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【4】千切れそうな絆
戦う人・学ぶ人
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貿易都市ノア。山道を抜け、街に辿り着いた時は斜陽だった。
夜を迎える前に街に辿り着いたが、野営もしたのでふかふかのベッドが恋しい。
コーディが先頭に立った。この街には慣れているようだ。
「まずどうする? 何か食べる? 宿を探す?」
竜次が皆の体力を確認しながら提案をした。
「先に宿を取ってから出かけたいですね……」
宿で一息入れてからがいいだろうという判断だ。荷を置いて身軽な状態で出歩いた方がよさそうだ。
広い通りに石の地面、よく整備刺されている街並みだ。だが、もしかしたら奥行きがある街なのかもしれない。ざっと見ただけではこの街の魅力がわからなかった。貿易都市という名前なのだから、もっと賑わっているものだと思っていたが、とても静かで人通りもまばらだ。
コーディは慣れた足取りで中央通りを抜け、案内をする。
案内をされながら、ジェフリーは広いわりに静かな通りを見て疑問を口にした。
「貿易都市って言うくらいだから、もっと賑やかだと思っていたがそうでもないのか?」
コーディはすぐに説明を入れた。
「この街が賑やかなのは商船がある夕方までだよ。昼間は文字通り、目が回るくらい人がいっぱいだから」
説明をしながら案内されたのは、大きめの宿だ。赤茶色のレンガの外壁にピンク色をした珍しい瓦の屋根が可愛らしい。観光客向けでもある整った宿だった。
入ってみると内装も整っており、清潔感があってとても綺麗だ。落ち着いた色の壁紙、大きな窓、客室までの階段も大きく広いものだった。
ロビーには、ゆっくり読書でもできそうなテーブルと椅子が見受けられた。ベロア調でやけに椅子の質感がよさそうだ。この清潔感と落ち着き具合は嫌な予感がする。
竜次はジェフリーの肩を叩いた。そのままこそこそと小声で話す。
「そうだ、ジェフ。お金、まだありましたっけ?」
ジェフリーも、フィラノスでほとんどの資金を使ってしまったことを思い出した。
「た、高いよな。絶対……」
カウンターで話をつけているコーディの横で、兄弟は値段表を見て絶望した。王都祭前のフィラノスほどではないが、男女二部屋となると負担が大きい。
「どうしたの? 二部屋でいいんでしょ?」
コーディは兄弟に確認を取る。
部屋を押さえるまでは問題ない。ジェフリーが竜次に振り返る。本当にこれでいいのかと迷っているようだ。
「いや、まぁ……お金がな?」
「あぁそれ? 私、それなりのハンターだから割引が利くよ。助けてもらったお礼がしたいから今日は私が出すね」
「でも連泊するかもしれないんだぞ?」
「お兄ちゃんはフィラノスから陸路でスプリングフォレストを抜けて、沙蘭もあったでしょ? そんなに気にしてるなら、明日ギルドで稼いでもらうね?」
コーディは部屋を取り、前払いで手続きをした。追加料金は何かあった時に支払うようだ。つまり、払ったのは一泊分。連泊になる場合は、宿の混雑具合と相談してできるシステムらしい。貿易都市らしく、有事に対応している。
男女別の部屋で荷物を置き、部屋の設備を軽く確認した。
一息つき、夜の街に繰り出す。夜風がよく抜ける。歩いているだけでも気持ちいい。飲食店から風とともに流れてくるいい香りが胃袋を刺激する。
少し見ただけではわからなかったが、街の造りは入り組んでいた。見通しがよく、風が抜けるのは表の広場までだった。その奥は、階段や、数階層にわたってお店が見受けられる。よく整備されているが広場と大通り以外は複雑なようだ。
すべてを把握するのは地図がないと難しいかもしれない。
「で、何が食べたいの?」
コーディがまた案内をしてくれるようだ。先導しようと前に出た。
食べものの話と聞いて、ミティアは手を挙げた。
「ずっしりとしたご飯がいいと思います。みんな山道で疲れているし、味の濃いものや、温かいものがいいかも? 先生はお酒飲みたいですよね?」
ミティアは自分の要望だけではなく、仲間への気遣いもしていた。コーディはその意見を取り入れる。
「さっき山道で言ってた火鍋はないけど、いろいろなものが食べられるのがいいなら、じゃあこっちかな……」
コーディは案内を続ける。すると、街の繁華街に出た。その中から明るく大きめのお店に入った。ご飯時なのに空いている。
七人なのに大きい席がパッと取れた。
大衆酒場ではないが、店内も明るく雰囲気は悪くない。壁にはギルドの記事やこの街のお店の宣伝が張り出されている。木造の建物で中二階がある三階建てだが三階には明かりがなかった。一行は中二階に通された。大きい卓しかないようだが、先客はいない。これから賑わうのだろうか。
込み入った話も多少ならここでしても大丈夫だろう。
座ってメニューを眺めるミティアがやけに楽しそうだ。ティアマラントの屋敷で、恵子の作ったオムライスはいただいたが、最近はきちんとしたものを口にしていない。
シリアルバーや携帯食料。まだ野生の動物を狩って食べるまではしていないが、そうなることもこの先、あるかもしれない。
何はともあれ、食べられる時は食べる。これに限る。
適当に注文を通し、サラダや焼きたてのパンやピザなど、小分けにできるおつまみを口にしながら、これからの動き方を話し始めた。宿に戻れば男女別室なのだから、食事の時にしか情報の共有が利かない。
ジェフリーは話の切り出しと流れを作った。まずは提案からだ。
「この街でやりたいことは大きく分けて三つ、まずはギルドでの情報収集。これは俺とコーディで当たろうと思う。場合によっては、そのまま資金集めもする」
提案を耳にして、キッドは感心していた。チーズの乗ったフォカッチャを、切り崩しながら頷いている。
「分担するってこと? 考えたわね……」
機嫌がいいというよりは、名案だと素直に感心しているようだ。この反応は珍しい。
良い提案だと思ったのはキッドだけではない。
「確かに、いちいち総動員していたら、何日かかるかわからないデス」
ローズも頷きながら竜次とワインを開けていた。酒飲み仲間という点では、もしかしたら仲が良いかもしれない。
皆が食べながら耳を傾けている。それを確認しながらジェフリーは提案を続けた。
「もう一つは買い物を兼ねて、これから先に備えて準備と環境を整える。これは主にサキにお願いしたい。今回、情報収集に関しては無理をしなくていい。買い物は大変だろうからミティアとキッドにも一緒に頼みたい。うまくやりくりしてくれるだろうし、きっといい買い物をしてくれる」
サキはミティアとキッドにも視線をおくり、頷いた。
「道具、確かにありませんよね。お買い物のリストアップでもいただけると助かります」
「あぁ、それはあとで私がしますよぅ」
竜次が買い物メモの制作を引き受けた。フォカッチャを美味しそうに摘まんでいる。ワインと一緒なのだから美味しいだろう。すでに呂律が怪しい。酔って変なリストを作らないか心配だ。
「三つ目は孤児院だな。俺も終わったら顔出しに行くつもりだ。先に下見というか、軽い調査を兄貴にお願いしたい」
この割り振りに対し、ローズは控えめに挙手をした。
「ワタシも行きマス。今の孤児院がシロなのか、疑って申し訳ないですケド」
ローズは協力を申し出た。あまりいい理由ではないのだが、竜次は感激している。
「いいえ、助かります。正直、疑いがないと信じきれていません。親族というつながりがない状態でしか見えないものがあるはず。ローズさんにも確認をしてもらいたいと思います」
「ワタシでお手伝いになるかわからないですが、そうデスネ」
孤児院が種の研究所とつながりがないか、この見極めはしなくてはならない。もし、今も孤児が実験に利用されているとしたら悲しい連鎖は絶たなくてはならない。種の研究所の場所がわかるかもしれない一方で、このつながりがないことを一同は切に祈った。
明日の動き方の話がまとまった。
コーディが街歩きの注意をする。これは念のためだ。
「さすがにないと思うけど、変な人に絡まれた時はうまくかわしてね? ここはどこの国の管轄でもないから、役人は薄月給でやる気もないだろうし、助けを求めても期待できないよ。何かあったらほとんどは自衛するしかないから、そこは気をつけてね」
「自衛って……」
キッドが苦笑いで冗談ではないかと疑っている。その隣でミティアが首を傾げた。
「もしそうなったら、どうしたらいいの?」
対策くらいは考えておくべきだ。街中を出歩くのは、彼女たちだからだ。
コーディは人差し指を立て、注意を促した。
「ナンパとか勧誘は基本、無視。つきまといや刃物を持って振り回してくるおかしな人に絡まれたら、攻撃してもいいけどやりすぎても半殺しにしてね。ギルドの中ではそういう喧嘩、報酬がらみでよくあるけどね」
物騒な話だが、繁華街ではない話ではないだろう。
コーディは淡々としていたが、うまく世渡りするにはこれくらい肝が据わっていた方がいいのかもしれない。
「昼間の雰囲気でわかると思うけど、この街は賑やかだよ。物と人が行き交うから別に武器を持って歩いても問題ないし、大丈夫だと思うけど一応気をつけてね?」
「さすがに慣れてるな。見直した」
ジェフリーは深く感心した。できれば今の話でミティアやキッドも自衛を心得てもらいたい。意識するだけでも違うはずだ。
コーディは説明を終えるとパスタに手をつけはじめた。
「さぁ、しっかり食べなさい!」
「えっ、えぇっ……これでも食べてますよ⁉」
突然キッドが、サキの前にグラタンを盛って置いた。
困惑しているサキを見て、コーディはその話に加わった。
「お兄ちゃん細いよね。腕でわかるけど、食べて体力つけないと」
サキは答えにくそうに俯いた。その様子を見て、キッドはフォローをする。
「この子、とんでもない親に縛られて、ストレスでこうなっちゃってるのよ。根性は一人前だから、食べて肥えてもらわないと!」
「い、いきなりはそんなにたくさんは食べられないですよぉ」
「いいから、このフォカッチャもおいしかったわよ。ほら」
キッドはフォカッチャをちぎってサキの口元に運んでいた。食べさせるつもりだが、少し強引なやり方だ。恋人か保護者か、あるいは本当の姉弟のように接している。
コーディはじっとサキを見ていた。先ほどのキッドの言葉が気になっていた。親に恵まれなかった人がここにもいたと、親近感が生まれた。
ミティアが向かいに座っているジェフリーをじっと見ている。ジェフリーはその視線が気になった。
「どうした? 俺の顔はもともと悪いぞ?」
ミティアの前には小エビや貝の乗ったパエリアがある。食べる手を止めて、何が気になるのだろうか。いや、ジェフリーが食べている、塩ダレのかかった炒めご飯が気になるのかもしれない。ご飯の山から見え隠れしている野菜と肉の色合いは、もしかしたらおいしそうに見えるかもしれない。
声をかけられ、ミティアは笑って答えた。
「前はそんなにおいしそうに食べなかったよね?」
指摘を受けジェフリーは、恥ずかしそうに心当たりを口にした。
「な、何でもうまそうに食う奴がいるからだろ、きっと」
「そ、それって誰?」
「さぁな……」
はぐらかされたミティアは不満そうに頬を膨らませる。怒っているのかもしれないが、どこか悲しそうだ。
ジェフリーはこの態度を取ってからなぜか自己嫌悪に陥った。ミティアに対して、どうしても素直になれない。突き放すような言動は彼女に笑っていてほしいと願った自分とはかけ離れていた。
「そ、そんな顔をするな。ほ、ほら、空いてる皿をよこせ。少しやるから」
ジェフリーは少しでも機嫌を取ろうと試みる。食べものの話になればミティアの表情は明るくなる。
ジェフリーの態度とやり取りを見て、竜次が苦言を呈す。
「ホント、ジェフは可愛くないですねー……」
スプーンで圭馬にスープを飲ませながら、竜次が睨むような視線をおくっていた。
「そういえば、キミたちって兄弟なのに、顔とか性格とか全然違うよね」
圭馬が過激な指摘をした。見ていない隙に、ワインを舐めていたかもしれない。
「兄貴と一緒にされても困る。俺はそんなにデキがいいわけじゃないし」
ジェフリーの言葉にカチンと来たようだ。竜次も視線がぶつかった。
「あなたねぇ、自分を低く評価しすぎなんですよ。どうするんですか、あなたを慕ってくれる人に対して、少しは失礼だと思いなさぁい!」
竜次は言ってからしゃっくりをしている。
「お兄ちゃん先生、悪酔いしてない?」
圭馬がすかさず指摘を入れる。ローズが気を利かせた。
「お水ピッチャーでお願いデス!」
ローズは手を上げて店員を招いた。何事もほどほどにしなくてはいけない。
一同は、安ワインに悪酔いをした竜次を介抱しながら宿に戻った。
買い物リストなど作れるはずもなく、竜次は風呂にも入らずに眠りこけてしまった。フィラノスでもそうだったが、お酒が入ると変な酔い方をするようだ。
ジェフリーとサキで宿のお風呂をいただいた。
圭馬は目立たないように洗面器に浸からせておとなしくさせる。
さすがに人前で話すことはなかったが、ぬいぐるみを持った不審者には思われたかもしれない。
足を伸ばし、肩までゆっくりと浸かれるのはありがたい。野営をするとそのありがたみが身に染みる。
疲れを清算し、二人は脱衣所で話し込んだ。
「ジェフリーさん、お金稼ぎもするつもりですか?」
サキは着替えて髪の毛にタオルを絡ませながら質問をする。先ほど食事をしながら話していた、ギルドの話が気になっているようだ。
「この人数だから、動くための金も必要だろう?」
「そうでしょうけど、あまり危険なお仕事はしないでくださいね。生傷を作られても、時間が経過していたらいくら魔法でも綺麗に治らないかもしれないので……」
なぜかジェフリーは心配をされている。だが、心配なら街中にもあるだろう。
「サキも街中に危険がゼロとは限らない。キッドも頼ってうまくやりすごせよ?」
「そうですね。どうしようもなかったら、圭馬さんにもお願いしないと」
サキは腕の中で耳の後ろを掻いている圭馬にも視線をおくった。正直なところ、普段は助言だけで、サキの魔力を開放しないと圭馬は役には立たない。街中で実力行使の解決など、どんな危機的状況だろうか。そこまでしないといけない疑問はある。
特にサキは、タスクの多さに負担も大きい。無事に消化したら達成感もあるだろうが、果たして一日で済むのだろうか。
次の日の朝、ノアの街はよく晴れた空に恵まれた。
悪酔いをした竜次は途中から記憶がないのを詫びた。だが、買い物リストはきっちりと仕上げていた。おまけにしっかりと身だしなみが整っている。いつの間にか疲れの清算をしておいたようだ。だらしがない気質をやり手の大人という上辺だけで凌いでいる。買い物リストと、資金をサキに渡し、竜次はお願いしますと加えた。
宿のロビーで夜にまた会おうと約束する。
「そうだ、サキお兄ちゃんたちはこれ、必要だよね?」
コーディがこの街の地図を渡した。古びているが、だいたいがわかれば動きやすい。
「確かにないと困るわね、ありがと」
キッドが覗きながらお礼を言った。
支度が整ったところで、お互いに分散して行動を開始する。
ギルドでの情報収集を担当するのはジェフリーとコーディだ。街を知るコーディが街の中を案内した。
大通りにはテントが並び、商人たちの売買が盛んだ。昨日の夜には見かけなかった光景にジェフリーが驚いた。
「すごいな、もうこんなに人がいる……」
「こんなのは序の口だよ。もう少ししたら通れなくなるから、今抜けちゃおう。ギルドはこの先だよ」
駱駝や馬車、船からそのまま持ってきたのであろう木製のコンテナも見受けられる。人通りはまだまばらだった。貿易都市と謳われるのだから、これくらいでは済まずにもっと賑やかなのだろうと想像できる。少なくとも、ほかの街では朝からこんなに人の通りはない。
二人は大通りを抜け、金板の丸い看板にギルドと書いてある建物に到着した。木造だが扉や床が新しい。看板だけが古かったから、移転か改築でもしたのかもしれない。
「おはよう、マスター」
コーディは入るなり、慣れた様子でカウンターに挨拶をしに行った。
「お兄ちゃんは壁の張り紙でも見てていいよ」
言われるがまま、ジェフリーは内装を見流し、壁の張り紙に目を通していった。すでに沙蘭が邪神龍に襲撃された話は出回っている。これを見た人は『勇者』という単語に、何を期待しているのだろうか。
