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【5】親と子どものカタチ
硝子の剣
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竜次は孤児たちの診断書をまとめ、最後のチェックを通していた。
静かな応接室のはずだが、部屋の外が騒がしい。そういえばミティアが子どもたちと遊んでいるのを思い出した。追いかけっこでもしているのかと、この時、竜次は手放しで思っていた。
竜次は診断書を一枚、また一枚と丁寧に捲り、キャップをしたペンで文面をなぞっていた。
こんな地道な作業、雑用をしていたのだから、ある程度は早い自信がある。脱字を見つけては修正を入れた。たかが健康診断なのだが、診断書の脇に何枚かの処方箋の紙が仕上がっている。大半は健康な子どもだったが、咳をしている子にはいくつかの質問をし、肺の音も聞いて喘息の疑いもかけた。他に見受けられたのは軽い皮膚炎。子ども相手に、手は抜けない。大半の書類は片付いた、
買い物リストくらいの軽い書き物はしていたが慣れず、肩が凝って座ったまま伸びをする。バキバキと首が鳴った。そのまま深く腰かけ、大きく息を吐いた。
意外と充実しているかもしれない。
親戚のお願いだから受けてしまったが、医者らしい仕事をしたのはこれが初めてだ。
思い返してみれば、道中では応急処置、手当てが大半だった。診断を下すなど、責任は重くなる。それでも悪くない達成感があった。
美人で優秀なミティアが手伝ってくれたのも大きい。このまま彼女と町医者でもやってのんびり暮らすのもいいな、などと妄想が膨らんだ。竜次はすっかりだらしない顔をしていた。
コンコンと乾いた音がした。すぐに扉が開き、マリーが入る。部屋に入るなり、落ち着かない様子で部屋を見渡した。
竜次は声をかける。
「おば様、どうかされましたか?」
マリーは慌てていたのか、三つ編みの髪が解れている。
「おかしいね、ここにもいないの?」
「誰かお探しですか?」
竜次は席を立って白衣を脱ぎ、首と肩を回して体をほぐした。マリーは頬に手を添え、
「ミティアちゃん、一緒じゃないのかい?」
「えっ? 外で子どもたちと遊んでいるのでは……」
窓の外に目を向けるが、いつの間にか誰もいないし、声もしない。扉の隙間からは、子どもが数人覗いている。竜次はミティアの姿がないことに気がついた。
「困ったねぇ、一緒にお昼にしようと思ったのに……」
どういうことだろうか。竜次が部屋の外に出ると、話しかける前に子どもは逃げてしまった。子どもが嫌いではないのだが、避けられている。どうも最初の印象が悪かったせいか、嫌われているようだ。
竜次は、マリーに振り返った。
マリーは今度、別のものを探しているようだ。よく見ないと気づかないが、手に小さい花を持っている。おそらくマリーが探しているのは、花瓶になりそうな入れ物だろう。
そういえば、逃げた子どもの中にも小さい花を持った子がいた。
玄関に目を向けると、三歳、四歳ほどの女の子二人が立っている。黒髪と金髪でお揃いのワンピースを着ていた。竜次と目が合うと、警戒をしているのか身を縮める。手に花とクローバーを持っていた。
竜次をよく思わないのか、物陰に隠れるように身を引いた。
子どもたちから何か聞き出せそうなのに、避けられ、怖がられている。
竜次は自分がなぜ嫌われているのかを、ここで初めて考えた。今の自分に足りないものを考え込む。
物で釣って注意を引いていたローズはともかくとして、好かれていたミティアは子どもに何をしていただろうか。子は大人をどう見るのだろうか。
自分が子どもだったら、上からものを言われるのを嫌がるだろう。頭ごなしに怒られるのを嫌がるだろう。同じ目線で、一緒の立場で共感してほしいと願う。
この子たちの親はマリーだ。なら、男の人は怖がって仕方ないかもしれない。そのマイナスを含めて、もっと子どもに向き合ってやらねば。
竜次は覗き込むように屈み、女の子たちに微笑んだ。
「その花、綺麗ですね。マリーさんにもあげたんですか?」
営業スマイルは安っぽく思われる。心から笑うことはどうしても苦手だが、ぎこちなくも微笑んだつもりだ。竜次が諦めかけたとき、女の子たちの表情が明るくなった。
「うん! これ、お姉ちゃんと見つけたの」
「お姉ちゃん、優しくてかっこいいから好き!」
「ねーっ!!」
女の子が言う『お姉ちゃん』はミティアを指しているようだ。心を開いてくれて感激した。自分に足りないものを、まさかミティアから学ぶとは思いもしなかった。仲間にもそうだ、もっと同じ立場になってあげなければ。
黒髪の女の子が手を差し出した。手には小さいが四葉のクローバーが乗っている。
「お兄ちゃんにあげる!」
「わたし……に……?」
純粋な気持ちを向けられて感激した。竜次は受け取って目頭が熱くなったのに気がついた。
「ありがとう……」
ございます、と言いかけて飲み込んだ。これがいけないのだろう。人を慕うサキのように、違和感なく自然に言えない。
自分で人との距離と壁を作っている。これにも気がついた。
何も知らない人が見たら、好感度は抱いてもらえる。あくまでもそれ以上親しくならない前提で、偽りの自分を演じている。だが、それではいつか本当の自分を見失ってしまう。今、やっと本当の自分が見えたかもしれないと竜次は思った。
女の子たちが顔を見合わせる。
「お姉ちゃんが言っていた通り、やさしいね」
「でも、お姉ちゃん大丈夫かな」
何か知っている。だが、竜次は焦る気持ちをいったん静めた。ここで急ぎ食らいついては、また怖がられてしまう。
「お、お姉ちゃん、どこにいるかわかるかな?」
竜次は内心では焦っているが、優しい口調を心がけた。その甲斐あってか、女の子たちは抵抗もなくすんなりと答えた。
「裏庭……」
「銀のきれいな髪をした人と話してた」
「こーんなに長くて、黒いマントしてて、ちょっとかっこよかったね」
女の子たちの身振り手振りを交えて楽しそうな答えだ。聞いていた竜次は、息が詰まった。呼吸が出来ない。四葉のクローバーを握る手が震えた。
「おにいちゃん……?」
女の子に声をかけられた。竜次はかぶりを振って立ち上がった。
「ごめんね、ありがとう……」
女の子たちに軽く手を振り、竜次は応接室に戻った。息が、胸が苦しい。早くミティアを探さなくては。置いてあった剣とカバンを身に着け、竜次はさっさと出て行こうとする。
「竜ちゃん、どうしたの? どこへ行くの?」
水の入った小瓶を手にしたマリーが呼び止める。
「な、何て顔をしてるの」
マリーは心配をし、注意をする。竜次は自分が今、どんな顔をしているのか、わかっていない。
「ごめんなさい、おば様。もう、戻らないかも……」
竜次はマリーへ振り返った。
「今日こそはジェフが来るはずです。よろしく言っておいてください」
「り、竜ちゃん……⁉」
「お世話に、なりました……」
竜次は頭を下げ、部屋を飛び出した。
マリーは血相を変え、慌てながら机の引き出しを漁っている。
「た、大変だよ……」
探しているのはまとまったお金だ。孤児院に貯蓄は限られている。いつも、生きるのに精一杯で、お金はぎりぎりでやりくりしている。だが、マリーはそこを押してでも竜次を何とかしたかった。ギルドにお金を持って行き、依頼をすれば誰かが助けてくれるかもしれない。ジェフリーが来ると言っていたが、待っていられない。
ギルドのルールはマリーも知っている。お金を探していると、竜次に渡すつもりだったお金の存在を思い出した。
子ども部屋の机の下の箱にあったはずだ。マリーはバタバタと品もなく、孤児院の中を走り抜けた。慌てるマリーを子どもたちは不思議そうにが見ている。
見つけて掴むと、身支度も整えないまま孤児院に鍵をかけて外出した。マリーは息を切らせながら、大通りを目指す。誰か甥っ子を助けて。そんな思いで髪を乱し、何度も転びそうになりながらギルドを目指した。
マリーが最後に見た竜次の顔は、これから死に行く者を彷彿させるものだった。思いつめた表情。止めても無駄だとは思っていたが、やはり駄目だった。
大通りで売買市場の賑わいに行く手を阻まれた。マリーは肩で息をしながら恨めしそうに市場を見る。
マリーは大きく息を吸ってその混沌に飛び込んだ。強行突破するつもりだ。人の波に飲まれ、行く手を阻まれるも擦り抜けようとする。
孤児院の裏庭に、わかりやすい足跡があった。竜次の足より小さい。力強く飛び越えたのだろう。足跡は孤児院を囲う柵を跨ぐように、途中で切れていた。
子どもがむやみに出ないように設けられている柵だ。大人だったら、少し飛べば跨げる程度。竜次の身長では腰ぐらいまでの高さだ。
竜次は柵を跨ぎ進んだが、草木が茂っている。その中から、植物が斬り伏せられ、人が通った痕跡があった。目を凝らした、茂みの向こうに開けた場所が見える。
ばたつく足音、砂が舞う音、金属の音もした。
まさかと思い、竜次は刀を抜いた。茂みを切り払い、向こう側に抜けた。開けた場所だ。大きい運動場くらいの大きさだが、あまり整備はされていない。草は伸びて砂利が散っている。
クディフとミティアが剣を交えて戦っていた。聞こえた金属の音の正体はこれだ。ミティアが押されている。刃を押さえたのか、彼女の左手が血まみれだ。竜次は叫んだ。
「ミティアさんっ!!」
咄嗟に叫んだが、まずい判断だった。竜次の声に気が緩み、ミティアの剣が弾き飛んだ。勢いで足がもつれ、座り込むように伏している。右手首を押さえ、俯く彼女の顎にクディフの刃先があった。
クディフも竜次に気がついた。眉を上げ、笑みを浮かべた。
「沙蘭の亡霊、いや、剣神……」
クディフは竜次を見て手を引いた。二歩、三歩と下がる。クディフの刀には血がついていない。虚しく地面に落ちたミティアの剣には、血がべったりとついていた。
ミティアは眉を下げ、竜次を見上げる。
「せ、せんせ……」
その表情は『なぜ?』と問うようだった。ミティアの両手が真っ赤だ。正確には、怪我をしたのは左の手の平だけのようだ。弾かれた右の手首も押さえているため、ひどい怪我をしているように見えてしまい、痛々しい。
竜次はミティアの傷を確認する。しゃがみ込み、カバンからタオルを取り出してミティアに握らせた。切り傷だけのようだ。
「きちんとした手当てはあとでします。できないかもしれませんけど……」
「せ、先生、あの人と戦っちゃだめ……」
ミティアが目で訴える。竜次は素直に応じたいが、そうはいかない。
「次に会う時は敵、そうでしたよね……」
竜次はカバンをミティアに預け、立ち上がってクディフに向き合った。
「なぜ、一思いに彼女を連れ去ることをしなかったのですか? その気になれば、マーチンで強行できたはずです」
竜次の中で、ずっと気になっていた質問だ。クディフのもったいぶらせる行動が、気がかりで仕方がなかった。
クディフは涼しい表情で答えた。
「絶望させるため、と言えばいいか。禁忌の魔法を使い続け、いずれは反転するその機会を待っていた」
「反転……?」
ただ決着をつけたいのなら、とっくにそうしている。狙いはそれだけではない。そもそも、クディフの狙いがまだわからない。引き出せる情報は耳にしておきたかった。どちらにしろ、行き着く答えは決まっている。だからこそ、竜次は戦う理由を納得させたかった。
「その娘の中には、俺が剣に誓って守ると決めた人が存在する。禁忌の魔法を使い続け、反転しないとあらわれないであろう」
ミティアはやっと『半分』の意味を理解した。
「それは、かの滅んだ国の王女様。それで間違いないですね?」
フィラノスで、サキが短時間で持って来た情報だ。竜次はその情報を確認した。
クディフの視線がミティアへ動いた。正解のようだ。
「『奴』が何の実験を施したのかは知らぬ。だが、生贄になられては困る」
生贄という言葉にミティアも顔を上げた。本当に嫌な響きだ。
竜次はまだ、納得がいかない。
「禁忌の魔法で反転したら、あなたはそれでいいでしょう。ですが、ミティアさんはどうなるのですか?」
「また反転するか、もしくはその娘の存在自体が消える」
話の雲行きが一気に怪しくなった。
「どうして我々に預けるようなことを!! あなたの目的はいったい何なのですか!?」
「その力を他者に悪用させないため。この力は命を削るもの。思い入れがない限り、他人を助けたいとは思わないであろう? 個人の野望に利用されては困る。貴殿が一緒ならば、その力は本来の持ち主に還すべきだ」
共に歩ませる旅。これ自体が、クディフの策だった。悪用させないために、仲間としての関係を築く。監視を兼ねているのは読めた。腑に落ちないのは、自分がいるせいでその目的が『返還』にいたったことだ。竜次は、嫌悪感をむき出しにする。
「つまり、私が邪魔だと……?」
「何を勘違いしているのだ? 俺は彼女を守るために、貴殿を排除すると言っているのだ」
「なっ……」
「仲間を欺き、騙し、さぞ楽しかっただろうな……」
クディフは竜次を嘲笑った。
旅の道中、ミティアが使える禁忌の魔法について、情報収集も順調だった。何事もなければ、そのまま旅に身を委ねさせてくれたのかもしれない。だが、ここで竜次を退かせようと言う。
クディフは竜次を威圧した。
「沙蘭の剣神は医者でもあったとは驚いた」
「……」
「貴殿は父親と同じことをしようとしているのではないか?」
竜次は黙ったままだった。答える義理はあるかもしれないが、今は怒りが燻る。
「医者とは便利なものだ。種の研究所と言ったか。肩書きを利用して、そこで何人の命を弄んだのだろうな。沙蘭の剣神よ、お前もそうなるのではないか?」
このまま自分を陥れようと言うのか。竜次は怒りを通り越して呆れていた。侮辱までするのかと失望もした。
突然、ミティアが叫んだ。
「違いますっ!!」
ミティアは竜次の前に立った。肩を揺らしながら、信じられないほど泣いている。真っ赤に染まったタオルを両手で握り、首を振っていた。
「先生は、そんなお医者さんじゃない!!」
竜次はミティアの迫力に圧倒されそうになった。この旅自体が仕組まれたものだと知っても、彼女は竜次を庇っている。
「何も……何も、先生のこと、知らないくせに、先生を悪く言わないでっ!!」
ミティアの泣き声が悲しくこだました。
「知らない。だから調べた」
クディフが浮かべる薄ら笑みは、ミティアから竜次に向けられた。
「剣神がなぜ旅に協力したか、知っているか?」
「えっ……」
ミティアは目を見開き、驚いた。
クディフの薄ら笑みは口角を上げ、皮肉を嘲る。
「欲望に目がくらんだのだ。その力は、死者を蘇らせられるかもしれないという」
「……!?」
黙っていた竜次が冷静を欠いた。クディフの『調べた』は、隠し続けていた『本当の自分』まで掘り下げられた。
「愛するものが先に逝った悲しみは同情の余地がある。だが、強大な力……禁忌の魔法を私欲のために悪用するのは、人道から外れるのではないか?」
ミティアにも告げた『過去』だ。竜次は何も言い返せない。クディフが言っていたことは、何も間違っていないからだ。
竜次は失意に塞ぎ込み、顔を伏せた。発端はジェフリーの保護者。フィラノスで別れるつもりだった。だが、知ってしまい、ミティアの力に異常な興味を持ったのは間違いない。一緒に歩んだ旅路で、その目的などとっくに消失していた。スプリングフォレストで彼女に告げた『過去』は『懺悔』でもある。ただ、真意を言わなかった。関係が終わってほしくなかった。仲間との『信頼』が崩れたくなかった。ただそれだけで。
「わたし、そんなのわかっていました……」
ミティアはすすり泣きながら声を震わせる。少し考えればわかるだろう。それだけの身の上話を彼女に打ち明けてしまった。これで築き、得られたものは、また失ってしまうものだと竜次は思っていた。
「それでも、今は違うと信じています。先生はかけがえのない大切な仲間です」
ミティアの声は力強かった。可愛らしくて、そこに存在するだけで心を和ませる、陽だまりのような彼女が見せるもう一つの顔だ。凛々しくてどこか気高い。そして何よりも強く、心の闇を打ち払う優しい光だった。
「先生の心を傷つけるなら、わたしは許さないっ!!」
「ミティアさん、私は……」
竜次はミティアに圧倒され、言葉を詰まらせる。今まで黙っていたことを詫びなくては。
一連の流れを見たクディフは黙っていなかった。
「戯言を!!」
翻る黒いマント、ミティアはその一瞬に反応した。
「だめっ!!」
ミティアが叫んだと同時に、クディフは左腕を振った。銀髪の長い髪と、黒いマントが風を起こす。
遅れて竜次の顔に生暖かい血がかかった。斬られた。いや、どこも痛くはない。
困惑する竜次にミティアが倒れかかった。
「なっ……ミティアさん!?」
竜次は受け止めたが、ミティアは首を斬りつけられている。服は胸の下まで既に真っ赤だった。目を疑った。目に見て助からない。喉を裂かれ、ひどい出血だ。小刻みに震える彼女の目は、すでに焦点が合っていない。瞼を痙攣させ、苦しそうにしながらも、竜次を見つけようと視線を泳がせている。
おそらくこの深さだと呼吸もままならない。やっとの思いで、うつろな瞳が竜次を捉えたように見えた。だが、笑みを浮かべながら赤黒い血を吐いて瞼を閉じた。大粒の涙が落ちるのを名残惜しそうに、ゆっくりと頬を伝う。
ミティアが自分を庇った。一瞬の気の緩みが、彼女をこうさせた。竜次は呆然とする。
尋常ではない出血の量だ。一撃で仕留めるのならば中途半端な深さだった。これではミティアをわざと苦しませている。
まさかと思い、竜次は顔を上げた。
満足そうに笑みを浮かべたクディフが、刀を振って刃の血を飛ばしている。
「使いたくはない手だった。貴殿に情があったらしいので、利用させてもらった。他人でなければ、自身に使わせればいい。親しい者の前で冷たくなるのは絶望でしかないのだからな……」
竜次は信じられない言葉だと思った。これもクディフの策だった。わざとミティアに庇わせた。これは彼女が反応できると知っていたからだ。迂闊な自分も許せない。だが、彼女の思いまで踏み躙ったクディフはもっと許せなかった。
悲しみと怒りに支配される前に、冷たくなったミティアの腕輪が光った。
禁忌の魔法、治癒魔法だ。傷の深さから、蘇生かもしれない。見たことのない神々しく優しい光。いや、山道で見た光によく似ている。
蛍のように舞う光を見てようやく実感したのか、竜次の手が震えた。無意識に涙が零れ落ちた。泣いたことなど、長らくなかったのに……
亡くした彼女を思い出した。温かい手が徐々に冷たくなるこの感覚を忘れはしない。愛おしかった人が、自分の手から離れてしまう。いくら呼び止めても、応えてはくれないもどかしさ。トラウマが蘇る。
何事もなかったように、ミティアの傷は癒えた。優しい光は一頻り彼女を癒し終えると、天に向かって一直線に昇った。この放たれる矢のような光は、雲を晴らしてすっと消えた。
ミティアが呼吸を始めた。眠っているかのように上下し、手も暖かい。切り傷も、血の跡もない。綺麗な彼女が戻った。
『ピシッ……』
湖の氷に亀裂が入るような大きな軋みが耳に障る。
ミティアの左腕の腕輪に大きな亀裂が入った。大きな反動を耐えたようだ。
竜次はやっと現実に引き戻された。自分が陥れられたのも、ミティアが心情を察していたのも、禁忌の魔法を使わせてしまったのも、すべては現実だ。
静けさの中でクディフは言う。
「誤算だな。あと一回といったところか……」
クディフは気に入らない表情をしていた。淡々と、一方的に喋っていた。
「それだけこの娘には時間が残されていない。このまま黙っていても、生贄になる前に朽ちる命。つまり、俺にも時間がない」
竜次はミティアを抱え持ち、多い柔らかな草むらに下ろした。クディフが何を言っているのかはわからない。理解をするよりも、怒りが勝った。
「私は、あなたを許さない……」
退けない正義、勇気、そんな生易しいものではない。その眼光は、もう医者でも剣神でもなかった。
「あと一回ならば、血だるまになった貴殿でも突き出せばいい……」
クディフはうっすらと余裕も見える表情だ。まるで竜次を挑発するような言動は、お互いの戦う理由が決まった合図でもあった。
「沙蘭の剣神。いや。剣鬼よ、怒りや憎しみに染まった剣で俺を倒せると思うな!!」
竜次は何も言わずに地を蹴った。長い方の刀の柄を握って踏み込み、クディフの脇に入った。
激しくぶつかり合った刃が軋む。あまりの激しさに、火花が散りそうだ。力だけならば、互角か少し竜次が上だ。今は何も考えられず、感情だけで剣を振っていた。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
力押しにかかったが、沙蘭の剣術の有利は不利にもなる。その原理は竜次にもわかっての行動だ。
