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第9部 倒錯のイグニス
#70 基礎訓練 応用編②
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もっくんの虹色のミラーグラスの表面に、奇妙に歪んだ自分の顔が映っている。
それがまるでムンクの『叫び』のように見え、杏里はいささか気分が悪くなった。
「あの、ヤチカさん、どうかしたんですか?」
気を取り直して、訊いてみた。
そういえば、杏里自身、ヤチカとは久しく会っていない。
いつか杏里をモデルにした画集の第2弾、『快楽少女絵画集』を出すんだと張り切っていたヤチカ。
だが、そのモデルになるという約束も果たせないまま、今に至っている。
「さあ、どうしちゃったんだろうねえ。前はほら、そこの沼人形工房に寄る帰りに、ちょくちょく顔を出してくれてたんだけど、ここんところさっぱりなのよ。イラストのお仕事が忙しいのかしら?」
「沼、人形工房…?」
といえば、あの不思議な真布ばあさんの工房だ。
天才人形師、正一がつくった杏里そっくりのラブドール。
そして、町中に置かれた人形たちが送ってくる映像を監視する”瞑想の部屋”。
その不思議な屋敷がここからほど近いところにあることを、杏里はふと思い出した。
「ま、いいわ。今度ヤチカちゃんに会ったら伝えといてよ。『ドリームハウス』のもっくんが寂しがってたって」
もっくんはようやく商売人の一面を取り戻したようだ。
猫の額ほどのカウンターの上にたくましい腕を突くと、杏里のほうにぐいと身を乗り出してきた。
その筋骨隆々とした体は、汗臭いかと思いきや、かすかなお香の匂いを漂わせている。
その馥郁たる香りに、杏里は緊張が緩むのを感じた。
まろやかなオネエ言葉といい、この香りといい、その外見に似合わず、もっくんは相手を和ませるすべに長けている。
ヤチカがひいきにしていた理由が、なんとなくわかるような気がした。
「それで、きょうは何がほしいの? こんな時間帯にひとりで来るって、よっぽどのことなんでしょう?」
ニューハーフだからなのか、もっくんの表情に好色の色はない。
ついさっき、満員バスの中で凌辱されて、今もエロスの残り香を発散している杏里を前にしても、眉ひとつ動かさない。
そのことが、更に杏里の警戒心を解いた。
「えーっと、習慣性のない、媚薬みたいなものは、ないですか?」
ほかに客のいないことを確かめて、意を決して切り出した。
「効き目が早くて、副作用のないものがいいんですけど…」
「媚薬?」
もっくんは、一瞬、絶句したようだった。
おそらくミラーグラスの向こうでは、目を真ん丸に見開いているに違いない。
「へええ、媚薬を買いに来る女子中学生なんて、あたし、生まれて初めて見たわ」
ややあって、呆れ声とも感嘆の声ともとれる複雑な声音で、もっくんがしみじみとつぶやいた。
「はい。媚薬です」
上目遣いにもっくんのミラーグラスを見据え、きっぱりと杏里は言った。
杏里自身、これまで何度か媚薬の類いを服用してきている。
特にヤチカとつき合っていた頃は、催淫剤を紅茶に混ぜられたりして、その手のものを頻繁に飲まされたものだ。
美里との最終対決の時には、自分からヤチカに媚薬をもらいに行ったこともある。
そのせいか、杏里の体液には媚薬成分が残存している。
タナトスのラーニング機能が、美里の能力を吸収したように、それを体内に取り入れ、吸収したらしい。
だが、その媚薬効果を即効で発揮するためには、水爆を爆発させるのに原爆が必要なように、トリガーとなる別の何かを準備しなければならない。
そう考えてローターを使ってみたが、チーム戦や試合となると、そんなものを装着してマットに上がるわけにもいかないだろう。
そこで思いついたのが、前もってこっそり媚薬を飲んでいくことだったのだ。
「うーん、そうだねえ。あんたみたいに若い子が飲むんだったら、身体にやさしいのがいいわよねえ。そうなると、やっぱり漢方かな。ちょっと待っててね」
どうして女子中学生が媚薬なんて?
そう質問攻めに遭うかと身構えた杏里だったが、もっくんの反応は意外と淡白だった。
しばらく背後の棚をごそごそやっていたかと思うと、平たい煙草の箱みたいなものを手にして振り向いた。
「あったあった。これがいいと思うわ。ほら、中国3000年の歴史ってやつ」
「『性露丸』?」
杏里は疑惑のまなざしで、その黒い箱を裏返した。
名前からして、いかがわしい。
箱の裏には、金色の文字でびっしり説明が書いてある。
『この性露丸は、秦の始皇帝が徐福に命じて入手させた不老不死の薬を現代に再現したものです。成分は、主にマンドラゴラの新芽、催淫茸、麝香の根、イボイモリの精液、洞窟蝙蝠の糞その他。服用後、数分で効き目が現れます。呼吸が急速に荒くなり、性的欲求が増して膣内が狭窄し、分泌物が増え、セックスがより快適になること請け合いです。もちろん、性的快感の増幅効果も覿面です」
「ふふ、怪しいでしょ」
笑いをふくんだ声で、もっくんが言った。
「でもね、媚薬の効果なんて、多くはブラシーボ効果にすぎないのよ。効くと思えばなんだって効くし、効かないと思えば効かない。その点、これはとびっきりいかがわしい分、いかにも効きそうでしょ? まあ、16,200円のところを、特別に500円にまけとくから、だまされたと思って使ってみて」
「500円ですか?」
杏里は目をしばたたいた。
15,700円の値引きなんて、ふつうありえない。
「いいのよ。どうせきょうはもう店を閉めるところだったんだし。あんたはむちゃくちゃセクシーで可愛いから」
「そういう、問題でしょうか?」
私、だまされてる?
財布の中から五百円玉を取り出し、カウンターの上に置きながら、杏里は小首をかしげてもっくんを見た。
それがまるでムンクの『叫び』のように見え、杏里はいささか気分が悪くなった。
「あの、ヤチカさん、どうかしたんですか?」
気を取り直して、訊いてみた。
そういえば、杏里自身、ヤチカとは久しく会っていない。
いつか杏里をモデルにした画集の第2弾、『快楽少女絵画集』を出すんだと張り切っていたヤチカ。
だが、そのモデルになるという約束も果たせないまま、今に至っている。
「さあ、どうしちゃったんだろうねえ。前はほら、そこの沼人形工房に寄る帰りに、ちょくちょく顔を出してくれてたんだけど、ここんところさっぱりなのよ。イラストのお仕事が忙しいのかしら?」
「沼、人形工房…?」
といえば、あの不思議な真布ばあさんの工房だ。
天才人形師、正一がつくった杏里そっくりのラブドール。
そして、町中に置かれた人形たちが送ってくる映像を監視する”瞑想の部屋”。
その不思議な屋敷がここからほど近いところにあることを、杏里はふと思い出した。
「ま、いいわ。今度ヤチカちゃんに会ったら伝えといてよ。『ドリームハウス』のもっくんが寂しがってたって」
もっくんはようやく商売人の一面を取り戻したようだ。
猫の額ほどのカウンターの上にたくましい腕を突くと、杏里のほうにぐいと身を乗り出してきた。
その筋骨隆々とした体は、汗臭いかと思いきや、かすかなお香の匂いを漂わせている。
その馥郁たる香りに、杏里は緊張が緩むのを感じた。
まろやかなオネエ言葉といい、この香りといい、その外見に似合わず、もっくんは相手を和ませるすべに長けている。
ヤチカがひいきにしていた理由が、なんとなくわかるような気がした。
「それで、きょうは何がほしいの? こんな時間帯にひとりで来るって、よっぽどのことなんでしょう?」
ニューハーフだからなのか、もっくんの表情に好色の色はない。
ついさっき、満員バスの中で凌辱されて、今もエロスの残り香を発散している杏里を前にしても、眉ひとつ動かさない。
