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第9部 倒錯のイグニス
#117 重大発表①
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翌月曜日の朝、杏里は睡眠不足のまま、家を出た。
色々考えることがあって、寝床に入っても、ろくに眠れなかったのである。
まずは、沼人形工房にかくまわれているらしい、いずなとヤチカのこと。
工房には何度か行ったことがあるし、家からそれほど遠くない。
無事を確かめるために、一度様子を見に行きたい、と思う。
が、今週は、その時間が取れるかどうか、あやしいものだった。
火曜日にはレスリング部の紅白戦。
そして週末には、いよいよ学園祭が始まってしまうのである。
きょうの授業後は、明日の練習試合に備えてチーム分けの発表があるだろう。
だから、部活を休むわけにはいかないし、その上にもうひとつ、何か重要なことを忘れている気がする…。
更に気になってならないのは、ルナのことだった。
嫌われたかもしれない。
その後悔の念に責められて、杏里は空が白むまで布団の上で何度も寝返りを打った。
いくら動画撮影とリングの影響でおかしくなっていたからといって、あれは少し先走り過ぎたのかもしれない。
途中までまんざらでもないふうに見えたのに、最後の最後で拒絶されてしまった。
あの後冬美が帰ってきたので、入れ替わりに杏里は冬美の家を出たのだが、その間、ルナとはろくに話もできなかったように思う。
いずなとヤチカに関する重人の報告が衝撃的だったせいで、もうそんな艶めいた空気は吹き飛んでしまっていたからである。
待つほどもなく、バスがやってきた。
窓から見える車内の様子は、バスが満員であることを示している。
杏里は胸にリュックを抱きしめ、やるせないため息をついた。
こんな気分の時に、朝っぱらから痴漢の相手をするのは、はっきりいって気が進まない。
今までに浄化した乗客たちはもう襲ってこないだろうが、そうでない者もまだ多いに違いない。
でも、仕方ないか…。
停留所の真ん前でパスが止まり、間の抜けた音とともにアコーディオンドアが開く。
重い足取りでタラップを上がり、料金箱に硬貨を落とし込んだ。
きょうも杏里は、豊かな胸を強調した小さめのブラウスに、下着が見えそうな超ミニといった出で立ちである。
振り向かなくとも、一斉に乗客たちの視線が全身に突き刺さってくるのがわかった。
通路を半ばまで進まないうちに、きっと周りを取り囲まれ、もみくちゃにされてしまうことだろう。
意を決して振り向いた時だった。
視界に飛び込んできた黄金色に、杏里は思わずはっと息を呑んだ。
乗客たちを背でけん制するように、通路にルナが立っている。
「ルナ…」
胸の底から急に熱いものが込み上げてきて、杏里は涙腺が緩むのを感じないではいられなかった。
「学校まで、ガードしてやるよ」
ルナは両手を広げている。
アクアマリンの瞳が笑っている。
無言で杏里はその腕の中に飛び込んだ。
「こうしていれば、誰も近づいてこないだろう」
杏里の頬を両手で挟み、ルナが顔を寄せてきた。
「わたしだって、キスならできる。それ以上は、まだ無理だけど」
杏里の瞳をのぞき込んで、何か重大な秘密でも打ち明けるように、ルナがそっとささやいた。
校内に入っても、ルナは否応なしに目立っていた。
ふたつの中学に籍を置きながら、今までいずなのガードで荘内橋中学のほうに居ることの多かったルナは、ここ曙中学では、実質的には転校生のようなものだった。
その上背のある均整の取れた肢体と、ポニーテールにまとめたブロンドの髪、そして澄んだアクアマリンの瞳につられて、道行く生徒たちがこぞって振り返るのだ。
「ルナ、人気者だね。私、かすんじゃってる」
杏里は、ルナの腕にしがみつくようにして歩いている。
本当は手をつなぎたかったのだが、それはルナが嫌がった。
「ただ物珍しいだけさ。第一、わたしはおまえみたいにエロくない」
仏頂面で、ルナが言う。
「ひどーい」
じゃれ合いながら、教室の前で別れた。
気分が高揚しているため、クラスのどんよりした空気もさほど気にならない。
「おはよ。杏里」
好奇の目を光らせて、長身の純が近づいてきた。
「ちょっと、今の何よ? あんた、あの留学生と、どういう関係なの?」
「杏里は、もてるから」
拗ねたようにチラ見してきたのは、隣の席の唯佳である。
そこにふみを引き連れた璃子が入ってきて、教室の中はシーンとなった。
璃子の後ろには、担任教師の木更津が立っている。
「あー、重かったよう」
ふみが教壇の上に、抱えていた段ボール箱を投げ出した。
「みんな、席に着きな」
三白眼で周囲を見渡して、ハスキーヴォイスの璃子が言った。
「先生から、重大発表があるってさ」
「週末の学園祭のことだ」
木更津が教壇に立った。
「あ、加賀美と岩淵、悪いがみんなにそれを配ってくれないか」
加賀美は璃子の、岩淵はふみの苗字である。
ふたりが配り始めたのは、段ボール箱に入っていたタブレットだった。
ICT学習の一環として、全校生徒に貸与されている大学ノートサイズの端末である。
「以前、校長からお話があったように、学園祭2日目は、曙中生限定の、シークレットイベントが開催される。その具体的な内容が、決まったそうだ」
杏里は、顔から音を立てて血の気が引くのを感じていた。
そうだ。
これがあったんだ。
すっかり忘れてしまっていたけど…。
気のせいか、手元のタブレットが、異様に重い。
「まずは端末を起動させてくれ。あ、それから、イヤホンするのを忘れないように。俺も始めて見るんだが、なかなか過激な内容らしい」