「コーディじゃないか、よかった。今ちょうど、人手を探していたんだよ」
カウンターにいるのは中年の女性だ。化粧をしており、大玉で派手なネックレスやイヤリングをしている。ギルドの人というよりは、酒場のママに近い外見をしている。
声量があり、よく通る声なので自然と耳に入る。ジェフリーも話に反応した。
「どうしたの? 飛び入り?」
どこかに飛び込むわけではないが、コーディは急ぎなのかと聞いているようだ。聞き耳を立てるジェフリーを気にしていた。
カウンターの女性がジェフリーに目を向ける。
「あらぁ、コーディのカレシかい?」
「違うよ。でも一緒に組んでる人だから安心して。で、何をすればいいの?」
まだほかには人がいない。時間が早いせいかもしれないが、きっとこれからここも賑やかになるのだろう。
女性はカンターの机に紙を置き、ペンで書きながら説明をした。
「今朝がた、フィリップスに通じる街道に黒い卵が発生したらしいのよ。話じゃ、噂の黒い龍の卵じゃないかって話しでね。フィリップスと協力しているんだけど、今は向こうも手薄でこっちにも腕利きがいないのさ」
ただならない話だ。聞いたコーディはジェフリーに振り返る。
「どうする? みんなを呼びに行く?」
コーディはジェフリーに選択を迫る。カウンターの女性が補足をした。
「さっき、アイラさんが向かったけど、手伝うだけでも行ってやってはくれないかい? 調査しようにも、それなりに腕の立つ人じゃないとどうも信用できなくてね」
女性の話を聞き、コーディとジェフリーは顔を見合わせた。先に向かった人の名前を聞き間違いかと思ったのだ。ここで多くを語らなくとも、行けばわかる。二人は頷き、この場を収めた。
しかし、疑問が浮かんだ。コーディはカウンターに振り返る。
「っていうか、何で腕利きがいないの? どうして手薄なの?」
「壁に貼ってあるだろう? ノックスの埋蔵金騒動のせいだよ」
そういえば、沙蘭が襲われた日付よりも前に、埋蔵金の話が書いてある。埋蔵金が発見されたため、炭鉱の採掘の人手を募集している。しかも高額の報酬が記されている。
人間の汚い部分だ。普通はその話に食らいつくだろう。誰しも金はほしい。
ローズがスプリングフォレストを抜けるための同行者が見つからないと言っていたのも、沙蘭が手薄だったのもこれが関係していたのかもしれない。
「それで実害は? 被害は出ているのか?」
ジェフリーはカウンターの女性に質問をした。カウンターの女性は激しく首を振った。
「いやいや、本当にさっきの話だよ⁉ こっちにはなのも情報が来てないさ。でも、ギルドの話は早いから、何かあったら情報で生計を立てている奴らが走って報告に来ると思うね。時間が惜しいんだけど、すぐに調査に向かってくれないかい?」
女性に選択を急かされた。確かに本当だったら一大事だ。それに、向かったと言っていたのは、サキの師匠のアイラだ。本当だったら、サキにも声をかけに行きたいが。
「いくら?」
コーディが報酬の確認をしている。汚いかもしれないが、人と金が動くのもギルドの特徴だ。
「飛び入り料を含めて五万リース」
「乗ったわ。手帳にサインをちょうだい」
コーディはジェフリーに許可をもらわず、さっさと手帳を出した。
「お兄ちゃん、すぐ出るよ!」
コーディは女性にサインをもらってトランクにしまいながら手招きをした。ジェフリーも覚悟を決めるしかない。
「もう一泊できるよ。おいしいもの食べても、おつりが出るくらい」
せめてサキに伝えたかったが、待ってくれなさそうだ。それに、本当だとしたらアイラが危険かもしれない。期待もあった。無事なら、何か情報を握っているのかもしれない。ジェフリーはこの考えを口にせずに黙った。今は流れに乗った方がよさそうだと判断する。
「わかった。乗るが最悪、撤退も視野に入れてくれ」
もし邪神龍だったら手に余る。ジェフリーはそれを主張した。コーディはその意見に同意した。命が大切なのは言うまでもない。
ギルドを出ると、大通りは既に通れなくなっていた。人で身動きが取れないなど、現実にあるものなのかと疑いたくなるが、これは事実だ。
二人は街の裏口から街道を目指して走り出した。
ジェフリーは武器以外に準備らしいものはない。幸いにも、コーディがトランクを持っている。有事の時は何かしらの補助はしてくれそうだ。
孤児院の調査。その名目だが、肉親への挨拶を兼ねている。
目的地に行くための地図は必要なかった。少し注視すれば、街の案内に名前が出ている。『孤児院はこちら』と綺麗な木目をした看板が指し示していた。
ローズがついて来ると申し出たのが意外だと竜次は思った。だが、表面上では親戚に怒られに行くようなものだったので、少しは緩衝材になるかもしれない。そんな甘い考えを持っていた。
看板の案内に従って進むと、街の外れに白い平屋があった。屋根はえんじ色をし、派手さはない。庭が見え、子どもたちがむやみに街中へ出ないように囲いがあった。
大人がジャンプでもすれば簡単に跨げるので、柵とまではいかない。囲いの戸には小鈴がたくさんぶら下がっていた。玄関ベルのようなものかと、竜次は振って鳴らした。
「はぁーい!」
女性の元気な声がした。バタバタと走ってくるが、声の正体より先にやんちゃそうな男の子が覗いた。ここの子どもだとすぐにわかったが、あとから何人も走ってくる。
五人ほどの子どものあとに、一本の三つ編みおさげをしてチェック柄の赤いストールを羽織った女性が顔を見せた。女性は竜次を見るなり驚きの声を上げる。
「り、竜ちゃんかい⁉」
「こんにちは、おば様……」
「まぁ……大変だよ、こりゃ」
女性は二人を招き入れた。
竜次が連れだとローズを紹介する。ローズも会釈した。
「こちらはローズさん、知り合いです」
「はいどうも。私はマリー・サイラー。この子の母親の妹にあたる親戚です。ようこそ」
マリーの目は潤んでいた。その様子に、子どもたちは竜次の足もとに殴りかかった。
「マリーさん、泣かせたな!」
「このおじさん、悪い人だー」
突然の訪問者にマリーは泣かされた。そう判断した子どもたちは竜次を悪者だと判断した。
竜次は『おじさん』と呼ばれた点に傷ついたが、とりあえず黙っている。それよりも困ったことに、子どもたちが離れない。これでは落ち着いて話ができない。
「これ、おやめなさい。悪い人じゃないのよ」
マリーが止めに入るが、そう簡単に誤解は解けないようだ。子どものパンチは痛くないが、悪者にされて竜次も困っていた。
その様子を見て、ローズは行動に出た。白衣のポケットに手を突っ込んで子どもたちの背後に立った。
「ほーれ、飴ちゃんだヨ」
ローズは両手に棒のついたキャンディを広げている。そのキラキラした飴に子どもたちの注意は反れ、釘づけになった。一気にローズは注目の的になる。
竜次は驚きの声を上げる。
「ロ、ローズさん!」
「ワタシは子どもを産んであげられなかったのでネ……」
ローズは控えめに笑った。その笑みは、罪滅ぼしの一環とでも言いたそうな、悲しい笑みだと竜次は思った。
「先生サンは存分にお話なさってくださいデス」
ローズは竜次にそう告げると、もう一度マリーに会釈して小走りになった。
「さぁおいで、追いかけっこしまショ」
子どもたちがローズに向かって一斉に走り出した。
「何だか申し訳ないわ……」
マリーは頬に手を添え、悩ましげな表情だ。すでに遠くなっているローズを見ていた。
ローズが言った『産んであげられなかった』という言葉を耳にした竜次は複雑な心境だった。もしかすると、自分の父親とそういう関係だったのかもしれない。自分たちに迷惑をかけられたわけではない。この大人の関係に、自分が踏み込むべきではないと判断した。
二人きりになり、マリーは気になる質問をした。
「竜ちゃんの彼女、ではなさそうね」
「そうですね。お医者さん友だちです」
竜次は適当な言葉が思いつかず、完全な嘘は諦めた。マリーに『今』を詮索される想定はしていた。ある程度の言い訳は考えてあるものの、どうしても自然な返しにはなりづらい。
マリーが孤児院の中へ案内する。子どもたちはローズと遊んでいるため、室内にはいない。子どもたちが描いた絵や折り紙が壁のいたる場所に見受けられる。生活感があるが、よく整頓がされていた。
いくつか小部屋があったが、その中から扉のある応接室に通された。さすがに応接室はきちんとした椅子やテーブルがある。本棚があり、部屋の一角が書斎という兼用部屋のようだ。限られた広さでうまくやりくりをしているのがうかがえる。
マリーは竜次を抱きしめた。竜次は驚き、のけ反りそうになる。
「あの、おば様?」
「話したいことはたくさんあるけど、先に言いたかったのよ。よく生きてくれたね」
マリーは泣きながら竜次の頭を撫でた。
この様子だと自殺した話がマリーの耳にも入っていたようだ。どこまでも恥ずかしい行為だと竜次は思った。消えない、一生の汚点だ。だが、ここにも生きていることを喜んでくれている人がいるのを、うれしく思った。
「ご心配をおかけしました……」
「もう、帰って王様をしたらいいのに……」
この話をされると想定はしていた。それよりも竜次は重要な話をしに来た。
マリーが落ち着くのを待ってから、竜次は腰かけた。感傷に浸ってもいいが、ゆっくりと話す。
「突然来てしまって申し訳ない」
「沙蘭が襲われたって聞いて心配したんだよ。最近は本当にいい話がなくてねぇ」
竜次は手紙を差し出した。きちんとした封がしており、沙蘭のシンボルフラワーである桜の印が押されている。マリー・サイラー様と書かれてあった。
封の印を見て本物だと知ると、マリーは目を丸くして竜次を見ている。
「沙蘭に行ったの? これ、姫ちゃんの印じゃない……」
マリーは封を開き、手紙を読んだ。目で追っているのがわかるほど、文字は書かれていない。
二枚に渡って書いてあった手紙を読み終えると、マリーは手を震わせながら首を横に振って涙を零した。
「おば様……?」
マリーはそのまま手紙を竜次に差し出した。
目を通してみると、沙蘭に黒い龍が現れたこと、皆が沙蘭を訪れて街を救ったこと、世界の生贄制度に踏み込んでしまったことなどが書かれてあった。ここまでは、竜次も知っている。もう一通、フィリップスへ渡すはずのものを見ていたからだ。だが、二枚目は違っていた。
二枚目は、これを読んでもジェフリーや竜次を咎めないでくれというメッセージが添えてあった。
「姫子……」
またも、正姫に気を遣わせてしまった。竜次の中で申し訳ない気持ちだけが大きくなっていく。
「おば様、すいません……」
「そうだね。もう、普通には戻れないんだね……」
マリーも渦中の人だったことがうかがえた。
「ジェフちゃんの名前も書いてあるのは、一緒に来ているのかい?」
マリーはハンカチで目元を整えながら、竜次に質問をした。
竜次は笑って頷いた。少ない肉親が、ここまで自分たちを思ってくれている。心配してくれている。特に、母親のような心遣いがうれしかった。
「そうかい。知らないうちに大人になっていくんだね」
マリーは感慨深いようだ。それは竜次も同じだった。
「ジェフちゃん……姉さんが命懸けで産んだのに、抱っこできなかったの、きっと悔いていると思うわ。立派になっているのでしょうね」
マリーの言葉に竜次は心を痛めた。心苦しかった。亡くなっていることを話していないのに、既に知っているような口ぶりだ。もしかしたら、自分たちが知らないだけだったのかもしれない。
嫌な予感がし、竜次は父親のことを口にした。
「あの、おばさま、お父様がどこにいるかご存じではないですか?」
「ケーシスさん? いいえ。てっきり沙蘭へ帰ったものだと」
「いえ……帰っていませんでした。私たちが知らない場所で、何かよくないことをしようとしていなければいいのですが」
「じゃあまだ留守を? おかしいわねぇ。ケーシスさんはこの街に引っ越す際にも資金援助をしてくれていたし、そんな悪いことするとは思えないわ。きっと大丈夫よ」
少なくともマリーは、ケーシスをいい人だと信じているようだ。
竜次は旅の途中で会った刺客のことを言えなかった。つながりがあると思われるが、この話をしてマリーが知っている保証はない。それに、知らなかったら余計な心配をさせてしまう。竜次は言葉を考えていた。
マリーはとある可能性の話をした。
「でもいい人ほど、騙されてしまうかもしれないわ。ケーシスさん、誰かに利用されてないといいのだけど……」
新たな可能性、『利用』という言葉が妙に気になった。確かにその線も考えるべきだ。どちらにしろ、父親には会って話さないといけない。竜次はやはり父親を探さなくてはと焦りを感じた。
マリーは突然立ち上がって、竜次を別室に招いた。
「そうだ、竜ちゃんにお願いがあるのだけど、付き合ってもらえはしない?」
時間はまだある。竜次はマリーに招かれるまま移動をした。
子どもたちが普段生活をしている部屋のようだ。大きな机があり、いくつも椅子が見受けられる。壁に大きな黒板があり、使い古したチョークが隅に見えた。
マリーは鍵のついた引き出しから年季の入った木箱を取り出した。中は紙束だ。
「竜ちゃん、今はお医者さんでしょう?」
「えぇっと、一応……」
紙束は子どもの名簿だった。竜次は意図がわからないまま首を傾げた。
「もし、明日も滞在しているなら、子どもたちの健康診断をお願いしたいのだけど」
「えっ⁉」
「いつもフィラノスやフィリップスからお医者様を呼んでいるのよ。でも最近は黒い龍で治安が悪くなったせいか呼べなくてね……」
マリーはさらに封筒を差し出した。
受け取った竜次は『重み』を感じた。これはお金だ。資金難な孤児院からだ。ましてや身内、受け取れるはずがない。
「ま、まだ明日も滞在するのかわからないです。それに、もし引き受けるとしても、おば様からお金なんて受け取れません……」
竜次が断っても、マリーは封筒を引っ込めるつもりはないようだ。竜次は馬鹿正直なことに、明日もどうかわからないまで言ってしまった。
「き、決まってからでいいですか?」
とりあえず竜次はこの場を凌いだ。上手い返しが思いつかない。
マリーは医者になった理由も、ほとんど医者らしい仕事をしていなかったのも知っているに違いない。正姫から話が回っているだろう。長年連絡も取っていなかった、ジェフリーにだって手紙を出したのだから、マリーにも同じことをしたのかもしれない。
そんな医者らしくない竜次に、わざと仕事をさせようとしている。
うれしくて、申し訳なくて、今は心に沁みる。竜次は再び思い出話に身を任せた。話したいことは山とある。
「ねぇ、この階段、さっきも通ったでしょ?」
「えっ、そうだっけ? さっきはこのアイス屋さんはなかったよ」
元気に繁華街の探索をするのは、仲睦まじい女性二人と頼りない男子という買い物組。
層になった街の一角が繁華街と称されるが、その構造は複雑だ。大通り以外は整備されているが、とてもわかりづらい構造をしている。整備されているからこそ、逆にわかりにくいのかもしれない。
同じような階段、同じような構造、階層によって配色が違うだけの地面のタイル。
キッドとミティアは楽しそうに話していた。サキは恨めしそうに二人を見ながら地図と片手に目的の店を探す。
日は昇りきってしまい、どうももたついてしまう。
「キミさぁ、女性をエスコートもできないのぉ? 情けないね」
圭馬に馬鹿にされる始末。この小言にはサキも反応した。
「大通りは抜けられないんですよ? 二層三層になったり同じ景色が続いたり、本当にこの街はコンパクトにまとめようとして失敗した遊園地みたい……」
サキは遊園地と例えたが、実際はショッピングモールに近いかもしれない。申し訳程度ではあるが、遊具スペースや公園、休憩スペースやカフェのテラス席もあり、利用するための自由度が高い。
サキに地図を読む能力はあっても、実際と照らし合わせる要領が悪いようだ。食べ物のお店で変化を見つけるミティアが意外にもその助けになっていた。
迷いながらもやっとの思いで辿り着いたのは、目的の一つである本屋だった。こんなに複雑だと、襲われる心配をする以前にはぐれてしまいそうになる。
本屋に入って物色を開始する。サキは魔法入門書の棚を見ていた。手ごろな本を手にし、他にも何かためになりそうな本はないかと探す。見ようにも街の構造のような高い本棚から探す元気がない。
隣り合う店舗の駒ならまだしも、二階と三階がぶち抜かれて店舗になっているとは、驚いてしまう。品揃えは貿易都市なだけあっていいのだが、壁と柱からぶら下がっている梯子が恨めしい。