ミティアを含め、仲間との旅路で何を学んだだろうか。それを全部クディフの策だったとまとめてしまうには、あまりにも充実していた。感情が込み上げる。思い出が押し寄せる。
クディフは押された体勢から引きに入った。この動きは反撃が来ると竜次は左手を腰に回す。素早く小太刀で防ぎ、右の刀がクディフの脇を捉えた。
掠ったが、剣には血が滲んでいる。
「小癪な……」
クディフは余裕から一転し、焦りの色をあらわした。竜次の奮う、剣の感情が読み取れない。怒りや憎しみだけではないのだろうか。予想を越える力量だ。
竜次は手応えを感じていた。小太刀を鞘に収め、交わっている刃を押し切った。クディフは後退し、体勢を崩した。
ここまま勢いに任せれば、勝てるかもしれない。悲鳴を上げる左手をこれ以上使わなければ。竜次の心の中では、駆け引きが行われていた。長期戦は不利を意味する。骨折か、もしくは再起不能になるかもしれない。
一度だけなのに、左腕はすでに感覚が痺れていた。これをクディフに感づかれたら、間違いなく潰される。竜次は平然を装った。
コーディとジェフリーは街へ戻った。二人は空の異常を目にしていた。今まさにギルドへ入ろうとしていたときだった。
コーディは首を傾げた。
「今の光、何だろうね?」
空に向かって光の矢が放たれたようだ。光の軌跡だけ雲が晴れた。見たのは一瞬だったので、具体的に何も知らないが綺麗だった。
天を貫くような光など、これまでに見覚えがない。光源に想像がつかない。ジェフリーも首を傾げた。
「さぁな、超常現象でも起こったんじゃないか?」
ジェフリーはさらりと流してギルドの扉を開いた。ギルドの中が騒がしい。見れば商人、街の人達が昨日に引き続き押し寄せているようだ。
この光景にジェフリーは呆れてしまった。
「コーディ、昨日の騒動とやらは終わったんじゃないのか?」
「う、うっわぁ……」
壁の掲示物、依頼書がひどいことになっていた。
勇者を用心棒に雇いたい。
安全のため、一行をこの街に永住させたい。
うちの子の家庭教師にしたいので連絡をお持ちしております。
ジェフリーは呆れ切って肩を落とした。
「バッカじゃねえの……」
ため息と同時に砕けた言葉が発せられた。勇者と称えられるのはむず痒い。それだけではなく、必要以上に頼られるのは困る。
コーディも呆れていた。さすがにうれしいとは思えない。
「うん、まぁ、気持ちはわかるけど、こんなの初めてかも……」
幸いにも、昨日の当事者である三人はこの場にはいない。ジェフリーとコーディは混雑している人込みを避け、カウンターへ報告を優先した。
カウンターに近い場所で、明らかに商人ではない外観で人一倍焦っている女性を見つけた。髪は三つ編みなのだろうが、崩れていた。可愛らしいチェック柄のストールに落ち着いたワンピース姿だ。女性は両手で大事そうに封筒を持っていた。
どうせ、たいしたことはないと、ジェフリーも素通りしそうになった。だが、どうも面影を感じた。
コーディは立ち止まってジェフリーの視線を追った。
「あれ、あの人は確か、孤児院のマザー・マリーさんだよ?」
確信を抱いたジェフリーは、コーディの背中を押した。
「コーディ、報告を頼んだ」
「え、うん……?」
ジェフリーはコーディに報告を任せると、マリーに声をかけた。
「おばさん、だよな?」
マリーは目を見開き、何度か瞬いた。悩ましげに首を傾げたが、すぐに気がついたようだ。
「あぁ、ジェフちゃん……?」
「よかった! これが終わったら挨拶しに行こうと思ってたんだ。久しぶりだな。こんな所でどうしたんだ?」
ジェフリーが言う『よかった』は、親戚を忘れているのかと思っていたからだ。親戚として、忘れられているのは悲しい。名の知れた、竜次や正姫ばかりが可愛がられているものだとジェフリーは思っていたからだ。フィラノスに住んでいたこともあり、竜次よりも接する機会は多かったはずだ。
マリーはギルドに何の用事があるのだろう。ジェフリーが疑問に思っていると、マリーは封筒を手渡した。
「あ、あのね、これでお願いをしようと思って持って来たんだよ!! ジェフちゃんでもいいから!!」
マリーは血相を変え、ひどく慌てているようだ。話の内容が不透明すぎる。
ジェフリーは封筒の中を覗いて驚いた。中身はまとまったお金だ。
「おばさん、落ち着けよ。これじゃ何が何だかわからない。金はちゃんと持っとけ。相変わらずそそっかしいな」
ジェフリーはワンピースのポケットに封筒を入れ、マリーを落ち着かせようとする。だがマリーは、ジェフリーの両腕にしがみついた。激しく腕をゆすって訴える。
「あ、あのね、竜ちゃんが、竜ちゃんが大変なのよ!」
騒がしい中で聞いたのでジェフリーは耳を疑った。耳を傾け、眉をひそめる。
「ん? 兄貴は一緒じゃないのか?」
「あのね、よくわからないけど、竜ちゃんは思い詰めた表情で出て行っちゃったんだよ。ミティアちゃんを探しに行ったのだと思うんだけど!」
「ミティアが……?」
ようやく重要さを理解した。ジェフリーはマリーを壁際に移動させ、人の賑やかさを避けて確認した。
「何があったか詳しく話してくれ!! 一緒に孤児院にいたんじゃないのか?」
マリーは首が壊れそうなほど激しく頷いた。
「そうだよ、お昼までは!!」
迫られてマリーがまた取り乱した。これにはジェフリーも動揺する。
「どうして兄貴とミティアは……」
「それがえっとわからなくてねぇ」
竜次とミティアがいなくなった理由はいまだにはっきりしない。マリーは詳細を話さず、ジェフリーは苛立ちを見せた。
そんな時、ギルドの扉が大きく開かれた。ばたばたと激しい音を立て、人が押し寄せる。騒がしく、落ち着いて話ができない。
我先にと強欲な人がいたようだ。ギルドらしい言葉が飛び交った。
「さっき、光が見えたぞ!!」
「ずるいぞ、情報の報酬は俺の方が先だ!!」
ジェフリーが耳にしたのは、先ほどコーディと入り口で見た空の光の話だった。情報の提供で報酬を得ようとする人だ。だが、耳にしたのはそれだけではなかった。
「南の山の光と一緒だった!!」
「あの山道の雨を晴らした奇跡の光と一緒だ!! 間違いない!」
南の山道? 雨を晴らした奇跡の光? 南の山道は、崩れながら抜けたあの山道を指すだろう。奇跡の光、その例えに違和感があるが、心当たりはある。だが、自分は見ていない。もしかしたら、その光の正体は……。ジェフリーは嫌な予感がした。
もしかしたら、ミティアと竜次の居場所がわかるかもしれない。ジェフリーはマリーとのやり取りに区切りをつけた。
「おばさんはここにいちゃいけない。俺が兄貴を助けに行く。だから今すぐ帰るんだ!」
ジェフリーはマリーの背中を押し、出口へ向かわせた。コーディを呼びつける。
「コーディ!!」
「な、なに、そんな大きな声出して……」
コーディは報酬金を受け取り、トランクに入れていた。文句を言いながら、応答している。
「さっきの光、どこからだったか覚えてるか!?」
「えっ、うん、だいたい……」
ジェフリーはコーディの手を強く引いた。
「うえぇ!? 今度は何なの?」
ギルドを飛び出し、大通りに出た。昼も過ぎ、市場の賑わいを見せる。その賑わいを見ながらジェフリーはコーディに質問をした。
「お前、この街に詳しいよな、どっちだ?」
コーディは不安定な体制で走るのが嫌になったのか、背中の翼を広げた。
「わかった! わかったから、まず手を放して!」
指摘を受け、ジェフリーは手を放す。
「こっちだよ、ついて来て」
コーディは羽ばたき、人混みを避けた。普通は驚くだろうが、広場にいる者は売買に夢中で上を気にしていない。
ジェフリーは体勢を低くし、隙間を抜けた。子どもの方が人混みを抜けやすい。その知識だが、役に立ったようだ。さほど時間をかけずに抜けられた。今は少しでも時間が惜しい。
コーディの案内は孤児院の方角へ向かっていた。
剣戟が激しくぶつかる。竜次は受け止めたが、うしろ足が下がった。
「な、なんて力……」
体への負担が大きい。おそらくクディフは気づいている。左腕が上げづらくなってしまった。少しずつだが、着実に削られている。反撃を試みるも、どうしても体力が厳しい。旅の道中でも体力のなさを痛感していたが、ここまで力の差があるとは思わなかった。もう少し、あと少しでもっと掠め取れるかもしれないのに、クディフからの反撃が襲いかかる。竜次は完全に弄ばれていた。
「最初だけだったな」
「くっ……」
強がりで睨み返した。それでも押されている。負けたくない。こんな奴に。大切な人を弄び、傷つけたクディフは絶対に許さない。だが気持ちとは裏腹に、勝機がどんどん遠ざかり、死期の闇さえも心を飲み込んでしまいそうだ。竜次は己に負けそうになった。
そんなときだった。この場に自分たち以外の気配を感じた。
「でかい釣り針だねぇ……」
竜次は聞き覚えのある、歯切れのいい女性の声を耳にした。声はクディフの背後からだ。すぐに戦慄が走った。クディフとぶつかり合っていた刃に剣が加わり、勢いのまま引き離された。
「光ったから何かと思えば、胸糞悪いね。裏切りの白狼!」
女性はふわりと翻り、竜次の前に着地した。人情という達筆な文字。人情マダムこと、アイラだ。彼女を見るなり、冷静だったクディフが目の色を変える。
「貴様、生きていたのか!」
「あんたこそ、くたばってなかったのかい」
アイラとの睨み合いに、クディフが感情をあらわにした。竜次はこれほど冷静を欠くクディフを初めて見た。顔見知りなのだろうかと疑問を抱く。
「邪魔をするな!!」
アイラに戦いの邪魔をされ、クディフは憎悪をむき出しにする。
「いや、この因縁、逃がしゃしないよ!」
どういう因縁があるのか、竜次にはさっぱりわからない。アイラとクディフの間に何かあるとしか、今のところは理解ができなかった。
クディフの相手は竜次からアイラへと変わった。助太刀は助かるが、どうしてアイラがここにいるのだろう。竜次は聞く期を損ね、この場の空気に緊張を持った。
「竜ちゃん、逃げなさい!」
「……!?」
「その子を助けておやり!」
「し、しかしっ……」
アイラは一瞬だけ竜次に振り返り、大丈夫と言わんばかりに笑みを浮かべていた。
「死に急ぐんじゃないよ、さっさとお行き!」
この状態を好機と見ていいのか、竜次は判断に迷った。
「もうすぐジェフリーたちも戻って来るだろうさ。悲しませるようなことはするんじゃないよ……」
「ですが……」
「あんたたちは自分の道を通すんだろう? なら、こんな奴の相手をしちゃいけない」