そのことが、更に杏里の警戒心を解いた。
「えーっと、習慣性のない、媚薬みたいなものは、ないですか?」
ほかに客のいないことを確かめて、意を決して切り出した。
「効き目が早くて、副作用のないものがいいんですけど…」
「媚薬?」
もっくんは、一瞬、絶句したようだった。
おそらくミラーグラスの向こうでは、目を真ん丸に見開いているに違いない。
「へええ、媚薬を買いに来る女子中学生なんて、あたし、生まれて初めて見たわ」
ややあって、呆れ声とも感嘆の声ともとれる複雑な声音で、もっくんがしみじみとつぶやいた。
「はい。媚薬です」
上目遣いにもっくんのミラーグラスを見据え、きっぱりと杏里は言った。
杏里自身、これまで何度か媚薬の類いを服用してきている。
特にヤチカとつき合っていた頃は、催淫剤を紅茶に混ぜられたりして、その手のものを頻繁に飲まされたものだ。
美里との最終対決の時には、自分からヤチカに媚薬をもらいに行ったこともある。
そのせいか、杏里の体液には媚薬成分が残存している。
タナトスのラーニング機能が、美里の能力を吸収したように、それを体内に取り入れ、吸収したらしい。
だが、その媚薬効果を即効で発揮するためには、水爆を爆発させるのに原爆が必要なように、トリガーとなる別の何かを準備しなければならない。
そう考えてローターを使ってみたが、チーム戦や試合となると、そんなものを装着してマットに上がるわけにもいかないだろう。
そこで思いついたのが、前もってこっそり媚薬を飲んでいくことだったのだ。
「うーん、そうだねえ。あんたみたいに若い子が飲むんだったら、身体にやさしいのがいいわよねえ。そうなると、やっぱり漢方かな。ちょっと待っててね」
どうして女子中学生が媚薬なんて?
そう質問攻めに遭うかと身構えた杏里だったが、もっくんの反応は意外と淡白だった。
しばらく背後の棚をごそごそやっていたかと思うと、平たい煙草の箱みたいなものを手にして振り向いた。
「あったあった。これがいいと思うわ。ほら、中国3000年の歴史ってやつ」
「『性露丸』?」
杏里は疑惑のまなざしで、その黒い箱を裏返した。
名前からして、いかがわしい。
箱の裏には、金色の文字でびっしり説明が書いてある。
『この性露丸は、秦の始皇帝が徐福に命じて入手させた不老不死の薬を現代に再現したものです。成分は、主にマンドラゴラの新芽、催淫茸、麝香の根、イボイモリの精液、洞窟蝙蝠の糞その他。服用後、数分で効き目が現れます。呼吸が急速に荒くなり、性的欲求が増して膣内が狭窄し、分泌物が増え、セックスがより快適になること請け合いです。もちろん、性的快感の増幅効果も覿面です」
「ふふ、怪しいでしょ」
笑いをふくんだ声で、もっくんが言った。
「でもね、媚薬の効果なんて、多くはブラシーボ効果にすぎないのよ。効くと思えばなんだって効くし、効かないと思えば効かない。その点、これはとびっきりいかがわしい分、いかにも効きそうでしょ? まあ、16,200円のところを、特別に500円にまけとくから、だまされたと思って使ってみて」
「500円ですか?」
杏里は目をしばたたいた。
15,700円の値引きなんて、ふつうありえない。
「いいのよ。どうせきょうはもう店を閉めるところだったんだし。あんたはむちゃくちゃセクシーで可愛いから」
「そういう、問題でしょうか?」
私、だまされてる?
財布の中から五百円玉を取り出し、カウンターの上に置きながら、杏里は小首をかしげてもっくんを見た。
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