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第9部 倒錯のイグニス
#189 邂逅①
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匂い?
虚を突かれ、杏里はうろたえた。
匂いって、何?
きょうはまだ、何もしていない。
なのに、匂いって?
「ふふふ、俺は鼻がいいんでね。君のあそこの立てる匂いが、わかるんだよ。したい、したいってひくついてる、君のおま〇この匂いがね」
にやにや笑いを浮かべて、男が言った。
杏里は怒りに目を細めて男を見た。
取り立てて特徴のない、中肉中背の中年男である。
服装は悪くない。
が、ひどい貧乏ゆすりが気になった。
爆発寸前のストレスを抱えている証拠だ。
こんな男にも、浄化が必要なのだろうか。
馬鹿にしてる、と思う。
いくらルナにかわされて欲求不満を抱えているとはいえ、通りすがりの男に金で買われるほど飢えてはいない。
「私、そんなんじゃありません」
取りつく島もない冷たい口調で、杏里は言った。
「お金もいらないし、見ず知らずのあなたにそんなこと言われる筋合いはありません」
「つれないこと言わないでよ」
男が急に下手に出るのがわかった。
「君ならここまで出せる。どうだい? 相場の5倍だよ」
杏里の顔の前に、5本の指を広げて見せた。
5万円、といいたいのだろう。
だが、杏里には、それが高いのかどうかもわからない。
「けっこうです」
男の手を払いのけて立ち上がった。
「待ちなって」
その左手首を男がつかんできた。
「やめてください」
語気を荒げた時である。
「放してあげなさい」
穏やかな声がして、男の背後に人影が立った。
杏里は顔を上げた。
時代錯誤なつば広帽子を目深にかぶった、初老の男性が男と杏里をじっと見降ろしている。
「その子に話がある。悪いが、席をはずしてくれないかね」
「なんだ? あんたは?」
男が不機嫌そうに老人をにらみつけた。
「この娘の知り合いだとでもいうのか?」
「まあ、そうだ」
眼鏡の奥で、悲しげな眼がまたたいた。
「産みの親といってもいい」
「けっ」
男がいやいや席を空けた。
「まさかこんなジジイの保護者が監視してるとはな」
唾を吐かんばかりの勢いでそう言い捨てると、せかせかとした足取りでベンチを離れていった。
「あ、あなたは?」
杏里は呆然と老人を見上げた。
礼をいうべきだろうか?
でも、今の会話は何?
このおじいさんが、私の産みの親って、それ、いったいどういうこと?
「久しぶりだな」
老人が嬉しそうに目を細めた。
その慈愛に満ちた笑顔を前に、杏里は途方に暮れた。
どうしてだろう?
どうしてこの人は、私にこんな優しい顔を見せるの?
「噂には聞いていたが…元気そうで何よりだ。会いたかったよ、杏里」
老人が微笑んだ。
まるで長い間会えなかった孫にでも再会したような、そんな慈しみに満ちた微笑だった。
杏里は混乱した。
記憶を探っても、老人の顔に見覚えはない。
会いたかった?
この私に?
あなたは、いったい…?
その時になって初めて、杏里は周囲が妙に騒がしいことに気づいた。
遠くから、悲鳴に混じって、怒号が聞こえてくる。
通路を人が走っていた。
それもひとりではない。
かなりの人数だ。
まるで何者かに追われているかのように、何十人もの客たちが通路をこっちに向かって逃げてくる。
ワンピースを血まみれにした女性。
血の噴き出る肩を押さえたサラリーマン。
やばいよ、あいつ、ガチでやばいって!
大学生らしき若者のグループが、わめきながら通りすぎていく。
「あれは?」
杏里の問いに、老人が悲しげな顔を通路の先に向けた。
「すまない。せっかく再会できたというのに、どうやら邪魔が入ってしまったようだ」
逆流してくる人波を見やって、落胆したように、そうひとりごちた。
微笑は影をひそめ、ひどく突き詰めた表情がその横顔に浮かんでいる。
「だが、おまえが私の知っている杏里なら、あれを止められる」
老人がそうつぶやくのと、ほとんど同時だった。
人の群れを追い立てるように、通路の奥に何者かが姿を現した。
その人影を見据えて、老人が杏里に言った。
「よかったら、私に見せてくれないか。最強のタナトスたる、おまえのその力を」
虚を突かれ、杏里はうろたえた。
匂いって、何?
きょうはまだ、何もしていない。
なのに、匂いって?
「ふふふ、俺は鼻がいいんでね。君のあそこの立てる匂いが、わかるんだよ。したい、したいってひくついてる、君のおま〇この匂いがね」
にやにや笑いを浮かべて、男が言った。
杏里は怒りに目を細めて男を見た。
取り立てて特徴のない、中肉中背の中年男である。
服装は悪くない。
が、ひどい貧乏ゆすりが気になった。
爆発寸前のストレスを抱えている証拠だ。
こんな男にも、浄化が必要なのだろうか。
馬鹿にしてる、と思う。
いくらルナにかわされて欲求不満を抱えているとはいえ、通りすがりの男に金で買われるほど飢えてはいない。
「私、そんなんじゃありません」
取りつく島もない冷たい口調で、杏里は言った。
「お金もいらないし、見ず知らずのあなたにそんなこと言われる筋合いはありません」
「つれないこと言わないでよ」
男が急に下手に出るのがわかった。
「君ならここまで出せる。どうだい? 相場の5倍だよ」
杏里の顔の前に、5本の指を広げて見せた。
5万円、といいたいのだろう。
だが、杏里には、それが高いのかどうかもわからない。
「けっこうです」
男の手を払いのけて立ち上がった。
「待ちなって」
その左手首を男がつかんできた。
「やめてください」
語気を荒げた時である。
「放してあげなさい」
穏やかな声がして、男の背後に人影が立った。
杏里は顔を上げた。
時代錯誤なつば広帽子を目深にかぶった、初老の男性が男と杏里をじっと見降ろしている。
「その子に話がある。悪いが、席をはずしてくれないかね」
「なんだ? あんたは?」
男が不機嫌そうに老人をにらみつけた。
「この娘の知り合いだとでもいうのか?」
「まあ、そうだ」
眼鏡の奥で、悲しげな眼がまたたいた。
「産みの親といってもいい」
「けっ」
男がいやいや席を空けた。
「まさかこんなジジイの保護者が監視してるとはな」
唾を吐かんばかりの勢いでそう言い捨てると、せかせかとした足取りでベンチを離れていった。
「あ、あなたは?」
杏里は呆然と老人を見上げた。
礼をいうべきだろうか?
でも、今の会話は何?
このおじいさんが、私の産みの親って、それ、いったいどういうこと?
「久しぶりだな」
老人が嬉しそうに目を細めた。
その慈愛に満ちた笑顔を前に、杏里は途方に暮れた。
どうしてだろう?
どうしてこの人は、私にこんな優しい顔を見せるの?
「噂には聞いていたが…元気そうで何よりだ。会いたかったよ、杏里」
老人が微笑んだ。
まるで長い間会えなかった孫にでも再会したような、そんな慈しみに満ちた微笑だった。
杏里は混乱した。
記憶を探っても、老人の顔に見覚えはない。
会いたかった?
この私に?
あなたは、いったい…?
その時になって初めて、杏里は周囲が妙に騒がしいことに気づいた。
遠くから、悲鳴に混じって、怒号が聞こえてくる。
通路を人が走っていた。
それもひとりではない。
かなりの人数だ。
まるで何者かに追われているかのように、何十人もの客たちが通路をこっちに向かって逃げてくる。
ワンピースを血まみれにした女性。
血の噴き出る肩を押さえたサラリーマン。
やばいよ、あいつ、ガチでやばいって!
大学生らしき若者のグループが、わめきながら通りすぎていく。
「あれは?」
杏里の問いに、老人が悲しげな顔を通路の先に向けた。
「すまない。せっかく再会できたというのに、どうやら邪魔が入ってしまったようだ」
逆流してくる人波を見やって、落胆したように、そうひとりごちた。
微笑は影をひそめ、ひどく突き詰めた表情がその横顔に浮かんでいる。
「だが、おまえが私の知っている杏里なら、あれを止められる」
老人がそうつぶやくのと、ほとんど同時だった。
人の群れを追い立てるように、通路の奥に何者かが姿を現した。
その人影を見据えて、老人が杏里に言った。
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