「あっ、これ可愛いキャラクターですね」
本棚の上の方を見上げるサキの横で、ミティアが平積みの本を手に取っていた。
「あれ、ミティアさん、その本……」
サキはミティアの持っていた本に視線をおくる。手にしていたのは世界地図だった。中のページには、可愛いマスコットキャラクターが解説に添えられている。
今まで通って来た山道やスプリングフォレストの簡易地図も掲載されている。見慣れない街の観光案内も書いてあった。色分けがされており、ただ可愛いだけではなく、見やすさを重視した。
「ふむ、一緒に買いましょうか……」
サキは入門書と重ね持ち、会計へと足を運んだ。
どちらかというと、地図は余計な買い物かもしれない。だが購入していればこの先、地図に困らないかもしれないという独断でサキは購入を判断した。
「さて、次は旅に必要な道具とミティアさんのお買い物ですね」
次の店を探す。サキは再び地図を広げるが、また読み方からのスタートだ。
ふと、サキは買ったばかりの地図本を開き見た。こちらは色分けされていて、見やすい。さっそく街歩きの頼りに使用する。
せっかく上った階段を降りる手間はあったが、やっと大きい雑貨屋を見つけた。
店の前で圭馬は楽しそうに話した。
「何だか、買い物だけで遺跡探検みたいだね。昔はボクも、探検なんてしたものさ」
圭馬はミティアの腕の中でずっと楽をしていた。歩いてはいないし買い物には積極的に参加していない。それでも言う内容は興味深いものだ。
一同で遺跡探検の経験はない。だが、この繁華街の複雑な構造で探索を行うと妙なワクワク感は味わえるかもしれない。圭馬はさらに気になることを言った。
「そうだ、発掘され尽くされているだろうけど、この近くにアリューン神族の遺跡ってあったよね。でも、あそこはキミたちの目的地にはないんだっけ?」
気になったサキは地図を見直した。違うページに近隣の拡大地図がある。
「わぁ、そんな場所があるんですか? 圭馬さん、物知りですね」
ミティアも興味津々に地図を見ている。「これかな?」と指をさした。サキが説明書きに目を通す。どうやらこの近隣の観光名所のようだ。
「確かに何年も前に発掘され尽くしているみたいですね。ただ、遺跡の規模と、発掘されているだけの道が一致しないから、多くの学者から疑問視されています」
興味は抱くも、明らかに目的とは異なる。耳にしていたキッドは鼻で笑った。
「そんなの、どっか壊して調べたらいいのに。絶対変な壁があるに決まってるじゃない」
戻ったら話題にしてみよう。せっかく買ってしまった地図なので、使わないのももったいない。問題は、遺跡探索で目的より外れてしまい、寄り道になってしまう点だ。おそらく採用はされないだろうが、話すだけ話してみようとサキは思った。
三人は雑貨店に入った。
窓から射し込む光が、サンキャッチャーに反射する。店内のグラスやアクセサリーをきらびやかに見せていた。
ショーケースやおしゃれな棚が並び、見やすくも楽しませてくれる雰囲気がたまらない。きちんとした通路も確保され、吟味するための行き来がしやすそうだ。
棚に並ぶのはガラスの食器や時計、小物や置物などのインテリア雑貨だ。ガラスのショーケースと机には、指輪やネックレスなどのアクセサリーが見やすく平らに置かれている。
サキはまず、ミティアの魔法補助になる媒体を探すことにした。
貿易都市であるせいか品数は多く、色も種類も豊富だ。普段使いのアクセサリーはもちろん、誰かへのプレゼントにもよさそうなものまで揃っている。見慣れないお菓子や食べ物も見受けられた。
サキは肝心の魔法の補助になる道具はないだろうかと店内を見渡した。比較的目を引きやすい入り口の横に『フィラノス雑貨』という手書きの掲示を発見する。
見た目ではわからないが、原石や特殊な金属で加工されているようだ。
サキはアクセサリー見る経験がないのか、戸惑いながら色々と手に取っては棚に戻すのを繰り返している。
「あまり高いのはお勧めしません。高いものはそれだけ強力な魔力の元になりますが、その分壊れやすいので」
特に、ミティアはまだ強い魔法を使わない。
ミティアは熱を帯びた視線で、サキの顔を覗き込んだ。
「サキは何がいいと思う? いっぱいあるから目移りしちゃうなぁ?」
いつも可愛いが、時々艶やかになる不意打ちは本当に困惑する。サキは恥ずかしくなって視線を落とした。
これを圭馬が見逃さない。
「視線が落ちてるってことは、やましいモノ。そーだなぁ、指輪なんて考えてたんじゃないの?」
「ちちちちがっ……!」
サキは圭馬によって瞬く間に弄られキャラになってしまった。
キッドも黙ってはいない。
「あんた、まさか本気にしてんの⁉」
「そ、そんなつもりは……でも、遊びじゃないですよ……」
「えっ、女の子をたぶらかして遊ぼうっての!?」
「ど、どっちで答えたらいいのか、わからないじゃないですかぁ」
圭馬もキッドもからかっているのだろうが、サキはあまりに慌てふためくので面白くて仕方ない。
そんなやり取りにいっさいなびかないミティアは、青いティアドロップのペンダントを摘まんでいた。
「これ、綺麗……」
ミティアは店の明かりに透かしながら、じっくりと見ている。この数センチの澄んだ石にどんな魅力を感じたのだろうか。
飾りっ気のないミティアを華やかにしてくれそうだ。サキは買い物トレイを差し出した。これを買おうというサインだ。
「えっ、これでいいのかな?」
「派手さはありませんし、価格もお手頃。それに、高価なものを買うと皆さんに咎められてしまいそうですので」
指輪を選ばれるよりはいいと思ったようだ。サキは不貞腐れ気味に即決した。
「あとは、僕の魔石と……先生のおつかいメモですね」
そのあとは手際よく買い物リストを潰していった。
主に消費してしまった非常食の類や水、ランタンの油、虫除けの袋、衣類などだ。量があるため、荷物を持ったままでは行動がしづらい。
三人は宿に置きに行くべきだと判断した。
「ほら、頑張れ。男の子!」
サキはキッドに励まされていた。一番大きな袋を手にしていたからだ。荷物を両手で抱えるも非力で牛のように歩みが遅い。
「わたしも持つよ?」
「い、いえ、それはだめです」
ミティアは購入した本の紙袋を持っている。彼女の華奢な腕に、こんな重いものを持たせるわけにはいかないと、譲れない意地と根性がサキにもあった。
賑わっている通りを見流し、来た道を戻った。宿に到着したが、街の賑わいが聞こえるほどだった。
仲間のそれぞれが込んだ用事を抱えているので誰も帰ってはいない。
部屋に荷物を置き、息を整え一息入れる。
サキはミティアとキッドに提案をした。
「さて、まだまだ時間はありますが、どうしますか? お疲れでしたらこのままここで魔法の勉強をしてもいいですけど」
宿で勉強、街の散策、どちらかに絞るつもりだ。そこへ圭馬が第三の提案をした。
「街の外でお姉ちゃんのペンダントが壊れないか、試運転はしなくてもいいのかい?」
「それはさすがに危ないと思います」
サキは表情を曇らせた。手薄な状態で襲撃を受けたくはないと思ったからだ。ミティアを連れて街の外に出るのは、キッドが一緒でも絶対に安全とは言えない。
悩んでいると、外が騒がしくなった。ここは貿易都市だ。この時はさして気にしていなかった。
「とりあえずお昼でも食べますか? 三人ですけども」
サキは魔石を補充し、お金の残高を確認しながら提案をした。
「賛成です!! この街にはどんな食べものがあるのかなぁ」
ミティアもポーチの中に、いくつか赤い魔石を入れて整えた。魔石は強力な魔法を放つ時に使う。街歩きで使わないだろうが念のためだ。それに首元にはペンダントが光っている。何かあったらこちらで対応が可能だ。
三人は再び街中に繰り出した。
大通りが騒がしい。
貿易都市だから、売買に盛んだから、と流しそうになった。だが、どうも様子がおかしい。
逃げる惑う人、複数の足音、叫び声も耳にした。木箱だろうか、崩れる音もする。
明らかに様子がおかしいとミティアが声を上げる。
「あれ、どうしたんだろう?」
「行商の売買にしては様子がおかしいですね」
サキが先導し緊張を高めながら大通りへ足を運んだ。
「何よ、あれ……」
キッドは顔を強張らせた。惨状を目にしたからだ。
大通りは酷く混乱していた。テントやコンテナ、木箱が邪魔をして逃げられないようだ。まだ中に人は残っている。売り物の散乱も逃げられない要因だ。
騒ぎの原因は何だろうかとサキはコンテナの隙間から市場を覗き見た。
あちこちに、直径一メートルほどの紫色をした人魂のようなものが浮遊している。しかも一つや二つではない。個体差はあるが浮遊したまま移動しているものもあった。煙なのか水蒸気なのかわからないが、目立って気味が悪い。
「まずい! あれ、瘴気の霊だよ!!」
圭馬がサキの頭を踏みつけて叫んだ。サキは耳を疑った。
「瘴気って、魔の存在では? どうしてこんな街中に?」
「さすがにそれはボクにもわからない。魔界にはたくさん存在しているけど、普通は人間界に漏れ出すことはないはずだよ」
「普通は……ってことは、邪神龍や野生動物の狂暴化が関係しているのでしょうか?」
「その考えはあとにしよう。あの瘴気の霊は人間が触ったら生気を吸われて、下手をしたら死んじゃうよ!!」
圭馬が言うには命に関わる非常事態のようだ。これにはミティアもキッドも危機感を持った。
キッドは圭馬に指示を仰いだ。
「ど、どうしたらいいの?」
「まずは、ここにいる人達を避難させて!!」
圭馬の言葉を受け、キッドはすぐに行動をした。比較的人の少ない狭い隙間を抜け、木箱を押し出して広場の内部に二人を招き入れた。下手に大きな通路を作れば混乱を招いてしまうからだ。
キッドは散らばっている麻袋や木箱をどかし、人が通れる道を作って誘導を試みる。
ミティアも何かしようかとおろおろとするが、下手な行動ではぐれては困る。サキはミティアが離れないか気を配りつつ、思考を巡らせていた。仲間の誰かを呼びに行くにも街の構造は頭に入っていない。
「コンテナもどかせたらよかったんだけど……」
キッドがさらに道を作った。彼女は今の自分にできることを見据えている。ある程度の通路は確保できたが、まだ奥があるようだ。
瘴気の霊が身近に確認できるようになり、圭馬が知っている情報を開示した。
「あれは瘴気だから、基本的には実体がないね。斬ったり叩いたりの物理はほとんど通用しないよ」
「えっ、何それ、あたし無能じゃない」
「魔界にいる瘴気の霊って言ったでしょ? 魔には魔、つまり魔法で対抗するしかないね。まぁ、お姉ちゃんがノイズの能力を自由に扱えるのなら話は違うけど、まだその領域じゃないね」
キッドはひどく落ち込んだ。いや、やれることがある。すぐにかぶりを振った。
「あたしはこのまま街の人の避難と誘導をするわ。任せたわよ!」
キッドは走ってまたも障害物をどかしている。まだ人がたくさんいるのに、混乱していて逃げられない人がたくさんいる。
「誰か!! 力を貸してください!!」
キッドが力を借りようと必死だ。呼びかけに応じて何人かが足を止め、コンテナを除けることができた。広い道の確保に街の人が歓喜の声を上げる。
「よかった……落ち着いて避難してください!」
キッドの働きによって人は徐々に減り、状況が把握しやすくなった。
「怪我人はいるけど、死者はいないみたいだね」
圭馬は地面に降り立ち、ミティアとサキに向き直った。
「キミたち、瘴気の霊を焼くんだ!! 街中だから、抑えないと火事にしちゃうよ。気をつけてね?」
聞いたサキは難しそうな顔をしながら、杖を出して手にした。
「強い魔法は使うな……ですか?」
「そ。燃えやすいものが多いからそれしかないよ。この広範囲に聖域を張って浄化したら、キミの体が持たないでしょ。数がいるから頑張って!!」
一掃出来ないのがもどかしいが、街中を火の海にするわけにもいかない。
サキはどれくらいの加減をしたらいいのか、試しながら霊を焼き払っていた。
「お姉ちゃんは剣に炎を纏わせる魔法を覚えたよね。あれなら効くから!!」
「わ、わかりました、やってみます!!」
指示を受けて、ミティアも剣を引き抜いた。
相変わらず大振りで隙が多いが、サキのように打数がなくて負担も少ないし確実だ。
食事も忘れ、昼間から何をしているのだろうか。そんな風に思いながら、二人は瘴気の霊を蹴散らしてゆく。
馬車の轍があったが、綺麗に整備された街道だ。頻繁に人が通るのか、草木も生い茂ってはいない。鳥のさえずり、小動物の行き来、小川でも流れているのか植物がみずみずしい。
ギルドで情報収集組のジェフリーとコーディは緊急の依頼を請け、街道へ足を運んだ。少し進んで、異常を感じた。
街道に不釣り合いな紫色の異色が目を引く。
「この人魂みたいなものは何だ?」
「さぁ? でも触らないほうがよさそうだね?」
「似たようなものなら邪神龍や魔女がまとっていたような気がするが……」
どこから湧いているのかは把握出来ないが、街道にも瘴気の霊があらわれている。当然だが、この二人は瘴気の霊について知らない。
コーディは触れないように注意したが、要は構わなければいいだけの話。
ジェフリーもこの判断に従った。外の世界では、先輩の忠告は絶対だと知っているからだ。いくら外見が子どもでもコーディの意見や忠告はためになるものだ。
瘴気の霊は大きさがあるだけ、回避もしやすい。
また少し進んで、達筆な人情カバンを腰に下げた栗毛の女性を見つけた。この外見は、絶対に間違いない。
ジェフリーは叫んだ。
「おばさん!!」
「えぇっ、ジェフリーじゃないかい!?」
おばさんと呼ばれた女性は振り返る。ギルドで聞いたように、アイラで間違いなかった。アイラは驚倒しそうな声を上げた。
コーディも声をかける。
「アイラさん、無事ですか⁉」
「コーディ……ってこたぁ、ギルドの応援かい?」
アイラはコーディとも面識があるようだ。アイラはジェフリーが一緒という点で状況を判断したようだ。もちろん、再会には驚いている。
ジェフリーはアイラに質問をした。
「黒い卵ってのはどこだ?」
「あ、あぁ……」
アイラは親指で前方を指した。
黒い卵ではないが、ブラックホールのようなものが見えた。見方によっては、これを『卵』と呼ぶかもしれない。道を遮る程度だが、楕円で横長。大人がすっぽり入ってしまうくらいの大きさだった。
涼しい顔をしているアイラだったが、本心は困っていた様子だ。
「卵ってわかりやすかったらよかったんだがね。いくらあたしでも、何でもこの規模は破壊できないね」
そこに存在している、と言うよりは空間が割れていると表現した方がよさそうだ。
今は動く様子はないが、紫色だけではなく黒々とした禍々しい外見をしている。雷のようなチリチリと音も立てていた。
「一体何だ、これ……」
「さぁ? 時空の歪みかブラックホールか、何にしろ、いいものではないね。調べようにも、触ったらまずそうだし。正直、近くにいるだけでも体力が吸われているようだよ。このまま貧血を起こしそうだね」
「おばさんでもわからないことがあるのか?」
ジェフリーが質問攻めをする。アイラもそれなりの知識人のはずだ。そんな彼女でもわからないとは意外だった。ジェフリーは心当たりを口にした。
「ここへ来る途中に見た、あの変な人魂とは関係あるのか?」
「あるだろうね。一度、街に戻って作戦を立てよう。解決するまではここは人も馬車も通れないだろうね」
アイラはコーディの目の高さを合わせるよう、少し屈んだ。
「コーディ、あんたが飛べるならあたしよりずっと早いよね。ギルドに報告をお願いしていいかい?」
「えっ、私?」
ギルドのハンターとしては格上のアイラからの頼みだ。コーディは困惑した。
「ギルドに報告。それから街道に近付かないように商人たちにも言わないと!」
「わ、わかった……」
コーディはアイラとジェフリーを見て頷き、背中の翼を広げた。助走なしでその場から飛べるのは、コーディの強みだ。
「あとで待ち合わせしようね」
見下ろしながら軽く手を振ると、コーディは旋回して街へ飛んで行った。アイラの提案のように、走るより断然早いだろう。
アイラが走り出し、ジェフリーも続いた。
「ここにいても、何も解決しないってことだな?」
「そうさ、とりあえず触るな、近寄るなって警告をばら撒かないといけないね」
アイラは走りながら、ジェフリーを見やって訊ねる。
「サキも一緒なんだろう?」
「あぁ、頑張ってるさ」
「そりゃよかった。ちったぁ立派になってるといいけど」
「ちょっとどころか、サキがいなかったら何回死んでいるのかわからないくらいだ」
「そうかい……」
表情は見えなかったが、きっと笑っているに違いない。ジェフリーは心の中でこの再会をよろこんだ。先にコーディを向かわせたのは、わざとこの話をしたかったのかもしれない。
来た道を戻っているだけだが、瘴気の霊が増えている。
戻る途中、アイラは短剣で木に印を入れていた。整った道になぜこのような印をつけるのだろうか。
「おばさん、その印は?」
ジェフリーの質問にアイラは振り返らないまま答えた。
「今のところは『おまじない』だね……」
この印が何を意味するのだろうか。この時はまだわからなかった。ただ、ジェフリーにはある程度の見当がついていた。アイラはフィラノスの大図書館に下級の悪魔、本の悪魔を放っていた。その出来事から、この印も何らかの術なのだろうと予想していた。
サキとミティアとキッドはノアで大通りの混乱を対応していた。キッドが手際よく立ち回ったおかげで、逃げ遅れた人の避難は完了しつつあった。
サキはコツを掴んだのか、売買市場に引火させることなく瘴気の霊を蹴散らしていった。大半は駆逐され、見晴らしがよくなった。
サキは呼吸を整えながら姿の見えないキッドに呼びかけた。
「キッドさん、どんな感じですか?」
「あと少しよ。ソッチも逃げ遅れた人がいないか、よく見てちょうだい!」
キッドは数ブロック離れた位置から大声で呼びかけに応じていた。
少し離れて二人の声を聞いていたミティアは街の出口付近まで走った。危機は去ったが、騒動で怪我をして動けない人がいないかと探す。
「逃げ遅れた人……」
ミティアはきょろきょろと辺りを見渡す。一本奥に入った裏通りで、大柄の男性二人がこちらを見ているのに気がついた。
「あの、避難してください。ここは危ないです」
場所は裏通りの入り口、ミティアは男性を怖く思いながら声をかけた。見知らぬ大柄の男性だ。男性二人はミティアの方へ歩み寄った。
ミティアは男の顔を見上げる。一人は目がギョロッとしてスキンヘッド。もう一人はモヒカン頭で金とピンクのまだら模様の髪だ。目立つ色をしている。顔には引っ掻いたような傷があったが、もしかしたらファッションかもしれない。
二人ともミティアを見て気味の悪い笑みを浮かべている。
「あ、あの……きゃあっ!!」
無情にもミティアの親切が災いを呼んでしまった。男の一人に右手首をつかまれる。物凄い握力に、ミティアの剣が零れ落ちた。
「た、す……んんーっ……」
ミティアが声を出す前に口を塞がれてしまった。底知れない恐怖が襲い掛かる。この男性が悪い人だと気がついた時には、裏通りの奥に連れて行かれていた。
混乱の中で生まれる邪な思考を持った人だ。ミティアはやっと理解した。人の汚い部分を。こういう人もいるのだと。
これから自分はどうなるのだろうか。きっと悪いことをされるに違いない。
ミティアはスキンヘッドの男に羽交い絞めにされた。首が苦しくて手をかけるが、この華奢な腕に払える力など入らない。
「い、いやぁ!!」
やっと塞がれていた口の隙間から声が出た。苦しくて息が上がっている。
恐怖から手が震え、視界がぼやけていた。温かいものが頬を伝う。
すぐに口を押さえられた。もはや唸り声しか上げられない。
ミティアは意識が遠のきそうになった。モヒカン頭がミティアの腰に手を回す。
「んんぅーーーーーーっ!!」
ぞわりと背中に悪寒が走る。知らない人に自分の体を触れられるのが気持ち悪い。空腹なのに吐きそうだ。
「ソニックブレイド!!」
女性の高い声だ。声のあとに疾風が走った。風の刃はモヒカン頭をかすめ、バラっと削ぎ落した。
誰か来た。そうミティアが表通りに目を向けると、栗色の髪におしゃれな帽子を被った女性が立っていた。左手にはミティアの剣を持っている。剣を拾って気がついたのだろう。
もしかしたら助かるかもしれない。ミティアの淡い希望は確信となった。
「ぎゃああ……いっでぇ、ぐぅぅぅぅぅ」
無残になったモヒカン頭の男が、呻き声を上げ、腹を抱えて地面を這っている。
その横に見覚えのある、金髪で青いジャケットの男性が立っていた。
見間違うはずがない。ジェフリーだ。右手で拳を構えている。
「そいつから離れろ!!」
ミティアは目を見開いて名前を言う。
「ジェフリーっ!!」
誰が見てもわかるほどジェフリーは怒っていた。彼はミティアを押さえていたスキンヘッドの頭をした男性に言う。
「お前……離さないと、手が滑って殺すかもしれない」
ジェフリーは剣の柄に手を掛けている。本気でやりかねない殺気をミティアは感じた。
脅しに怯んだスキンヘッドの男はミティアを解放した。それから飛ぶように後ずさり、情けない声を上げながら逃走した。
逃げ足だけは速い。
地面を這っていたモヒカン頭も立ち上がり、追って逃げて行った。
逃げる彼らとすれ違いに、キッドとサキがやっと騒動に駆けつけた。
アイラが魔法も放ったし、音も立てた。さすがに気がつくだろう。逆に、それだけしなければ、気づいてもらえなかった。
力なく座り込んだミティアは体を震わせ、ジェフリーを見上げている。
ジェフリーにはためらいがあった。婚約者を同じような状況で亡くした。この場合はどう行動するのが正解だったのだろうか。
今はミティアの手を取ってやらないといけない。なぜ一人になったのか、怒るよりもまず、彼女を慰めてやらないといけないと思った。これも正しい選択なのか、ジェフリーにはわからない。ただ、暴漢が本気で許せなかった。
「何もされなかったか? 怪我はしてないか?」
不器用なジェフリーにはこれくらいしか言葉が浮かんで来なかった。ジェフリーが手を差し出した。ミティアはこれを手繰り寄せるようにし、抱きついた。
「こ、こわ……か……」
泣きながら震えている。手も、足も、声も。
「っく……わ、わたし、うぅっ……」
ミティアはジェフリーの胸の中で子どものようにしゃくり上げ、大泣きしている。
押さえつけられたせいか、服は汚れ、腕に擦り傷が見られた。大きな怪我はしていないようだ。
「無事でよかった……」
キッドもサキもこの場にいる。後ろめたさがあったが、ジェフリーは慰めるようにミティアの背中をさすった。小さい背中だ。こんなに温かいのに、悲しさに冷たく、恐怖に震えている。
「あ、あの、どうしてお師匠様が?」
一安心かと思い、サキはアイラに質問をしていた。
「ん? どうしてって、金を稼いでるからさ」
それよりもアイラは、キッドが気になっているようだ。
キッドもアイラを見て表情を強張らせている。睨み合うようになってしまった。
先に話したのはアイラだ。
「あなた、名前は?」
「あたしはキッドです……」
「なるほど。人違いってことにしておこうかね」
アイラはそれだけ言って、今度はジェフリーに歩み寄った。
「ほい、これ……」
アイラは先にミティアの腰の鞘に剣を収めた。ここで多くを話すべきではないとアイラは判断した。
「ギルドにはあたしが行っておこうか。怖かったろうに……傍にいておやりよ」
アイラはにんまりとしながら、ジェフリーの肩を叩いた。
「すまない……」
「代わりにウチの子を借りて行くよ」
話していると、キッドとサキも様子をうかがいに来た。
「あ、あの、ごめんなさい。あたしが全部見てあげられなくて……」
「僕が近くにいながら……」
二人とも、ミティアにかける言葉が出ず、ジェフリーに謝っていた。
だが、ジェフリーは申し訳なさそうにする二人を怒りはしなかった。
「二人は悪くない。悪いのは、汚い心を持った人間だからな……」
ここにいる人を、何も、誰も、責められない。
「キッド、手を貸してくれ。腰を抜かしているみたいだから」
支えようとするキッドを、アイラはじっと見ていた。何か違和感を覚えたのだろうか。サキは気になった。
「お師匠様?」
呼ばれてアイラは向き直った。
「サキや、これは何が起きたんだい?」
賑やかな貿易都市の面影は感じるが、来た道もこれから行こうとしている道も散らかっているし、人影はない。
「それはボクが説明してあげよう」
忘れた頃に首を突っ込むのが圭馬。
サキの肩に乗ったが、瞬く間にアイラに首の後ろを摘まみ上げられた。
「何だい? ペット?」
圭馬はじたばたと抵抗する。
「ボクはティアマラント圭馬だよ! おばさん、この子のお師匠様なんでしょ?」
「ほーぉ、こんなに小うるさいクソガキだったかねぇ。冷静な白ちゃんに、これっぽっちも似てもいやしない……」
アイラは圭馬を知っているそぶりを見せた。だが、圭馬はアイラを知らない。
「そいで? 何だって?」
説明をまだ聞いていない。アイラは催促した。圭馬はそれに応じる。
「……まぁいいや、街中に瘴気の霊が出現し、混乱して、そのお姉ちゃんが商人達を避難させてくれた。で、この子とお姉ちゃんが瘴気の霊を撃退した」
名前も言わずにざっくりとした説明だ。だが、事態を掻い摘んで説明するならこれで十分なのかもしれない。圭馬の説明を耳にし、アイラは深くため息をついた。
「街中にも出ちまったのかい、あの変な玉っころ……」
アイラの言葉に反応したのは圭馬だ。
「んんっ? どういうことだい?」
状況が読めない。圭馬は街だけではないのかと疑った。
その説明をしたのはジェフリーだった。
「朝、コーディとギルドに行ったら飛び入りで依頼があったんだ。街道に向かった。そしたらそこにも人魂みたいなのがあった。もっと大きなブラックホールみたいなのもあったから、これから近寄らないように広めないといけない」
ジェフリーは言ってからミティアを立ち上がらせ、あとはキッドに委ねようとした。だが、ミティアは手を離そうとしない。キッドは呆れてしまった。
状況を把握した圭馬は大声を出した。
「ぶ、ぶらっくほーるぅ!? それってもう魔界との歪みじゃん。やぁっばいねぇ」
圭馬が言うと楽しそうに聞こえてしまうのはなぜだろうか。
「まぁ、とりあえず報告もしたいし、報酬も欲しいから、ギルドに赴かせてもらうよ。あとで少し顔を出すね。これからの対策を考えようじゃないか」
アイラはサキを連れてギルドの方へ歩いて行った。もちろん圭馬も一緒だ。
残されたジェフリーは、キッドと気まずそうにしている。ミティアがジェフリーから離れようとしないからだ。
キッドは首の後ろを掻きながら、そっぽを向いて言う。
「あー……あたし、先に宿に戻ってるわね」
キッドはミティアが立ち上がれるように手を貸してくれた。だが、本当にそこまでだった。
キッドはこの場にいたたまれなくなったのか、先に宿に戻ると言った。
それでもジェフリーはキッドに助けを求めた。
「えっ、ちょっ、俺が困るんだが……」
ジェフリーにとって困る理由はこの状況で二人きりにされるのが、である。
キッドは虫の居所が悪かった。この状況だけがその理由ではない。
「勘違いしないでよね。ミティアに何かしたら許さないわよ」
キッドはジェフリーに刺すような眼差しを食らわし、踵を返した。
残されたジェフリーは気まずそうにしている。
いざミティアと二人きりにされると、何をどうフォローしたらいいのかわからない。腕の中のミティアはすすり泣いている。ショックが大きかったのだろう。ずっとしがみつかれていても困るが、泣かれているのも困った。
どうしたら泣き止んでくれるだろうか。ジェフリーの中であらゆる考えが渦巻いた。話題を振ろうにも、明るい話など持ち合わせていない。
辺りには二人以外誰もいない。騒ぎがあったせいか、はたまた裏通りのせいなのか、気味が悪いほど静かだ。その中で響くミティアのすすり泣く声は、ジェフリーの心を突き動かせた。
ジェフリーは震えているミティアを抱き寄せ、髪を撫でた。
「俺は、いつまでも泣いているミティアを見ているのがつらい……」
「……!?」
ジェフリーが言った言葉に驚き、ミティアは目に涙を含んだまま顔を上げた。
「こういう話はもっと落ち着いてするべきだと思ったけど……俺は前に、許嫁を同じような状況で見殺しにした」
「ジェフリー……が?」
ミティアの声は小さくて今にも消えてしまいそうだった。見上げた顔は悲しくて儚げなのに、知らない部分を知る期待をしていた。
期待の目がジェフリーには救いに思った。一度口から出てしまったものだ。気にされても仕方がない。それでもミティアの気が紛れてくれるなら、何でもよかった。あまりいい話ではないが続けた。
「さっきみたいに、混乱に紛れておかしな考えを持った奴は一定数いる。だから、俺は魔導士狩りで遭遇した事件をきっかけに人を見る目を学んだ。彼女の命と引き換えに……高い授業料だ」
ジェフリーは大きく息をついた。自分に対する怒りが掘り起こされる。
「何も努力をしないで、都合よく助けられるはずもない。俺は剣術学校に転進して、一番厳しいクラスを選んだ。忘れたかった。弱い自分も、悲しい思い出も……」
「ジェフリーは弱くないよ……」
ミティアが力強い声で言いながらかぶりを振っている。
「それは、絶対に忘れちゃいけない……」
力強い言葉の反面、また泣き出してしまいそうな顔をしている。
ジェフリーは叱責を受けている気分だった。
「忘れたら、きっと今のジェフリーはいない……わたしを助けてくれた、強くて逃げなかった勇敢なあなたはここにいない!」
ミティアは迷いのない真っすぐな目で訴えた。
ジェフリーは視線を落としたが、目頭が熱くなるのを感じた。左の頬を暖かいものが伝う。風邪でも引いたのだろうか。鼻に呼吸が抜けない。瞼も、唇も震えた。
「いつも、気が利かなくて、ミティアに本当につらい思いをさせているのは俺かもしれない。俺ってどうしようもなくいい加減で、不器用な生き方しかできなくて……」
声が掠れる。ジェフリーの喉は乾き、自分の体ではない錯覚を起こしていた。
「笑って欲しいのに……」
ミティアの中から、つらい思いが消え去ってほしい思いが強かった。それなのに自分の余計なことを喋ってしまい、感情をさらけ出しただけだ。いや、ここまで言ってしまったなら、言いたいことをすべて吐いてしまおう。ジェフリーは浅い息を繰り返し、呼吸を整えた。だが、ミティアが身を乗り出し、声を発す。
「あのね、ジェフリー、わたし……」
ジェフリーは咄嗟にミティアを抱え込んだ。
先に言い出しそうだった彼女を塞ぐ。
「好きな人が苦しみ、悲しむのをただ見ているのはもう嫌なんだ」
ジェフリーの腕の中でミティアがぴくりと動き、ゆっくりと顔を上げた。つぶらな瞳が、直視できない。
「望まないことをされる苦しみは知っている。目の前で見たくらいだ。だから、さっきは許せなかった」
「……ん!! え、えぇ!?」
ジェフリーは抱き寄せたミティアを、もっと強く抱き締めた。とても柔らかくて暖かい。感じる体温が高まり、心臓の鼓動も早くなった。
「だから、好きだって言ってるんだ!!」
ジェフリーは言ってからミティアと目を合わせた。ミティアは恍惚の境地にでも行ってしまいそうな表情だ。頬は熟れたリンゴのように赤い。涙は乾き、その大きな瞳が自分の姿を捉えているのを確認した。
伝えてしまった。伝わってしまった。ジェフリーは途端に怖くなった。突き放すような言葉を付け加える。
「返事は普通の女の子になってから、ちゃんと聞かせてほしい……」
聞いたミティアは不満なのか、何度か瞬いた。眉間にしわも寄せている。
「だ、だからそんな顔をしないでくれ。俺はあくまでも気持ちを言っただけだ。俺のせいでミティアが不幸になったとか、そういう考えは……最初は持っていたが、今はまったくない。今の俺がしたいのは、ミティアが普通の女の子として生きられる手伝いだ」
明らかに取り乱し、言い訳をしているジェフリー。自分でもおかしいと思いつつ、急に話が現実味を帯びる。
「将来性がない状態で無責任なことは言いたくないし、安易な約束はしたくない。それだけ真剣に思っている」
「わ、わかった……」
遊びではなく真剣だ。ミティアはそう理解し、俯きながら一歩離れた。
「あ、ありがとう……」
脆く儚さを感じる笑みを浮かべている。本当はこの場で返事がしたい。だが、ミティアはその気持ちを押し殺した。
「わたしはジェフリーの気持ちを大切にしたい。ちゃんと返事をするって約束するね。今はそのために、頑張っているんだもの」
「あ、あぁ、そうだな。約束しよう。俺も胸を張って生きていけるような、自分の目標を見つける」
二人だけの、秘密の約束を交わした。
ミティアはジェフリーの気持ちを尊重することを選んだ。話すことで襲われた恐怖から救われた。
