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第3部 ヒバナ、デッド・オア・アライブ!

#12 虜

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  光男の誘いを、ヒバナは拒まなかった。
 お互いほとんど無言のまま、地下鉄に揺られながら二人が向かったのは、那古野駅裏にあるホテル街だった。

 天井と四方の壁が鏡になった、見るからに淫靡な印象の部屋である。
 照明が落としてあり、ピンク色のダブルベッドが中央で圧倒的な存在感を醸し出している。
 『シティホテル』とは名ばかりの、典型的なラブホテルの一室である。
 パネルで部屋を選ぶと、カードキーが機械から出てくる仕組みで、誰とも顔を合わせることなく部屋に入れるのはありがたかったが、なにぶん生まれてはじめての経験であり、光男の緊張は極限まで高まっていた。
 それはヒバナも同じらしく、部屋の入り口で立ちすくんだまま、一歩も中に入ってこようとしない。
「先にシャワー浴びなよ」
 努めてやさしい口調を心がけたつもりだったが、如何せん、緊張のあまり、情けないほど声がかすれてしまっていた。
「うん」
 ヒバナが小さくうなずいて、やっと中に入ってきた。
 なんだか今にも泣き出しそうな表情をしている。
 バッグをサイドテーブルに置き、腕輪をはずしてその上に乗せる。
 バンダナを取ると、白い額の真ん中に赤い輝きだけが残った。
 最近流行のファッションなのだろうか。 
 眉と眉の間に、小粒の宝石のようなものが埋め込まれているのだ。
 光男は思い切ってそばに寄り、そっと肩を抱いてやった。
 ヒバナはかすかに震えていた。
 「大丈夫だよ」
 耳元でささやいてやる。
 だが、本当に大丈夫なのか、光男にもわからない。
 ヒバナがシャワー室に消えると、光男はサイドテーブルから無造作に腕輪を拾い上げ、自分のリュックにしまった。レイナからあずかってきた代わりの腕輪を出し、ヒバナのバッグの上に元のように乗せておく。自分が何をしているのか、ほとんど意識していなかった。腕輪を目に留めたとたん、心の奥のほうから、レイナの命令が聞こえてきたのだ。いや、正確には思い出したというべきだろう。ブレスレットというより、腕輪と呼ぶのがぴったりのこんな古臭いものをなぜレイナが欲しがるのかは謎だったが、光男には逆らうすべがなかった。とりあえず、用意してきた偽物の腕輪が実物そっくりなのが救いだった。これならヒバナにも気づかれることはあるまい。
 それより問題なのは、これから先のことである。
 うまくできるだろうか。
 レイナのときとは勝手が違うのだ。
 ここでは光男のほうが、ヒバナをリードしなければならない立場なのである。
 レイナにやられたことを、ヒバナにやり返してやりたかった。
 そうしないではいられないところまで、光男は精神的に追い詰められていた。
 主導権を取り戻すのだ。
 レイナめ、見ていろ。
 僕がちゃんとした男であることを、証明してやる・・・。
 シャワーの音がやみ、ヒバナが戻ってきた。
 素肌にバスタオルを巻いただけの、あられもない姿である。
「冷蔵庫に飲み物があるから、飲んで待ってて。なんなら、ビールやカクテルもあるし」
 そう言い残し、シャワー室に入る。
 中は、湯気と、ヒバナの匂いに満ちていた。
 あの夏の空気のような体臭に、ほんのわずかだが女性特有の生臭い匂いが混じっている。
 服を脱ぎ捨てて全裸になると、光男はおのれがひどく怒張していることに気づいて、少しほっとした。
 レイナ以外の相手でも愛せる自信がわいてきたのだった。
                 ◇
 缶入りの甘いカクテルを半分ほど飲むと、頭がぼうっとしてきて、ヒバナはダブルベットに横になり、シーツをまとった。
 天井の大きな鏡に、やせっぽちで冴えない自分が映っている。
 これが、初体験か、と思う。
 何度も想像したことはある。
 でも、そんな日が実際にやってこようとは思ってもみなかった、というのが正直な感想だった。
 意外にあっけないんだ、と思った。
 相手が光男でいいのかどうかすらも、わからない。
 光男のことは嫌いではない。それは確かだ。
 なんといっても、ヒバナのことを覚えていてくれた、この世で唯一の男なのだ。
 それだけで、涙が出るほどありがたい気がする。
 だが、それとセックスとは別のような気もする。
 でも、そうであるならば、誰とならしてもいいのか、ということになると、ヒバナにはもう答えられないのだった。
 案外、たいしたことではないのかもしれない、とも思う。
 こんなの、誰でもがしていること。
 通過儀礼だったけ?
 これはきっと、大人になるための儀式のようなものにすぎないのだろう。

