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第9部 倒錯のイグニス
#94 サイキック④
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蝶番が外れて傾きかけている樫の玄関扉をくぐると、内部は重人の言葉通り、惨憺たる様相を呈していた。
客間を兼ねた1階スペースは、ひっくり返ったソファやテーブルで、足の踏み場もないありさまだ。
壁にかけられた油絵の額は床に落ち、倒れた家具類がバリケードのように積み重なっている。
客間の奥の仕切りの向こうは、鏡張りの”調教部屋”になっていたはずだが、パーテーション自体が引き裂かれ、壁一面の鏡も粉々に打ち砕かれてしまっていた。
「ひどい…。いったい誰が、こんなことを…?」
フロア全体を眺め渡して、杏里は唇を噛んだ。
ヤチカとの思い出の場所が、見るも無残に踏みにじられている。
何者かがヤチカを襲撃したのだ。
新種薔薇育成委員会とヤチカの間で、なんらかのトラブルが発生したのかもしれない。
外来種ながら、ヤチカは明らかに杏里たちの側に属している。
それを、”裏委員会”が問題視したということも、十分に考えらえる。
だとすれば、あまりにヤチカが不憫だった。
人間にもなり切れず、外来種としても認められない。
童話のコウモリのようなその立ち位置は、杏里たちに通じるものがある。
「地下室の入口って、どこなの? 全然わかんないんだけど?」
ロビーのほうで重人の声がした。
引き返すと、ルナと重人は、吹き抜けの階段の脇を奥へと伸びる通路の壁を調べているところだった。
「こっち」
階段の下に立ち、杏里は手招きをした。
「この裏側が降り口になってるの」
大人の背丈ほどの高さ、縦横5メートルほどの狭い空間である。
その突き当りの壁に、南京錠を下ろした木製の扉がはまっている。
階段に隠れているため、襲撃者の目に留まらなかったのだろう。
鍵も蝶番も壊されていない。
「どいてろ」
ルナが言い、アクアマリンの瞳のひと睨みで、南京錠を粉砕した。
「相変わらず乱暴だなあ、ルナは」
閉口したように、重人が鼻白む。
「余計なお世話だ」
ルナが長い腕を伸ばし、杏里が手をかけるよりも早く、金属製の取っ手を手前に引いた。
「あ」
声を上げたのは、杏里である。
「なくなってる…」
扉の向こうに出現したコンクリートの壁を目の当たりにして、絶句した。
「ここに、地下室に下りる通路があったはずなのに…」
「だとしても、通路自体がコンクリートで埋められてるみたいだな。ほかに入口は?」
「ないと思う。ヤチカさん、いつもここから出入りしてたし…」
「まだ新しそうだね。これ埋めたの、割と最近なんじゃないかな」
重人の何げないひと言に、ふと記憶がよみがえった。
そうか。
そうだったのか…。
老政治家、堤英吾の邸宅での死闘の際、ヤチカは零の手によって、男性器を失った。
昼間は女性、夜は男性と、ふたつの性を使い分けていたヤチカだったが、それをきっかけにして、完全な女として生きることを決意したのだった。
そういえば、あの事件の後、しばらくぶりに会った時、ヤチカさん、言ってたっけ…。
自身の負の歴史を清算するため、地下室を埋めたのだ、と。
長い間ここを訪れていなかったせいで、杏里はそのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
地下室は、ヤチカにとって、忌むべき場所だった。
5人の家出少女がそこで死んだ。
そして、ヤチカの手で”人形”に変えられ、ガラスケースに入れられて展示されていたのである。
杏里と出会う前のヤチカは、ほかの外来種と同様、種族保存本能に駆られて、手当たり次第人間の女を漁っていた。
昼間は女流画家、夜は獲物を物色して繫華街をさまようサイコな男。
そんな生活を、長らく送っていたらしいのだ。
その頃の記憶の詰まった地下室をヤチカが封印しようとした気持ちは、杏里にもよくわかる。
「ごめん。私の思い違いだったみたい。この家に地下室はもう存在しない。ヤチカさん自身が埋めちゃったから」
「てことは、やっぱりここにはヤチカさん、いないんだよ。いずなみたいに、拉致されたんじゃ」
「2階はどうなんだ? 画家なら、アトリエぐらい持ってるはずだろう?」
「ここを上がってすぐのお部屋がそうよ。一応、のぞいてみる?」
「ああ。びびった重人が、逃げたい一心で見落とした可能性もあるからな」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。そりゃ少しは怖かったけどさ、でも、ちゃんとひと通りはサーチしてみたんだから!」
ふくれっ面をする重人を促して階段をのぼった。
2階は手前の広い部屋がアトリエ、廊下の突き当りがヤチカの寝室になっている。
アトリエの扉には、鍵がかかっていなかった。
そうっと押し開けると、埃っぽい匂いに混じって、テレピン油と絵の具の匂いが鼻孔を刺激した。
用心深げに部屋の中を見回していたルナが、イーゼルに立てかけられた手近のカンバスの布をめくり上げた。
「こ、これは…」
現れた絵を見て、まじまじと目を見開いた。
ヤチカの画集、『残虐少女絵画集』の中の一枚である。
真っ白な皿の上に、下半身を輪切りにされた少女が、全裸で寝そべっている。
首から上を持ち上げてこちらを見つめるその顔は、細部まで杏里にそっくりだ。
「こんなろくでもない絵のモデルになるなんて、杏里、おまえ、そのヤチカって画家と、いったいどういう関係だったんだよ?」