アイラは意味深なことを言い、竜次をこの場から退かせようとする。ジェフリーたちから何か聞いたのだろうか。竜次はその質問をしようとしたが、クディフに遮られた。
「あと少しで欲に目のくらんだ愚か者を排除できるというのに……!!」
クディフはぎしりと歯を軋ませる。余程竜次と勝負をしたいようだ。だが、アイラが立ち塞がった。
「退け、アイシャ王女!」
「やだよ、シルバーリデンス公、あんたの相手はあたしだ!」
「人間の味方をするのか!?」
「あぁそうとも。少なくとも今はね……」
アイラは地を蹴り、再びクディフと刃を交えた。ぶつかる剣戟は激しく、両者とも引かない。
「お行きっ!」
アイラは受け止めながら竜次に強く叫んだ。
竜次は刀を鞘に収めながら、ミティアに駆け寄った。彼女の剣を拾い上げ、鞘に収める。痺れる腕に力を込め、ミティアを抱き上げた。
「待て、逃げるか、沙蘭の剣神!!」
竜次はアイラの背中越しに、クディフを睨んだ。
「逃げません、この勝負……預けます」
竜次はあくまでも逃げではないと言い張った。ミティアを抱え、来た道を走った。またアイラに助けられてしまったことを、申し訳なく思う。
アイラは竜次の後ろ姿が遠くなるのを確認した。剣戟を弾き、間合いを取った。栗色の綺麗な髪の毛が、動きに合わせてふわりとなびく。
「さぁて、いつまで亡き王女の影を追うんだい。あんたの悪巧みはここまでだよ」
「アリューンの王女ごときが、我が主君の気持ち、わからぬまい」
「知らないし、わかろうとも思わない。あたしゃ王女であって、王女じゃないからね」
意味深な会話が繰り広げられる。この二人以外は知らない内容だ。
アイラをアイシャ王女と呼ぶクディフだが、そのクディフはアイラから裏切りの白狼と呼ばれた。この二人の間には、神族として許せない因縁があるようだ。
アイラは地を蹴った。クディフも剣を振り上げる。
両者、譲れない戦いがここにもあった。
余裕もなく、ただ走り抜けた。孤児院を抜け裏通りに差しかかった。すれ違う人が驚き、竜次を一度は振り返った。女性を抱えて走るのがそんなに珍しいのだろうかと思ったが、今は身形を考えられない。
竜次の頭上を風が抜けた。
「お兄ちゃん先生!?」
空を翔るコーディだ、彼女も竜次を見て息を飲んだ。降りて近寄るも、彼女の金色の目は竜次を見て怯えている。
「どう、した……の?」
コーディは力なく笑う。とんでもないものを見るかのように。
「どうした、コーディ……」
コーディを追ってジェフリーが駆けてつけた。
「あに……き?」
ジェフリーも、竜次を見て驚いていた。
竜次は腕の中でミティアが眠っているせいかと思った。だが、ジェフリーがもっと別の指摘をした。
「兄貴、どうしたんだ? その血……」
ジェフリーは竜次の顔をじっと見ている。竜次の顔には、血を浴びた跡がある。そのことを指摘されていると知り、竜次は俯いた。抑え込んでいたものが無性に込み上げた。
「私の、血じゃありません……彼女の……です……」
コーディはトランクを置き、中からタオルを取り出す。水場がないか探しに行った。
「ジェフ……私、わた……し…………っ……」
竜次は声を震わせ、泣きながら膝をついた。周りの目を気にしておらず、誤解を招きそうだ。
「兄貴……?」
ジェフリーは困惑した。なぜなら、竜次の泣いたところを見たのは初めてだからだ。これが本当の竜次ならば、何がこうさせてしまったのだろうか。目を覚まさないミティアも気になった。嫌な予感を問い詰めたい。だが、今は黙るべきだと判断した。
コーディが水を含ませたタオルを持って戻った。急いでいたのか、タオルからは雫が滴っている。
コーディは竜次の顔の血を拭った。泥も涙も含まれた悲しい色が、白いタオルを染める。
「お兄ちゃん先生、いったん戻ろう、ここで泣かなくてもいいじゃん、ね……?」
とりあえずの処置だ。行き交う人の刺すような目はなくなったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
ジェフリーは竜次の手を引いた。竜次が辛うじて立ち上がるが、ミティアを抱えたまま、どうしても離そうとはしなかった。
何かあった。とんでもないことが。
宿に着くなり、竜次はフロントに声をかけた。
「一人部屋でかまいません。追加でお願いします……」
受付の人が慌てながら一階の奥の部屋に案内した。
ジェフリーはその様子を見てぼんやりと思った。竜次はきっと、つきっきりで面倒を見るつもりだ。
ジェフリーとコーディも部屋に付き添った。
竜次はミティアを横にならせた。彼女は静かに寝息を立てている。
怪我はないようだ。しかし、ミティアは目を覚まさない。ジェフリーはこの光景に覚えがある。竜次から何も詳細を聞いていないのに、ジェフリーは胸騒ぎを覚えていた。
「あ、私、お湯貰ってくるね。お茶でも……」
コーディが足早に部屋を出て行った。気まずくなったのか、気を利かせていたのかはわからない。足音が遠くなる。
竜次は足音が聞こえなくなったのを確認し、ジェフリーを見た。物悲しげに訴える眼差しは、何度か瞬き、ミティアへと視線が落ちた。
「ごめんなさい、ジェフ。私、彼女が好きです……」
ジェフリーは胸の奥を痛めた。声を発したくても、今は押し殺すしかなかった。
「どうしてもミティアさんを守りたくて、でも、私は守れなかった。それどころか、助けられた。彼女は私を庇って致命傷を負い、自分に禁忌の魔法を使ったのです」
ジェフリーは顔をしかめる。今だけは、竜次に言いたいだけ言わせようと、沈黙を決め込んだ。
「あのクディフという剣士に襲われました。私たちの旅が仕組まれたものだと告げられた。私たちが親しくなり、誰かが傷つけば彼女は禁忌の魔法を使う、その機会をずっと待っていた。ミティアさんの存在を壊すために。だから、彼は最初から彼女を連れ去らなかった。私たちはあの人に踊らされていたのです……」
ジェフリーは小さく頷き、話を聞いているふりをしていた。本当は話のほとんどが頭に入ってこない。
「あの人はミティアさん力を悪用させないために、私たちに監視をさせた。それは順調だった。ですが、私が一緒にいたせいで、争いになりました」
「……兄貴が?」
ジェフリーは軽く首を振り、話を聞く姿勢を正した。どうも話が複雑に入り組んでいるように思える。
竜次は顔を上げ、ジェフリーに訴えるように問う。
「ジェフはわかっていたのでしょう? 私が旅に同行する理由を……」
ジェフリーの視線が泳いだ。まるで、責任を問われているかのようだ。
「兄貴はもうそういう人じゃない。俺は信じてる……」
「ミティアさんにも、同じことを言われました」
「ミティアは兄貴を慕っている。それに優しいから、兄貴の気持ちを汲み取ってくれると思う」
ジェフリーは竜次を励ますつもりで言った。マイナスの感情に陥らないように気を遣っていた。それなのに、ミティアの話をするのがつらいと感じた。
竜次はジェフリーの心情を察し、話題を戻した。
「私がいるせいで、目的が変わった。私のような人に悪用されると思ったのでしょう。ミティアさんの中には、もう一人……禁忌の魔法を使う人格が封じられているようです。その人を引き出すのが目的でした。そのためには、禁忌の魔法で彼女に過度な負担をかけさせ、反転させる。それが目的になった」
「……」
ジェフリーはぼんやりと思い耽っていた。圭馬の兄、圭白に言われた話がつながったかもしれない。仲間に魂を半分しか持たない人がいると、聞いた覚えがある。口にせず、一人で納得した。
「あの剣士の誤算は、思いのほか我々が大きい怪我もせず、ここまで彼女を守れた。彼によって禁忌の魔法は無理矢理使わされた……」
なぜミティアが目を覚まさないのか。なぜ禁忌の魔法を使ったのか。ジェフリーはやっと理解した。何となく予感はしていたが、だいたい予想どおりだった。
「情けない話です。話は完全に向こうのペースでした。飲まれるままに、罵倒もされました。医者であることを、お父様と同じようになるのではないかと」
「兄貴は親父とは違う……」
「ミティアさんは私を庇ったのです。何も知らないくせに、悪く言うなと。何の戸惑いもなく言う人、好きになってしまいます……」
愛おしい人を想うその顔、まだどこかに迷いがある。
邪魔をしているのは自分だ。ジェフリーは身を引く決意をした。本心は、譲りたくなんてなかった。だが、スプリングフォレストで、自分は何を言っただろうか。
思い返せば、そこから既に矛盾していた。
愛する人を失って絶望し、一度は命を絶った竜次が立ち直ってくれたのは嬉しかった。それは何にも変えられない。かけがえのない、血の繋がった兄だから。
こうなるとは予想していたはずなのに、勝手に告白して一人で浮かれた気分になっていた自分が憎らしい。馬鹿らしくもなってきた。
今は揉めている時間が惜しい。ちょうどいい。好きな人を失う恐怖と、戦わなくていいのだ。幸いにも、ミティアから返事はもらわないようにしていた。将来を見据えても、旅が終わって何でもない女の子になれたら、竜次は稼ぎも出来るであろう。何なら、彼女にも手伝ってもらうかもしれない。きっとその方が、彼女のためだ。
ただ、支えるのが自分ではなくなるだけ。ミティアが幸せならそれでいい。
ジェフリーは無理矢理にでも納得したかった。
コンコンと、ノックされ扉が開く。
コーディが暖かいお茶をポットで持って来た。木製のカップもチェストに置かれた。
「ジェフリーお兄ちゃんの分もあるけど?」
「いや、俺はいい……ちょっと外を歩いて来る」
「えぇー、せっかく持って来たのに……」
ジェフリーはこの場にいたたまれなくなった。気を遣うように部屋を出る。宿を出て、深呼吸をしていると、隣にコーディがいた。
ジェフリーは息をついてからコーディに声をかけた。
「ついてこいって言ってないぞ?」
「うぇー……なにそれ、邪魔ぁ?」
コーディは時々このような年頃の口調で話す。中身は十六歳だと言っていた。外観が幼いため、どうしてもつり合わない。
「孤児院に挨拶に行くんだぞ、お前まで来てどうするんだ?」
「えっとぉ、邪魔しないから一緒に行ってもいい?」
ジェフリーは孤児院に挨拶に行くと言った。実はたった今、思いついた出かける口実だ。
一人でいるよりは、気が紛れるかもしれない。ジェフリーはコーディと街へと歩き出した。
まるで、なくなってしまった己の居場所から、逃げるように。
静かな応接室のはずだが、部屋の外が騒がしい。そういえばミティアが子どもたちと遊んでいるのを思い出した。追いかけっこでもしているのかと、この時、竜次は手放しで思っていた。
竜次は診断書を一枚、また一枚と丁寧に捲り、キャップをしたペンで文面をなぞっていた。
こんな地道な作業、雑用をしていたのだから、ある程度は早い自信がある。脱字を見つけては修正を入れた。たかが健康診断なのだが、診断書の脇に何枚かの処方箋の紙が仕上がっている。大半は健康な子どもだったが、咳をしている子にはいくつかの質問をし、肺の音も聞いて喘息の疑いもかけた。他に見受けられたのは軽い皮膚炎。子ども相手に、手は抜けない。大半の書類は片付いた、
買い物リストくらいの軽い書き物はしていたが慣れず、肩が凝って座ったまま伸びをする。バキバキと首が鳴った。そのまま深く腰かけ、大きく息を吐いた。
意外と充実しているかもしれない。
親戚のお願いだから受けてしまったが、医者らしい仕事をしたのはこれが初めてだ。
思い返してみれば、道中では応急処置、手当てが大半だった。診断を下すなど、責任は重くなる。それでも悪くない達成感があった。
美人で優秀なミティアが手伝ってくれたのも大きい。このまま彼女と町医者でもやってのんびり暮らすのもいいな、などと妄想が膨らんだ。竜次はすっかりだらしない顔をしていた。
コンコンと乾いた音がした。すぐに扉が開き、マリーが入る。部屋に入るなり、落ち着かない様子で部屋を見渡した。
竜次は声をかける。
「おば様、どうかされましたか?」
マリーは慌てていたのか、三つ編みの髪が解れている。
「おかしいね、ここにもいないの?」
「誰かお探しですか?」
竜次は席を立って白衣を脱ぎ、首と肩を回して体をほぐした。マリーは頬に手を添え、
「ミティアちゃん、一緒じゃないのかい?」
「えっ? 外で子どもたちと遊んでいるのでは……」
窓の外に目を向けるが、いつの間にか誰もいないし、声もしない。扉の隙間からは、子どもが数人覗いている。竜次はミティアの姿がないことに気がついた。
「困ったねぇ、一緒にお昼にしようと思ったのに……」
どういうことだろうか。竜次が部屋の外に出ると、話しかける前に子どもは逃げてしまった。子どもが嫌いではないのだが、避けられている。どうも最初の印象が悪かったせいか、嫌われているようだ。
竜次は、マリーに振り返った。
マリーは今度、別のものを探しているようだ。よく見ないと気づかないが、手に小さい花を持っている。おそらくマリーが探しているのは、花瓶になりそうな入れ物だろう。
そういえば、逃げた子どもの中にも小さい花を持った子がいた。
玄関に目を向けると、三歳、四歳ほどの女の子二人が立っている。黒髪と金髪でお揃いのワンピースを着ていた。竜次と目が合うと、警戒をしているのか身を縮める。手に花とクローバーを持っていた。
竜次をよく思わないのか、物陰に隠れるように身を引いた。
子どもたちから何か聞き出せそうなのに、避けられ、怖がられている。
竜次は自分がなぜ嫌われているのかを、ここで初めて考えた。今の自分に足りないものを考え込む。
物で釣って注意を引いていたローズはともかくとして、好かれていたミティアは子どもに何をしていただろうか。子は大人をどう見るのだろうか。
自分が子どもだったら、上からものを言われるのを嫌がるだろう。頭ごなしに怒られるのを嫌がるだろう。同じ目線で、一緒の立場で共感してほしいと願う。
この子たちの親はマリーだ。なら、男の人は怖がって仕方ないかもしれない。そのマイナスを含めて、もっと子どもに向き合ってやらねば。
竜次は覗き込むように屈み、女の子たちに微笑んだ。
「その花、綺麗ですね。マリーさんにもあげたんですか?」
営業スマイルは安っぽく思われる。心から笑うことはどうしても苦手だが、ぎこちなくも微笑んだつもりだ。竜次が諦めかけたとき、女の子たちの表情が明るくなった。
「うん! これ、お姉ちゃんと見つけたの」
「お姉ちゃん、優しくてかっこいいから好き!」
「ねーっ!!」
女の子が言う『お姉ちゃん』はミティアを指しているようだ。心を開いてくれて感激した。自分に足りないものを、まさかミティアから学ぶとは思いもしなかった。仲間にもそうだ、もっと同じ立場になってあげなければ。
黒髪の女の子が手を差し出した。手には小さいが四葉のクローバーが乗っている。
「お兄ちゃんにあげる!」
「わたし……に……?」
純粋な気持ちを向けられて感激した。竜次は受け取って目頭が熱くなったのに気がついた。
「ありがとう……」
ございます、と言いかけて飲み込んだ。これがいけないのだろう。人を慕うサキのように、違和感なく自然に言えない。
自分で人との距離と壁を作っている。これにも気がついた。
何も知らない人が見たら、好感度は抱いてもらえる。あくまでもそれ以上親しくならない前提で、偽りの自分を演じている。だが、それではいつか本当の自分を見失ってしまう。今、やっと本当の自分が見えたかもしれないと竜次は思った。
女の子たちが顔を見合わせる。
「お姉ちゃんが言っていた通り、やさしいね」
「でも、お姉ちゃん大丈夫かな」
何か知っている。だが、竜次は焦る気持ちをいったん静めた。ここで急ぎ食らいついては、また怖がられてしまう。
「お、お姉ちゃん、どこにいるかわかるかな?」
竜次は内心では焦っているが、優しい口調を心がけた。その甲斐あってか、女の子たちは抵抗もなくすんなりと答えた。
「裏庭……」
「銀のきれいな髪をした人と話してた」
「こーんなに長くて、黒いマントしてて、ちょっとかっこよかったね」
女の子たちの身振り手振りを交えて楽しそうな答えだ。聞いていた竜次は、息が詰まった。呼吸が出来ない。四葉のクローバーを握る手が震えた。
「おにいちゃん……?」
女の子に声をかけられた。竜次はかぶりを振って立ち上がった。
「ごめんね、ありがとう……」
女の子たちに軽く手を振り、竜次は応接室に戻った。息が、胸が苦しい。早くミティアを探さなくては。置いてあった剣とカバンを身に着け、竜次はさっさと出て行こうとする。
「竜ちゃん、どうしたの? どこへ行くの?」
水の入った小瓶を手にしたマリーが呼び止める。
「な、何て顔をしてるの」
マリーは心配をし、注意をする。竜次は自分が今、どんな顔をしているのか、わかっていない。
「ごめんなさい、おば様。もう、戻らないかも……」
竜次はマリーへ振り返った。
「今日こそはジェフが来るはずです。よろしく言っておいてください」
「り、竜ちゃん……⁉」
「お世話に、なりました……」
竜次は頭を下げ、部屋を飛び出した。
マリーは血相を変え、慌てながら机の引き出しを漁っている。
「た、大変だよ……」
探しているのはまとまったお金だ。孤児院に貯蓄は限られている。いつも、生きるのに精一杯で、お金はぎりぎりでやりくりしている。だが、マリーはそこを押してでも竜次を何とかしたかった。ギルドにお金を持って行き、依頼をすれば誰かが助けてくれるかもしれない。ジェフリーが来ると言っていたが、待っていられない。
ギルドのルールはマリーも知っている。お金を探していると、竜次に渡すつもりだったお金の存在を思い出した。
子ども部屋の机の下の箱にあったはずだ。マリーはバタバタと品もなく、孤児院の中を走り抜けた。慌てるマリーを子どもたちは不思議そうにが見ている。
見つけて掴むと、身支度も整えないまま孤児院に鍵をかけて外出した。マリーは息を切らせながら、大通りを目指す。誰か甥っ子を助けて。そんな思いで髪を乱し、何度も転びそうになりながらギルドを目指した。
マリーが最後に見た竜次の顔は、これから死に行く者を彷彿させるものだった。思いつめた表情。止めても無駄だとは思っていたが、やはり駄目だった。
大通りで売買市場の賑わいに行く手を阻まれた。マリーは肩で息をしながら恨めしそうに市場を見る。
マリーは大きく息を吸ってその混沌に飛び込んだ。強行突破するつもりだ。人の波に飲まれ、行く手を阻まれるも擦り抜けようとする。
孤児院の裏庭に、わかりやすい足跡があった。竜次の足より小さい。力強く飛び越えたのだろう。足跡は孤児院を囲う柵を跨ぐように、途中で切れていた。
子どもがむやみに出ないように設けられている柵だ。大人だったら、少し飛べば跨げる程度。竜次の身長では腰ぐらいまでの高さだ。
竜次は柵を跨ぎ進んだが、草木が茂っている。その中から、植物が斬り伏せられ、人が通った痕跡があった。目を凝らした、茂みの向こうに開けた場所が見える。
ばたつく足音、砂が舞う音、金属の音もした。
まさかと思い、竜次は刀を抜いた。茂みを切り払い、向こう側に抜けた。開けた場所だ。大きい運動場くらいの大きさだが、あまり整備はされていない。草は伸びて砂利が散っている。
クディフとミティアが剣を交えて戦っていた。聞こえた金属の音の正体はこれだ。ミティアが押されている。刃を押さえたのか、彼女の左手が血まみれだ。竜次は叫んだ。
「ミティアさんっ!!」
咄嗟に叫んだが、まずい判断だった。竜次の声に気が緩み、ミティアの剣が弾き飛んだ。勢いで足がもつれ、座り込むように伏している。右手首を押さえ、俯く彼女の顎にクディフの刃先があった。
クディフも竜次に気がついた。眉を上げ、笑みを浮かべた。
「沙蘭の亡霊、いや、剣神……」
クディフは竜次を見て手を引いた。二歩、三歩と下がる。クディフの刀には血がついていない。虚しく地面に落ちたミティアの剣には、血がべったりとついていた。
ミティアは眉を下げ、竜次を見上げる。
「せ、せんせ……」
その表情は『なぜ?』と問うようだった。ミティアの両手が真っ赤だ。正確には、怪我をしたのは左の手の平だけのようだ。弾かれた右の手首も押さえているため、ひどい怪我をしているように見えてしまい、痛々しい。
竜次はミティアの傷を確認する。しゃがみ込み、カバンからタオルを取り出してミティアに握らせた。切り傷だけのようだ。
「きちんとした手当てはあとでします。できないかもしれませんけど……」
「せ、先生、あの人と戦っちゃだめ……」
ミティアが目で訴える。竜次は素直に応じたいが、そうはいかない。
「次に会う時は敵、そうでしたよね……」
竜次はカバンをミティアに預け、立ち上がってクディフに向き合った。
「なぜ、一思いに彼女を連れ去ることをしなかったのですか? その気になれば、マーチンで強行できたはずです」
竜次の中で、ずっと気になっていた質問だ。クディフのもったいぶらせる行動が、気がかりで仕方がなかった。
