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第9部 倒錯のイグニス

#202 美里の影⑥

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 美里の住んでいたマンモス団地は、港からほど近い所に位置していた。
 広場の周りに13階建ての棟がいくつも立ち並び、さながらひとつの町のような観を呈している。
 C棟の13階13号室。
 そこが美里の部屋だった。 
 縁起の悪い数字だったので、よく覚えている。
 あれから2ヶ月あまり経っていた。
 団地の主婦たちに凌辱された集会室に警戒の視線を走らせ、C棟のエントランスに入った。
 壁に金属製の集合ポストがずらりと並んでいる。
 半数近くが空き家なのか、ガムテープで口をふさがれていた。
 1313の番号のポストも同じだった。
 表札代わりのシールははがされ、チラシ類の投函をふせぐためにガムテープが口の部分を覆っている。
 美里はやはり、ここへは戻っていないのだ…。
 13階まで上がる気力も無くし、杏里は途方に暮れて広場のベンチに腰かけた。
 だとしたら、いったいどこに…?
 篠崎医院の閉鎖自体、いまだに信じられなかった。
 美里を倒したあの日、杏里もあそこに運ばれ、傷が癒えるまでの数日を過ごしたのだ。
 堤英吾の息のかかった篠崎医院は委員会の傘下にあり、タナトスの治療に寛容だった。
 入院している間、見舞いに来た重人から、美里の死体は別の救急車でこの病院のどこかに運ばれたようだ、と聞かされた。
 どうせ死んだものと思い、あの時は大して気にも留めなかったが、今回の閉鎖はひょっとして美里の復活が原因ではあるまいか…?
 富樫博士の言葉からして、その可能性が高い気がする。
 どちらにしても、この団地に長居は無用だった。
 またあの主婦グループに見つかりでもしたら、面倒なことになりかねない。
 自転車置き場からクロスバイクを引き出して、高いサドルにまたがった。
 つま先立ちしてやっと立てる高さなので、自然とスカートが太腿の付け根までめくれ上がってしまう。
 どこからともなく現れ、杏里の隣から自転車を出そうとした若者が、その際どいポーズを目に留めて硬直した。
 それを無視して、下着が覗くのも構わず、杏里はバイクにまたがったまま、出口のほうへとハンドルを切った。
 とりあえず、もう、打つ手はなかった。
 何の収穫もなかったが、ここはおとなしく家に帰るしかあるまい。
 このマンモス団地から今の杏里の家まで、以前のママチャリなら1時間以上かかるところである。
 が、新しいクロスバイクなら、半分の時間に短縮できるはずだった。
 交通量の多い国道を避け、住宅街の中をジグザグに走った。
 鼻歌交じりに30分ほどペダルを漕いだ頃だろうか。
 ふと、気になるものを見つけて、杏里はバイクを止めた。
 見知らぬ住宅地の一角である。
 T字路を曲がった先に、塀に囲まれた幼稚園らしき建物がある。
 その正面玄関に止まっているバスに見覚えがあったのだ。
 黄色いゾウをペイントした、園児送迎用のバスである。
「これは…?」
 杏里は目を細め、記憶を探った。
 確かきのう、アウトレットの駐車場で見たのと同じバス…。
 杏里がルナを追って駐車場に足を踏み入れた時、ちょうどこのバスが出ていくところだったのだ。
「まさかね」
 妙な思いつきに、杏里は苦笑した。
 市バスと間違えて、ルナがこのバスに乗っちゃったなんてこと、いくらなんでもあるはずないよね。
 ハンドルをもと来たほうに向け、立ち去ろうとした時である。
 バスの中から、奇妙な声が聞こえてきた。
 子猫がじゃれ合うような、甘く尾を引く鳴き声だった。
 何かしら?
 クロスバイクをブロック塀に立てかけ、杏里はバスに歩み寄った。
 つま先立ちして中を覗き込んだ瞬間、あまりのことに絶句した。
 な、なに、これ…?
 そんな…。
 いくらなんでも、ありえない…。


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