瞳に怒りの色をにじませ、苛立ちの混じった口調で、責めるようにルナが言った。
客間を兼ねた1階スペースは、ひっくり返ったソファやテーブルで、足の踏み場もないありさまだ。
壁にかけられた油絵の額は床に落ち、倒れた家具類がバリケードのように積み重なっている。
客間の奥の仕切りの向こうは、鏡張りの”調教部屋”になっていたはずだが、パーテーション自体が引き裂かれ、壁一面の鏡も粉々に打ち砕かれてしまっていた。
「ひどい…。いったい誰が、こんなことを…?」
フロア全体を眺め渡して、杏里は唇を噛んだ。
ヤチカとの思い出の場所が、見るも無残に踏みにじられている。
何者かがヤチカを襲撃したのだ。
新種薔薇育成委員会とヤチカの間で、なんらかのトラブルが発生したのかもしれない。
外来種ながら、ヤチカは明らかに杏里たちの側に属している。
それを、”裏委員会”が問題視したということも、十分に考えらえる。
だとすれば、あまりにヤチカが不憫だった。
人間にもなり切れず、外来種としても認められない。
童話のコウモリのようなその立ち位置は、杏里たちに通じるものがある。
「地下室の入口って、どこなの? 全然わかんないんだけど?」
ロビーのほうで重人の声がした。
引き返すと、ルナと重人は、吹き抜けの階段の脇を奥へと伸びる通路の壁を調べているところだった。
「こっち」
階段の下に立ち、杏里は手招きをした。
「この裏側が降り口になってるの」
大人の背丈ほどの高さ、縦横5メートルほどの狭い空間である。
その突き当りの壁に、南京錠を下ろした木製の扉がはまっている。
階段に隠れているため、襲撃者の目に留まらなかったのだろう。
鍵も蝶番も壊されていない。
「どいてろ」
ルナが言い、アクアマリンの瞳のひと睨みで、南京錠を粉砕した。
「相変わらず乱暴だなあ、ルナは」
閉口したように、重人が鼻白む。
「余計なお世話だ」
ルナが長い腕を伸ばし、杏里が手をかけるよりも早く、金属製の取っ手を手前に引いた。
「あ」
声を上げたのは、杏里である。
「なくなってる…」
扉の向こうに出現したコンクリートの壁を目の当たりにして、絶句した。
「ここに、地下室に下りる通路があったはずなのに…」
「だとしても、通路自体がコンクリートで埋められてるみたいだな。ほかに入口は?」
「ないと思う。ヤチカさん、いつもここから出入りしてたし…」
「まだ新しそうだね。これ埋めたの、割と最近なんじゃないかな」
重人の何げないひと言に、ふと記憶がよみがえった。
そうか。
そうだったのか…。
老政治家、堤英吾の邸宅での死闘の際、ヤチカは零の手によって、男性器を失った。
昼間は女性、夜は男性と、ふたつの性を使い分けていたヤチカだったが、それをきっかけにして、完全な女として生きることを決意したのだった。
そういえば、あの事件の後、しばらくぶりに会った時、ヤチカさん、言ってたっけ…。
自身の負の歴史を清算するため、地下室を埋めたのだ、と。
長い間ここを訪れていなかったせいで、杏里はそのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
地下室は、ヤチカにとって、忌むべき場所だった。
5人の家出少女がそこで死んだ。
そして、ヤチカの手で”人形”に変えられ、ガラスケースに入れられて展示されていたのである。
杏里と出会う前のヤチカは、ほかの外来種と同様、種族保存本能に駆られて、手当たり次第人間の女を漁っていた。
昼間は女流画家、夜は獲物を物色して繫華街をさまようサイコな男。
そんな生活を、長らく送っていたらしいのだ。
その頃の記憶の詰まった地下室をヤチカが封印しようとした気持ちは、杏里にもよくわかる。
「ごめん。私の思い違いだったみたい。この家に地下室はもう存在しない。ヤチカさん自身が埋めちゃったから」
「てことは、やっぱりここにはヤチカさん、いないんだよ。いずなみたいに、拉致されたんじゃ」
「2階はどうなんだ? 画家なら、アトリエぐらい持ってるはずだろう?」
「ここを上がってすぐのお部屋がそうよ。一応、のぞいてみる?」
「ああ。びびった重人が、逃げたい一心で見落とした可能性もあるからな」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。そりゃ少しは怖かったけどさ、でも、ちゃんとひと通りはサーチしてみたんだから!」
ふくれっ面をする重人を促して階段をのぼった。
2階は手前の広い部屋がアトリエ、廊下の突き当りがヤチカの寝室になっている。
アトリエの扉には、鍵がかかっていなかった。
そうっと押し開けると、埃っぽい匂いに混じって、テレピン油と絵の具の匂いが鼻孔を刺激した。
用心深げに部屋の中を見回していたルナが、イーゼルに立てかけられた手近のカンバスの布をめくり上げた。
「こ、これは…」
現れた絵を見て、まじまじと目を見開いた。
ヤチカの画集、『残虐少女絵画集』の中の一枚である。
真っ白な皿の上に、下半身を輪切りにされた少女が、全裸で寝そべっている。
首から上を持ち上げてこちらを見つめるその顔は、細部まで杏里にそっくりだ。
「こんなろくでもない絵のモデルになるなんて、杏里、おまえ、そのヤチカって画家と、いったいどういう関係だったんだよ?」
瞳に怒りの色をにじませ、苛立ちの混じった口調で、責めるようにルナが言った。
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