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第5部 ヒバナ、インモラルナイト!

#20 ひずみ、出発する

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 その日、ヒバナがまだサウナのような部屋で玉子と一緒に惰眠をむさぼっている頃・・・・。
 ひずみは”声”を聞いた。
 右耳の穴にずっとはめこんであった、あの桜貝似た”装置”。
 それが初めて少年の声を受信したのだ。
 -連絡が遅れて、ごめん。でも、やっと彼女を見つけたよ。これから、出て来れるかい? できれば、ミミも一緒にー
 少年が指定したのは、意外な場所だった。
 場所と時間だけを指定して、通話は切れた。
 ミミに告げると、
「ヒバナは呼ばなくていいのかい?」
 そう訊かれた。
 少し考えて、ひずみは首を横に振った。
「これはあたしの問題だから。ヒバナはヒバナで、色々忙しいだろうし」
 昨夜にしても、そうだった。
 ひずみが眠っている間に、ヒバナは緋美子と2人だけで出かけてしまい、結局メールをよこしただけで帰ってこなかった。
 ひずみは源造じいさんの車で極楽湯に戻ったのだが、見知らぬ家にひとり取り残されるさびしさといったらなかった。
 きっと、ヒバナはあたしのことなんか・・・。
 そのとき、痛いほど思ったのだ。
 幸ちゃんはあたしが助ける。
 もう、誰の助けも借りない。
 一応ヒバナに電話だけ入れることにした。
 できるだけ事務的に用件だけ伝えた。
 ヒバナがショックを受けたらしいのがわかって、ちょっと溜飲の下がる思いがした。
 切ろうとしたら、かわってくれというので、ミミの前にスマホを置いてやった。
 ミミがヒバナに言った『ほしいものは石上宮にある』という一言が、ちょっと心に引っかかった。
 ほしいものって、何だろう?
 ふと、そんな疑問がわいたのだ。

 七分丈のパンツにTシャツ、その上に薄いカーディガンを羽織り、野球帽をかぶる。
 ミミに少し血を吸わせ、大きめのショルダーバッグに入れる。
 熱中症防止のために冷やしたアイスノンを下に敷いてやった。
 外は8月の太陽の日差しとアスファルトから立ち上る熱気で、真昼の砂漠なみに暑かった。
 地下鉄の駅に急ぐ。
 中途半端な時間帯のせいか、車内は比較的空いていた。
 エアコンがよく効いていたのが救いだった。
 汗が引いていき、ひずみはほっと吐息をついた。
 幸、今行くから。
 心の中で、友の面影に向かって語りかける。
 ごめんね、長い時間、放っておいて・・・。
 乗り継ぎの時間を含めて、30分ほどで目的地に着いた。
 那古野市水族館である。
 芝生の広場の奥に、巨大な円形の白亜の建物が建っている。
 大中小のUFOを3つ積み重ねたようなシルエットが、青空を背景に、映えている。
 入り口への階段を2段飛ばしで駆け上る。
 学割料金で中に入った。
 ホールでキョロキョロ周りを見回していると、耳の中の桜貝から声がした。
 -奥のエスカレーターから2階に上がるんだー
 怪獣のように巨大な鯨の骨格標本が展示されている下を潜り抜け、建物の奥へ向かう。
 エスカレーターで上がると、そこは真っ青な世界だった。
 ゆるやかに湾曲したフロアの壁全部を、ガラスの水槽が占めている。
 ガラスの向こうを泳いでいるのは、体長2メートル以上の大型の魚ばかりだった。
 ほとんどが、サメかエイの仲間のようだ。
 その前に、青白い光を背に、あの少年がたたずんでいた。
 夏の日差しから肌を守るためか、長袖のシャツにウインドパーカーを羽織り、黒いジーンズを穿いている。
 パーカーのフードの陰からのぞく2つの目が、血のように赤い。
「よく来てくれたね」
 フードを脱いで真っ白な髪と顔を顕わにすると、かすかに微笑んで少年が言った。
「こんなところから、幸のいる所へ行けるの?」
 ひずみがたずねると、
「ああ。あと5分ほどしたら、"扉”が開く。だから、少しだけ、待って」
 背後の水槽に目をやって、少年が答えた。
「剣は見つかったのかい? 探してた草薙の剣は?」
 バッグから顔を出して、ミミが訊く。
「手に入れたよ。灯台もと暗しってやつだね。予想外のところにあった」
 少年が水槽の魚たちの動きを眼で追いながら、答える。
「予想外のところって?」
「それより、向こうへ行く前に、ひとつだけお願いがあるんだ」
 振り向くなり、ひずみの問いをさえぎって、少年が言った。
「お願い?」
「ヒバナの血をもらってから、もうずいぶん経つ。そろそろエネルギーを補給しないと、幸のいる所まで体が持たないかもしれない。だから」
「あたしの血を吸わせろ、と?」
 先を読んで、ひずみが言う。
 薄く笑って、少年がうなずく。
「ヒバナの竜族の血、蛭子の治癒力を持つ君の血、それだけそろえば僕はもう無敵だよ。鬼にもオロチにも負けないさ」
「いいよ」
 ひずみはカーディガンを脱ぎ、首筋を少年の前にさらした。
「手加減してやりなよ。ヒバナのときみたいに吸いすぎると、ひずみの体が持たないから。ここへ来る前に、うちに血を分けてくれたばかりだしね」
 ミミが気遣わしそうに口を挟む。
「わかってます。はは、しかし、これはおもしろいな。蛭子、あなたと僕はお互い血を分け合った兄弟というわけだ」
 軽口を叩きながら少年がひずみに顔を寄せる。
 ひずみは体を固くした。
 ミミに初めて血を吸われた、ずっと幼い日のことをふと思い出した。
 注射のときのようなかすかな痛みが、首筋に走る。
 耳元でチュウチュウと血をすするおなじみの音がする。
 少し気が遠くなりかけたとき、やっと少年が唇を離した。
「ありがとう」
 ひずみの耳にささやいた。
「大丈夫? ひずみ」
 ミミが声をかけてくる。
「うん」
 ひずみはうなずいた。
 たいしたことはなかった。
 貧血を起こしそうなほど、血を吸われたわけではないらしい。
「時間だ」
 ふいに、少年が短く言った。
 振り向いたひずみは。見た。
 水槽いっぱいにひれを広げて、巨大なイトマキエイが近づいてくる。
 翼長5メートルを超えそうな、とてつもない大物だ。
 そのエイの真っ白な腹が、ガラス壁に張りついた。
 と、だしぬけにそこに光の渦が生じた。
 ”扉”が開いたのだ。
                      ◇
 ナミは歯軋りした。
 いや、気分的にはそうしたかったが、宿主にすべての運動神経を奪われた今は、それすらもかなわなかった。
 手も足も出ないとは、まさにこのことだ。
 信じられなかった。
 神の血を引く自分が、いくら意志が強いとはいえ、たかが人間の小娘に、ここまで封じ込められてしまうとは。
 しかも、ナミの特性であるテレパシーもヒュプノ能力もまるで効かないのだ。
 一応視神経と聴覚神経にはバイパスを作っておいたから、外の様子は緋美子の見たり聞いたりする通りに感知することができる。
 が、運動神経と脳神経を支配されたのは痛かった。
 この体はナミの一存ではまったく動かなくなってしまったのだ。
 -この子、本当にただのニンゲン?-
 思わずそう悪態を吐きたくなる。
 しかたなくナミは、体の中で自分の思い通りにできる箇所を探すことにした。
 何かあるはずだった。
 大逆転を可能にする、何かすばらしいものが、この体のどこかに・・・。
 
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