――本当は悲しかった。
普通の女の子になってしまえば、この旅は終わってしまう。
葛藤が心を軋ませた。
夜を迎える前に街に辿り着いたが、野営もしたのでふかふかのベッドが恋しい。
コーディが先頭に立った。この街には慣れているようだ。
「まずどうする? 何か食べる? 宿を探す?」
竜次が皆の体力を確認しながら提案をした。
「先に宿を取ってから出かけたいですね……」
宿で一息入れてからがいいだろうという判断だ。荷を置いて身軽な状態で出歩いた方がよさそうだ。
広い通りに石の地面、よく整備刺されている街並みだ。だが、もしかしたら奥行きがある街なのかもしれない。ざっと見ただけではこの街の魅力がわからなかった。貿易都市という名前なのだから、もっと賑わっているものだと思っていたが、とても静かで人通りもまばらだ。
コーディは慣れた足取りで中央通りを抜け、案内をする。
案内をされながら、ジェフリーは広いわりに静かな通りを見て疑問を口にした。
「貿易都市って言うくらいだから、もっと賑やかだと思っていたがそうでもないのか?」
コーディはすぐに説明を入れた。
「この街が賑やかなのは商船がある夕方までだよ。昼間は文字通り、目が回るくらい人がいっぱいだから」
説明をしながら案内されたのは、大きめの宿だ。赤茶色のレンガの外壁にピンク色をした珍しい瓦の屋根が可愛らしい。観光客向けでもある整った宿だった。
入ってみると内装も整っており、清潔感があってとても綺麗だ。落ち着いた色の壁紙、大きな窓、客室までの階段も大きく広いものだった。
ロビーには、ゆっくり読書でもできそうなテーブルと椅子が見受けられた。ベロア調でやけに椅子の質感がよさそうだ。この清潔感と落ち着き具合は嫌な予感がする。
竜次はジェフリーの肩を叩いた。そのままこそこそと小声で話す。
「そうだ、ジェフ。お金、まだありましたっけ?」
ジェフリーも、フィラノスでほとんどの資金を使ってしまったことを思い出した。
「た、高いよな。絶対……」
カウンターで話をつけているコーディの横で、兄弟は値段表を見て絶望した。王都祭前のフィラノスほどではないが、男女二部屋となると負担が大きい。
「どうしたの? 二部屋でいいんでしょ?」
コーディは兄弟に確認を取る。
部屋を押さえるまでは問題ない。ジェフリーが竜次に振り返る。本当にこれでいいのかと迷っているようだ。
「いや、まぁ……お金がな?」
「あぁそれ? 私、それなりのハンターだから割引が利くよ。助けてもらったお礼がしたいから今日は私が出すね」
「でも連泊するかもしれないんだぞ?」
「お兄ちゃんはフィラノスから陸路でスプリングフォレストを抜けて、沙蘭もあったでしょ? そんなに気にしてるなら、明日ギルドで稼いでもらうね?」
コーディは部屋を取り、前払いで手続きをした。追加料金は何かあった時に支払うようだ。つまり、払ったのは一泊分。連泊になる場合は、宿の混雑具合と相談してできるシステムらしい。貿易都市らしく、有事に対応している。
男女別の部屋で荷物を置き、部屋の設備を軽く確認した。
一息つき、夜の街に繰り出す。夜風がよく抜ける。歩いているだけでも気持ちいい。飲食店から風とともに流れてくるいい香りが胃袋を刺激する。
少し見ただけではわからなかったが、街の造りは入り組んでいた。見通しがよく、風が抜けるのは表の広場までだった。その奥は、階段や、数階層にわたってお店が見受けられる。よく整備されているが広場と大通り以外は複雑なようだ。
すべてを把握するのは地図がないと難しいかもしれない。
「で、何が食べたいの?」
コーディがまた案内をしてくれるようだ。先導しようと前に出た。
食べものの話と聞いて、ミティアは手を挙げた。
「ずっしりとしたご飯がいいと思います。みんな山道で疲れているし、味の濃いものや、温かいものがいいかも? 先生はお酒飲みたいですよね?」
ミティアは自分の要望だけではなく、仲間への気遣いもしていた。コーディはその意見を取り入れる。
「さっき山道で言ってた火鍋はないけど、いろいろなものが食べられるのがいいなら、じゃあこっちかな……」
コーディは案内を続ける。すると、街の繁華街に出た。その中から明るく大きめのお店に入った。ご飯時なのに空いている。
七人なのに大きい席がパッと取れた。
大衆酒場ではないが、店内も明るく雰囲気は悪くない。壁にはギルドの記事やこの街のお店の宣伝が張り出されている。木造の建物で中二階がある三階建てだが三階には明かりがなかった。一行は中二階に通された。大きい卓しかないようだが、先客はいない。これから賑わうのだろうか。
込み入った話も多少ならここでしても大丈夫だろう。
座ってメニューを眺めるミティアがやけに楽しそうだ。ティアマラントの屋敷で、恵子の作ったオムライスはいただいたが、最近はきちんとしたものを口にしていない。
シリアルバーや携帯食料。まだ野生の動物を狩って食べるまではしていないが、そうなることもこの先、あるかもしれない。
何はともあれ、食べられる時は食べる。これに限る。
適当に注文を通し、サラダや焼きたてのパンやピザなど、小分けにできるおつまみを口にしながら、これからの動き方を話し始めた。宿に戻れば男女別室なのだから、食事の時にしか情報の共有が利かない。
ジェフリーは話の切り出しと流れを作った。まずは提案からだ。
「この街でやりたいことは大きく分けて三つ、まずはギルドでの情報収集。これは俺とコーディで当たろうと思う。場合によっては、そのまま資金集めもする」
提案を耳にして、キッドは感心していた。チーズの乗ったフォカッチャを、切り崩しながら頷いている。
「分担するってこと? 考えたわね……」
機嫌がいいというよりは、名案だと素直に感心しているようだ。この反応は珍しい。
良い提案だと思ったのはキッドだけではない。
「確かに、いちいち総動員していたら、何日かかるかわからないデス」
ローズも頷きながら竜次とワインを開けていた。酒飲み仲間という点では、もしかしたら仲が良いかもしれない。
皆が食べながら耳を傾けている。それを確認しながらジェフリーは提案を続けた。
「もう一つは買い物を兼ねて、これから先に備えて準備と環境を整える。これは主にサキにお願いしたい。今回、情報収集に関しては無理をしなくていい。買い物は大変だろうからミティアとキッドにも一緒に頼みたい。うまくやりくりしてくれるだろうし、きっといい買い物をしてくれる」
サキはミティアとキッドにも視線をおくり、頷いた。
「道具、確かにありませんよね。お買い物のリストアップでもいただけると助かります」
「あぁ、それはあとで私がしますよぅ」
竜次が買い物メモの制作を引き受けた。フォカッチャを美味しそうに摘まんでいる。ワインと一緒なのだから美味しいだろう。すでに呂律が怪しい。酔って変なリストを作らないか心配だ。
「三つ目は孤児院だな。俺も終わったら顔出しに行くつもりだ。先に下見というか、軽い調査を兄貴にお願いしたい」
この割り振りに対し、ローズは控えめに挙手をした。
「ワタシも行きマス。今の孤児院がシロなのか、疑って申し訳ないですケド」
ローズは協力を申し出た。あまりいい理由ではないのだが、竜次は感激している。
「いいえ、助かります。正直、疑いがないと信じきれていません。親族というつながりがない状態でしか見えないものがあるはず。ローズさんにも確認をしてもらいたいと思います」
「ワタシでお手伝いになるかわからないですが、そうデスネ」
孤児院が種の研究所とつながりがないか、この見極めはしなくてはならない。もし、今も孤児が実験に利用されているとしたら悲しい連鎖は絶たなくてはならない。種の研究所の場所がわかるかもしれない一方で、このつながりがないことを一同は切に祈った。
明日の動き方の話がまとまった。
コーディが街歩きの注意をする。これは念のためだ。
「さすがにないと思うけど、変な人に絡まれた時はうまくかわしてね? ここはどこの国の管轄でもないから、役人は薄月給でやる気もないだろうし、助けを求めても期待できないよ。何かあったらほとんどは自衛するしかないから、そこは気をつけてね」
「自衛って……」
キッドが苦笑いで冗談ではないかと疑っている。その隣でミティアが首を傾げた。
「もしそうなったら、どうしたらいいの?」
対策くらいは考えておくべきだ。街中を出歩くのは、彼女たちだからだ。
コーディは人差し指を立て、注意を促した。
「ナンパとか勧誘は基本、無視。つきまといや刃物を持って振り回してくるおかしな人に絡まれたら、攻撃してもいいけどやりすぎても半殺しにしてね。ギルドの中ではそういう喧嘩、報酬がらみでよくあるけどね」
物騒な話だが、繁華街ではない話ではないだろう。
コーディは淡々としていたが、うまく世渡りするにはこれくらい肝が据わっていた方がいいのかもしれない。
「昼間の雰囲気でわかると思うけど、この街は賑やかだよ。物と人が行き交うから別に武器を持って歩いても問題ないし、大丈夫だと思うけど一応気をつけてね?」
「さすがに慣れてるな。見直した」
ジェフリーは深く感心した。できれば今の話でミティアやキッドも自衛を心得てもらいたい。意識するだけでも違うはずだ。
コーディは説明を終えるとパスタに手をつけはじめた。
「さぁ、しっかり食べなさい!」
「えっ、えぇっ……これでも食べてますよ⁉」
突然キッドが、サキの前にグラタンを盛って置いた。
困惑しているサキを見て、コーディはその話に加わった。
「お兄ちゃん細いよね。腕でわかるけど、食べて体力つけないと」
サキは答えにくそうに俯いた。その様子を見て、キッドはフォローをする。
「この子、とんでもない親に縛られて、ストレスでこうなっちゃってるのよ。根性は一人前だから、食べて肥えてもらわないと!」
「い、いきなりはそんなにたくさんは食べられないですよぉ」
「いいから、このフォカッチャもおいしかったわよ。ほら」
キッドはフォカッチャをちぎってサキの口元に運んでいた。食べさせるつもりだが、少し強引なやり方だ。恋人か保護者か、あるいは本当の姉弟のように接している。
コーディはじっとサキを見ていた。先ほどのキッドの言葉が気になっていた。親に恵まれなかった人がここにもいたと、親近感が生まれた。
ミティアが向かいに座っているジェフリーをじっと見ている。ジェフリーはその視線が気になった。
「どうした? 俺の顔はもともと悪いぞ?」
ミティアの前には小エビや貝の乗ったパエリアがある。食べる手を止めて、何が気になるのだろうか。いや、ジェフリーが食べている、塩ダレのかかった炒めご飯が気になるのかもしれない。ご飯の山から見え隠れしている野菜と肉の色合いは、もしかしたらおいしそうに見えるかもしれない。
声をかけられ、ミティアは笑って答えた。
「前はそんなにおいしそうに食べなかったよね?」
指摘を受けジェフリーは、恥ずかしそうに心当たりを口にした。
「な、何でもうまそうに食う奴がいるからだろ、きっと」
「そ、それって誰?」
「さぁな……」
はぐらかされたミティアは不満そうに頬を膨らませる。怒っているのかもしれないが、どこか悲しそうだ。
ジェフリーはこの態度を取ってからなぜか自己嫌悪に陥った。ミティアに対して、どうしても素直になれない。突き放すような言動は彼女に笑っていてほしいと願った自分とはかけ離れていた。
「そ、そんな顔をするな。ほ、ほら、空いてる皿をよこせ。少しやるから」
ジェフリーは少しでも機嫌を取ろうと試みる。食べものの話になればミティアの表情は明るくなる。
ジェフリーの態度とやり取りを見て、竜次が苦言を呈す。
「ホント、ジェフは可愛くないですねー……」
スプーンで圭馬にスープを飲ませながら、竜次が睨むような視線をおくっていた。
「そういえば、キミたちって兄弟なのに、顔とか性格とか全然違うよね」
圭馬が過激な指摘をした。見ていない隙に、ワインを舐めていたかもしれない。
「兄貴と一緒にされても困る。俺はそんなにデキがいいわけじゃないし」
ジェフリーの言葉にカチンと来たようだ。竜次も視線がぶつかった。
「あなたねぇ、自分を低く評価しすぎなんですよ。どうするんですか、あなたを慕ってくれる人に対して、少しは失礼だと思いなさぁい!」
竜次は言ってからしゃっくりをしている。
「お兄ちゃん先生、悪酔いしてない?」
圭馬がすかさず指摘を入れる。ローズが気を利かせた。
「お水ピッチャーでお願いデス!」
ローズは手を上げて店員を招いた。何事もほどほどにしなくてはいけない。
一同は、安ワインに悪酔いをした竜次を介抱しながら宿に戻った。
買い物リストなど作れるはずもなく、竜次は風呂にも入らずに眠りこけてしまった。フィラノスでもそうだったが、お酒が入ると変な酔い方をするようだ。
ジェフリーとサキで宿のお風呂をいただいた。
圭馬は目立たないように洗面器に浸からせておとなしくさせる。
さすがに人前で話すことはなかったが、ぬいぐるみを持った不審者には思われたかもしれない。
足を伸ばし、肩までゆっくりと浸かれるのはありがたい。野営をするとそのありがたみが身に染みる。
疲れを清算し、二人は脱衣所で話し込んだ。
「ジェフリーさん、お金稼ぎもするつもりですか?」
サキは着替えて髪の毛にタオルを絡ませながら質問をする。先ほど食事をしながら話していた、ギルドの話が気になっているようだ。
「この人数だから、動くための金も必要だろう?」
「そうでしょうけど、あまり危険なお仕事はしないでくださいね。生傷を作られても、時間が経過していたらいくら魔法でも綺麗に治らないかもしれないので……」
なぜかジェフリーは心配をされている。だが、心配なら街中にもあるだろう。
「サキも街中に危険がゼロとは限らない。キッドも頼ってうまくやりすごせよ?」
「そうですね。どうしようもなかったら、圭馬さんにもお願いしないと」
サキは腕の中で耳の後ろを掻いている圭馬にも視線をおくった。正直なところ、普段は助言だけで、サキの魔力を開放しないと圭馬は役には立たない。街中で実力行使の解決など、どんな危機的状況だろうか。そこまでしないといけない疑問はある。
特にサキは、タスクの多さに負担も大きい。無事に消化したら達成感もあるだろうが、果たして一日で済むのだろうか。
次の日の朝、ノアの街はよく晴れた空に恵まれた。
悪酔いをした竜次は途中から記憶がないのを詫びた。だが、買い物リストはきっちりと仕上げていた。おまけにしっかりと身だしなみが整っている。いつの間にか疲れの清算をしておいたようだ。だらしがない気質をやり手の大人という上辺だけで凌いでいる。買い物リストと、資金をサキに渡し、竜次はお願いしますと加えた。
宿のロビーで夜にまた会おうと約束する。
「そうだ、サキお兄ちゃんたちはこれ、必要だよね?」
コーディがこの街の地図を渡した。古びているが、だいたいがわかれば動きやすい。
「確かにないと困るわね、ありがと」
キッドが覗きながらお礼を言った。
支度が整ったところで、お互いに分散して行動を開始する。
ギルドでの情報収集を担当するのはジェフリーとコーディだ。街を知るコーディが街の中を案内した。
大通りにはテントが並び、商人たちの売買が盛んだ。昨日の夜には見かけなかった光景にジェフリーが驚いた。
「すごいな、もうこんなに人がいる……」
「こんなのは序の口だよ。もう少ししたら通れなくなるから、今抜けちゃおう。ギルドはこの先だよ」
駱駝や馬車、船からそのまま持ってきたのであろう木製のコンテナも見受けられる。人通りはまだまばらだった。貿易都市と謳われるのだから、これくらいでは済まずにもっと賑やかなのだろうと想像できる。少なくとも、ほかの街では朝からこんなに人の通りはない。
二人は大通りを抜け、金板の丸い看板にギルドと書いてある建物に到着した。木造だが扉や床が新しい。看板だけが古かったから、移転か改築でもしたのかもしれない。
「おはよう、マスター」
コーディは入るなり、慣れた様子でカウンターに挨拶をしに行った。
「お兄ちゃんは壁の張り紙でも見てていいよ」
言われるがまま、ジェフリーは内装を見流し、壁の張り紙に目を通していった。すでに沙蘭が邪神龍に襲撃された話は出回っている。これを見た人は『勇者』という単語に、何を期待しているのだろうか。
「コーディじゃないか、よかった。今ちょうど、人手を探していたんだよ」
カウンターにいるのは中年の女性だ。化粧をしており、大玉で派手なネックレスやイヤリングをしている。ギルドの人というよりは、酒場のママに近い外見をしている。
