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第9部 倒錯のイグニス
#93 サイキック③
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鬱蒼とした森の間の小道を抜けると、赤い屋根の洋館が見えてきた。
その異国風の佇まいに、杏里の胸がきゅんとなる。
夏の間すごしたヤチカの屋敷である。
ここで杏里はヤチカから性の歓びを教わり、タナトスとして開花したのだ。
あの夏の日々は、忘れようにも忘れられない、甘酸っぱく淫靡な思い出だ。
「冬美がなんにも言ってこないから、自分でも調べてみようと思ったんだよ。いずなの行方をさ」
屋敷の尖った屋根を見上げ、黒縁眼鏡を2本の指で押し上げて重人が言った。
「DNA鑑定の結果は聞いたでしょ? やっぱりあの抜け殻は、いずなじゃなかったって。なんか、新種の外来種のものじゃないかって。だったら、やっぱりいずなは拉致されたことになる。あの監禁事件は杏里とルナをひっかけるための外来種同士の茶番劇でさ、その前に本物のいずなと偽物がすり替わってたんだよ。で、僕、思ったんだ。新種薔薇育成委員会だったっけ? もしそんな外来種の手による裏組織があるのなら、ヤチカさんのところにも、組織からコンタクトがあったんじゃないかってね。それで今日の朝早くここに来てみたんだけど、いくら思念を広げてみても、彼女の気配がどこにも感じられないんだよ。これって、おかしくない?」
DNA鑑定の結果は、杏里も小田切から聞かされていた。
あれはいずなのものではなく、擬態するタイプの外来種のものではないかと。
「特定の人間やタナトスに擬態する能力を持った外来種か…。また、面倒なやつが現れたもんだ」
小田切が、苦虫を嚙み潰したような顔でそうぼやいたのを覚えている。
「そうだね。可能性としては、それ、アリだと思う」
杏里はうなずいた。
重人が単独行動を取った理由は、訊かなくてもわかる。
ヤチカが外来種だからである。
杏里も重人も、そのことは小田切にも冬美にも打ち明けていない。
ヤチカを委員会の手にゆだねる気にはなれなかったからだ。
両性具有の外来種という希少な立場のヤチカは、過去の黒歴史を清算するべく、杏里たちと一緒にあの黒野零と戦ってくれたのだ。
由羅を救うことができたのも、ヤチカの捨て身の協力があってこそだった、と杏里は思っている。
そのヤチカを、委員会に差し出すことなんて、できるはずがない。
「だとしたら、あれはどういう意味だと思う?」
ルナが右手を水平に伸ばし、杏里と重人を制止した。
「門扉が開いてる。というより、無理やりこじあけられたって感じだな」
「そう。そうなんだよね。今朝方僕が来た時には、もうああなってたんだ。中はもっとひどいことになってるよ」
「重人、あんた、家の中まで入ったわけ?」
「うん。だって、玄関の扉も開いてたんだもん」
近づいてみると、ルナの指摘した通りだった。
門扉を閉ざしていたはずの鎖と南京錠が引きちぎられ、内側から差してあったと思しき鋼鉄の閂が、見るも無残にひん曲げられて、ごろりと地面に転がっているのだ。
「これ…まずくない?」
背筋に悪寒が走るのを感じて、杏里は言った。
「こんなの、人間の力じゃ無理だよ。剛腕の由羅か念動力者のルナじゃなきゃ、こんな芸当、できるはずがない」
「うん。僕もそう思う。まあ、僕が忍び込んだ時には、中には誰もいなくて、ほっとしたんだけどね」
「屋敷の中は全部見て回ったの? ここは2階だけじゃなく、地下室や隠し部屋もあって、見かけよりすいぶん広いのよ」
「まあ、ひと通りはね。でも、地下室や隠し部屋はまだ。ていうか、そんなのがあるなんて、僕、知らなかったもの。知ってるのはここで暮らしたことのある杏里だけだろう?」
「この屋敷で暮らした? それはまたどういうことだ?」
ルナがいぶかしげに、杏里を見た。
「この家の主人のヤチカさんはね、杏里の恋人だったのさ。今はどうなのか、知らないけれど」
重人ったら、また余計なことを。
杏里心の中で舌打ちをした。
「そうなのか?」
ルナが面食らったような顔をした。
「ヤチカというのは女性なんだろう? てことは、杏里、おまえ、レズビアンだったのか?」
「レズというより、バイセクシャルってのが正しいだろうね。杏里の場合、相手の性別は関係ないから」
「そういえば…さっきのバスの中でも、そうだったな。杏里を襲う乗客たちの中には、女も混じっていた」
ルナは難しい表情をしている。
気が強くてむこうみず、人を人とも思わない傲慢なところのあるルナだが、性的にはかなりオクテなのかもしれない、と杏里は思った。
パトスは戦闘が仕事だから、杏里たちタナトスのように常に性的な世界に身を置いているわけではない。
鬱屈したマゾヒストだった由羅のようなケースのほうが、むしろまれなのだろう。
由羅のことを思い出し、杏里は更に辛くなった。
違うんだよ、由羅。
あなたのこと、忘れていたわけじゃない。
今でも会いたい。
会って気持ちを伝えたい。
杏里の目尻に、熱いものがにじんだ。
本当に、由羅はあれから、どうなったのだろう…?
あのまま死んでしまったのか、あるいは今この時も、本部のどこかで最新医療を施されている最中なのか…。
何度食い下がっても、小田切は何も教えてくれなかった。
「わからない」の一点張りだった。
だから、そのうち、恐くて訊けなくなった。
「由羅なら、死んだぞ」
いつかそんな答えが返ってくる時が来る気がして、恐ろしくてならなくなったからだ。
その由羅が退場し、いずなが消息を絶ち、そしてまた、ヤチカまで…。
私のせいだろうか。
これまで何度も抱いてきたその疑問が、またぞろ杏里を苦しめる。
「とにかく、もう一度、よく探してみようよ。重人の思念の届かない地下の隠し部屋に、ヤチカさん、隠れてるかもしれないしね」
そのたまらなく苦い想念を振り払うかのように、声を張り上げて、杏里は言った。
その異国風の佇まいに、杏里の胸がきゅんとなる。
夏の間すごしたヤチカの屋敷である。
ここで杏里はヤチカから性の歓びを教わり、タナトスとして開花したのだ。
あの夏の日々は、忘れようにも忘れられない、甘酸っぱく淫靡な思い出だ。
「冬美がなんにも言ってこないから、自分でも調べてみようと思ったんだよ。いずなの行方をさ」
屋敷の尖った屋根を見上げ、黒縁眼鏡を2本の指で押し上げて重人が言った。
「DNA鑑定の結果は聞いたでしょ? やっぱりあの抜け殻は、いずなじゃなかったって。なんか、新種の外来種のものじゃないかって。だったら、やっぱりいずなは拉致されたことになる。あの監禁事件は杏里とルナをひっかけるための外来種同士の茶番劇でさ、その前に本物のいずなと偽物がすり替わってたんだよ。で、僕、思ったんだ。新種薔薇育成委員会だったっけ? もしそんな外来種の手による裏組織があるのなら、ヤチカさんのところにも、組織からコンタクトがあったんじゃないかってね。それで今日の朝早くここに来てみたんだけど、いくら思念を広げてみても、彼女の気配がどこにも感じられないんだよ。これって、おかしくない?」
DNA鑑定の結果は、杏里も小田切から聞かされていた。
あれはいずなのものではなく、擬態するタイプの外来種のものではないかと。
「特定の人間やタナトスに擬態する能力を持った外来種か…。また、面倒なやつが現れたもんだ」
小田切が、苦虫を嚙み潰したような顔でそうぼやいたのを覚えている。
「そうだね。可能性としては、それ、アリだと思う」
杏里はうなずいた。
重人が単独行動を取った理由は、訊かなくてもわかる。
ヤチカが外来種だからである。
杏里も重人も、そのことは小田切にも冬美にも打ち明けていない。
ヤチカを委員会の手にゆだねる気にはなれなかったからだ。