クディフは涼しい表情で答えた。
「絶望させるため、と言えばいいか。禁忌の魔法を使い続け、いずれは反転するその機会を待っていた」
「反転……?」
ただ決着をつけたいのなら、とっくにそうしている。狙いはそれだけではない。そもそも、クディフの狙いがまだわからない。引き出せる情報は耳にしておきたかった。どちらにしろ、行き着く答えは決まっている。だからこそ、竜次は戦う理由を納得させたかった。
「その娘の中には、俺が剣に誓って守ると決めた人が存在する。禁忌の魔法を使い続け、反転しないとあらわれないであろう」
ミティアはやっと『半分』の意味を理解した。
「それは、かの滅んだ国の王女様。それで間違いないですね?」
フィラノスで、サキが短時間で持って来た情報だ。竜次はその情報を確認した。
クディフの視線がミティアへ動いた。正解のようだ。
「『奴』が何の実験を施したのかは知らぬ。だが、生贄になられては困る」
生贄という言葉にミティアも顔を上げた。本当に嫌な響きだ。
竜次はまだ、納得がいかない。
「禁忌の魔法で反転したら、あなたはそれでいいでしょう。ですが、ミティアさんはどうなるのですか?」
「また反転するか、もしくはその娘の存在自体が消える」
話の雲行きが一気に怪しくなった。
「どうして我々に預けるようなことを!! あなたの目的はいったい何なのですか!?」
「その力を他者に悪用させないため。この力は命を削るもの。思い入れがない限り、他人を助けたいとは思わないであろう? 個人の野望に利用されては困る。貴殿が一緒ならば、その力は本来の持ち主に還すべきだ」
共に歩ませる旅。これ自体が、クディフの策だった。悪用させないために、仲間としての関係を築く。監視を兼ねているのは読めた。腑に落ちないのは、自分がいるせいでその目的が『返還』にいたったことだ。竜次は、嫌悪感をむき出しにする。
「つまり、私が邪魔だと……?」
「何を勘違いしているのだ? 俺は彼女を守るために、貴殿を排除すると言っているのだ」
「なっ……」
「仲間を欺き、騙し、さぞ楽しかっただろうな……」
クディフは竜次を嘲笑った。
旅の道中、ミティアが使える禁忌の魔法について、情報収集も順調だった。何事もなければ、そのまま旅に身を委ねさせてくれたのかもしれない。だが、ここで竜次を退かせようと言う。
クディフは竜次を威圧した。
「沙蘭の剣神は医者でもあったとは驚いた」
「……」
「貴殿は父親と同じことをしようとしているのではないか?」
竜次は黙ったままだった。答える義理はあるかもしれないが、今は怒りが燻る。
「医者とは便利なものだ。種の研究所と言ったか。肩書きを利用して、そこで何人の命を弄んだのだろうな。沙蘭の剣神よ、お前もそうなるのではないか?」
このまま自分を陥れようと言うのか。竜次は怒りを通り越して呆れていた。侮辱までするのかと失望もした。
突然、ミティアが叫んだ。
「違いますっ!!」
ミティアは竜次の前に立った。肩を揺らしながら、信じられないほど泣いている。真っ赤に染まったタオルを両手で握り、首を振っていた。
「先生は、そんなお医者さんじゃない!!」
竜次はミティアの迫力に圧倒されそうになった。この旅自体が仕組まれたものだと知っても、彼女は竜次を庇っている。
「何も……何も、先生のこと、知らないくせに、先生を悪く言わないでっ!!」
ミティアの泣き声が悲しくこだました。
「知らない。だから調べた」
クディフが浮かべる薄ら笑みは、ミティアから竜次に向けられた。
「剣神がなぜ旅に協力したか、知っているか?」
「えっ……」
ミティアは目を見開き、驚いた。
クディフの薄ら笑みは口角を上げ、皮肉を嘲る。
「欲望に目がくらんだのだ。その力は、死者を蘇らせられるかもしれないという」
「……!?」
黙っていた竜次が冷静を欠いた。クディフの『調べた』は、隠し続けていた『本当の自分』まで掘り下げられた。
「愛するものが先に逝った悲しみは同情の余地がある。だが、強大な力……禁忌の魔法を私欲のために悪用するのは、人道から外れるのではないか?」
ミティアにも告げた『過去』だ。竜次は何も言い返せない。クディフが言っていたことは、何も間違っていないからだ。
竜次は失意に塞ぎ込み、顔を伏せた。発端はジェフリーの保護者。フィラノスで別れるつもりだった。だが、知ってしまい、ミティアの力に異常な興味を持ったのは間違いない。一緒に歩んだ旅路で、その目的などとっくに消失していた。スプリングフォレストで彼女に告げた『過去』は『懺悔』でもある。ただ、真意を言わなかった。関係が終わってほしくなかった。仲間との『信頼』が崩れたくなかった。ただそれだけで。
「わたし、そんなのわかっていました……」
ミティアはすすり泣きながら声を震わせる。少し考えればわかるだろう。それだけの身の上話を彼女に打ち明けてしまった。これで築き、得られたものは、また失ってしまうものだと竜次は思っていた。
「それでも、今は違うと信じています。先生はかけがえのない大切な仲間です」
ミティアの声は力強かった。可愛らしくて、そこに存在するだけで心を和ませる、陽だまりのような彼女が見せるもう一つの顔だ。凛々しくてどこか気高い。そして何よりも強く、心の闇を打ち払う優しい光だった。
「先生の心を傷つけるなら、わたしは許さないっ!!」
「ミティアさん、私は……」
竜次はミティアに圧倒され、言葉を詰まらせる。今まで黙っていたことを詫びなくては。
一連の流れを見たクディフは黙っていなかった。
「戯言を!!」
翻る黒いマント、ミティアはその一瞬に反応した。
「だめっ!!」
ミティアが叫んだと同時に、クディフは左腕を振った。銀髪の長い髪と、黒いマントが風を起こす。
遅れて竜次の顔に生暖かい血がかかった。斬られた。いや、どこも痛くはない。
困惑する竜次にミティアが倒れかかった。
「なっ……ミティアさん!?」
竜次は受け止めたが、ミティアは首を斬りつけられている。服は胸の下まで既に真っ赤だった。目を疑った。目に見て助からない。喉を裂かれ、ひどい出血だ。小刻みに震える彼女の目は、すでに焦点が合っていない。瞼を痙攣させ、苦しそうにしながらも、竜次を見つけようと視線を泳がせている。
おそらくこの深さだと呼吸もままならない。やっとの思いで、うつろな瞳が竜次を捉えたように見えた。だが、笑みを浮かべながら赤黒い血を吐いて瞼を閉じた。大粒の涙が落ちるのを名残惜しそうに、ゆっくりと頬を伝う。
ミティアが自分を庇った。一瞬の気の緩みが、彼女をこうさせた。竜次は呆然とする。
尋常ではない出血の量だ。一撃で仕留めるのならば中途半端な深さだった。これではミティアをわざと苦しませている。
まさかと思い、竜次は顔を上げた。
満足そうに笑みを浮かべたクディフが、刀を振って刃の血を飛ばしている。
「使いたくはない手だった。貴殿に情があったらしいので、利用させてもらった。他人でなければ、自身に使わせればいい。親しい者の前で冷たくなるのは絶望でしかないのだからな……」
竜次は信じられない言葉だと思った。これもクディフの策だった。わざとミティアに庇わせた。これは彼女が反応できると知っていたからだ。迂闊な自分も許せない。だが、彼女の思いまで踏み躙ったクディフはもっと許せなかった。
悲しみと怒りに支配される前に、冷たくなったミティアの腕輪が光った。
禁忌の魔法、治癒魔法だ。傷の深さから、蘇生かもしれない。見たことのない神々しく優しい光。いや、山道で見た光によく似ている。
蛍のように舞う光を見てようやく実感したのか、竜次の手が震えた。無意識に涙が零れ落ちた。泣いたことなど、長らくなかったのに……
亡くした彼女を思い出した。温かい手が徐々に冷たくなるこの感覚を忘れはしない。愛おしかった人が、自分の手から離れてしまう。いくら呼び止めても、応えてはくれないもどかしさ。トラウマが蘇る。
何事もなかったように、ミティアの傷は癒えた。優しい光は一頻り彼女を癒し終えると、天に向かって一直線に昇った。この放たれる矢のような光は、雲を晴らしてすっと消えた。
ミティアが呼吸を始めた。眠っているかのように上下し、手も暖かい。切り傷も、血の跡もない。綺麗な彼女が戻った。
『ピシッ……』
湖の氷に亀裂が入るような大きな軋みが耳に障る。
ミティアの左腕の腕輪に大きな亀裂が入った。大きな反動を耐えたようだ。
竜次はやっと現実に引き戻された。自分が陥れられたのも、ミティアが心情を察していたのも、禁忌の魔法を使わせてしまったのも、すべては現実だ。
静けさの中でクディフは言う。
「誤算だな。あと一回といったところか……」
クディフは気に入らない表情をしていた。淡々と、一方的に喋っていた。
「それだけこの娘には時間が残されていない。このまま黙っていても、生贄になる前に朽ちる命。つまり、俺にも時間がない」
竜次はミティアを抱え持ち、多い柔らかな草むらに下ろした。クディフが何を言っているのかはわからない。理解をするよりも、怒りが勝った。
「私は、あなたを許さない……」
退けない正義、勇気、そんな生易しいものではない。その眼光は、もう医者でも剣神でもなかった。
「あと一回ならば、血だるまになった貴殿でも突き出せばいい……」
クディフはうっすらと余裕も見える表情だ。まるで竜次を挑発するような言動は、お互いの戦う理由が決まった合図でもあった。
「沙蘭の剣神。いや。剣鬼よ、怒りや憎しみに染まった剣で俺を倒せると思うな!!」
竜次は何も言わずに地を蹴った。長い方の刀の柄を握って踏み込み、クディフの脇に入った。
激しくぶつかり合った刃が軋む。あまりの激しさに、火花が散りそうだ。力だけならば、互角か少し竜次が上だ。今は何も考えられず、感情だけで剣を振っていた。
「はぁぁぁぁぁっ!!」
力押しにかかったが、沙蘭の剣術の有利は不利にもなる。その原理は竜次にもわかっての行動だ。
ミティアを含め、仲間との旅路で何を学んだだろうか。それを全部クディフの策だったとまとめてしまうには、あまりにも充実していた。感情が込み上げる。思い出が押し寄せる。
クディフは押された体勢から引きに入った。この動きは反撃が来ると竜次は左手を腰に回す。素早く小太刀で防ぎ、右の刀がクディフの脇を捉えた。
掠ったが、剣には血が滲んでいる。
「小癪な……」
クディフは余裕から一転し、焦りの色をあらわした。竜次の奮う、剣の感情が読み取れない。怒りや憎しみだけではないのだろうか。予想を越える力量だ。