声量があり、よく通る声なので自然と耳に入る。ジェフリーも話に反応した。
「どうしたの? 飛び入り?」
どこかに飛び込むわけではないが、コーディは急ぎなのかと聞いているようだ。聞き耳を立てるジェフリーを気にしていた。
カウンターの女性がジェフリーに目を向ける。
「あらぁ、コーディのカレシかい?」
「違うよ。でも一緒に組んでる人だから安心して。で、何をすればいいの?」
まだほかには人がいない。時間が早いせいかもしれないが、きっとこれからここも賑やかになるのだろう。
女性はカンターの机に紙を置き、ペンで書きながら説明をした。
「今朝がた、フィリップスに通じる街道に黒い卵が発生したらしいのよ。話じゃ、噂の黒い龍の卵じゃないかって話しでね。フィリップスと協力しているんだけど、今は向こうも手薄でこっちにも腕利きがいないのさ」
ただならない話だ。聞いたコーディはジェフリーに振り返る。
「どうする? みんなを呼びに行く?」
コーディはジェフリーに選択を迫る。カウンターの女性が補足をした。
「さっき、アイラさんが向かったけど、手伝うだけでも行ってやってはくれないかい? 調査しようにも、それなりに腕の立つ人じゃないとどうも信用できなくてね」
女性の話を聞き、コーディとジェフリーは顔を見合わせた。先に向かった人の名前を聞き間違いかと思ったのだ。ここで多くを語らなくとも、行けばわかる。二人は頷き、この場を収めた。
しかし、疑問が浮かんだ。コーディはカウンターに振り返る。
「っていうか、何で腕利きがいないの? どうして手薄なの?」
「壁に貼ってあるだろう? ノックスの埋蔵金騒動のせいだよ」
そういえば、沙蘭が襲われた日付よりも前に、埋蔵金の話が書いてある。埋蔵金が発見されたため、炭鉱の採掘の人手を募集している。しかも高額の報酬が記されている。
人間の汚い部分だ。普通はその話に食らいつくだろう。誰しも金はほしい。
ローズがスプリングフォレストを抜けるための同行者が見つからないと言っていたのも、沙蘭が手薄だったのもこれが関係していたのかもしれない。
「それで実害は? 被害は出ているのか?」
ジェフリーはカウンターの女性に質問をした。カウンターの女性は激しく首を振った。
「いやいや、本当にさっきの話だよ⁉ こっちにはなのも情報が来てないさ。でも、ギルドの話は早いから、何かあったら情報で生計を立てている奴らが走って報告に来ると思うね。時間が惜しいんだけど、すぐに調査に向かってくれないかい?」
女性に選択を急かされた。確かに本当だったら一大事だ。それに、向かったと言っていたのは、サキの師匠のアイラだ。本当だったら、サキにも声をかけに行きたいが。
「いくら?」
コーディが報酬の確認をしている。汚いかもしれないが、人と金が動くのもギルドの特徴だ。
「飛び入り料を含めて五万リース」
「乗ったわ。手帳にサインをちょうだい」
コーディはジェフリーに許可をもらわず、さっさと手帳を出した。
「お兄ちゃん、すぐ出るよ!」
コーディは女性にサインをもらってトランクにしまいながら手招きをした。ジェフリーも覚悟を決めるしかない。
「もう一泊できるよ。おいしいもの食べても、おつりが出るくらい」
せめてサキに伝えたかったが、待ってくれなさそうだ。それに、本当だとしたらアイラが危険かもしれない。期待もあった。無事なら、何か情報を握っているのかもしれない。ジェフリーはこの考えを口にせずに黙った。今は流れに乗った方がよさそうだと判断する。
「わかった。乗るが最悪、撤退も視野に入れてくれ」
もし邪神龍だったら手に余る。ジェフリーはそれを主張した。コーディはその意見に同意した。命が大切なのは言うまでもない。
ギルドを出ると、大通りは既に通れなくなっていた。人で身動きが取れないなど、現実にあるものなのかと疑いたくなるが、これは事実だ。
二人は街の裏口から街道を目指して走り出した。
ジェフリーは武器以外に準備らしいものはない。幸いにも、コーディがトランクを持っている。有事の時は何かしらの補助はしてくれそうだ。
孤児院の調査。その名目だが、肉親への挨拶を兼ねている。
目的地に行くための地図は必要なかった。少し注視すれば、街の案内に名前が出ている。『孤児院はこちら』と綺麗な木目をした看板が指し示していた。
ローズがついて来ると申し出たのが意外だと竜次は思った。だが、表面上では親戚に怒られに行くようなものだったので、少しは緩衝材になるかもしれない。そんな甘い考えを持っていた。
看板の案内に従って進むと、街の外れに白い平屋があった。屋根はえんじ色をし、派手さはない。庭が見え、子どもたちがむやみに街中へ出ないように囲いがあった。
大人がジャンプでもすれば簡単に跨げるので、柵とまではいかない。囲いの戸には小鈴がたくさんぶら下がっていた。玄関ベルのようなものかと、竜次は振って鳴らした。
「はぁーい!」
女性の元気な声がした。バタバタと走ってくるが、声の正体より先にやんちゃそうな男の子が覗いた。ここの子どもだとすぐにわかったが、あとから何人も走ってくる。
五人ほどの子どものあとに、一本の三つ編みおさげをしてチェック柄の赤いストールを羽織った女性が顔を見せた。女性は竜次を見るなり驚きの声を上げる。
「り、竜ちゃんかい⁉」
「こんにちは、おば様……」
「まぁ……大変だよ、こりゃ」
女性は二人を招き入れた。
竜次が連れだとローズを紹介する。ローズも会釈した。
「こちらはローズさん、知り合いです」
「はいどうも。私はマリー・サイラー。この子の母親の妹にあたる親戚です。ようこそ」
マリーの目は潤んでいた。その様子に、子どもたちは竜次の足もとに殴りかかった。
「マリーさん、泣かせたな!」
「このおじさん、悪い人だー」
突然の訪問者にマリーは泣かされた。そう判断した子どもたちは竜次を悪者だと判断した。
竜次は『おじさん』と呼ばれた点に傷ついたが、とりあえず黙っている。それよりも困ったことに、子どもたちが離れない。これでは落ち着いて話ができない。
「これ、おやめなさい。悪い人じゃないのよ」
マリーが止めに入るが、そう簡単に誤解は解けないようだ。子どものパンチは痛くないが、悪者にされて竜次も困っていた。
その様子を見て、ローズは行動に出た。白衣のポケットに手を突っ込んで子どもたちの背後に立った。
「ほーれ、飴ちゃんだヨ」
ローズは両手に棒のついたキャンディを広げている。そのキラキラした飴に子どもたちの注意は反れ、釘づけになった。一気にローズは注目の的になる。
竜次は驚きの声を上げる。
「ロ、ローズさん!」
「ワタシは子どもを産んであげられなかったのでネ……」
ローズは控えめに笑った。その笑みは、罪滅ぼしの一環とでも言いたそうな、悲しい笑みだと竜次は思った。
「先生サンは存分にお話なさってくださいデス」
ローズは竜次にそう告げると、もう一度マリーに会釈して小走りになった。
「さぁおいで、追いかけっこしまショ」
子どもたちがローズに向かって一斉に走り出した。
「何だか申し訳ないわ……」
マリーは頬に手を添え、悩ましげな表情だ。すでに遠くなっているローズを見ていた。
ローズが言った『産んであげられなかった』という言葉を耳にした竜次は複雑な心境だった。もしかすると、自分の父親とそういう関係だったのかもしれない。自分たちに迷惑をかけられたわけではない。この大人の関係に、自分が踏み込むべきではないと判断した。
二人きりになり、マリーは気になる質問をした。
「竜ちゃんの彼女、ではなさそうね」
「そうですね。お医者さん友だちです」
竜次は適当な言葉が思いつかず、完全な嘘は諦めた。マリーに『今』を詮索される想定はしていた。ある程度の言い訳は考えてあるものの、どうしても自然な返しにはなりづらい。
マリーが孤児院の中へ案内する。子どもたちはローズと遊んでいるため、室内にはいない。子どもたちが描いた絵や折り紙が壁のいたる場所に見受けられる。生活感があるが、よく整頓がされていた。
いくつか小部屋があったが、その中から扉のある応接室に通された。さすがに応接室はきちんとした椅子やテーブルがある。本棚があり、部屋の一角が書斎という兼用部屋のようだ。限られた広さでうまくやりくりをしているのがうかがえる。
マリーは竜次を抱きしめた。竜次は驚き、のけ反りそうになる。
「あの、おば様?」
「話したいことはたくさんあるけど、先に言いたかったのよ。よく生きてくれたね」
マリーは泣きながら竜次の頭を撫でた。
この様子だと自殺した話がマリーの耳にも入っていたようだ。どこまでも恥ずかしい行為だと竜次は思った。消えない、一生の汚点だ。だが、ここにも生きていることを喜んでくれている人がいるのを、うれしく思った。
「ご心配をおかけしました……」
「もう、帰って王様をしたらいいのに……」
この話をされると想定はしていた。それよりも竜次は重要な話をしに来た。
マリーが落ち着くのを待ってから、竜次は腰かけた。感傷に浸ってもいいが、ゆっくりと話す。
「突然来てしまって申し訳ない」
「沙蘭が襲われたって聞いて心配したんだよ。最近は本当にいい話がなくてねぇ」
竜次は手紙を差し出した。きちんとした封がしており、沙蘭のシンボルフラワーである桜の印が押されている。マリー・サイラー様と書かれてあった。
封の印を見て本物だと知ると、マリーは目を丸くして竜次を見ている。
「沙蘭に行ったの? これ、姫ちゃんの印じゃない……」
マリーは封を開き、手紙を読んだ。目で追っているのがわかるほど、文字は書かれていない。
二枚に渡って書いてあった手紙を読み終えると、マリーは手を震わせながら首を横に振って涙を零した。
「おば様……?」
マリーはそのまま手紙を竜次に差し出した。
目を通してみると、沙蘭に黒い龍が現れたこと、皆が沙蘭を訪れて街を救ったこと、世界の生贄制度に踏み込んでしまったことなどが書かれてあった。ここまでは、竜次も知っている。もう一通、フィリップスへ渡すはずのものを見ていたからだ。だが、二枚目は違っていた。
二枚目は、これを読んでもジェフリーや竜次を咎めないでくれというメッセージが添えてあった。
「姫子……」
またも、正姫に気を遣わせてしまった。竜次の中で申し訳ない気持ちだけが大きくなっていく。
「おば様、すいません……」
「そうだね。もう、普通には戻れないんだね……」
マリーも渦中の人だったことがうかがえた。
「ジェフちゃんの名前も書いてあるのは、一緒に来ているのかい?」
マリーはハンカチで目元を整えながら、竜次に質問をした。
竜次は笑って頷いた。少ない肉親が、ここまで自分たちを思ってくれている。心配してくれている。特に、母親のような心遣いがうれしかった。
「そうかい。知らないうちに大人になっていくんだね」
マリーは感慨深いようだ。それは竜次も同じだった。
「ジェフちゃん……姉さんが命懸けで産んだのに、抱っこできなかったの、きっと悔いていると思うわ。立派になっているのでしょうね」
マリーの言葉に竜次は心を痛めた。心苦しかった。亡くなっていることを話していないのに、既に知っているような口ぶりだ。もしかしたら、自分たちが知らないだけだったのかもしれない。
嫌な予感がし、竜次は父親のことを口にした。
「あの、おばさま、お父様がどこにいるかご存じではないですか?」
「ケーシスさん? いいえ。てっきり沙蘭へ帰ったものだと」
「いえ……帰っていませんでした。私たちが知らない場所で、何かよくないことをしようとしていなければいいのですが」
「じゃあまだ留守を? おかしいわねぇ。ケーシスさんはこの街に引っ越す際にも資金援助をしてくれていたし、そんな悪いことするとは思えないわ。きっと大丈夫よ」
少なくともマリーは、ケーシスをいい人だと信じているようだ。
竜次は旅の途中で会った刺客のことを言えなかった。つながりがあると思われるが、この話をしてマリーが知っている保証はない。それに、知らなかったら余計な心配をさせてしまう。竜次は言葉を考えていた。
マリーはとある可能性の話をした。
「でもいい人ほど、騙されてしまうかもしれないわ。ケーシスさん、誰かに利用されてないといいのだけど……」
新たな可能性、『利用』という言葉が妙に気になった。確かにその線も考えるべきだ。どちらにしろ、父親には会って話さないといけない。竜次はやはり父親を探さなくてはと焦りを感じた。
マリーは突然立ち上がって、竜次を別室に招いた。
「そうだ、竜ちゃんにお願いがあるのだけど、付き合ってもらえはしない?」
時間はまだある。竜次はマリーに招かれるまま移動をした。
子どもたちが普段生活をしている部屋のようだ。大きな机があり、いくつも椅子が見受けられる。壁に大きな黒板があり、使い古したチョークが隅に見えた。
マリーは鍵のついた引き出しから年季の入った木箱を取り出した。中は紙束だ。
「竜ちゃん、今はお医者さんでしょう?」
「えぇっと、一応……」
紙束は子どもの名簿だった。竜次は意図がわからないまま首を傾げた。
「もし、明日も滞在しているなら、子どもたちの健康診断をお願いしたいのだけど」
「えっ⁉」
「いつもフィラノスやフィリップスからお医者様を呼んでいるのよ。でも最近は黒い龍で治安が悪くなったせいか呼べなくてね……」
マリーはさらに封筒を差し出した。
受け取った竜次は『重み』を感じた。これはお金だ。資金難な孤児院からだ。ましてや身内、受け取れるはずがない。
「ま、まだ明日も滞在するのかわからないです。それに、もし引き受けるとしても、おば様からお金なんて受け取れません……」
竜次が断っても、マリーは封筒を引っ込めるつもりはないようだ。竜次は馬鹿正直なことに、明日もどうかわからないまで言ってしまった。
「き、決まってからでいいですか?」
とりあえず竜次はこの場を凌いだ。上手い返しが思いつかない。
マリーは医者になった理由も、ほとんど医者らしい仕事をしていなかったのも知っているに違いない。正姫から話が回っているだろう。長年連絡も取っていなかった、ジェフリーにだって手紙を出したのだから、マリーにも同じことをしたのかもしれない。
そんな医者らしくない竜次に、わざと仕事をさせようとしている。
うれしくて、申し訳なくて、今は心に沁みる。竜次は再び思い出話に身を任せた。話したいことは山とある。
「ねぇ、この階段、さっきも通ったでしょ?」
「えっ、そうだっけ? さっきはこのアイス屋さんはなかったよ」
元気に繁華街の探索をするのは、仲睦まじい女性二人と頼りない男子という買い物組。
層になった街の一角が繁華街と称されるが、その構造は複雑だ。大通り以外は整備されているが、とてもわかりづらい構造をしている。整備されているからこそ、逆にわかりにくいのかもしれない。
同じような階段、同じような構造、階層によって配色が違うだけの地面のタイル。
キッドとミティアは楽しそうに話していた。サキは恨めしそうに二人を見ながら地図と片手に目的の店を探す。
日は昇りきってしまい、どうももたついてしまう。
「キミさぁ、女性をエスコートもできないのぉ? 情けないね」
圭馬に馬鹿にされる始末。この小言にはサキも反応した。
「大通りは抜けられないんですよ? 二層三層になったり同じ景色が続いたり、本当にこの街はコンパクトにまとめようとして失敗した遊園地みたい……」
サキは遊園地と例えたが、実際はショッピングモールに近いかもしれない。申し訳程度ではあるが、遊具スペースや公園、休憩スペースやカフェのテラス席もあり、利用するための自由度が高い。
サキに地図を読む能力はあっても、実際と照らし合わせる要領が悪いようだ。食べ物のお店で変化を見つけるミティアが意外にもその助けになっていた。
迷いながらもやっとの思いで辿り着いたのは、目的の一つである本屋だった。こんなに複雑だと、襲われる心配をする以前にはぐれてしまいそうになる。
本屋に入って物色を開始する。サキは魔法入門書の棚を見ていた。手ごろな本を手にし、他にも何かためになりそうな本はないかと探す。見ようにも街の構造のような高い本棚から探す元気がない。
隣り合う店舗の駒ならまだしも、二階と三階がぶち抜かれて店舗になっているとは、驚いてしまう。品揃えは貿易都市なだけあっていいのだが、壁と柱からぶら下がっている梯子が恨めしい。
「あっ、これ可愛いキャラクターですね」
本棚の上の方を見上げるサキの横で、ミティアが平積みの本を手に取っていた。
「あれ、ミティアさん、その本……」
