168 / 463
第9部 倒錯のイグニス
#168 偵察⑩
しおりを挟む
トイレから戻ってきたルナは、桜色に頬を火照らせていた。
さながらサウナから出て来たばかりといった風情だった。
ルナが10分以上トイレにこもって何をしていたのか、杏里には手に取るようにわかった。
「お待たせ」
そっけなく言って、ルナが目を逸らす。
目を合わせようとしないルナに、杏里は追い打ちをかけた。
「ルナ、匂うよ。とっても、いい匂い」
ルナがぎくりと身体を強張らせる。
「我慢できなかったんだよね」
手を取ろうとしたら、邪険に跳ねのけられた。
ルナは怒っているようだった。
薬の力で強引にその気にさせられたことが、よほど腹に据えかねているに違いなかった。
呼び止める間もなく、さっさとひとり、店を出て行ってしまった。
「じゃね。また」
肩をすくめると、杏里はもっくんに手を振った。
「ああ。杏里ちゃんも、色々と気をつけてね」
「もっくんこそ」
大あくびするもっくんに別れを告げて、店を出た。
ルナは”ドリームハウス”のロゴの入った袋を提げて、所在なげに電柱の陰に佇んでいた。
「こっち。沼人形工房は、この商店街のはずれにあるの」
杏里が歩き出すと、しぶしぶといった感じで後をついてきた。
左右の店は、大部分がシャッターを下ろしてしまっている。
閑散としたアーケードを、時折秋風が吹きすぎて、枯葉を運んでいく。
街路樹から落ちた黄色いイチョウの葉を踏んで、杏里は歩いた。
所々に銀杏の実が落ちて、潰れている。
潰れた銀杏の実の匂いは、饐えた女体の匂いに似ている。
植物というより、動物の匂いに近いのだ。
その淫靡な香りを味わいながら歩いていると、シャッター商店街が途切れるあたりに黒塗りの木の門が見えてきた。
一見すると武家屋敷に見える古びた門の前に立つ。
手を伸ばして、押してみた。
動かない。
見上げるほどの門扉も通用門も、しっかり内側から鍵がかかっているようだ。
杏里は後ろから距離を取ってついてくるルナを振り返った。
「ねえ、ルナ。この門、開けてくれない?」
数メートル離れた所で足を止め、ルナがいぶかしげに杏里を見た。
「開かないなら、休みなんじゃないのか? なのにカギを壊して中に入るつもりか? そんなの、不法侵入だぞ」
「かたいこと言わないの」
つかつかと歩み寄ると、杏里はルナの手を取った。
「ちょっと中の様子を確認するだけだから。ね、お願い」
「しょうがないな」
ルナが視線を門に向けた。
とたんに、ガタンという音が響いて、門扉が震えた。
内側の閂錠がはずれたのだ。
かろうじて身体が入るだけの隙間を開けて、中に忍び込んだ。
「ルナ、早く」
手を引いて、ためらうルナを中に引っ張り込んだ。
「ここは…?」
ルナが息を呑む気配が伝わってきた。
目の前に広がるのは、色とりどりの花々に埋め尽くされたなだらかな丘だ。
てっぺんに簡素なあずま屋が建ち、花畑の中に螺旋を描く歩道のあちこちには、ひっそりと佇む人影が見える。
上品な衣装をまとった紳士や貴婦人たち。
ウェデイング・ドレス姿の若い女性、笑いさざめくセーラー服の少女たち。
が、それらがみな、精巧につくられた人形であることを、杏里は知っている。
この人形工房は、不思議なつくりになっていた。
広大な花畑をコの字型に長い廊下が囲む、いわゆる寝殿造に近い景観を呈しているのだ。
廊下にはたくさんの部屋があって、それぞれテーマに沿って人形たちが飾られている。
ラブドールばかり集めた部屋もあれば、杏里の分身たちがひしめく部屋もある。
丘を降りた正面が本当の店の入口になっていて、銭湯の番台のようなそこに、この店の雇われ経営者、沼正二が退屈そうに座っているはずだった。
杏里はルナを従え、丘をめぐる歩道を歩いた。
角を曲がるたびに現れる人間そっくりの人形たちに、いちいち驚くルナ。
あずま屋を通り過ぎて下り坂にかかると、正面の建物が見えてきた。
引き戸に札が下がっている。
『本日休業』
達筆な墨字で、そう書いてある。
「変ね。週の半ばに休業だなんて」
杏里の記憶では、ここは月曜休みだったはずだ。
週末は見学希望者が多いので、あえて土日を避け、月曜休みにしたと正二に聞いたことがある。
いぶかしげに目を細め、もう一度周囲を見渡した時だった。
ふと、左手の廊下で、白いものが動いた。
薄物をまとった女が、音もなく部屋のひとつに消えていくのが見えたのである。
「あ」
杏里は喉の奥で、小さく叫んだ。
その後ろ姿に、見覚えがあった。
「ここで待ってて」
ルナにそう告げると、杏里は女の後を追って駆け出した。
さながらサウナから出て来たばかりといった風情だった。
