
「何かに食われたのかな」
「ばかいえ。こんなでかいものを食う生き物がいるかよ。この大きさじゃ、シャチやマッコウクジラでも無理だ」
「船のスクリューに巻き込まれたとか」
「したら、船のほうが沈んじまうって」
 漁師たちの興奮気味の会話を聞きながら、そのうねうね蠢く軟体動物を見つめているうちに、玉子はうなじの産毛がちりちりと逆立ち始めるのを感じていた。
 来たのだ、また。
 何か、この世のものならぬ、名状しがたい存在が。
 体長15メートルの巨大イカを食いちぎる生物。
 ふつうなら、そんなもの、あり得ない。
 しかし、と思う。
 世界が狂っているとしたら・・・。
 第一の観測者が殺され、酒呑童子が現れた。
 そしてついこの前、第二の観測者がヒバナたちに倒され、その酒呑童子はツクヨミとともに消滅したという。
 そこまでは、当のヒバナや緋美子の口から聞いて、知っている。
 とすると、今ここにあるのは、第三の観測者が観測している世界。
 それもまた、狂っているとしたら・・・。
「こりゃゴジラの仕業だな」
 誰かがいった。
「ゴジラがイカなんて食うかよ」
 すぐさまつっこみが入る。
 漁師たちがどっと笑い崩れた。
 玉子は男臭い一団を抜け出した。
 ヒバナ、ひみねえ。
 なんかこれ、やばいよ。
 心の中でつぶやいた。
 かすかに残存する、神としての血が騒ぐ。
 廃船の陰にうずくまり、桜貝型通信器を取り出した。
 ヒバナ直通の連絡手段である。
 耳に装着したとたん、妙な音声が聞こえてきた、
 それは、淫靡なヒバナの喘ぎ声と、緋美子のくすくす笑う声だった。

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