 光男が出てきて、ベッドの脇に立つ気配がした。
 振り向くと、すぐ目と鼻の先に赤黒く反り返った"それ"があった。
 生白い光男の体の中で、それだけがまるで別種の生物のように猛々しく、異彩を放って見える。
 ・・・・大きいなあ。こんなの、ほんとに入るんだろうか。
 ヒバナは少し恐くなった。
 ちょっと想像しただけで、すごく痛そうだった。
 光男がいきなりシーツをむしりとった。
 ヒバナの裸身が露わになる。
 胸と下腹部を隠そうとした両手を、光男が押さえた。
 そのまま体ごとのしかかってくる。
 乳房をつかまれた。
 光男の脚が、ヒバナの太腿を割って入ってくる。
「痛いよ、水島君」
 体をひねった拍子に、右手が硬く熱いものに当たった。
 無意識のうちにそれをつかんでいた。
 その瞬間、光男が「あ」っと叫び、びくんとはねあがるのがわかった。
 手の中のモノが、急激に膨れ上がる。
 と、突然、熱湯のような液体がヒバナの右手にあふれ出し、奔流のようにベットに飛び散った。
 どくん、どくん、と手の中の肉棒が脈打ったかと思うと、急速に硬さを失っていく。
 一瞬、何が起こったのか、ヒバナにはわからなかった。
 びっくりして身を起こすと、光男は股間を押さえてベッドに崩折れ、胎児のように丸くなってしまっている。
「ご、ごめん・・・。痛かった?」
 ヒバナはすっかりうろたえて、訊いた。
 自分がひどく光男を傷つけたらしいことに気づいたのだ。
 光男は答えない。
 固く目をつぶり、ヒバナのほうを見ようともしない。
 ヒバナは混乱した。
 やり方が悪かったのだろうか。
 そう、自問する。
 でも、やり方も何も、わたし、まだ何もしていない・・・。
 わけがわからなかった。
 男の人って、こんなに早く果てるものなのか。
 それとも、この子が特別なのか・・・。
 ふと見ると、光男はすすり泣いていた。
 栗の花に似た青臭い匂いのするねばねばの体液にまみれて、声もなくしゃくりあげているのだった。
 ヒバナはなんとはなしに、そんな光男がかわいそうになってきた。
 どうやら待望の初体験は失敗に終わったらしかった。
 でも、そんなの、別に悲しむほどのことでもない。
 「水島君、気にすることないよ。そんなことしなくても、一緒に寄りそってるだけでわたし、十分気持ちいいもん。ね、もう一回、シャワー浴びてさ、くっついて寝ようよ」
 光男の髪の毛をなでながら、やさしく声をかける。
 このときが、ヒバナの中で母性が目覚めた瞬間だったのかもしれない。
             ◇
 ひどい挫折感の中で、今こそ光男は悟っていた。
 僕は駄目なやつだ。
 最初から、どうしようもない駄目人間だったのだ。
 レイナは、ヒバナのあの腕輪をすり替えさせるためだけに、光男を雇い、調教して、ここに送り込んだのに違いない・・・。
 その認識が、突然何の前触れもなく、稲妻のように脳裏に閃いたのだった。
 腕輪をレイナに渡せば、僕はもう用済みの烙印を押され、放逐されるのだろう。
 そんな予感がした。
 それは、天啓に似た、確信めいた予感だった。
 徒労感だけが、残った。
 でも、と思う。
 このぬくもりは、何だ。
 この子は、なんでこんなにやさしいんだろう。
 ヒバナ・・・。
 君は、どうして、こんなにいい子なのか。
 無様な光男を責めることもなく、ただ寄りそっていてくれる少女。
 腕の中のヒバナの体はほんのりと温かく、触れ合う肌が心地よい。
 性欲はとっくの昔に消し飛んでしまっており、光男は日向の匂いのするヒバナのやわらかい髪にずっと顔をうずめていた。
 もっと早く会いたかった、と痛切に思う。
 駄目は駄目なりに、懸命に生きていたあの頃に・・・。
 そして、ふと思い出した。
 闇の中で目を開く。
 ああ・・・。
 あのことだけは、伝えておかなきゃ・・・。
 きっとそれは、レイナを裏切ることになるのだろう。
 でも、腕輪はちゃんと手に入れたのだから、もう文句を言われる筋合いはないはずだ。
 決心した。
「ヒバナちゃん、起きてる・・・・?」
 ヒバナの髪に顔を埋めたまま、くぐもった声で光男は言った。
「うん」
 ヒバナがうなずくのがわかる。
「君のいなくなったペット、レオンっていう、カメレオンだったよね?」
「そう、だけど・・・?」
 薄闇の中でヒバナが身を起こす。
「僕、会ったよ。一回だけ」
 そう、初めてレイナに調教され、ベッドにひとり、自分の精液にまみれて取り残されたあの夜。
 部屋の宙空に、突然幻のように現れた不思議な映像。
 その中に、氷の牢獄に閉じこめられた緑色のカメレオンを幻視した。
 あのとき、彼は確かにこう言ったのだ。
ーおまえ、ヒバナを知っているのかー
ーもし、ヒバナを知ってるなら、ここへ連れてきてくれないかー
 