サキはミティアの持っていた本に視線をおくる。手にしていたのは世界地図だった。中のページには、可愛いマスコットキャラクターが解説に添えられている。
今まで通って来た山道やスプリングフォレストの簡易地図も掲載されている。見慣れない街の観光案内も書いてあった。色分けがされており、ただ可愛いだけではなく、見やすさを重視した。
「ふむ、一緒に買いましょうか……」
サキは入門書と重ね持ち、会計へと足を運んだ。
どちらかというと、地図は余計な買い物かもしれない。だが購入していればこの先、地図に困らないかもしれないという独断でサキは購入を判断した。
「さて、次は旅に必要な道具とミティアさんのお買い物ですね」
次の店を探す。サキは再び地図を広げるが、また読み方からのスタートだ。
ふと、サキは買ったばかりの地図本を開き見た。こちらは色分けされていて、見やすい。さっそく街歩きの頼りに使用する。
せっかく上った階段を降りる手間はあったが、やっと大きい雑貨屋を見つけた。
店の前で圭馬は楽しそうに話した。
「何だか、買い物だけで遺跡探検みたいだね。昔はボクも、探検なんてしたものさ」
圭馬はミティアの腕の中でずっと楽をしていた。歩いてはいないし買い物には積極的に参加していない。それでも言う内容は興味深いものだ。
一同で遺跡探検の経験はない。だが、この繁華街の複雑な構造で探索を行うと妙なワクワク感は味わえるかもしれない。圭馬はさらに気になることを言った。
「そうだ、発掘され尽くされているだろうけど、この近くにアリューン神族の遺跡ってあったよね。でも、あそこはキミたちの目的地にはないんだっけ?」
気になったサキは地図を見直した。違うページに近隣の拡大地図がある。
「わぁ、そんな場所があるんですか? 圭馬さん、物知りですね」
ミティアも興味津々に地図を見ている。「これかな?」と指をさした。サキが説明書きに目を通す。どうやらこの近隣の観光名所のようだ。
「確かに何年も前に発掘され尽くしているみたいですね。ただ、遺跡の規模と、発掘されているだけの道が一致しないから、多くの学者から疑問視されています」
興味は抱くも、明らかに目的とは異なる。耳にしていたキッドは鼻で笑った。
「そんなの、どっか壊して調べたらいいのに。絶対変な壁があるに決まってるじゃない」
戻ったら話題にしてみよう。せっかく買ってしまった地図なので、使わないのももったいない。問題は、遺跡探索で目的より外れてしまい、寄り道になってしまう点だ。おそらく採用はされないだろうが、話すだけ話してみようとサキは思った。
三人は雑貨店に入った。
窓から射し込む光が、サンキャッチャーに反射する。店内のグラスやアクセサリーをきらびやかに見せていた。
ショーケースやおしゃれな棚が並び、見やすくも楽しませてくれる雰囲気がたまらない。きちんとした通路も確保され、吟味するための行き来がしやすそうだ。
棚に並ぶのはガラスの食器や時計、小物や置物などのインテリア雑貨だ。ガラスのショーケースと机には、指輪やネックレスなどのアクセサリーが見やすく平らに置かれている。
サキはまず、ミティアの魔法補助になる媒体を探すことにした。
貿易都市であるせいか品数は多く、色も種類も豊富だ。普段使いのアクセサリーはもちろん、誰かへのプレゼントにもよさそうなものまで揃っている。見慣れないお菓子や食べ物も見受けられた。
サキは肝心の魔法の補助になる道具はないだろうかと店内を見渡した。比較的目を引きやすい入り口の横に『フィラノス雑貨』という手書きの掲示を発見する。
見た目ではわからないが、原石や特殊な金属で加工されているようだ。
サキはアクセサリー見る経験がないのか、戸惑いながら色々と手に取っては棚に戻すのを繰り返している。
「あまり高いのはお勧めしません。高いものはそれだけ強力な魔力の元になりますが、その分壊れやすいので」
特に、ミティアはまだ強い魔法を使わない。
ミティアは熱を帯びた視線で、サキの顔を覗き込んだ。
「サキは何がいいと思う? いっぱいあるから目移りしちゃうなぁ?」
いつも可愛いが、時々艶やかになる不意打ちは本当に困惑する。サキは恥ずかしくなって視線を落とした。
これを圭馬が見逃さない。
「視線が落ちてるってことは、やましいモノ。そーだなぁ、指輪なんて考えてたんじゃないの?」
「ちちちちがっ……!」
サキは圭馬によって瞬く間に弄られキャラになってしまった。
キッドも黙ってはいない。
「あんた、まさか本気にしてんの⁉」
「そ、そんなつもりは……でも、遊びじゃないですよ……」
「えっ、女の子をたぶらかして遊ぼうっての!?」
「ど、どっちで答えたらいいのか、わからないじゃないですかぁ」
圭馬もキッドもからかっているのだろうが、サキはあまりに慌てふためくので面白くて仕方ない。
そんなやり取りにいっさいなびかないミティアは、青いティアドロップのペンダントを摘まんでいた。
「これ、綺麗……」
ミティアは店の明かりに透かしながら、じっくりと見ている。この数センチの澄んだ石にどんな魅力を感じたのだろうか。
飾りっ気のないミティアを華やかにしてくれそうだ。サキは買い物トレイを差し出した。これを買おうというサインだ。
「えっ、これでいいのかな?」
「派手さはありませんし、価格もお手頃。それに、高価なものを買うと皆さんに咎められてしまいそうですので」
指輪を選ばれるよりはいいと思ったようだ。サキは不貞腐れ気味に即決した。
「あとは、僕の魔石と……先生のおつかいメモですね」
そのあとは手際よく買い物リストを潰していった。
主に消費してしまった非常食の類や水、ランタンの油、虫除けの袋、衣類などだ。量があるため、荷物を持ったままでは行動がしづらい。
三人は宿に置きに行くべきだと判断した。
「ほら、頑張れ。男の子!」
サキはキッドに励まされていた。一番大きな袋を手にしていたからだ。荷物を両手で抱えるも非力で牛のように歩みが遅い。
「わたしも持つよ?」
「い、いえ、それはだめです」
ミティアは購入した本の紙袋を持っている。彼女の華奢な腕に、こんな重いものを持たせるわけにはいかないと、譲れない意地と根性がサキにもあった。
賑わっている通りを見流し、来た道を戻った。宿に到着したが、街の賑わいが聞こえるほどだった。
仲間のそれぞれが込んだ用事を抱えているので誰も帰ってはいない。
部屋に荷物を置き、息を整え一息入れる。
サキはミティアとキッドに提案をした。
「さて、まだまだ時間はありますが、どうしますか? お疲れでしたらこのままここで魔法の勉強をしてもいいですけど」
宿で勉強、街の散策、どちらかに絞るつもりだ。そこへ圭馬が第三の提案をした。
「街の外でお姉ちゃんのペンダントが壊れないか、試運転はしなくてもいいのかい?」
「それはさすがに危ないと思います」
サキは表情を曇らせた。手薄な状態で襲撃を受けたくはないと思ったからだ。ミティアを連れて街の外に出るのは、キッドが一緒でも絶対に安全とは言えない。
悩んでいると、外が騒がしくなった。ここは貿易都市だ。この時はさして気にしていなかった。
「とりあえずお昼でも食べますか? 三人ですけども」
サキは魔石を補充し、お金の残高を確認しながら提案をした。
「賛成です!! この街にはどんな食べものがあるのかなぁ」
ミティアもポーチの中に、いくつか赤い魔石を入れて整えた。魔石は強力な魔法を放つ時に使う。街歩きで使わないだろうが念のためだ。それに首元にはペンダントが光っている。何かあったらこちらで対応が可能だ。
三人は再び街中に繰り出した。
大通りが騒がしい。
貿易都市だから、売買に盛んだから、と流しそうになった。だが、どうも様子がおかしい。
逃げる惑う人、複数の足音、叫び声も耳にした。木箱だろうか、崩れる音もする。
明らかに様子がおかしいとミティアが声を上げる。
「あれ、どうしたんだろう?」
「行商の売買にしては様子がおかしいですね」
サキが先導し緊張を高めながら大通りへ足を運んだ。
「何よ、あれ……」
キッドは顔を強張らせた。惨状を目にしたからだ。
大通りは酷く混乱していた。テントやコンテナ、木箱が邪魔をして逃げられないようだ。まだ中に人は残っている。売り物の散乱も逃げられない要因だ。
騒ぎの原因は何だろうかとサキはコンテナの隙間から市場を覗き見た。
あちこちに、直径一メートルほどの紫色をした人魂のようなものが浮遊している。しかも一つや二つではない。個体差はあるが浮遊したまま移動しているものもあった。煙なのか水蒸気なのかわからないが、目立って気味が悪い。
「まずい! あれ、瘴気の霊だよ!!」
圭馬がサキの頭を踏みつけて叫んだ。サキは耳を疑った。
「瘴気って、魔の存在では? どうしてこんな街中に?」
「さすがにそれはボクにもわからない。魔界にはたくさん存在しているけど、普通は人間界に漏れ出すことはないはずだよ」
「普通は……ってことは、邪神龍や野生動物の狂暴化が関係しているのでしょうか?」
「その考えはあとにしよう。あの瘴気の霊は人間が触ったら生気を吸われて、下手をしたら死んじゃうよ!!」
圭馬が言うには命に関わる非常事態のようだ。これにはミティアもキッドも危機感を持った。
キッドは圭馬に指示を仰いだ。
「ど、どうしたらいいの?」
「まずは、ここにいる人達を避難させて!!」
圭馬の言葉を受け、キッドはすぐに行動をした。比較的人の少ない狭い隙間を抜け、木箱を押し出して広場の内部に二人を招き入れた。下手に大きな通路を作れば混乱を招いてしまうからだ。
キッドは散らばっている麻袋や木箱をどかし、人が通れる道を作って誘導を試みる。
ミティアも何かしようかとおろおろとするが、下手な行動ではぐれては困る。サキはミティアが離れないか気を配りつつ、思考を巡らせていた。仲間の誰かを呼びに行くにも街の構造は頭に入っていない。
「コンテナもどかせたらよかったんだけど……」
キッドがさらに道を作った。彼女は今の自分にできることを見据えている。ある程度の通路は確保できたが、まだ奥があるようだ。
瘴気の霊が身近に確認できるようになり、圭馬が知っている情報を開示した。
「あれは瘴気だから、基本的には実体がないね。斬ったり叩いたりの物理はほとんど通用しないよ」
「えっ、何それ、あたし無能じゃない」
「魔界にいる瘴気の霊って言ったでしょ? 魔には魔、つまり魔法で対抗するしかないね。まぁ、お姉ちゃんがノイズの能力を自由に扱えるのなら話は違うけど、まだその領域じゃないね」
キッドはひどく落ち込んだ。いや、やれることがある。すぐにかぶりを振った。
「あたしはこのまま街の人の避難と誘導をするわ。任せたわよ!」
キッドは走ってまたも障害物をどかしている。まだ人がたくさんいるのに、混乱していて逃げられない人がたくさんいる。
「誰か!! 力を貸してください!!」
キッドが力を借りようと必死だ。呼びかけに応じて何人かが足を止め、コンテナを除けることができた。広い道の確保に街の人が歓喜の声を上げる。
「よかった……落ち着いて避難してください!」
キッドの働きによって人は徐々に減り、状況が把握しやすくなった。
「怪我人はいるけど、死者はいないみたいだね」
圭馬は地面に降り立ち、ミティアとサキに向き直った。
「キミたち、瘴気の霊を焼くんだ!! 街中だから、抑えないと火事にしちゃうよ。気をつけてね?」
聞いたサキは難しそうな顔をしながら、杖を出して手にした。
「強い魔法は使うな……ですか?」
「そ。燃えやすいものが多いからそれしかないよ。この広範囲に聖域を張って浄化したら、キミの体が持たないでしょ。数がいるから頑張って!!」
一掃出来ないのがもどかしいが、街中を火の海にするわけにもいかない。
サキはどれくらいの加減をしたらいいのか、試しながら霊を焼き払っていた。
「お姉ちゃんは剣に炎を纏わせる魔法を覚えたよね。あれなら効くから!!」
「わ、わかりました、やってみます!!」
指示を受けて、ミティアも剣を引き抜いた。
相変わらず大振りで隙が多いが、サキのように打数がなくて負担も少ないし確実だ。
食事も忘れ、昼間から何をしているのだろうか。そんな風に思いながら、二人は瘴気の霊を蹴散らしてゆく。
馬車の轍があったが、綺麗に整備された街道だ。頻繁に人が通るのか、草木も生い茂ってはいない。鳥のさえずり、小動物の行き来、小川でも流れているのか植物がみずみずしい。
ギルドで情報収集組のジェフリーとコーディは緊急の依頼を請け、街道へ足を運んだ。少し進んで、異常を感じた。
街道に不釣り合いな紫色の異色が目を引く。
「この人魂みたいなものは何だ?」
「さぁ? でも触らないほうがよさそうだね?」
「似たようなものなら邪神龍や魔女がまとっていたような気がするが……」
どこから湧いているのかは把握出来ないが、街道にも瘴気の霊があらわれている。当然だが、この二人は瘴気の霊について知らない。
コーディは触れないように注意したが、要は構わなければいいだけの話。
ジェフリーもこの判断に従った。外の世界では、先輩の忠告は絶対だと知っているからだ。いくら外見が子どもでもコーディの意見や忠告はためになるものだ。
瘴気の霊は大きさがあるだけ、回避もしやすい。
また少し進んで、達筆な人情カバンを腰に下げた栗毛の女性を見つけた。この外見は、絶対に間違いない。
ジェフリーは叫んだ。
「おばさん!!」
「えぇっ、ジェフリーじゃないかい!?」
おばさんと呼ばれた女性は振り返る。ギルドで聞いたように、アイラで間違いなかった。アイラは驚倒しそうな声を上げた。
コーディも声をかける。
「アイラさん、無事ですか⁉」
「コーディ……ってこたぁ、ギルドの応援かい?」
アイラはコーディとも面識があるようだ。アイラはジェフリーが一緒という点で状況を判断したようだ。もちろん、再会には驚いている。
ジェフリーはアイラに質問をした。
「黒い卵ってのはどこだ?」
「あ、あぁ……」
アイラは親指で前方を指した。
黒い卵ではないが、ブラックホールのようなものが見えた。見方によっては、これを『卵』と呼ぶかもしれない。道を遮る程度だが、楕円で横長。大人がすっぽり入ってしまうくらいの大きさだった。
涼しい顔をしているアイラだったが、本心は困っていた様子だ。
「卵ってわかりやすかったらよかったんだがね。いくらあたしでも、何でもこの規模は破壊できないね」
そこに存在している、と言うよりは空間が割れていると表現した方がよさそうだ。
今は動く様子はないが、紫色だけではなく黒々とした禍々しい外見をしている。雷のようなチリチリと音も立てていた。
「一体何だ、これ……」
「さぁ? 時空の歪みかブラックホールか、何にしろ、いいものではないね。調べようにも、触ったらまずそうだし。正直、近くにいるだけでも体力が吸われているようだよ。このまま貧血を起こしそうだね」
「おばさんでもわからないことがあるのか?」
ジェフリーが質問攻めをする。アイラもそれなりの知識人のはずだ。そんな彼女でもわからないとは意外だった。ジェフリーは心当たりを口にした。
「ここへ来る途中に見た、あの変な人魂とは関係あるのか?」
「あるだろうね。一度、街に戻って作戦を立てよう。解決するまではここは人も馬車も通れないだろうね」
アイラはコーディの目の高さを合わせるよう、少し屈んだ。
「コーディ、あんたが飛べるならあたしよりずっと早いよね。ギルドに報告をお願いしていいかい?」
「えっ、私?」
ギルドのハンターとしては格上のアイラからの頼みだ。コーディは困惑した。
「ギルドに報告。それから街道に近付かないように商人たちにも言わないと!」
「わ、わかった……」
コーディはアイラとジェフリーを見て頷き、背中の翼を広げた。助走なしでその場から飛べるのは、コーディの強みだ。
「あとで待ち合わせしようね」
見下ろしながら軽く手を振ると、コーディは旋回して街へ飛んで行った。アイラの提案のように、走るより断然早いだろう。
アイラが走り出し、ジェフリーも続いた。
「ここにいても、何も解決しないってことだな?」
「そうさ、とりあえず触るな、近寄るなって警告をばら撒かないといけないね」
アイラは走りながら、ジェフリーを見やって訊ねる。
「サキも一緒なんだろう?」
「あぁ、頑張ってるさ」
「そりゃよかった。ちったぁ立派になってるといいけど」
「ちょっとどころか、サキがいなかったら何回死んでいるのかわからないくらいだ」
「そうかい……」
