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第9部 倒錯のイグニス

#248 最後の夜①

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 いつもの部屋に小田切の姿はなかった。
 電話機の留守電が点滅していたので再生すると、ぶっきらぼうな声で「泊りになる」とだけ入っていた。
「んもう、こんな大事な時に」
 杏里は不機嫌にひとりごちると、冷蔵庫から冷凍パスタを出し、電子レンジに放り込んだ。
 パスタが出来上がるまでの間に自室に入り、制服を脱ぐ。
 下着姿のままキッチンに戻ると、お湯を沸かし、ポタージュスープをつくる。
 卓袱台の前に正座して、パスタとスープで夕食を摂っていると、さすがに侘しい気分になってきた。
 スマホを取り出し、ルナの番号にかけてみる。
 呼び出し音ばかりで誰も出ない。
 当然だが、由羅の番号も同じだった。
 いずなもつながらない。
 ふと、ヤチカにかけてみたらどうだろう、と思った。
 もし、ヤチカ本人が出たら、きょうのことを直接訊いてみればいいのだ。
 名案だ、と思う。
 さっそく試してみることにした。
 呼び出し音が続く間、心臓がどきどきしてたまらなかった。
 叫び出したくなるのをこらえて、スマホを耳に当て、じっと待つ。
 20回ほど鳴らして、あきらめようとした時だった。
 ふいにコール音が途切れて、少しハスキーなヤチカ声がした。
 -もしもし?-
 警戒するように、声を潜めている。
「あ、」
 思わず小声で叫んでしまった。
 叫んだのはいいが、後が続かない。
 -誰? 杏里ちゃんなの?ー
 息を整えていると、杏里が返事をするより早く、ヤチカが言った。
「え、ええ。はい」
 完全に相手に呑まれてしまい、受け身になって杏里は答えた。
 ーふふ、おひさしぶりねー
 ヤチカが笑った。
 -不思議だわ。私、ちょうどあなたのことを考えてたところなのー
「私のこと?」
 きょうのヤチカの行動を事務j的に問い質す。
 そのつもりでいたのに、のっけから矛先を変えられてしまい、杏里は戸惑った。
 -私が今、どこにいると思う?-
 謎をかけるように、ヤチカが言った。
「工房ですか? 沼ばあさんの」
 思い切って、言ってみた。
 ここでヤチカがしらを切るなら、いつか工房でヤチカを見かけたことを切り出すまでだ。
 -そうよ。とある事情で、いずなちゃんと一緒に、真布ばあさんのお世話になってるんだけどー
 ヤチカがあっさりと答えた。
 別に隠す気はないらしい。
「いずなちゃん、元気なんですか?」
 ずっと気になっていた名前が出たので、スマホをきつく耳に押し当て、杏里はたずねた。
 -うーん、元気か元気でないかは、微妙なところかな。彼女、実を言うと、ここであなたの代役をさせられてるの。あなたが早く代わってあげないと、彼女、ちょっと辛いかもー
「代役って、何の?」
 意外な返事に杏里はあっけにとられた。
 正一の人形のモデルだろうか。
 あるいはヤチカの絵のモデルか。
 そのどちらかの可能性は、十分にある。
 -まあ、それはそれとしてー
 ヤチカが急に話題を変えた。
 -私が今、工房のどこで何をしてると思う?-
 意味深な口調だった。
「さあ…?」
 どうしてそんなことばかり、さっきから訊いてくるのだろう。
 私は重人みたいにテレパスじゃないから、わかるわけないのに…。
 募る不満をぶちまけようとした時である。
 いきなりヤチカが言った。
 -ここはね、杏里ちゃんのお部屋。いろんな格好をした、あなたそっくりのラブドールが、たくさんいるわ。それでね、私は今、そのひとりをあなたに見立てて、拷問しようとしてたところなのー




 


 

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