 完全に忘れていた。レイナに毎晩のように責めさいなまれ、まともな思考ができなくなっていた証拠だった。
「レオン、どこにいるの?」
 ヒバナが立ち上がった。
 おわん型のかわいらしい乳房、平らな下腹,太腿の間にのぞく、淡い叢。
 すべて丸見えである。
 が、それも気にならないくらい興奮しているらしいことが見てとれる。
「そうだね。あさっての夜なら、案内できるかも」
 うなだれたまま、光男は言った。
 まだ、正面からヒバナの目を見る勇気は出ない。
 そう、あさっての夜。
 その日はレイナが不在なのだ。アクセサリ類の買い付けに一日中出かけるとかで、事務所のスペアキーを光男は預かっている。主人はいなくても、仕事はやっておけ、というわけらしい。
 明日さえ何事もなく乗り切れば、ヒバナを事務所に入れることはそんなに難しくないはずだった。
 なにしろ、言いつけどおり、腕輪を持って帰るのだから、疑われることもないに違いない。
 腕輪か。
 そこまで考えて、光男は少し迷った。
 すべてを打ち明けて、ヒバナに腕輪を返すべきだろうか。
 一瞬間、そう考えた。
 だが、結局それは言い出せずじまいで終わった。
 それ以上、何も言えなかったのだ。
 心の奥にカギのようなものがかけられていて、光男の思考をセーブしている。
 そんな感じだった。
 ひょっとして、レイナは今も、どこからか僕らを監視しているのではないか。
 そんな気もした。
 光男は怖くなった。
 自分がいかにあの魔性の女の虜になっているかということを、改めて思い知らされたからだった。
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