竜次は手応えを感じていた。小太刀を鞘に収め、交わっている刃を押し切った。クディフは後退し、体勢を崩した。
ここまま勢いに任せれば、勝てるかもしれない。悲鳴を上げる左手をこれ以上使わなければ。竜次の心の中では、駆け引きが行われていた。長期戦は不利を意味する。骨折か、もしくは再起不能になるかもしれない。
一度だけなのに、左腕はすでに感覚が痺れていた。これをクディフに感づかれたら、間違いなく潰される。竜次は平然を装った。
コーディとジェフリーは街へ戻った。二人は空の異常を目にしていた。今まさにギルドへ入ろうとしていたときだった。
コーディは首を傾げた。
「今の光、何だろうね?」
空に向かって光の矢が放たれたようだ。光の軌跡だけ雲が晴れた。見たのは一瞬だったので、具体的に何も知らないが綺麗だった。
天を貫くような光など、これまでに見覚えがない。光源に想像がつかない。ジェフリーも首を傾げた。
「さぁな、超常現象でも起こったんじゃないか?」
ジェフリーはさらりと流してギルドの扉を開いた。ギルドの中が騒がしい。見れば商人、街の人達が昨日に引き続き押し寄せているようだ。
この光景にジェフリーは呆れてしまった。
「コーディ、昨日の騒動とやらは終わったんじゃないのか?」
「う、うっわぁ……」
壁の掲示物、依頼書がひどいことになっていた。
勇者を用心棒に雇いたい。
安全のため、一行をこの街に永住させたい。
うちの子の家庭教師にしたいので連絡をお持ちしております。
ジェフリーは呆れ切って肩を落とした。
「バッカじゃねえの……」
ため息と同時に砕けた言葉が発せられた。勇者と称えられるのはむず痒い。それだけではなく、必要以上に頼られるのは困る。
コーディも呆れていた。さすがにうれしいとは思えない。
「うん、まぁ、気持ちはわかるけど、こんなの初めてかも……」
幸いにも、昨日の当事者である三人はこの場にはいない。ジェフリーとコーディは混雑している人込みを避け、カウンターへ報告を優先した。
カウンターに近い場所で、明らかに商人ではない外観で人一倍焦っている女性を見つけた。髪は三つ編みなのだろうが、崩れていた。可愛らしいチェック柄のストールに落ち着いたワンピース姿だ。女性は両手で大事そうに封筒を持っていた。
どうせ、たいしたことはないと、ジェフリーも素通りしそうになった。だが、どうも面影を感じた。
コーディは立ち止まってジェフリーの視線を追った。
「あれ、あの人は確か、孤児院のマザー・マリーさんだよ?」
確信を抱いたジェフリーは、コーディの背中を押した。
「コーディ、報告を頼んだ」
「え、うん……?」
ジェフリーはコーディに報告を任せると、マリーに声をかけた。
「おばさん、だよな?」
マリーは目を見開き、何度か瞬いた。悩ましげに首を傾げたが、すぐに気がついたようだ。
「あぁ、ジェフちゃん……?」
「よかった! これが終わったら挨拶しに行こうと思ってたんだ。久しぶりだな。こんな所でどうしたんだ?」
ジェフリーが言う『よかった』は、親戚を忘れているのかと思っていたからだ。親戚として、忘れられているのは悲しい。名の知れた、竜次や正姫ばかりが可愛がられているものだとジェフリーは思っていたからだ。フィラノスに住んでいたこともあり、竜次よりも接する機会は多かったはずだ。
マリーはギルドに何の用事があるのだろう。ジェフリーが疑問に思っていると、マリーは封筒を手渡した。
「あ、あのね、これでお願いをしようと思って持って来たんだよ!! ジェフちゃんでもいいから!!」
マリーは血相を変え、ひどく慌てているようだ。話の内容が不透明すぎる。
ジェフリーは封筒の中を覗いて驚いた。中身はまとまったお金だ。
「おばさん、落ち着けよ。これじゃ何が何だかわからない。金はちゃんと持っとけ。相変わらずそそっかしいな」
ジェフリーはワンピースのポケットに封筒を入れ、マリーを落ち着かせようとする。だがマリーは、ジェフリーの両腕にしがみついた。激しく腕をゆすって訴える。
「あ、あのね、竜ちゃんが、竜ちゃんが大変なのよ!」
騒がしい中で聞いたのでジェフリーは耳を疑った。耳を傾け、眉をひそめる。
「ん? 兄貴は一緒じゃないのか?」
「あのね、よくわからないけど、竜ちゃんは思い詰めた表情で出て行っちゃったんだよ。ミティアちゃんを探しに行ったのだと思うんだけど!」
「ミティアが……?」
ようやく重要さを理解した。ジェフリーはマリーを壁際に移動させ、人の賑やかさを避けて確認した。
「何があったか詳しく話してくれ!! 一緒に孤児院にいたんじゃないのか?」
マリーは首が壊れそうなほど激しく頷いた。
「そうだよ、お昼までは!!」
迫られてマリーがまた取り乱した。これにはジェフリーも動揺する。
「どうして兄貴とミティアは……」
「それがえっとわからなくてねぇ」
竜次とミティアがいなくなった理由はいまだにはっきりしない。マリーは詳細を話さず、ジェフリーは苛立ちを見せた。
そんな時、ギルドの扉が大きく開かれた。ばたばたと激しい音を立て、人が押し寄せる。騒がしく、落ち着いて話ができない。
我先にと強欲な人がいたようだ。ギルドらしい言葉が飛び交った。
「さっき、光が見えたぞ!!」
「ずるいぞ、情報の報酬は俺の方が先だ!!」
ジェフリーが耳にしたのは、先ほどコーディと入り口で見た空の光の話だった。情報の提供で報酬を得ようとする人だ。だが、耳にしたのはそれだけではなかった。
「南の山の光と一緒だった!!」
「あの山道の雨を晴らした奇跡の光と一緒だ!! 間違いない!」
南の山道? 雨を晴らした奇跡の光? 南の山道は、崩れながら抜けたあの山道を指すだろう。奇跡の光、その例えに違和感があるが、心当たりはある。だが、自分は見ていない。もしかしたら、その光の正体は……。ジェフリーは嫌な予感がした。
もしかしたら、ミティアと竜次の居場所がわかるかもしれない。ジェフリーはマリーとのやり取りに区切りをつけた。
「おばさんはここにいちゃいけない。俺が兄貴を助けに行く。だから今すぐ帰るんだ!」
ジェフリーはマリーの背中を押し、出口へ向かわせた。コーディを呼びつける。
「コーディ!!」
「な、なに、そんな大きな声出して……」
コーディは報酬金を受け取り、トランクに入れていた。文句を言いながら、応答している。
「さっきの光、どこからだったか覚えてるか!?」
「えっ、うん、だいたい……」
ジェフリーはコーディの手を強く引いた。
「うえぇ!? 今度は何なの?」
ギルドを飛び出し、大通りに出た。昼も過ぎ、市場の賑わいを見せる。その賑わいを見ながらジェフリーはコーディに質問をした。
「お前、この街に詳しいよな、どっちだ?」
コーディは不安定な体制で走るのが嫌になったのか、背中の翼を広げた。
「わかった! わかったから、まず手を放して!」
指摘を受け、ジェフリーは手を放す。
「こっちだよ、ついて来て」
コーディは羽ばたき、人混みを避けた。普通は驚くだろうが、広場にいる者は売買に夢中で上を気にしていない。
ジェフリーは体勢を低くし、隙間を抜けた。子どもの方が人混みを抜けやすい。その知識だが、役に立ったようだ。さほど時間をかけずに抜けられた。今は少しでも時間が惜しい。
コーディの案内は孤児院の方角へ向かっていた。
剣戟が激しくぶつかる。竜次は受け止めたが、うしろ足が下がった。
「な、なんて力……」
体への負担が大きい。おそらくクディフは気づいている。左腕が上げづらくなってしまった。少しずつだが、着実に削られている。反撃を試みるも、どうしても体力が厳しい。旅の道中でも体力のなさを痛感していたが、ここまで力の差があるとは思わなかった。もう少し、あと少しでもっと掠め取れるかもしれないのに、クディフからの反撃が襲いかかる。竜次は完全に弄ばれていた。
「最初だけだったな」
「くっ……」
強がりで睨み返した。それでも押されている。負けたくない。こんな奴に。大切な人を弄び、傷つけたクディフは絶対に許さない。だが気持ちとは裏腹に、勝機がどんどん遠ざかり、死期の闇さえも心を飲み込んでしまいそうだ。竜次は己に負けそうになった。
そんなときだった。この場に自分たち以外の気配を感じた。
「でかい釣り針だねぇ……」
竜次は聞き覚えのある、歯切れのいい女性の声を耳にした。声はクディフの背後からだ。すぐに戦慄が走った。クディフとぶつかり合っていた刃に剣が加わり、勢いのまま引き離された。
「光ったから何かと思えば、胸糞悪いね。裏切りの白狼!」
女性はふわりと翻り、竜次の前に着地した。人情という達筆な文字。人情マダムこと、アイラだ。彼女を見るなり、冷静だったクディフが目の色を変える。
「貴様、生きていたのか!」
「あんたこそ、くたばってなかったのかい」
アイラとの睨み合いに、クディフが感情をあらわにした。竜次はこれほど冷静を欠くクディフを初めて見た。顔見知りなのだろうかと疑問を抱く。
「邪魔をするな!!」
アイラに戦いの邪魔をされ、クディフは憎悪をむき出しにする。
「いや、この因縁、逃がしゃしないよ!」
どういう因縁があるのか、竜次にはさっぱりわからない。アイラとクディフの間に何かあるとしか、今のところは理解ができなかった。
クディフの相手は竜次からアイラへと変わった。助太刀は助かるが、どうしてアイラがここにいるのだろう。竜次は聞く期を損ね、この場の空気に緊張を持った。
「竜ちゃん、逃げなさい!」
「……!?」
「その子を助けておやり!」
「し、しかしっ……」
アイラは一瞬だけ竜次に振り返り、大丈夫と言わんばかりに笑みを浮かべていた。
「死に急ぐんじゃないよ、さっさとお行き!」
この状態を好機と見ていいのか、竜次は判断に迷った。
「もうすぐジェフリーたちも戻って来るだろうさ。悲しませるようなことはするんじゃないよ……」
「ですが……」
「あんたたちは自分の道を通すんだろう? なら、こんな奴の相手をしちゃいけない」
アイラは意味深なことを言い、竜次をこの場から退かせようとする。ジェフリーたちから何か聞いたのだろうか。竜次はその質問をしようとしたが、クディフに遮られた。
「あと少しで欲に目のくらんだ愚か者を排除できるというのに……!!」
クディフはぎしりと歯を軋ませる。余程竜次と勝負をしたいようだ。だが、アイラが立ち塞がった。
「退け、アイシャ王女!」
「やだよ、シルバーリデンス公、あんたの相手はあたしだ!」
「人間の味方をするのか!?」