表情は見えなかったが、きっと笑っているに違いない。ジェフリーは心の中でこの再会をよろこんだ。先にコーディを向かわせたのは、わざとこの話をしたかったのかもしれない。
来た道を戻っているだけだが、瘴気の霊が増えている。
戻る途中、アイラは短剣で木に印を入れていた。整った道になぜこのような印をつけるのだろうか。
「おばさん、その印は?」
ジェフリーの質問にアイラは振り返らないまま答えた。
「今のところは『おまじない』だね……」
この印が何を意味するのだろうか。この時はまだわからなかった。ただ、ジェフリーにはある程度の見当がついていた。アイラはフィラノスの大図書館に下級の悪魔、本の悪魔を放っていた。その出来事から、この印も何らかの術なのだろうと予想していた。
サキとミティアとキッドはノアで大通りの混乱を対応していた。キッドが手際よく立ち回ったおかげで、逃げ遅れた人の避難は完了しつつあった。
サキはコツを掴んだのか、売買市場に引火させることなく瘴気の霊を蹴散らしていった。大半は駆逐され、見晴らしがよくなった。
サキは呼吸を整えながら姿の見えないキッドに呼びかけた。
「キッドさん、どんな感じですか?」
「あと少しよ。ソッチも逃げ遅れた人がいないか、よく見てちょうだい!」
キッドは数ブロック離れた位置から大声で呼びかけに応じていた。
少し離れて二人の声を聞いていたミティアは街の出口付近まで走った。危機は去ったが、騒動で怪我をして動けない人がいないかと探す。
「逃げ遅れた人……」
ミティアはきょろきょろと辺りを見渡す。一本奥に入った裏通りで、大柄の男性二人がこちらを見ているのに気がついた。
「あの、避難してください。ここは危ないです」
場所は裏通りの入り口、ミティアは男性を怖く思いながら声をかけた。見知らぬ大柄の男性だ。男性二人はミティアの方へ歩み寄った。
ミティアは男の顔を見上げる。一人は目がギョロッとしてスキンヘッド。もう一人はモヒカン頭で金とピンクのまだら模様の髪だ。目立つ色をしている。顔には引っ掻いたような傷があったが、もしかしたらファッションかもしれない。
二人ともミティアを見て気味の悪い笑みを浮かべている。
「あ、あの……きゃあっ!!」
無情にもミティアの親切が災いを呼んでしまった。男の一人に右手首をつかまれる。物凄い握力に、ミティアの剣が零れ落ちた。
「た、す……んんーっ……」
ミティアが声を出す前に口を塞がれてしまった。底知れない恐怖が襲い掛かる。この男性が悪い人だと気がついた時には、裏通りの奥に連れて行かれていた。
混乱の中で生まれる邪な思考を持った人だ。ミティアはやっと理解した。人の汚い部分を。こういう人もいるのだと。
これから自分はどうなるのだろうか。きっと悪いことをされるに違いない。
ミティアはスキンヘッドの男に羽交い絞めにされた。首が苦しくて手をかけるが、この華奢な腕に払える力など入らない。
「い、いやぁ!!」
やっと塞がれていた口の隙間から声が出た。苦しくて息が上がっている。
恐怖から手が震え、視界がぼやけていた。温かいものが頬を伝う。
すぐに口を押さえられた。もはや唸り声しか上げられない。
ミティアは意識が遠のきそうになった。モヒカン頭がミティアの腰に手を回す。
「んんぅーーーーーーっ!!」
ぞわりと背中に悪寒が走る。知らない人に自分の体を触れられるのが気持ち悪い。空腹なのに吐きそうだ。
「ソニックブレイド!!」
女性の高い声だ。声のあとに疾風が走った。風の刃はモヒカン頭をかすめ、バラっと削ぎ落した。
誰か来た。そうミティアが表通りに目を向けると、栗色の髪におしゃれな帽子を被った女性が立っていた。左手にはミティアの剣を持っている。剣を拾って気がついたのだろう。
もしかしたら助かるかもしれない。ミティアの淡い希望は確信となった。
「ぎゃああ……いっでぇ、ぐぅぅぅぅぅ」
無残になったモヒカン頭の男が、呻き声を上げ、腹を抱えて地面を這っている。
その横に見覚えのある、金髪で青いジャケットの男性が立っていた。
見間違うはずがない。ジェフリーだ。右手で拳を構えている。
「そいつから離れろ!!」
ミティアは目を見開いて名前を言う。
「ジェフリーっ!!」
誰が見てもわかるほどジェフリーは怒っていた。彼はミティアを押さえていたスキンヘッドの頭をした男性に言う。
「お前……離さないと、手が滑って殺すかもしれない」
ジェフリーは剣の柄に手を掛けている。本気でやりかねない殺気をミティアは感じた。
脅しに怯んだスキンヘッドの男はミティアを解放した。それから飛ぶように後ずさり、情けない声を上げながら逃走した。
逃げ足だけは速い。
地面を這っていたモヒカン頭も立ち上がり、追って逃げて行った。
逃げる彼らとすれ違いに、キッドとサキがやっと騒動に駆けつけた。
アイラが魔法も放ったし、音も立てた。さすがに気がつくだろう。逆に、それだけしなければ、気づいてもらえなかった。
力なく座り込んだミティアは体を震わせ、ジェフリーを見上げている。
ジェフリーにはためらいがあった。婚約者を同じような状況で亡くした。この場合はどう行動するのが正解だったのだろうか。
今はミティアの手を取ってやらないといけない。なぜ一人になったのか、怒るよりもまず、彼女を慰めてやらないといけないと思った。これも正しい選択なのか、ジェフリーにはわからない。ただ、暴漢が本気で許せなかった。
「何もされなかったか? 怪我はしてないか?」
不器用なジェフリーにはこれくらいしか言葉が浮かんで来なかった。ジェフリーが手を差し出した。ミティアはこれを手繰り寄せるようにし、抱きついた。
「こ、こわ……か……」
泣きながら震えている。手も、足も、声も。
「っく……わ、わたし、うぅっ……」
ミティアはジェフリーの胸の中で子どものようにしゃくり上げ、大泣きしている。
押さえつけられたせいか、服は汚れ、腕に擦り傷が見られた。大きな怪我はしていないようだ。
「無事でよかった……」
キッドもサキもこの場にいる。後ろめたさがあったが、ジェフリーは慰めるようにミティアの背中をさすった。小さい背中だ。こんなに温かいのに、悲しさに冷たく、恐怖に震えている。
「あ、あの、どうしてお師匠様が?」
一安心かと思い、サキはアイラに質問をしていた。
「ん? どうしてって、金を稼いでるからさ」
それよりもアイラは、キッドが気になっているようだ。
キッドもアイラを見て表情を強張らせている。睨み合うようになってしまった。
先に話したのはアイラだ。
「あなた、名前は?」
「あたしはキッドです……」
「なるほど。人違いってことにしておこうかね」
アイラはそれだけ言って、今度はジェフリーに歩み寄った。
「ほい、これ……」
アイラは先にミティアの腰の鞘に剣を収めた。ここで多くを話すべきではないとアイラは判断した。
「ギルドにはあたしが行っておこうか。怖かったろうに……傍にいておやりよ」
アイラはにんまりとしながら、ジェフリーの肩を叩いた。
「すまない……」
「代わりにウチの子を借りて行くよ」
話していると、キッドとサキも様子をうかがいに来た。
「あ、あの、ごめんなさい。あたしが全部見てあげられなくて……」
「僕が近くにいながら……」
二人とも、ミティアにかける言葉が出ず、ジェフリーに謝っていた。
だが、ジェフリーは申し訳なさそうにする二人を怒りはしなかった。
「二人は悪くない。悪いのは、汚い心を持った人間だからな……」
ここにいる人を、何も、誰も、責められない。
「キッド、手を貸してくれ。腰を抜かしているみたいだから」
支えようとするキッドを、アイラはじっと見ていた。何か違和感を覚えたのだろうか。サキは気になった。
「お師匠様?」
呼ばれてアイラは向き直った。
「サキや、これは何が起きたんだい?」
賑やかな貿易都市の面影は感じるが、来た道もこれから行こうとしている道も散らかっているし、人影はない。
「それはボクが説明してあげよう」
忘れた頃に首を突っ込むのが圭馬。
サキの肩に乗ったが、瞬く間にアイラに首の後ろを摘まみ上げられた。
「何だい? ペット?」
圭馬はじたばたと抵抗する。
「ボクはティアマラント圭馬だよ! おばさん、この子のお師匠様なんでしょ?」
「ほーぉ、こんなに小うるさいクソガキだったかねぇ。冷静な白ちゃんに、これっぽっちも似てもいやしない……」
アイラは圭馬を知っているそぶりを見せた。だが、圭馬はアイラを知らない。
「そいで? 何だって?」
説明をまだ聞いていない。アイラは催促した。圭馬はそれに応じる。
「……まぁいいや、街中に瘴気の霊が出現し、混乱して、そのお姉ちゃんが商人達を避難させてくれた。で、この子とお姉ちゃんが瘴気の霊を撃退した」
名前も言わずにざっくりとした説明だ。だが、事態を掻い摘んで説明するならこれで十分なのかもしれない。圭馬の説明を耳にし、アイラは深くため息をついた。
「街中にも出ちまったのかい、あの変な玉っころ……」
アイラの言葉に反応したのは圭馬だ。
「んんっ? どういうことだい?」
状況が読めない。圭馬は街だけではないのかと疑った。
その説明をしたのはジェフリーだった。
「朝、コーディとギルドに行ったら飛び入りで依頼があったんだ。街道に向かった。そしたらそこにも人魂みたいなのがあった。もっと大きなブラックホールみたいなのもあったから、これから近寄らないように広めないといけない」
ジェフリーは言ってからミティアを立ち上がらせ、あとはキッドに委ねようとした。だが、ミティアは手を離そうとしない。キッドは呆れてしまった。
状況を把握した圭馬は大声を出した。
「ぶ、ぶらっくほーるぅ!? それってもう魔界との歪みじゃん。やぁっばいねぇ」
圭馬が言うと楽しそうに聞こえてしまうのはなぜだろうか。
「まぁ、とりあえず報告もしたいし、報酬も欲しいから、ギルドに赴かせてもらうよ。あとで少し顔を出すね。これからの対策を考えようじゃないか」
アイラはサキを連れてギルドの方へ歩いて行った。もちろん圭馬も一緒だ。
残されたジェフリーは、キッドと気まずそうにしている。ミティアがジェフリーから離れようとしないからだ。
キッドは首の後ろを掻きながら、そっぽを向いて言う。
「あー……あたし、先に宿に戻ってるわね」
キッドはミティアが立ち上がれるように手を貸してくれた。だが、本当にそこまでだった。
キッドはこの場にいたたまれなくなったのか、先に宿に戻ると言った。
それでもジェフリーはキッドに助けを求めた。
「えっ、ちょっ、俺が困るんだが……」
ジェフリーにとって困る理由はこの状況で二人きりにされるのが、である。
キッドは虫の居所が悪かった。この状況だけがその理由ではない。
「勘違いしないでよね。ミティアに何かしたら許さないわよ」
キッドはジェフリーに刺すような眼差しを食らわし、踵を返した。
残されたジェフリーは気まずそうにしている。
いざミティアと二人きりにされると、何をどうフォローしたらいいのかわからない。腕の中のミティアはすすり泣いている。ショックが大きかったのだろう。ずっとしがみつかれていても困るが、泣かれているのも困った。
どうしたら泣き止んでくれるだろうか。ジェフリーの中であらゆる考えが渦巻いた。話題を振ろうにも、明るい話など持ち合わせていない。
辺りには二人以外誰もいない。騒ぎがあったせいか、はたまた裏通りのせいなのか、気味が悪いほど静かだ。その中で響くミティアのすすり泣く声は、ジェフリーの心を突き動かせた。
ジェフリーは震えているミティアを抱き寄せ、髪を撫でた。
「俺は、いつまでも泣いているミティアを見ているのがつらい……」
「……!?」
ジェフリーが言った言葉に驚き、ミティアは目に涙を含んだまま顔を上げた。
「こういう話はもっと落ち着いてするべきだと思ったけど……俺は前に、許嫁を同じような状況で見殺しにした」
「ジェフリー……が?」
ミティアの声は小さくて今にも消えてしまいそうだった。見上げた顔は悲しくて儚げなのに、知らない部分を知る期待をしていた。
期待の目がジェフリーには救いに思った。一度口から出てしまったものだ。気にされても仕方がない。それでもミティアの気が紛れてくれるなら、何でもよかった。あまりいい話ではないが続けた。
「さっきみたいに、混乱に紛れておかしな考えを持った奴は一定数いる。だから、俺は魔導士狩りで遭遇した事件をきっかけに人を見る目を学んだ。彼女の命と引き換えに……高い授業料だ」
ジェフリーは大きく息をついた。自分に対する怒りが掘り起こされる。
「何も努力をしないで、都合よく助けられるはずもない。俺は剣術学校に転進して、一番厳しいクラスを選んだ。忘れたかった。弱い自分も、悲しい思い出も……」
「ジェフリーは弱くないよ……」
ミティアが力強い声で言いながらかぶりを振っている。
「それは、絶対に忘れちゃいけない……」
力強い言葉の反面、また泣き出してしまいそうな顔をしている。
ジェフリーは叱責を受けている気分だった。
「忘れたら、きっと今のジェフリーはいない……わたしを助けてくれた、強くて逃げなかった勇敢なあなたはここにいない!」
ミティアは迷いのない真っすぐな目で訴えた。
ジェフリーは視線を落としたが、目頭が熱くなるのを感じた。左の頬を暖かいものが伝う。風邪でも引いたのだろうか。鼻に呼吸が抜けない。瞼も、唇も震えた。
「いつも、気が利かなくて、ミティアに本当につらい思いをさせているのは俺かもしれない。俺ってどうしようもなくいい加減で、不器用な生き方しかできなくて……」
声が掠れる。ジェフリーの喉は乾き、自分の体ではない錯覚を起こしていた。
「笑って欲しいのに……」
ミティアの中から、つらい思いが消え去ってほしい思いが強かった。それなのに自分の余計なことを喋ってしまい、感情をさらけ出しただけだ。いや、ここまで言ってしまったなら、言いたいことをすべて吐いてしまおう。ジェフリーは浅い息を繰り返し、呼吸を整えた。だが、ミティアが身を乗り出し、声を発す。
「あのね、ジェフリー、わたし……」
ジェフリーは咄嗟にミティアを抱え込んだ。
先に言い出しそうだった彼女を塞ぐ。
「好きな人が苦しみ、悲しむのをただ見ているのはもう嫌なんだ」
ジェフリーの腕の中でミティアがぴくりと動き、ゆっくりと顔を上げた。つぶらな瞳が、直視できない。
「望まないことをされる苦しみは知っている。目の前で見たくらいだ。だから、さっきは許せなかった」
「……ん!! え、えぇ!?」
ジェフリーは抱き寄せたミティアを、もっと強く抱き締めた。とても柔らかくて暖かい。感じる体温が高まり、心臓の鼓動も早くなった。
「だから、好きだって言ってるんだ!!」
ジェフリーは言ってからミティアと目を合わせた。ミティアは恍惚の境地にでも行ってしまいそうな表情だ。頬は熟れたリンゴのように赤い。涙は乾き、その大きな瞳が自分の姿を捉えているのを確認した。
伝えてしまった。伝わってしまった。ジェフリーは途端に怖くなった。突き放すような言葉を付け加える。
「返事は普通の女の子になってから、ちゃんと聞かせてほしい……」
聞いたミティアは不満なのか、何度か瞬いた。眉間にしわも寄せている。
「だ、だからそんな顔をしないでくれ。俺はあくまでも気持ちを言っただけだ。俺のせいでミティアが不幸になったとか、そういう考えは……最初は持っていたが、今はまったくない。今の俺がしたいのは、ミティアが普通の女の子として生きられる手伝いだ」
明らかに取り乱し、言い訳をしているジェフリー。自分でもおかしいと思いつつ、急に話が現実味を帯びる。
「将来性がない状態で無責任なことは言いたくないし、安易な約束はしたくない。それだけ真剣に思っている」
「わ、わかった……」
遊びではなく真剣だ。ミティアはそう理解し、俯きながら一歩離れた。
「あ、ありがとう……」
脆く儚さを感じる笑みを浮かべている。本当はこの場で返事がしたい。だが、ミティアはその気持ちを押し殺した。
「わたしはジェフリーの気持ちを大切にしたい。ちゃんと返事をするって約束するね。今はそのために、頑張っているんだもの」
「あ、あぁ、そうだな。約束しよう。俺も胸を張って生きていけるような、自分の目標を見つける」
二人だけの、秘密の約束を交わした。
ミティアはジェフリーの気持ちを尊重することを選んだ。話すことで襲われた恐怖から救われた。
――本当は悲しかった。
普通の女の子になってしまえば、この旅は終わってしまう。
葛藤が心を軋ませた。
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