22 / 423
第22話 授乳
しおりを挟む
「あの、すみません」
ふいに声をかけられ、私は友人との会話を中断した。
振り返ると、隣のテーブルに髪の長い女性が座り、申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
ここは郊外のレストランの片隅。
私は大学時代の友人と映画を見た帰りだった。
「なんですか?」
あまりに青ざめたその顔が気になって、努めて優しい口調で私は聞き返した。
「ご迷惑でなければ、赤ちゃんに、お乳をあげたいんですけど…」
私たちとそれほど歳が変わらなさそうなその女性は、なるほど胸に赤ん坊を抱いている。
顔までは見えないが、おくるみのような服装からして、まだ生後間もない乳児のようだ。
「どうぞ、遠慮なく。私たちでしたら、気にしませんから」
友人の咎めるような視線を無視して、私は笑顔をつくってみせた。
私はまだ独身だけど、公共の場での授乳というのは、同じ女性として無視できない問題である。
それに、ここは奥まっていてほかの席から死角になっているから、少しの間なら店員も客も気づかないだろう。
赤ん坊はしきりにもぞもぞ動いている。
きっと泣き出す寸前だったに違いない。
「そうですか。ありがとうございます」
よほど困り果てていたのだろう、女性の顔にあからさまな安堵の色が浮かんだ。
「では、お言葉に甘えて、失礼させていただきます。この子ったら、本当に聞き分けがなくって」
気弱に微笑み返して、女性がワンピースの胸元に手をやった。
「赤ちゃんですから、仕方ないですよ。好きなだけ飲ませてあげてくださいな」
私はあわてて目をそらし、友人との会話に戻った。
ひとしきり今見てきた映画の感想に花を咲かせ、女性と赤ん坊のことなど忘れてしまった頃のことである。
突然、すぐ近くでばたんと何かが倒れるような音がして、私は飛び上がった。
見ると、あの女性が椅子から崩れ落ち、床に仰向けになっていた。
「だ、大丈夫ですか?」
助け起こそうと駆け寄った私は、手を伸ばしかけて、うっと息を呑んだ。
どういうことなのか、女性はミイラのように干からびてしまっていた。
骨と皮だけになった顔の中で、飛び出た眼球がじっと天井をにらんでいる。
「な、なに、これ?」
思わずつぶやいた時である。
椅子の陰で何かが動いた。
這い出てきたのは、丸々太った赤ん坊だった。
凍りついたように立ちすくむ私を見上げると、憮然とした口調で赤ん坊が言った。
「ちぇ、こいつもとうとう用済みだな。今度はあんたに代わりになってもらうとしよう。見たところ、立派な胸をしてるようだしな」
な、何この子?
赤ん坊なのに、どうして言葉をしゃべってるの?
一瞬のためらいが命取りになった。
次の瞬間、飛びかかってきた赤ん坊に抱きつかれ、私は床に尻もちをついていた。
「いい匂いだぜ」
私の胸に顔を押しつけて、赤ん坊がにやりと笑った。
口が耳元まで裂け、中にぎっしりと鋭い歯が並んでいる。
「助かったよ、お姉さん。このおっぱいなら、当分の間、上等な母乳にありつけそうだ」
ふいに声をかけられ、私は友人との会話を中断した。
振り返ると、隣のテーブルに髪の長い女性が座り、申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
ここは郊外のレストランの片隅。
私は大学時代の友人と映画を見た帰りだった。
「なんですか?」
あまりに青ざめたその顔が気になって、努めて優しい口調で私は聞き返した。
「ご迷惑でなければ、赤ちゃんに、お乳をあげたいんですけど…」
私たちとそれほど歳が変わらなさそうなその女性は、なるほど胸に赤ん坊を抱いている。
顔までは見えないが、おくるみのような服装からして、まだ生後間もない乳児のようだ。
「どうぞ、遠慮なく。私たちでしたら、気にしませんから」
友人の咎めるような視線を無視して、私は笑顔をつくってみせた。
私はまだ独身だけど、公共の場での授乳というのは、同じ女性として無視できない問題である。
それに、ここは奥まっていてほかの席から死角になっているから、少しの間なら店員も客も気づかないだろう。
赤ん坊はしきりにもぞもぞ動いている。
きっと泣き出す寸前だったに違いない。
「そうですか。ありがとうございます」
よほど困り果てていたのだろう、女性の顔にあからさまな安堵の色が浮かんだ。
「では、お言葉に甘えて、失礼させていただきます。この子ったら、本当に聞き分けがなくって」
気弱に微笑み返して、女性がワンピースの胸元に手をやった。
「赤ちゃんですから、仕方ないですよ。好きなだけ飲ませてあげてくださいな」
私はあわてて目をそらし、友人との会話に戻った。
ひとしきり今見てきた映画の感想に花を咲かせ、女性と赤ん坊のことなど忘れてしまった頃のことである。
突然、すぐ近くでばたんと何かが倒れるような音がして、私は飛び上がった。
見ると、あの女性が椅子から崩れ落ち、床に仰向けになっていた。
「だ、大丈夫ですか?」
助け起こそうと駆け寄った私は、手を伸ばしかけて、うっと息を呑んだ。
どういうことなのか、女性はミイラのように干からびてしまっていた。
骨と皮だけになった顔の中で、飛び出た眼球がじっと天井をにらんでいる。
「な、なに、これ?」
思わずつぶやいた時である。
椅子の陰で何かが動いた。
這い出てきたのは、丸々太った赤ん坊だった。
凍りついたように立ちすくむ私を見上げると、憮然とした口調で赤ん坊が言った。
「ちぇ、こいつもとうとう用済みだな。今度はあんたに代わりになってもらうとしよう。見たところ、立派な胸をしてるようだしな」
な、何この子?
赤ん坊なのに、どうして言葉をしゃべってるの?
一瞬のためらいが命取りになった。
次の瞬間、飛びかかってきた赤ん坊に抱きつかれ、私は床に尻もちをついていた。
「いい匂いだぜ」
私の胸に顔を押しつけて、赤ん坊がにやりと笑った。
口が耳元まで裂け、中にぎっしりと鋭い歯が並んでいる。
「助かったよ、お姉さん。このおっぱいなら、当分の間、上等な母乳にありつけそうだ」
0
お気に入りに追加
74
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
本当にあった怖い話
邪神 白猫
ホラー
リスナーさんや読者の方から聞いた体験談【本当にあった怖い話】を基にして書いたオムニバスになります。
完結としますが、体験談が追加され次第更新します。
LINEオプチャにて、体験談募集中✨
あなたの体験談、投稿してみませんか?
投稿された体験談は、YouTubeにて朗読させて頂く場合があります。
【邪神白猫】で検索してみてね🐱
↓YouTubeにて、朗読中(コピペで飛んでください)
https://youtube.com/@yuachanRio
※登場する施設名や人物名などは全て架空です。
10秒で読めるちょっと怖い話。
絢郷水沙
ホラー
ほんのりと不条理なギャグが香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる