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第9部 倒錯のイグニス
#193 邂逅⑤
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改めて近くでよく見ると、老人はずいぶんと貧しい身なりをしていた。
ドブネズミ色の背広はしわだらけで、ポケットの形も崩れている。
ズボンは洗濯して縮んだのか、寸足らずで、骸骨のようにやせ細った脛があらわになっていた。
が、その柔和なまなざしは、どこか人を惹きつける力を秘めているようだ。
「私の産みの親って、どういうことですか? なぜ、私の正体を知ってるの?」
警戒の念を声ににじませて、杏里はたずねた。
老人は、さも当然といったふうに、”タナトス”なる単語を口にした。
そのことからして、委員会の関係者であることは間違いないだろう。
しかし、だからといって、一足飛びにこちらの味方と判断するのは早計すぎる。
この笑顔にだまされちゃいけない。
人はみな自分の都合でウソをつく。
私の身体を狙っている者なら、尚更だ。
「君が覚えていないのも、仕方ないことだ。私たちの間には、常に強化ガラスの壁があったのだから。でも、私は忘れていないよ。人工羊水の中で、ゆっくり回転する君の美しい肉体…。君は私の生み出した最高傑作だった。君が初めて目を開けた時、私はどんなに興奮したことか」
昔を懐かしむように目を細め、老人が答えた。
強化ガラスの、厚い壁…。
杏里は思い出した。
重人のサルベージでのぞいた記憶の断片。
私は透明なガラス容器の中にいた。
そして、ガラス壁の向こうには、複雑な機械類に囲まれて立ち働く白衣の人々の姿が確かに見えたのだ。
この老人は、あそこにいたとでもいうのだろうか。
「あの、研究室みたいなところに、あなたは…?」
杏里の口調に熱がこもった。
私自身の記憶と一致する以上、老人の言葉に嘘はなさそうだ。
そうであるならば、これはチャンスかもしれない。
私は誰なのか。
タナトスになる前は、誰だったのか。
母との記憶。
あれは何なのか。
この老人との出会いこそ、それらの謎を解くチャンスかもしれないのだ。
「ラボの記憶があるんだね。これはうれしいな」
老人が微笑んだ。
ふさふさの眉が八の字に下がり、ますます柔和な顔になる。
「私はタナトス計画の創始者のひとりだった。だから、あのラボで、君をはじめとして、幾人ものタナトスやパトスを創り出したものだ。もちろん、ヒュプノスもね」
「”ひとりだった”って、どういうことです? なぜ過去形で?」
昔を回顧するような口調にかすかにひっかかるものを覚え、杏里は更にたずねた。
「今はラボの職員ではないからさ。あの研究には、正直、もう耐えられなくてね。だから、逃げ出したのだよ」
老人の声に、自嘲の響きが混じった。
「逃げ出した?」
「ああ。自分で始めておいて、今更卑怯だと言われればそれまでだが…。君たちを創り出す行為は、まぎれもなく人体実験だ。むろん、扱うのは死体だから、厳密な意味での生体実験ではない。しかし、死から生を生み出すなど、呪われた黒魔術以外の何物でもないだろう。しかも、そうして生を受けた君たちには人権も与えられず、ただわけもなく人類に奉仕させられるのだ。こんなひどい話は、第二次大戦中のナチスの収容所以来じゃないかと思えてきてね。いったんその疑いが心に巣くうと、とても研究開発など続けられなくなってしまって…」
老人が、そこまで言った時だった。
ふいに老人の背後から、背の高い人影が姿を現した。
ハーフコートを身にまとった、サングラスの女である。
無表情で、ロボットのように無機質な雰囲気だ。
「富樫先生、いい加減に逃げないと」
老人の長広舌を遮って、女が言った。
外見にたがわぬ、クールな口調だった。
「そうだな」
老人が、きまり悪そうに咳払いした。
そして杏里の顔を名残り惜しげに見つめると、若干声をひそめて奇妙な言葉を口にした。
「最後にひとつ。試作品には気をつけなさい。あれは失敗作であるがために、意外に強靭で手強い相手だ。くれぐれも油断せぬように。それともうひとつ、私の孫を、よろしく頼む」
「え?」
杏里は絶句した。
試作品?
孫?
どちらも意味がわからない。
だが、訊き返そうとして時には、老人の姿はもうそこにはなかった。
女に連れられ、あっという間に人混みの中へと紛れ込んでしまったからである。
ドブネズミ色の背広はしわだらけで、ポケットの形も崩れている。
ズボンは洗濯して縮んだのか、寸足らずで、骸骨のようにやせ細った脛があらわになっていた。
が、その柔和なまなざしは、どこか人を惹きつける力を秘めているようだ。
「私の産みの親って、どういうことですか? なぜ、私の正体を知ってるの?」
警戒の念を声ににじませて、杏里はたずねた。
老人は、さも当然といったふうに、”タナトス”なる単語を口にした。
そのことからして、委員会の関係者であることは間違いないだろう。
しかし、だからといって、一足飛びにこちらの味方と判断するのは早計すぎる。
この笑顔にだまされちゃいけない。
人はみな自分の都合でウソをつく。
私の身体を狙っている者なら、尚更だ。
「君が覚えていないのも、仕方ないことだ。私たちの間には、常に強化ガラスの壁があったのだから。でも、私は忘れていないよ。人工羊水の中で、ゆっくり回転する君の美しい肉体…。君は私の生み出した最高傑作だった。君が初めて目を開けた時、私はどんなに興奮したことか」
昔を懐かしむように目を細め、老人が答えた。
強化ガラスの、厚い壁…。
杏里は思い出した。
重人のサルベージでのぞいた記憶の断片。
私は透明なガラス容器の中にいた。
そして、ガラス壁の向こうには、複雑な機械類に囲まれて立ち働く白衣の人々の姿が確かに見えたのだ。
この老人は、あそこにいたとでもいうのだろうか。
「あの、研究室みたいなところに、あなたは…?」
杏里の口調に熱がこもった。
私自身の記憶と一致する以上、老人の言葉に嘘はなさそうだ。
そうであるならば、これはチャンスかもしれない。
私は誰なのか。
タナトスになる前は、誰だったのか。
母との記憶。
あれは何なのか。
この老人との出会いこそ、それらの謎を解くチャンスかもしれないのだ。
「ラボの記憶があるんだね。これはうれしいな」
老人が微笑んだ。
ふさふさの眉が八の字に下がり、ますます柔和な顔になる。
「私はタナトス計画の創始者のひとりだった。だから、あのラボで、君をはじめとして、幾人ものタナトスやパトスを創り出したものだ。もちろん、ヒュプノスもね」
「”ひとりだった”って、どういうことです? なぜ過去形で?」
昔を回顧するような口調にかすかにひっかかるものを覚え、杏里は更にたずねた。
「今はラボの職員ではないからさ。あの研究には、正直、もう耐えられなくてね。だから、逃げ出したのだよ」
老人の声に、自嘲の響きが混じった。
「逃げ出した?」
「ああ。自分で始めておいて、今更卑怯だと言われればそれまでだが…。君たちを創り出す行為は、まぎれもなく人体実験だ。むろん、扱うのは死体だから、厳密な意味での生体実験ではない。しかし、死から生を生み出すなど、呪われた黒魔術以外の何物でもないだろう。しかも、そうして生を受けた君たちには人権も与えられず、ただわけもなく人類に奉仕させられるのだ。こんなひどい話は、第二次大戦中のナチスの収容所以来じゃないかと思えてきてね。いったんその疑いが心に巣くうと、とても研究開発など続けられなくなってしまって…」
老人が、そこまで言った時だった。
ふいに老人の背後から、背の高い人影が姿を現した。
ハーフコートを身にまとった、サングラスの女である。
無表情で、ロボットのように無機質な雰囲気だ。
「富樫先生、いい加減に逃げないと」
老人の長広舌を遮って、女が言った。
外見にたがわぬ、クールな口調だった。
「そうだな」
老人が、きまり悪そうに咳払いした。
そして杏里の顔を名残り惜しげに見つめると、若干声をひそめて奇妙な言葉を口にした。
「最後にひとつ。試作品には気をつけなさい。あれは失敗作であるがために、意外に強靭で手強い相手だ。くれぐれも油断せぬように。それともうひとつ、私の孫を、よろしく頼む」
「え?」
杏里は絶句した。
試作品?
孫?
どちらも意味がわからない。
だが、訊き返そうとして時には、老人の姿はもうそこにはなかった。
女に連れられ、あっという間に人混みの中へと紛れ込んでしまったからである。
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