激甚のタナトス ~世界でおまえが生きる意味について~【激闘編】

戸影絵麻

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第9部 倒錯のイグニス

#201 美里の影⑤

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 新しい自転車の乗り心地は、最高だった。
 杏里が購入したのは、女性向けの真っ赤なクロスバイクである。
 ロードバイクほど本格仕様ではないが、車体はカーボン製で軽く、前2段、後ろ5段の変速ギアもついている。
 だから、ママチャリに比べ、同じ力で漕いでも、倍以上速さが違うし、疲れない。
 そして何よりも、その前傾姿勢から来る股間への刺激は、ママチャリでは味わえない極上のものだった。
 ペダルを漕げば漕ぐほど陰核がサドルに食い込み、そこを起点に快感がほとばしる。
 スピードを出せば出すほど陰部が疼き、気持ちよさが増してくるのだ。
 ノースリーブにマイクロミニのテニスルックで国道を疾走する杏里は、ドライバーたちの垂涎の的だった。
 あちこちでクラクションを鳴らされ、指笛を吹いてからかわれた。
 が、このクロスバイクさえあれば、そんな挑発も怖くない。
 幅寄せしてくるトラックの脇を器用にすり抜け、脇道に滑り込む。
 最初の目的地は、ルナのマンションだ。
 いずなに化けた変異外来種に襲撃されて以来、大事をとって冬美のもとに身を寄せていたルナだったが、ひょっとすると古巣に戻っているかもしれない。
 杏里はそんな期待を抱いていた。
 曙中学から車で10分の高級住宅街にあるそのマンションまで、サイクルショップから30分ほどかかった。
 生垣にバイクを立てかけ、大理石のエントランスに歩み寄る。
 当然のことながら、ガラス張りの自動ドアには電子ロックがかかっていた。
 ルナの部屋番号は、確か1001だったはずである。
 柱の端末からルナの部屋を呼び出してみたが、案の定、応答はない。
 植え込みまで下がって様子をうかがっていると、中年の女性が駐車場のほうから歩いてきた。
 外出先から戻ってきたこのマンションの主婦に違いない。
 女性がロックを解除するのを待って、ドアが閉まる寸前にするりと中に忍び込む。
 誰? あなた?
 咎めるような視線が返ってきたが、杏里は軽く会釈をするなり、1001号室直通のエレベーターに飛び乗った。
 10階に着くと、ドアが開くのももどかしく、ルナの部屋の前に立った。
 インターホンを鳴らし、ドアをノックする。
 左手の窓の明かりは消えている。
 開かないかと思って手を伸ばしてみても、はめ殺しになっているらしく、窓にはとっかかりすらもない。
 ドアの下方にある郵便受けから中をのぞいてみたが、やはり部屋の中の電気はついていないようだった。
「ルナったら、どこ行っちゃったんだろう?」
  壁に背をもたせかけ、杏里はため息をついた。
 嫌な予感がする。
 明後日はいよいよ、あのイベントだというのに。
 イベントが始まったら、ルナにしっかりサポートしてもらおうと思ってたのに…。
 1時間ほど待ってみたが、部屋の様子に変化はなかった。
 あきらめて1階に降り、エントランスを出てクロスバイクにまたがった。
 -帰ったら、連絡くださいー
 一応、そう書いたメモをドアに挟んできたけれど、効果は期待できそうになかった。
 今来た国道を逆走し、一度運河に出て、橋を渡って隣町に入った。
 運河の下流は海につながっていて、そこから堤防沿いにしばらく行くと、篠崎医院があるはずだ。
 医院の所在地は、杏里の最初の住まいにかなり近い。
 工場労働者用のスラムの中の安アパート。
 そこで杏里は、”父親”の性的虐待に耐えながら、しばらくの間、暮らしていたのだ。
 潮風に髪をなびかせ、堤防に沿って1時間ほど走った。
 見覚えのある石垣の下まで来た時、杏里はあっと声を上げた。
 石段をのぼった先にある門は、固く閉まっている。
 それどころか、建物自体に蔦が貼りつき、まるで幽霊屋敷のようだ。
 窓ガラスはどれも曇り、蜘蛛の巣に覆われていた。
「どうなってるの?」
 杏里は呆然とひとりごちた。
 これでは、まるで廃病院だ。
 外来種とタナトスの秘密を抱え込んだあの篠崎医院が、潰れてしまっている…。
 徒労感だけが、残った。
 美里の跡をたどる細い糸が切れてしまったのだ。
 あと、思い当たる場所といえば、かつて美里が住んでいたあのマンモス団地ぐらいなもの…。
 腕時計は、正午近くを示していた。
 もう、3時間近く自転車に乗っていたことになる。
「ついでだから、行ってみようか」
 もう一度ため息をつき、杏里はクロスバイクをもと来たほうへと向けた。
 イベントの前に、すっきりさせておきたかった。
 本当に美里が生きているのかどうか…。
 もしそうなら、杏里はとんでもない窮地に立たされてしまうことになるのだから。

 


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