両性具有の外来種という希少な立場のヤチカは、過去の黒歴史を清算するべく、杏里たちと一緒にあの黒野零と戦ってくれたのだ。
由羅を救うことができたのも、ヤチカの捨て身の協力があってこそだった、と杏里は思っている。
そのヤチカを、委員会に差し出すことなんて、できるはずがない。
「だとしたら、あれはどういう意味だと思う?」
ルナが右手を水平に伸ばし、杏里と重人を制止した。
「門扉が開いてる。というより、無理やりこじあけられたって感じだな」
「そう。そうなんだよね。今朝方僕が来た時には、もうああなってたんだ。中はもっとひどいことになってるよ」
「重人、あんた、家の中まで入ったわけ?」
「うん。だって、玄関の扉も開いてたんだもん」
近づいてみると、ルナの指摘した通りだった。
門扉を閉ざしていたはずの鎖と南京錠が引きちぎられ、内側から差してあったと思しき鋼鉄の閂が、見るも無残にひん曲げられて、ごろりと地面に転がっているのだ。
「これ…まずくない?」
背筋に悪寒が走るのを感じて、杏里は言った。
「こんなの、人間の力じゃ無理だよ。剛腕の由羅か念動力者のルナじゃなきゃ、こんな芸当、できるはずがない」
「うん。僕もそう思う。まあ、僕が忍び込んだ時には、中には誰もいなくて、ほっとしたんだけどね」
「屋敷の中は全部見て回ったの? ここは2階だけじゃなく、地下室や隠し部屋もあって、見かけよりすいぶん広いのよ」
「まあ、ひと通りはね。でも、地下室や隠し部屋はまだ。ていうか、そんなのがあるなんて、僕、知らなかったもの。知ってるのはここで暮らしたことのある杏里だけだろう?」
「この屋敷で暮らした? それはまたどういうことだ?」
ルナがいぶかしげに、杏里を見た。
「この家の主人のヤチカさんはね、杏里の恋人だったのさ。今はどうなのか、知らないけれど」
重人ったら、また余計なことを。
杏里心の中で舌打ちをした。
「そうなのか?」
ルナが面食らったような顔をした。
「ヤチカというのは女性なんだろう? てことは、杏里、おまえ、レズビアンだったのか?」
「レズというより、バイセクシャルってのが正しいだろうね。杏里の場合、相手の性別は関係ないから」
「そういえば…さっきのバスの中でも、そうだったな。杏里を襲う乗客たちの中には、女も混じっていた」
ルナは難しい表情をしている。
気が強くてむこうみず、人を人とも思わない傲慢なところのあるルナだが、性的にはかなりオクテなのかもしれない、と杏里は思った。
パトスは戦闘が仕事だから、杏里たちタナトスのように常に性的な世界に身を置いているわけではない。
鬱屈したマゾヒストだった由羅のようなケースのほうが、むしろまれなのだろう。
由羅のことを思い出し、杏里は更に辛くなった。
違うんだよ、由羅。
あなたのこと、忘れていたわけじゃない。
今でも会いたい。
会って気持ちを伝えたい。
杏里の目尻に、熱いものがにじんだ。
本当に、由羅はあれから、どうなったのだろう…?
あのまま死んでしまったのか、あるいは今この時も、本部のどこかで最新医療を施されている最中なのか…。
何度食い下がっても、小田切は何も教えてくれなかった。
「わからない」の一点張りだった。
だから、そのうち、恐くて訊けなくなった。
「由羅なら、死んだぞ」
いつかそんな答えが返ってくる時が来る気がして、恐ろしくてならなくなったからだ。
その由羅が退場し、いずなが消息を絶ち、そしてまた、ヤチカまで…。
私のせいだろうか。
これまで何度も抱いてきたその疑問が、またぞろ杏里を苦しめる。
「とにかく、もう一度、よく探してみようよ。重人の思念の届かない地下の隠し部屋に、ヤチカさん、隠れてるかもしれないしね」
そのたまらなく苦い想念を振り払うかのように、声を張り上げて、杏里は言った。
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