「あぁそうとも。少なくとも今はね……」
アイラは地を蹴り、再びクディフと刃を交えた。ぶつかる剣戟は激しく、両者とも引かない。
「お行きっ!」
アイラは受け止めながら竜次に強く叫んだ。
竜次は刀を鞘に収めながら、ミティアに駆け寄った。彼女の剣を拾い上げ、鞘に収める。痺れる腕に力を込め、ミティアを抱き上げた。
「待て、逃げるか、沙蘭の剣神!!」
竜次はアイラの背中越しに、クディフを睨んだ。
「逃げません、この勝負……預けます」
竜次はあくまでも逃げではないと言い張った。ミティアを抱え、来た道を走った。またアイラに助けられてしまったことを、申し訳なく思う。
アイラは竜次の後ろ姿が遠くなるのを確認した。剣戟を弾き、間合いを取った。栗色の綺麗な髪の毛が、動きに合わせてふわりとなびく。
「さぁて、いつまで亡き王女の影を追うんだい。あんたの悪巧みはここまでだよ」
「アリューンの王女ごときが、我が主君の気持ち、わからぬまい」
「知らないし、わかろうとも思わない。あたしゃ王女であって、王女じゃないからね」
意味深な会話が繰り広げられる。この二人以外は知らない内容だ。
アイラをアイシャ王女と呼ぶクディフだが、そのクディフはアイラから裏切りの白狼と呼ばれた。この二人の間には、神族として許せない因縁があるようだ。
アイラは地を蹴った。クディフも剣を振り上げる。
両者、譲れない戦いがここにもあった。
余裕もなく、ただ走り抜けた。孤児院を抜け裏通りに差しかかった。すれ違う人が驚き、竜次を一度は振り返った。女性を抱えて走るのがそんなに珍しいのだろうかと思ったが、今は身形を考えられない。
竜次の頭上を風が抜けた。
「お兄ちゃん先生!?」
空を翔るコーディだ、彼女も竜次を見て息を飲んだ。降りて近寄るも、彼女の金色の目は竜次を見て怯えている。
「どう、した……の?」
コーディは力なく笑う。とんでもないものを見るかのように。
「どうした、コーディ……」
コーディを追ってジェフリーが駆けてつけた。
「あに……き?」
ジェフリーも、竜次を見て驚いていた。
竜次は腕の中でミティアが眠っているせいかと思った。だが、ジェフリーがもっと別の指摘をした。
「兄貴、どうしたんだ? その血……」
ジェフリーは竜次の顔をじっと見ている。竜次の顔には、血を浴びた跡がある。そのことを指摘されていると知り、竜次は俯いた。抑え込んでいたものが無性に込み上げた。
「私の、血じゃありません……彼女の……です……」
コーディはトランクを置き、中からタオルを取り出す。水場がないか探しに行った。
「ジェフ……私、わた……し…………っ……」
竜次は声を震わせ、泣きながら膝をついた。周りの目を気にしておらず、誤解を招きそうだ。
「兄貴……?」
ジェフリーは困惑した。なぜなら、竜次の泣いたところを見たのは初めてだからだ。これが本当の竜次ならば、何がこうさせてしまったのだろうか。目を覚まさないミティアも気になった。嫌な予感を問い詰めたい。だが、今は黙るべきだと判断した。
コーディが水を含ませたタオルを持って戻った。急いでいたのか、タオルからは雫が滴っている。
コーディは竜次の顔の血を拭った。泥も涙も含まれた悲しい色が、白いタオルを染める。
「お兄ちゃん先生、いったん戻ろう、ここで泣かなくてもいいじゃん、ね……?」
とりあえずの処置だ。行き交う人の刺すような目はなくなったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
ジェフリーは竜次の手を引いた。竜次が辛うじて立ち上がるが、ミティアを抱えたまま、どうしても離そうとはしなかった。
何かあった。とんでもないことが。
宿に着くなり、竜次はフロントに声をかけた。
「一人部屋でかまいません。追加でお願いします……」
受付の人が慌てながら一階の奥の部屋に案内した。
ジェフリーはその様子を見てぼんやりと思った。竜次はきっと、つきっきりで面倒を見るつもりだ。
ジェフリーとコーディも部屋に付き添った。
竜次はミティアを横にならせた。彼女は静かに寝息を立てている。
怪我はないようだ。しかし、ミティアは目を覚まさない。ジェフリーはこの光景に覚えがある。竜次から何も詳細を聞いていないのに、ジェフリーは胸騒ぎを覚えていた。
「あ、私、お湯貰ってくるね。お茶でも……」
コーディが足早に部屋を出て行った。気まずくなったのか、気を利かせていたのかはわからない。足音が遠くなる。
竜次は足音が聞こえなくなったのを確認し、ジェフリーを見た。物悲しげに訴える眼差しは、何度か瞬き、ミティアへと視線が落ちた。
「ごめんなさい、ジェフ。私、彼女が好きです……」
ジェフリーは胸の奥を痛めた。声を発したくても、今は押し殺すしかなかった。
「どうしてもミティアさんを守りたくて、でも、私は守れなかった。それどころか、助けられた。彼女は私を庇って致命傷を負い、自分に禁忌の魔法を使ったのです」
ジェフリーは顔をしかめる。今だけは、竜次に言いたいだけ言わせようと、沈黙を決め込んだ。
「あのクディフという剣士に襲われました。私たちの旅が仕組まれたものだと告げられた。私たちが親しくなり、誰かが傷つけば彼女は禁忌の魔法を使う、その機会をずっと待っていた。ミティアさんの存在を壊すために。だから、彼は最初から彼女を連れ去らなかった。私たちはあの人に踊らされていたのです……」
ジェフリーは小さく頷き、話を聞いているふりをしていた。本当は話のほとんどが頭に入ってこない。
「あの人はミティアさん力を悪用させないために、私たちに監視をさせた。それは順調だった。ですが、私が一緒にいたせいで、争いになりました」
「……兄貴が?」
ジェフリーは軽く首を振り、話を聞く姿勢を正した。どうも話が複雑に入り組んでいるように思える。
竜次は顔を上げ、ジェフリーに訴えるように問う。
「ジェフはわかっていたのでしょう? 私が旅に同行する理由を……」
ジェフリーの視線が泳いだ。まるで、責任を問われているかのようだ。
「兄貴はもうそういう人じゃない。俺は信じてる……」
「ミティアさんにも、同じことを言われました」
「ミティアは兄貴を慕っている。それに優しいから、兄貴の気持ちを汲み取ってくれると思う」
ジェフリーは竜次を励ますつもりで言った。マイナスの感情に陥らないように気を遣っていた。それなのに、ミティアの話をするのがつらいと感じた。
竜次はジェフリーの心情を察し、話題を戻した。
「私がいるせいで、目的が変わった。私のような人に悪用されると思ったのでしょう。ミティアさんの中には、もう一人……禁忌の魔法を使う人格が封じられているようです。その人を引き出すのが目的でした。そのためには、禁忌の魔法で彼女に過度な負担をかけさせ、反転させる。それが目的になった」
「……」
ジェフリーはぼんやりと思い耽っていた。圭馬の兄、圭白に言われた話がつながったかもしれない。仲間に魂を半分しか持たない人がいると、聞いた覚えがある。口にせず、一人で納得した。
「あの剣士の誤算は、思いのほか我々が大きい怪我もせず、ここまで彼女を守れた。彼によって禁忌の魔法は無理矢理使わされた……」
なぜミティアが目を覚まさないのか。なぜ禁忌の魔法を使ったのか。ジェフリーはやっと理解した。何となく予感はしていたが、だいたい予想どおりだった。
「情けない話です。話は完全に向こうのペースでした。飲まれるままに、罵倒もされました。医者であることを、お父様と同じようになるのではないかと」
「兄貴は親父とは違う……」
「ミティアさんは私を庇ったのです。何も知らないくせに、悪く言うなと。何の戸惑いもなく言う人、好きになってしまいます……」
愛おしい人を想うその顔、まだどこかに迷いがある。
邪魔をしているのは自分だ。ジェフリーは身を引く決意をした。本心は、譲りたくなんてなかった。だが、スプリングフォレストで、自分は何を言っただろうか。
思い返せば、そこから既に矛盾していた。
愛する人を失って絶望し、一度は命を絶った竜次が立ち直ってくれたのは嬉しかった。それは何にも変えられない。かけがえのない、血の繋がった兄だから。
こうなるとは予想していたはずなのに、勝手に告白して一人で浮かれた気分になっていた自分が憎らしい。馬鹿らしくもなってきた。
今は揉めている時間が惜しい。ちょうどいい。好きな人を失う恐怖と、戦わなくていいのだ。幸いにも、ミティアから返事はもらわないようにしていた。将来を見据えても、旅が終わって何でもない女の子になれたら、竜次は稼ぎも出来るであろう。何なら、彼女にも手伝ってもらうかもしれない。きっとその方が、彼女のためだ。
ただ、支えるのが自分ではなくなるだけ。ミティアが幸せならそれでいい。
ジェフリーは無理矢理にでも納得したかった。
コンコンと、ノックされ扉が開く。
コーディが暖かいお茶をポットで持って来た。木製のカップもチェストに置かれた。
「ジェフリーお兄ちゃんの分もあるけど?」
「いや、俺はいい……ちょっと外を歩いて来る」
「えぇー、せっかく持って来たのに……」
ジェフリーはこの場にいたたまれなくなった。気を遣うように部屋を出る。宿を出て、深呼吸をしていると、隣にコーディがいた。
ジェフリーは息をついてからコーディに声をかけた。
「ついてこいって言ってないぞ?」
「うぇー……なにそれ、邪魔ぁ?」
コーディは時々このような年頃の口調で話す。中身は十六歳だと言っていた。外観が幼いため、どうしてもつり合わない。
「孤児院に挨拶に行くんだぞ、お前まで来てどうするんだ?」
「えっとぉ、邪魔しないから一緒に行ってもいい?」
ジェフリーは孤児院に挨拶に行くと言った。実はたった今、思いついた出かける口実だ。
一人でいるよりは、気が紛れるかもしれない。ジェフリーはコーディと街へと歩き出した。
まるで、なくなってしまった己の居場所から、逃げるように。
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※※楽しかった……続きが気になると思って頂けた場合、お気に入り登録……このエピソード好みだなとか思ったらコメントを貰えたりすると軽い絶頂を覚えるくらいには喜びます……メンタル弱めなので、誹謗中傷てきなものには怯えていますが、気軽に頂けると嬉しいです。※※
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