自分もイヤホンを耳にセットしながら、教壇の向こうで木更津が言った。
色々考えることがあって、寝床に入っても、ろくに眠れなかったのである。
まずは、沼人形工房にかくまわれているらしい、いずなとヤチカのこと。
工房には何度か行ったことがあるし、家からそれほど遠くない。
無事を確かめるために、一度様子を見に行きたい、と思う。
が、今週は、その時間が取れるかどうか、あやしいものだった。
火曜日にはレスリング部の紅白戦。
そして週末には、いよいよ学園祭が始まってしまうのである。
きょうの授業後は、明日の練習試合に備えてチーム分けの発表があるだろう。
だから、部活を休むわけにはいかないし、その上にもうひとつ、何か重要なことを忘れている気がする…。
更に気になってならないのは、ルナのことだった。
嫌われたかもしれない。
その後悔の念に責められて、杏里は空が白むまで布団の上で何度も寝返りを打った。
いくら動画撮影とリングの影響でおかしくなっていたからといって、あれは少し先走り過ぎたのかもしれない。
途中までまんざらでもないふうに見えたのに、最後の最後で拒絶されてしまった。
あの後冬美が帰ってきたので、入れ替わりに杏里は冬美の家を出たのだが、その間、ルナとはろくに話もできなかったように思う。
いずなとヤチカに関する重人の報告が衝撃的だったせいで、もうそんな艶めいた空気は吹き飛んでしまっていたからである。
待つほどもなく、バスがやってきた。
窓から見える車内の様子は、バスが満員であることを示している。
杏里は胸にリュックを抱きしめ、やるせないため息をついた。
こんな気分の時に、朝っぱらから痴漢の相手をするのは、はっきりいって気が進まない。
今までに浄化した乗客たちはもう襲ってこないだろうが、そうでない者もまだ多いに違いない。
でも、仕方ないか…。
停留所の真ん前でパスが止まり、間の抜けた音とともにアコーディオンドアが開く。
重い足取りでタラップを上がり、料金箱に硬貨を落とし込んだ。
きょうも杏里は、豊かな胸を強調した小さめのブラウスに、下着が見えそうな超ミニといった出で立ちである。
振り向かなくとも、一斉に乗客たちの視線が全身に突き刺さってくるのがわかった。
通路を半ばまで進まないうちに、きっと周りを取り囲まれ、もみくちゃにされてしまうことだろう。
意を決して振り向いた時だった。
視界に飛び込んできた黄金色に、杏里は思わずはっと息を呑んだ。
乗客たちを背でけん制するように、通路にルナが立っている。
「ルナ…」
胸の底から急に熱いものが込み上げてきて、杏里は涙腺が緩むのを感じないではいられなかった。
「学校まで、ガードしてやるよ」
ルナは両手を広げている。
アクアマリンの瞳が笑っている。
無言で杏里はその腕の中に飛び込んだ。
「こうしていれば、誰も近づいてこないだろう」
杏里の頬を両手で挟み、ルナが顔を寄せてきた。
「わたしだって、キスならできる。それ以上は、まだ無理だけど」
杏里の瞳をのぞき込んで、何か重大な秘密でも打ち明けるように、ルナがそっとささやいた。
校内に入っても、ルナは否応なしに目立っていた。
ふたつの中学に籍を置きながら、今までいずなのガードで荘内橋中学のほうに居ることの多かったルナは、ここ曙中学では、実質的には転校生のようなものだった。
その上背のある均整の取れた肢体と、ポニーテールにまとめたブロンドの髪、そして澄んだアクアマリンの瞳につられて、道行く生徒たちがこぞって振り返るのだ。
「ルナ、人気者だね。私、かすんじゃってる」
杏里は、ルナの腕にしがみつくようにして歩いている。
本当は手をつなぎたかったのだが、それはルナが嫌がった。
「ただ物珍しいだけさ。第一、わたしはおまえみたいにエロくない」
仏頂面で、ルナが言う。
「ひどーい」
じゃれ合いながら、教室の前で別れた。
気分が高揚しているため、クラスのどんよりした空気もさほど気にならない。
「おはよ。杏里」
好奇の目を光らせて、長身の純が近づいてきた。
「ちょっと、今の何よ? あんた、あの留学生と、どういう関係なの?」
「杏里は、もてるから」
拗ねたようにチラ見してきたのは、隣の席の唯佳である。
そこにふみを引き連れた璃子が入ってきて、教室の中はシーンとなった。
璃子の後ろには、担任教師の木更津が立っている。
「あー、重かったよう」
ふみが教壇の上に、抱えていた段ボール箱を投げ出した。
「みんな、席に着きな」
三白眼で周囲を見渡して、ハスキーヴォイスの璃子が言った。
「先生から、重大発表があるってさ」
「週末の学園祭のことだ」
木更津が教壇に立った。
「あ、加賀美と岩淵、悪いがみんなにそれを配ってくれないか」
加賀美は璃子の、岩淵はふみの苗字である。
ふたりが配り始めたのは、段ボール箱に入っていたタブレットだった。
ICT学習の一環として、全校生徒に貸与されている大学ノートサイズの端末である。
「以前、校長からお話があったように、学園祭2日目は、曙中生限定の、シークレットイベントが開催される。その具体的な内容が、決まったそうだ」
杏里は、顔から音を立てて血の気が引くのを感じていた。
そうだ。
これがあったんだ。
すっかり忘れてしまっていたけど…。
気のせいか、手元のタブレットが、異様に重い。
「まずは端末を起動させてくれ。あ、それから、イヤホンするのを忘れないように。俺も始めて見るんだが、なかなか過激な内容らしい」
自分もイヤホンを耳にセットしながら、教壇の向こうで木更津が言った。
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