ルナが10分以上トイレにこもって何をしていたのか、杏里には手に取るようにわかった。
「お待たせ」
そっけなく言って、ルナが目を逸らす。
目を合わせようとしないルナに、杏里は追い打ちをかけた。
「ルナ、匂うよ。とっても、いい匂い」
ルナがぎくりと身体を強張らせる。
「我慢できなかったんだよね」
手を取ろうとしたら、邪険に跳ねのけられた。
ルナは怒っているようだった。
薬の力で強引にその気にさせられたことが、よほど腹に据えかねているに違いなかった。
呼び止める間もなく、さっさとひとり、店を出て行ってしまった。
「じゃね。また」
肩をすくめると、杏里はもっくんに手を振った。
「ああ。杏里ちゃんも、色々と気をつけてね」
「もっくんこそ」
大あくびするもっくんに別れを告げて、店を出た。
ルナは”ドリームハウス”のロゴの入った袋を提げて、所在なげに電柱の陰に佇んでいた。
「こっち。沼人形工房は、この商店街のはずれにあるの」
杏里が歩き出すと、しぶしぶといった感じで後をついてきた。
左右の店は、大部分がシャッターを下ろしてしまっている。
閑散としたアーケードを、時折秋風が吹きすぎて、枯葉を運んでいく。
街路樹から落ちた黄色いイチョウの葉を踏んで、杏里は歩いた。
所々に銀杏の実が落ちて、潰れている。
潰れた銀杏の実の匂いは、饐えた女体の匂いに似ている。
植物というより、動物の匂いに近いのだ。
その淫靡な香りを味わいながら歩いていると、シャッター商店街が途切れるあたりに黒塗りの木の門が見えてきた。
一見すると武家屋敷に見える古びた門の前に立つ。
手を伸ばして、押してみた。
動かない。
見上げるほどの門扉も通用門も、しっかり内側から鍵がかかっているようだ。
杏里は後ろから距離を取ってついてくるルナを振り返った。
「ねえ、ルナ。この門、開けてくれない?」
数メートル離れた所で足を止め、ルナがいぶかしげに杏里を見た。
「開かないなら、休みなんじゃないのか? なのにカギを壊して中に入るつもりか? そんなの、不法侵入だぞ」
「かたいこと言わないの」
つかつかと歩み寄ると、杏里はルナの手を取った。
「ちょっと中の様子を確認するだけだから。ね、お願い」
「しょうがないな」
ルナが視線を門に向けた。
とたんに、ガタンという音が響いて、門扉が震えた。
内側の閂錠がはずれたのだ。
かろうじて身体が入るだけの隙間を開けて、中に忍び込んだ。
「ルナ、早く」
手を引いて、ためらうルナを中に引っ張り込んだ。
「ここは…?」
ルナが息を呑む気配が伝わってきた。
目の前に広がるのは、色とりどりの花々に埋め尽くされたなだらかな丘だ。
てっぺんに簡素なあずま屋が建ち、花畑の中に螺旋を描く歩道のあちこちには、ひっそりと佇む人影が見える。
上品な衣装をまとった紳士や貴婦人たち。
ウェデイング・ドレス姿の若い女性、笑いさざめくセーラー服の少女たち。
が、それらがみな、精巧につくられた人形であることを、杏里は知っている。
この人形工房は、不思議なつくりになっていた。
広大な花畑をコの字型に長い廊下が囲む、いわゆる寝殿造に近い景観を呈しているのだ。
廊下にはたくさんの部屋があって、それぞれテーマに沿って人形たちが飾られている。
ラブドールばかり集めた部屋もあれば、杏里の分身たちがひしめく部屋もある。
丘を降りた正面が本当の店の入口になっていて、銭湯の番台のようなそこに、この店の雇われ経営者、沼正二が退屈そうに座っているはずだった。
杏里はルナを従え、丘をめぐる歩道を歩いた。
角を曲がるたびに現れる人間そっくりの人形たちに、いちいち驚くルナ。
あずま屋を通り過ぎて下り坂にかかると、正面の建物が見えてきた。
引き戸に札が下がっている。
『本日休業』
達筆な墨字で、そう書いてある。
「変ね。週の半ばに休業だなんて」
杏里の記憶では、ここは月曜休みだったはずだ。
週末は見学希望者が多いので、あえて土日を避け、月曜休みにしたと正二に聞いたことがある。
いぶかしげに目を細め、もう一度周囲を見渡した時だった。
ふと、左手の廊下で、白いものが動いた。
薄物をまとった女が、音もなく部屋のひとつに消えていくのが見えたのである。
「あ」
杏里は喉の奥で、小さく叫んだ。
その後ろ姿に、見覚えがあった。
「ここで待ってて」
ルナにそう告げると、杏里は女の後を追って駆け出した。
0
お気に入りに追加
32
あなたにおすすめの小説


ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。



どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる