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【2】疑惑
自立する人たち
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食事を終えて宿に戻った。
お酒の入った竜次は椅子に座った途端、眠りこけた。
「んもぅ、先生ったら!!」
キッドが体を揺すって起こした。竜次は目を擦りながら陽気に笑う。
「あはは、ごめんなさいね。さぁて、持ち寄った情報を整理しましょうか」
竜次はテーブルの上の小物を雑に寄せて空間を作った。筆記用具や変装小物が端に寄せられた。
サキが加わったので、追加で椅子を用意する。
「わたし、お茶を淹れますね」
ミティアが人数分のお茶を用意する。その過程で、お茶の袋を見て驚きの声を上げた。
「あっ、このお茶、沙蘭のお抹茶みたいですよ!! どんな味なんだろう?」
ミティアの声に、テーブルに伏せていた竜次がむくりと起き上がる。
「んんー? 沙蘭のお抹茶?」
酔っているせいで眠そうだ。渡された細長い袋を見て頷いた。
「おいしいと思いますよ。これからは沙蘭のものが貴重になるかもしれませんね」
意味深な竜次の言葉にジェフリーが反応する。
「やっぱり、兄貴も見たか?」
「最近の話題ですよね。沙蘭は孤立しているって、先生とジェフリーさんは大丈夫なのですか?」
サキも知っていた。情報に抜かりがない。
「いやぁだって、次の目的地は沙蘭です。定期船があったのに、あんなものが出回ってしまっては行く手段が限られます。フィラノスとはまた違う情報が期待できるとは思うのですがねぇ」
竜次は言ってから深いため息をついた。ため息が酒臭い。
お茶が出揃って地図とメモ、それからサキの卒業論文がテーブルに置かれた。
「さて、重要なものからいきますか」
竜次がサキに視線をおくって、話を促す。
戸惑っているサキの向かいでは、ミティアが真剣な表情で話を待っていた。
「わたしの『不思議な力』について何かわかりますか?」
「うーん、僕は直接見ていませんが。ジェフリーさんから聞いた話をもとに考えると、神族が使う禁忌の魔法によく似ていると思います」
サキは紙をめくりながら話を進めた。
「皆さんは、この世界にはかつて、人間の中でも種族が存在していたのをご存じですか?」
これだけでは漠然としている。この場にいる者のほとんどが外の世界を知らなかった。必要以上のものは知らない。知ろうとも思わない。
「どんな人がいたんですか?」
ミティアは興味津々に思い、質問をする。
「普通の人間よりも優れた『神族』と呼ばれた種族がいました。僕もこれを書くまでは知りませんでした」
サキはとあるページを見せた。性格からだろうが、綺麗に整った文字だ。
魔法に長け、非常に強力な魔力をもったソフォイエル神族。
技術に優れ、自分たち種族の世界さえもっていたと言われているアリューン神族。
非常に優れた身体能力と、自由の翼をもったドラグニー神族。
「かつてこの神族が、存在していました。ほかにもいたのかもしれません。書物から得る情報はこれが限界でした」
いきなり難しい話だ。サキが見せてくれた論文には、身体的な特徴まで書いてあった。文字に比べると絵柄はいびつだが、理解が可能だ。
キッドが絵を指さした。彼女は難しい文字は読めないが、図や絵なら理解できるようだ。
「ねぇ、このドラゴンみたいな翼って……」
「コーディの背中にあった翼じゃないか?」
ジェフリーも頷いた。少し脱線するが、見覚えのある自由の翼だ。
サキ以外の者は、コーデリアが言っていた、『普通じゃない』の意味をやっと理解した。
「神族の末裔や混血は存在します。話は戻って、僕はミティアさんがソフォイエル神族に関係があるのかと思ったのですが、ご家族はどうですか?」
サキはミティアに質問を振った。難しい話になったせいなのか、ミティアの集中力は切れかかってもじもじとしている。
「どうって言われても……」
ミティアは家族について触れられたが、答えに困っていた。もしくは、言いづらいのかもしれない。
キッドが心当たりを口にした。
「あたしはミティアのお兄さんから、妹は不思議な力があるって聞いたことがあるわ。でもミティアはそれを知らなかったのよね?」
「う、うん……」
「わざわざ『妹には』って言うんだから、特別なのはミティアだけなのかしら」
キッドが話を振るが、ミティアの表情は暗い。それでもキッドは話を掘り下げた。
「ミティアって、あたしより前に村へ来たのよね?」
「うん、十年くらい前。わたし、村に来る前の記憶がないの。覚えていないだけかもしれないけど」
不意に飛び出したのは、十年前という言葉だ。
ジェフリーが嫌な予感を口にした。
「まさか、ミティアも魔導士狩りに関係があるのか?」
自然と結びついてしまうのが魔導士狩りだ。ジェフリーもキッドも当事者だ。そして、サキも。
「断言はできませんが、僕も魔導士狩りの影響で幼いころの記憶がありません。ミティアさんも、その可能性はありますね」
ミティアの家族が生きていれば、もっと何か聞けたかもしれない。これ以上家族の話に触れるのは、村を襲われたのだから酷だろう。暗い話になって空気が沈んだ。
サキは空気を変えようと、違う質問をした。
「で、では、ミティアさんは魔法が使えますか?」
「えっ? ううん……」
ミティアの答えにサキは深く考え込んだ。どうしても話が行き詰まるし、判断材料が少ない。
黙って聞いていた酔っ払いが口を開いた。
「でも、魔法で治癒ができるなんて、お医者さんとして気になりますねぇ?」
湯飲みの底で溜まって凝っている抹茶を振りながら、竜次が悩ましげに言う。
サキも同調し、疑問を口にした。
「おかしいと思うのは、その点です。ここにも書きましたが、生命の倫理を大きく外れるため術者にはハイリスクなのです。たった一度で死ぬと、調べた書物にはありました」
「それじゃあ治癒魔法でも、実質犠牲魔法じゃないですか」
竜次が引きつった笑みを浮かべる。その笑みの中には、たっぷりと皮肉が込められていた。
サキの話し方にも熱が入った。
「倫理を外れることが死につながる。だから禁忌の魔法なのですよ!!」
サキの悪気のない言葉がきっかけで、ミティアが腕を抱えて身もだえた。
「それじゃあ、わたし……死ぬんですか?」
一瞬で静まり、何も言えない空気になった。今の話を聞いてミティアを励ませるだろうか。『ハイリスク』や『死ぬ』と聞いて、ミティアは恐怖に怯えている。
沈黙を破ったのはジェフリーだ。
「それなら、とっくに死んでると思う。倒れはしたが、死んではいない」
ミティアを助ける力強い言葉だ。そのまま席から立ち上がる。まるで演説でもするかのように。
「そんなに危険な力なら、これ以上使わせちゃいけない」
「そ、そう……ね……」
ジェフリーの言葉に同調する形で、キッドもフォローをした。
「大丈夫、大丈夫だから……ね?」
キッドがミティアを抱き寄せ、落ち着かせようとしている。こういうときはキッドに任せるべきだとジェフリーは判断した。今の自分はミティアを励ますことはできても、支えることはできない。それでも、これ以上降りかかる理不尽から守ってあげたいと思った。
「次の調べものが決まったな」
立ったままジェフリーが力説する。
「不思議な力の正体はだいたいわかった。どうして使えるのか、その理由を突き止めるべきだ」
これだと言わんばかりに、自信満々に言う。
お茶で酔いを醒ましながら、竜次も頷いた。
「まぁ、そうですね。個人的には、ミティアさんの生い立ちも気になりますが……」
気になる指摘だ。
ジェフリーは立ったままぼんやりと思い耽った。ミティアには幼いころの記憶がない。それがわかれば大きく進む。親か、一緒に暮らしていたという兄がミティアの素性を知っている可能性がある。だが、その壁を乗り越えるためには大きな犠牲を払わないといけない気がしてならない。何を警戒しているのかというと、今の彼女が壊れてしまう予感がするからだ。変に近道を求めず、ゆっくりと情報を集めて着実に進めたい。
ミティアは兄の話に触れると、明るかった表情が急に陰る。亡くなった家族の話だからいい気分ではないだろうが、進んで話をしようとはしない。ジェフリーはそれが気がかりだった。
これは『恐怖』だ。ここまでミティアを中心に一致団結して、ひとつの目的に向かって奮起した。これからもしばらくは続きそうだが、今のところゴールも見えない。どうせなら、もう少し見えないままでもいいと思っていた。
「ふむ、これだけの情報と知識があるのはすごいですね。ほかにはどんなことが書いてあるのでしょう?」
竜次が紙を摘まんで興味津々にめくっている。種族戦争や難しい魔法の有効活用方法など、縁がなく難しい話ばかりが書いてある。あまりに専門的なので、理解ができない。
「綺麗な字なので読みやすいのですが、内容が難しくて基礎知識がないとわからないですね」
見終えると、特に質問もなく返した。医者と名乗れる頭をした竜次が見てわからないのだから、ほかの三人に理解できない。ましてや魔法には詳しくない。
返しながら竜次は質問をした。
「サキ君はどうしてこんなに難しいことを調べてまとめたのですか? 卒業論文と言っていましたよね?」
竜次の質問に、サキは自信に満ちた表情で答える。
「普通の人が興味を抱かないものこそ知るべきものだと、お師匠様に教わりました。教授からは絶賛を受け、ぜひとも寄贈してほしいとお願いされたので」
驚くほど立派な理由だ。さりげなく自慢するのもサキらしい。
サキは竜次と話していて、とあることを思い出した。
「沙蘭にも大図書館がありますよね? 先生もジェフリーさんも沙蘭の関係者だから、普通に入れるかもしれませんけど……」
「はぁ? 大図書館ってここだけじゃなかったのか!?」
地図を眺めていたジェフリーが、顔を上げて声を発した。
「えっ、そうですよ。あとは北の王都にもあったはずです」
サキはあたかも当然のように答える。
知らなかった。知識の街だからここにしかないのかとばかり思い込んでいた。それに、銀髪黒マントの男はここで何か得られるような口振りだった。生まれ育った場所にあるなんて驚いたと、兄弟が顔を見合わせる。
「そんな立派な建物、ありましたっけ?」
「俺は知らない」
「妹たちなら、知っているかもしれませんねぇ……」
独り言を言って、竜次が大きく頷いた。
「うん。ここで悩んでいても話は進みません。船が使えないのでしたら、陸路で沙蘭を目指しましょう。行っても入れるか怪しいですけれど、こういうときに身内の特権は使わなきゃ……ですね。お金もないですし!」
竜次は拳を作って力説する。悪い癖だが空回りだ。だが、目的地として定めていた沙蘭に行く理由が濃いものになった。これだけは間違いない。
「あの、サキさん?」
ミティアは立ち上がって深々と頭を下げた。
「わたしのために、ありがとうございます」
「えっ……いえ、お役に立てたならよかったです。これからもっとお力になりたいので、よろしくお願いしますね」
サキが指で頬を弄りながら照れている。その様子を見て、キッドが牙を向けた。
「言っておくけど、ミティアに変なことをしたら許さないから」
ある意味この流れが定着して安心する。忠告を入れるキッドは、間違いなく一同の気を緩めないようにする重要な役割だ。
「さて、ジェフたちは用事があると言っていましたね?」
竜次はメモを広げながら、サキとジェフリーに目を向ける。
「ほかの話はいいのか? 作戦会議って言っていたよな?」
「今できることは、買い物リストをまとめるのと進路の下調べ。凝った作戦会議は、これから議題をメモにしておきます。本会議は明日、疲れを清算してからがいいでしょう? あとは、私が必殺技でも思い出せば万々歳ですね」
竜次が話しの流れを変えた。話がその流れなら、約束を済ませないといけない。ジェフリーは立ったまま、サキに向かって言う。
「よし、お師匠さんに会いに行こう」
「はいっ!!」
サキの返事は明るかった。早く彼の足枷を解いてやりたいと、ジェフリーは思いを強める。
ジェフリーとサキは夜の街に出た。噴水広場はまだ賑わっている。
「前夜祭なのにまだ明るいな。そもそも王都祭って何だ?」
「作物の収穫を祝ったり、魔法学校やお城の一部が一般開放されたり、騎士団の方々が武芸を披露したり、パレードもあります。あとは何があったかなぁ……」
話だけでも賑やかなのが伝わってくる。ジェフリーは王都祭を知らなかった。魔導士狩りがあってから開催するようになったのだろうと思った。
「世の中、嫌なことばかりだから、そういうお祭りもたまにはないと、心が救われないよな」
「嫌なこと……」
裏通りを歩きながらサキが呟く。
「ジェフリーさん」
「どした?」
「僕って生きていても、いいんですよね?」
サキの足が止まった。声が震えている。
「ギルドに行ったのなら、ジェフリーさん以外の人たちは僕の親の正体を知っています。ジェフリーさんはそれを知っても、僕と今までと同じ接し方ができますか?」
サキが覚悟を持った目で、ジェフリーをじっと見ている。
遠ざかる賑やかな声と音。暗い道に相応の話だ。
「魔導士狩りが憎いなら、僕を憎むかもしれません」
「お前、何を言って……」
「僕は魔導士狩りに遭いながら、その魔導士狩りの首謀者に拾われました」
裏通りだからなのだろうか。風がやけに冷たく感じる。
「この街にいる限り、嫌でも耳に入るでしょう。ローレンシア一家は殺し屋の集団です」
サキは言ってからため息をついた。友だちの関係は終わったと思っていた。ところが、ジェフリーは腕を組み、笑いながらサキに向かって言う。
「ばーか。お前はお前だろ。親は関係ない」
サキの暗く辛辣な表情が驚きに変わった。
「へっ? あ、えっ?」
「馬鹿って言ったんだよ」
ジェフリーは言ってからさっさと歩き出した。
本来、いい反応をするべきだろうが、サキは気持ちの切り替えが追いつかない。ジェフリーがなぜこんなことを言うのかと、頭の中は疑問でいっぱいだった。
「名前に縛られるならいっそ捨てるか、名乗るのをやめるといい」
「あっ……」
「もっとも、名前よりも縛られているものがあると思うけどな。お前は固定観念が強すぎるんだよ。もっと柔軟にならないと、これから生きていくのに苦労するぞ?」
この街で育ったのなら、名前を隠して暮らすのは難しいかもしれない。だが、サキはこの街を出るつもりでいる。気持ちをわかってくれる優しい人たちと、本当の友だちになってくれるかもしれないジェフリーと。
ジェフリーにも名前を気にする機会はあった。その気はなくても、家柄と名前はまとわりつく。それゆえに、名前に縛られるという気持ちを汲み取るのは容易だった。名前以外にも固定観念が強いと話した。サキがいくら優秀でも、自分はこうなのだと思い込んでいる部分が気になった。言ってすぐに直るものではない。ジェフリーは友だちとして長い目で見ようと思った。
「そっか、簡単なことだったんだ……」
「難しい勉強ばっかりしてるから、簡単な問題が片付かないんだよ」
「手厳しいなぁ、お師匠様みたい。でも、そうですね」
そのお師匠様、アイラに会うために町外れの孤児院の一角に足を運んだ。目立たないが、明かりがある。軽く声をかけて中に入った。
アイラは適当に積んだ本の上に座っていた。ほつれた髪の毛を気にしている。埃っぽい空気が喉を刺激した。
昨日来た時よりは、幾分か片付いているようだ。厚みのない本は紐でくくってあり、壺や置物といった古美術品が大小に仕分けされている。何か心境の変化があったのだろうか。
「お、来たかい?」
アイラは立ち上がって、左手を伸ばし、うしろのカバンから数枚の紙束をつまみ出した。
「さぁて、答えを聞こうかジェフリー」
待っていたと言わんばかりの態度だ。これを見たジェフリーは、呆れながらため息をついた。
「その右手、どうしたんだ。今日はあの煙たいやつは吸ってないのか?」
アイラの右の手の平に大判の絆創膏が貼られている。ジェフリーの指摘のように、アイラはキセルを持っていない。質問を受けているのに、にこにことしながら首を傾げていた。
勘がよければ気がつくだろうが、アイラはとぼけるつもりだ。
「大図書館で俺たちにちょっかいを出したの、あんただろ?」
ジェフリーの言葉に、サキは目を丸くした。
「えっ、そうなんですか!?」
「お前もおかしいって気がつけ!」
二人のやり取りを見たアイラが、手を叩きながら大笑いをした。
「あーっはっはっは……こりゃ参った。さすがケーシスさんの息子だ」
ケーシスとは、ジェフリーと竜次の父親の名前だ。孤児院の関係者だったら、知っていてもおかしくはない。どうせ質問をしても、アイラから期待する答えはない。わかっていて、触れないように意識した。今はただアイラを問い詰めたい。ジェフリーが強めに言う。
「何の目論見かは知らないが、俺たちの力量を試したんだよな? あんたの策には乗った。だが、交渉は決裂だ!!」
アイラはばれてしまったのなら、仕方がないと開き直った。
「でも、いらないってこったぁないんじゃないかい?」
「お師匠様……?」
サキは眉をひそめながらアイラをじっと見る。ジェフリーと何の話をしているのだろうかと、疑問を抱いていた。
「ほしい情報は自分の手で得ることにした。頼んだ情報はいらなくなったが、その代わり頼みがある!」
アイラが歯を見せて笑い、ふんぞり返って腕を組んだ。もう何を言われるのか、これからどうしたいかをわかっている様子だ。
「あんたとの約束はまだ果たせていない。だから、これからサキを俺たちの旅に同行させたい。あんたは師匠でもあり、育ての親だよな?」
「ジェフリーさん!?」
またもサキが泣きそうになっている。今日だけで、何度この表情をしているのだろう。
「さぁて、どうしたもんかね……」
これはアイラのキャッチフレーズだ。彼女の場合は、先を見据えている言動でもありそうだ。
ジェフリーはアイラに鋭い眼光を向ける。
「あんたは殺し屋をしているローレンシア一家とは違う。名前だけで、独立した人だよな?」
「そうさ。そんなに嫌なら名前を捨てたらいい。街の外まで追って来やしないよ。今は戦争もしていないんだから、殺し屋は儲からない。もう虫の息の組織なんだし、家出人にかまっているほど人員はいないだろうさ」
「それだけじゃないよな!」
アイラが苦虫を噛みしめたような表情を浮かべた。ジェフリーが何を言いたいのか、わかっていないようだ。ジェフリーの訴えは続いた。
「あんたは、保護者だろう? ちゃんと子離れしておかないと後悔するぞ」
保護者と言われ、やっと気がついたようだ。アイラは笑みを浮かべながら、ジェフリーに渡すはずだった紙の束をカバンにしまった。交渉は決裂したのだから、渡す理由はない。
「今度、いつ会えるかわからないぞ」
ジェフリーはサキの背中を押して、アイラの前に行かせた。
「お……おかあさ……」
アイラはサキを強く抱きしめた。
「あいよ。そうだね。行っておいで……」
サキの頭を撫でる彼女は、母親の顔をしていた。師弟関係の前に、長年面倒を見ていたのだから、情があって当然だ。
名前よりももっと重い、『親子』という足枷がお互いをつないでいた。『離れる』はもっと言うと、親元から『独立する』のが正しい。
ジェフリーは、サキが子どものように泣きじゃくるのを落ち着くまで眺めていた。自分にはこんな思い出がない。彼が家族を失っても、行きついた先がアイラで羨ましい。
黙って見ているジェフリーだが、行方の知れない両親に思いを馳せていた。なぜなら、親のぬくもりも、愛情も知らないからだ。生まれてから、一度も会ったことがない。深く考えないようにしていたが、目の当たりにすると思い出す。親がいないも同然の自分が虚しく思った。
「この子は優秀だけど、ちょいとばかし非力でね。でも、外の世界でもあんたたちの役に立ってくれるだろうさ」
「実力は、大図書館でわかったさ。あんたの教育はすごいな」
知り合って短期間だが、ジェフリーはサキの実力を知っている。大図書館で助けてもらった。だがサキの育ての親はアイラだ。彼女もすごいのは間違いない。
「ここ一週間くらい、世界の情勢が悪いみたいでね。あたしもこの街を出るつもりさ。こういうときはギルドで仕事をして、賞金を稼いだ方がいい。あたしだってちゃんとした家がほしいからね」
アイラは世界の情勢を気にしていた。ギルドの関係者だと言っていた。
話しぶりから、大図書館でジェフリーたちの邪魔をする形になったのはたまたまだろう。事前に察知して、誰かが重要書物から情報を得ようとするのを阻止した。誰を邪魔したかったのかはわからない。ほしい情報をくれると言っていたのだから、少なくとも自分たちではなさそうだ。しかもアイラは紙束を持っていた。これも誰かの論文かもしれない。気にはなったが、話が長くなりそうだ。ジェフリーよりも前に竜次に会っていたのなら、こちらの事情をある程度は読んでいたのかもしれない。何を探していたのか、わかっていた可能性もある。ジェフリーは頭の片隅に留める程度にしておこうと、言及しなかった。
アイラも変わろうとしていた。彼女もどこかできっかけを待っていたのかもしれない。
心なしか気持ちが晴れた。ジェフリーも救われた気がする。
サキはアイラに質問をした。
「お師匠様もお世話になりますか?」
「今はそのときじゃないさ、でも、そうさね。どっかで会うかもしれない……とだけ、期待させておこうかね?」
アイラが同行しないのはわかっていた。わかっていて、ジェフリーからその件には触れなかったし、誘いもしなかった。
「世話になった。こいつとは仲良くするから安心してほしい」
「その心配はしていないさ。でもね……」
アイラは鋭い眼光をジェフリーに向けた。
「人によっては、知らない方が幸せなこともあるんだよ。探求心を持つのは悪くないけどね」
ジェフリーはアイラから殺気を感じ、生唾を飲み込んだ。忠告になるのだろうか。一体何を指すのか、具体的な話はない。圧倒され、何も言い返せなかった。
アイラの真剣な表情は解かれた。何事もなかったように陽気に歯を見せて笑う。
「さぁて、あたしはこのがらくたどもを処分するかね。ほら、邪魔だよ。さっさと行きなさい!」
ジェフリーもサキも強制的に追い出された。
別れが味気なかったせいで嫌な気持ちはなかった。
ジェフリーはアイラから感じた殺気が気になっていた。あれは何の忠告だったのだろう。サキは気にならないのだろうか。
「僕、もっとお役に立てるように頑張ります!!」
「唐突に何だよ……」
サキは自由を手に入れた。彼はこれから何が待っているのだろうかと、高揚感でいっぱいのようだ。ジェフリーの気がかりなど、話したところで些細なことと感じるに違いない。
せっかくなので、ジェフリーも明るくなるように話題を膨らませる。
「頑張る前にまずは食って栄養をつけろ。険しい道は越えられないぞ?」
「さっき先生にも栄養剤をもらったしなぁ……うん、それも頑張ります」
「ったく、前向き思考でいいな」
街の明かりを眺めながら話す。夜も深くなろうというのに、まだ明るい。
「ジェフリーさん、くだらないこと聞いてもいいですか?」
「ん?」
大通りへ向かう石段を下る。サキが声を弾ませながら質問をした。
「ジェフリーさんはミティアさんのこと、好きなんですか?」
ジェフリーは石段を踏み外しそうになった。
「ほんっとうにくだらないな……」
ジェフリーは引きつった笑いをした。だが、お互い表情まで見えていない。それでもサキは、質問を続けた。
「彼氏……っていうのは否定していましたけど、そうなんですね。へぇ……」
「知り合って日が浅い。好きも嫌いもわからない」
「ミティアさん、お綺麗ですよね。ぶつかったとき、女神様かと思いました。僕、彼氏に立候補しようかなぁ?」
サキがあまりにも歯の浮くようなことを言うものだから、ジェフリーはため息をついて夜空を仰いだ。
ミティアは美人だが、調子はずれなことを言って空気を乱す。適当にあしらっていた。真正面から相手をするのは疲れると思っていた。あくまでも、ジェフリーが個人的に思っていることだ。ほかの人がどう思っているのかは自由だろう。サキのほかにも、彼女に下心を持つ人物を知っている。
「兄貴が超絶アプローチをしているぞ。好敵手になる相手をよく見ろ」
「えええええええええええ……」
今度はサキが石段を踏み外しそうになっていた。
「か、敵う気がしないです……」
言ってからサキはひどく落ち込んでいた。
実際、竜次はミティアに対して反応がいい。その一方で、ミティアの本心はまったく見えないままだ。今はそんな色恋沙汰を考えている余裕がないのかもしれない。でも、もし本気でミティアが好きだと思っているのなら応援してもいいとジェフリーは思っていた。
「先にどうぞ、僕ちょっと飲み物を買ってから行きます」
宿に戻って、ロビーでサキと別れた。時間はもうすぐ日が変わる。
皆は寝てるだろうと思って、ジェフリーはだらしなくあくびをしながら入室した。
「あっ、ジェフリーさん、おかえりなさい」
ミティアがぱたぱたと走り寄った。
キッドはパーテーションの仕切りの裏で寝ているらしい。普段着の着替えがハンガーにかかって見えた。
上目遣いをするミティアのうしろでは、竜次が伊達眼鏡をかけたまま床で寝ている。典型的な酔っ払いの見本のようだ。一体、どこまでだらしないのだろうか。この調子だと、『必殺技』は絶対に思い出していない。きちんとした人間を振る舞おうとしている、はりぼてが崩れようとしている。いや、もう崩れたかもしれない。そう思いながらジャケットを脱ごうとするジェフリーの前で、ミティアはじっと待っている。
「あ、あの……」
手を胸の前で組んで、上目遣いは続いた。
「明日は準備で忙しいぞ。休んでおけ」
ジェフリーは、何か訴えて来そうなミティアを突っぱねようとする。
「お願いがあって……」
組んでいた手を解いて、ジェフリーの右手をぎゅっとつかんだ。しっとりとした温かい手だ。
「わたしのお相手をしてくれませんか?」
「……は?」
ミティアは上目遣いのまま頬を赤らめている。
深夜のせいか妙な艶っぽさを感じたが、これは疲労による錯覚だ。ジェフリーは控えめに解釈した。
「お相手って……」
「すごく、恥ずかしいです。こんなお願い……」
夜這いの趣味でもあるのかと疑ってしまうが、変な期待は振り払わないといけない。そんな期待などしてはいけない状況のはずだ。ジェフリーは邪念を払うようにかぶりを振って、苦笑しながら目線を合わせる。
「何のお相手か、肝心な部分を言え」
「あっ、そうでした」
ミティアはようやく言葉が足りていないと自覚した。
本当に天然なのだろうか。どうも狙っているような気もする。ジェフリーは怪訝な表情を浮かべた。
「こうやって面と向かって言うの、恥ずかしいですが、剣術のお稽古のお相手です。わたしがお願いするの、ほかに何か心当たりがありますか?」
やはりそうかと言わんばかりの脱力感。この流れが当然であって安心もしている。ミティアの調子はずれな発言に驚かされるのはこれが初めてではない。何もしていないのにさらに疲れた。いや、たまにはこのとぼけた性格の彼女に意地悪でもしてみるかと、ジェフリーはわざとらしく嘲笑った。
「俺とデートでもするのか?」
いつものようなとぼけ方をするのかと期待した。だが、ミティアは小動物のように首を傾げている。
「わたしとデート……したいですか?」
「ったく、あほくさい……」
ジェフリーは質問に質問で返され急に不機嫌になった。期待する反応ではなかったからだ。手を払って荷物の中を探った。
「あれ? まだ起きてらしたのですか?」
サキが部屋に戻った。手には紙パックの飲み物を持っている。微糖コーヒーと文字が見えた。この魔導士は寝ないつもりのようだ。
「剣術の稽古をつけてくれ、だとさ」
荷物から木刀二本を引っ張り出して、ジェフリーはため息をついた。
サキが刺すような疑いのまなざしを向ける。誰かに似ていると、ジェフリーは直視しないようにしていた。
「変なお稽古、つけないでくださいよ?」
「疑うなら見に来るか?」
ジェフリーは一応、誘いの声をかけた。
稽古の内容は、サキには縁のない剣術だ。興味はないとジェフリーは思った。だが、サキは大きく頷いた。
「剣術……見たいです。勉強します」
「お前の専門じゃないことは知ってる。だから冗談なんだが……」
ジェフリーの失笑に、サキは頬を膨らませた。
「フィラノスでは剣術を見る機会がほとんどありません。それに、もっと腕前を知っておかないと」
サキが見たいと言っていた理由は、思いのほか勉強熱心なものだった。聞いたミティアはうれしそうにしている。だがジェフリーはサキの思惑を知って呆れた。サキの視線はうれしがっているミティアに向いている。
鍵をかけて外出した。
三人は噴水広場に足を運んだ。ここなら多少は騒いでも噴水の音にかき消される。
賑やかだった前夜祭の反動だろうが、人がいない。畳まれたテントや机などはあるが、広さは十分にある。動けば気にならないだろうが、空気が冷たい。
サキは噴水の前の手すりに寄りかかって静観していた。
「まず、何も考えずに来いよ」
ジェフリーがミティアの手並みを拝見しようと受け身の体勢を取った。ミティアは、なっていない構えのままおろおろと困った様子だ。
「あ、あの……」
「いちいち何だ?」
「わ、わたし、本当はほとんど戦えないんです!!」
「……は?」
ジェフリーはミティアの言葉に拍子が抜けた。
一行はフィラノスに向かう途中でワニと臨戦した。そこで剣の構え方がなっていなかった。おかしいとは思っていたが、まさか本当に護身用だったとは。
「あとこれ、すごく重いです」
ミティアは練習用の木刀が重いと言い出してしまい、ジェフリーは困惑してしまった。稽古以前の問題だ。
「あー……よし、わかった」
ジェフリーは額に手を着いてため息をついた。せっかくの機会だ。一応の手は考える。
「ミティアは何のクラスに通っていたんだ?」
ジェフリーは判断材料がほしいと思った。剣術学校に通っていた話は出会ってすぐ聞いているので、間違いではない。ミティアの技量を知る機会がなかった。
「えっと、武芸術です。踊ったり曲芸を披露したり……」
ジェフリーが質問をするも、返ってきた答えが拍子抜けでめまいがする。外の世界で戦うのは一番向かないクラスだった。名前の通り剣術を応用した舞や、戦に出る兵を囃す役割をする。国のお偉い様に呼ばれる芸者と変わらないと耳にした記憶があり、ジェフリーはあまりいい印象を抱いていなかった。
野外授業を強いられていたジェフリーが通っていたクラスとは正反対だ。
「軽い剣でしたら、多少の応用はできます。自分から攻め込むのは、ほとんどわからないです」
ミティアに何を教えたらいいのか、わからない。
「じゃあ、何だ? 受け身から攻め込むのが得意なのか?」
「基本はそうです。ほとんど実践ではやったことがないんですけど。そういう踊りはありますから」
ミティアがどう動くのか想像がつかない。とりあえず攻めてみればわかるのだろうか。
「じゃあ、俺から攻めるから、受け身を取ってみろ」
「はいっ! 遠慮なく、本気でどうぞ!!」
絶対に押し負けて、やっぱり無理だと情けない声を出すに決まっている。だが受け身の体勢になった途端、ミティアは見たことのない真剣で勇ましい表情になった。
木刀がぶつかり合って軋んだが、ミティアは腕の力ではなく、足に体重を乗せて受け身を取っている。
「なるほど、基礎はできてる」
「えへへ……」
真剣な表情が一瞬だけ緩んだと思ったら、ミティアの反撃が始まった。受け止める力に身を任せ、勢いをつけるように一瞬だけ身を引いた。この動きは誰かに似ている。
ジェフリーは受け流してかわした。ミティアの勢いは止まらず、下からジェフリーの顔面をめがけて振り上げた。これもかわしたが前髪をかすめる。
「っぶな……」
そのままミティアは流れるような動きでジェフリーの懐に踏み込んだ。首に木刀を当て、不意を取るつもりが彼の喉骨にぶつかる。
「わっ、わわっ……」
木刀が重たいのか、踏み込んだ足が崩れた。
ミティアはスカートを乱し、膝を着いた。扱いが不慣れなゆえに、ぶつかってしまったことを謝った。
「ご、ごめんなさい!! そんなに強くないと思いますが、痛かったですよね?」
軽くぶつかった程度だが、ジェフリーもぶつけられた自分が悪いと割り切った。それよりも、ミティアの動きが気になった。
「それは『舞い』か?」
ジェフリーの質問にミティアはこくこくと頷いて立ち上がった。彼女は見る人を魅了し、しなやかで不思議な動きをする。
ジェフリーは自分なりの考えを述べた。
「動きが大きいから隙も多いが、その不規則な動きなら対人で有効かもしれない。正面から仕掛けてくるのかと思っていたが動きが読めなかった。けど、対人で剣を振るなんてまずないだろうな」
ジェフリーは腕を組んで唸り、考え込んだ。教え方がわからないからだ。
「僕、朱雀の舞が見たいです」
サキが一部始終を見て口を挟んだ。聞き慣れない言葉だが、『舞い』なのだから技なのかもしれないとジェフリーは想像した。
質問を聞いたミティアが慌てふためく。
「さ、さすがにそれは恥ずかしいです!! それにもっと短くて軽い剣じゃないとできません!!」
「僕も本でしか知りませんが、すけすけでひらひらとした衣装で披露するんでしたっけ?」
「わぁぁぁぁぁ……やめてくださいぃぃぃぃ……」
ミティアは顔を真っ赤にして、重いと言っていた木刀をぶんぶんと振り回している。この様子だと、よほど恥ずかしいのだろう。ジェフリーは舞いを詳しく知らず、興味を持った。
「サキは舞いを知ってるのか?」
ジェフリーの質問に、サキは首を傾げた。
「えっ、だって『舞い』って沙蘭の剣術がベースですよ?」
物知りなサキが言うのだから、そうなのだろう。そういえば、一瞬引いて返すのは竜次と一緒の動きだった。やっとここで思い出したが、もっと教えてもらう『先生』を選ぶべきではなかろうか。勝手を知ったジェフリーはしかめっ面になってしまう。
「それなら、兄貴に習えばいいじゃないか。俺が教えるのはおかしいだろ?」
ジェフリーが言った途端、ミティアが寂しそうな表情になった。
「そんな、おかしくなんてないのに。わたし、そんなに面倒かな……」
肩も落ち、ひどく落ち込んでいる。この場が気まずい空気になった。
ジェフリーが説得を試みる。決して邪険にしているわけではないと理解してもらわなくては。
「いや、本質が違うから、俺が教えても参考にはならないだろ?」
「ずるいです、サキさんとは仲良くしてるのに……」
「あのだな、サキは俺の友だちで仲間でもあるんだから当然だろう?」
「わたしのこと、嫌いですか? わたしとは仲良くしてくれないんですか?」
「稽古をつけてほしいと言っていたから場を設けたのに、どうしてその話になる!?」
急に剣術を教えてほしいと言い出したかと思ったら、今度は仲良くしてくれないのかと駄々をこねている。大図書館で力を合わせて戦った話が、そんなに気になったのだろうか。
困っているジェフリーに、サキが再び助け舟を出した。
「教えるのに困っているのでしたら、初歩的なところからどうですか?」
「あぁ、そうだな。それならいいかもしれない」
「対策を話すとは思いますが、陸路で沙蘭を目指すのはかなり厳しいと思います。フィラノスから沙蘭へ定期船があったくらいですよ」
言ってからサキは小さい手帳を取り出した。勉強のメモのようだ。
「ギルドで凄腕の冒険者やハンターを雇って、護衛やお供をお願いしてもいいと思いますが、雇った人が必ずしもいい人とは限らないですからね。この先を考えたら僕たちも、個々で強くならないといけません」
サキの指摘は正しい。このままだらだらと旅をしていると、いずれは大きな敗北を味わうかもしれない。運がよかったから今があるといっても過言ではない。ジェフリーは山道やフィラノスへ向かう平原を思い返した。
「今こうして旅をする理由はわたしにあります。でも、そのせいで誰かが怪我をするのは絶対に嫌です。傷ついてもらいたくない……」
ミティアも危機感を募らせた。その場に居合わせたせいで巻き込んでしまったと、責任を感じているようだ。
剣術の稽古をつけてもらいたい理由が転々としたが、確かに怪我や命の危機にさらされては困る。特にこれからは、険しい道のりになると予想される。
「俺だって無職のまま死にたくはないな……」
ジェフリーは恨めしいくらい現実的な理由を発した。フィラノスで用事が済めば仕事を探そうとは思っていた。だが、まだ先はありそうだ。将来のことが定まっていない。本当に無職で死のうものならば、そのつもりはなくともずいぶんと虚しいものだ。
「ジェフリーさん、お願いします」
縋るミティアの顔が迫る。これだけでも仕方がないと折れてもいいが、彼女は木刀を握った手を震わせた。
「わたし、強くなりたい……」
力強い表情がジェフリーに向けられた。
見慣れない表情にぞくっとさせられる。この華奢な腕と細い背中で、一体何を背負うつもりだろうか。ジェフリーはぼうっと見とれてしまった。サキの刺すような視線が向けられ我に返った。
咳払いをしながら、真面目に教える。
「……じゃあ、まず持ち方か。どうやって持っている?」
「えっと、こんな感じです。でもこれ、どうしても重くて」
「そこを頑張って、もう少し背筋伸ばせ。脇はこれくらいにして。この重さに慣れたら、使っている剣がもっと速くなるかもしれない」
ミティアはジェフリーの指導を熱心に聞いていた。実践し、首を傾げながらも改善を試みていた。
サキは勉強をしながら、時折その様子を微笑ましく見ていた。剣術はさっぱりだが、何か力になれるものはないかと探っている。
「俺や兄貴より力はないけど、速いから打数で勝負できるな」
「ほ、本当ですか? 頑張ります! ううん、頑張らせてください!!」
「こういうの、もっと的確にアドバイスしてくれる人がいたらいいんだろうけど……」
ジェフリーが時々手を握り、うしろから手を回すこともあったが、ミティアは嫌がらなかった。
ミティアが理解したところで、攻め込ませると、まだ隙があるが、切込みからの追い打ちまでかけられた。学びが早く、大進歩だ。気がつけば、汗だくになっていた。細く華奢な腕から繰り出される剣は、読みが難しい。
ここに速さと打数が加わると、受ける側も疲労が増す。ジェフリーにとってもためになった。竜次と手を合わせるより、自力が上がりそうだ。
深夜だったはずが、空が明るくなるまで打ち込んだ。
サキは普段から夜更かしをしている癖でもあるのだろうか、あまり眠くない様子だ。
これから自分たちはどれくらい成長できるのか、苦労も多そうだが楽しみだった。
また一つ、知らないことを知った。
このとき、皆が抱いていた強くなりたい思いはまだ微かなものだった。
お酒の入った竜次は椅子に座った途端、眠りこけた。
「んもぅ、先生ったら!!」
キッドが体を揺すって起こした。竜次は目を擦りながら陽気に笑う。
「あはは、ごめんなさいね。さぁて、持ち寄った情報を整理しましょうか」
竜次はテーブルの上の小物を雑に寄せて空間を作った。筆記用具や変装小物が端に寄せられた。
サキが加わったので、追加で椅子を用意する。
「わたし、お茶を淹れますね」
ミティアが人数分のお茶を用意する。その過程で、お茶の袋を見て驚きの声を上げた。
「あっ、このお茶、沙蘭のお抹茶みたいですよ!! どんな味なんだろう?」
ミティアの声に、テーブルに伏せていた竜次がむくりと起き上がる。
「んんー? 沙蘭のお抹茶?」
酔っているせいで眠そうだ。渡された細長い袋を見て頷いた。
「おいしいと思いますよ。これからは沙蘭のものが貴重になるかもしれませんね」
意味深な竜次の言葉にジェフリーが反応する。
「やっぱり、兄貴も見たか?」
「最近の話題ですよね。沙蘭は孤立しているって、先生とジェフリーさんは大丈夫なのですか?」
サキも知っていた。情報に抜かりがない。
「いやぁだって、次の目的地は沙蘭です。定期船があったのに、あんなものが出回ってしまっては行く手段が限られます。フィラノスとはまた違う情報が期待できるとは思うのですがねぇ」
竜次は言ってから深いため息をついた。ため息が酒臭い。
お茶が出揃って地図とメモ、それからサキの卒業論文がテーブルに置かれた。
「さて、重要なものからいきますか」
竜次がサキに視線をおくって、話を促す。
戸惑っているサキの向かいでは、ミティアが真剣な表情で話を待っていた。
「わたしの『不思議な力』について何かわかりますか?」
「うーん、僕は直接見ていませんが。ジェフリーさんから聞いた話をもとに考えると、神族が使う禁忌の魔法によく似ていると思います」
サキは紙をめくりながら話を進めた。
「皆さんは、この世界にはかつて、人間の中でも種族が存在していたのをご存じですか?」
これだけでは漠然としている。この場にいる者のほとんどが外の世界を知らなかった。必要以上のものは知らない。知ろうとも思わない。
「どんな人がいたんですか?」
ミティアは興味津々に思い、質問をする。
「普通の人間よりも優れた『神族』と呼ばれた種族がいました。僕もこれを書くまでは知りませんでした」
サキはとあるページを見せた。性格からだろうが、綺麗に整った文字だ。
魔法に長け、非常に強力な魔力をもったソフォイエル神族。
技術に優れ、自分たち種族の世界さえもっていたと言われているアリューン神族。
非常に優れた身体能力と、自由の翼をもったドラグニー神族。
「かつてこの神族が、存在していました。ほかにもいたのかもしれません。書物から得る情報はこれが限界でした」
いきなり難しい話だ。サキが見せてくれた論文には、身体的な特徴まで書いてあった。文字に比べると絵柄はいびつだが、理解が可能だ。
キッドが絵を指さした。彼女は難しい文字は読めないが、図や絵なら理解できるようだ。
「ねぇ、このドラゴンみたいな翼って……」
「コーディの背中にあった翼じゃないか?」
ジェフリーも頷いた。少し脱線するが、見覚えのある自由の翼だ。
サキ以外の者は、コーデリアが言っていた、『普通じゃない』の意味をやっと理解した。
「神族の末裔や混血は存在します。話は戻って、僕はミティアさんがソフォイエル神族に関係があるのかと思ったのですが、ご家族はどうですか?」
サキはミティアに質問を振った。難しい話になったせいなのか、ミティアの集中力は切れかかってもじもじとしている。
「どうって言われても……」
ミティアは家族について触れられたが、答えに困っていた。もしくは、言いづらいのかもしれない。
キッドが心当たりを口にした。
「あたしはミティアのお兄さんから、妹は不思議な力があるって聞いたことがあるわ。でもミティアはそれを知らなかったのよね?」
「う、うん……」
「わざわざ『妹には』って言うんだから、特別なのはミティアだけなのかしら」
キッドが話を振るが、ミティアの表情は暗い。それでもキッドは話を掘り下げた。
「ミティアって、あたしより前に村へ来たのよね?」
「うん、十年くらい前。わたし、村に来る前の記憶がないの。覚えていないだけかもしれないけど」
不意に飛び出したのは、十年前という言葉だ。
ジェフリーが嫌な予感を口にした。
「まさか、ミティアも魔導士狩りに関係があるのか?」
自然と結びついてしまうのが魔導士狩りだ。ジェフリーもキッドも当事者だ。そして、サキも。
「断言はできませんが、僕も魔導士狩りの影響で幼いころの記憶がありません。ミティアさんも、その可能性はありますね」
ミティアの家族が生きていれば、もっと何か聞けたかもしれない。これ以上家族の話に触れるのは、村を襲われたのだから酷だろう。暗い話になって空気が沈んだ。
サキは空気を変えようと、違う質問をした。
「で、では、ミティアさんは魔法が使えますか?」
「えっ? ううん……」
ミティアの答えにサキは深く考え込んだ。どうしても話が行き詰まるし、判断材料が少ない。
黙って聞いていた酔っ払いが口を開いた。
「でも、魔法で治癒ができるなんて、お医者さんとして気になりますねぇ?」
湯飲みの底で溜まって凝っている抹茶を振りながら、竜次が悩ましげに言う。
サキも同調し、疑問を口にした。
「おかしいと思うのは、その点です。ここにも書きましたが、生命の倫理を大きく外れるため術者にはハイリスクなのです。たった一度で死ぬと、調べた書物にはありました」
「それじゃあ治癒魔法でも、実質犠牲魔法じゃないですか」
竜次が引きつった笑みを浮かべる。その笑みの中には、たっぷりと皮肉が込められていた。
サキの話し方にも熱が入った。
「倫理を外れることが死につながる。だから禁忌の魔法なのですよ!!」
サキの悪気のない言葉がきっかけで、ミティアが腕を抱えて身もだえた。
「それじゃあ、わたし……死ぬんですか?」
一瞬で静まり、何も言えない空気になった。今の話を聞いてミティアを励ませるだろうか。『ハイリスク』や『死ぬ』と聞いて、ミティアは恐怖に怯えている。
沈黙を破ったのはジェフリーだ。
「それなら、とっくに死んでると思う。倒れはしたが、死んではいない」
ミティアを助ける力強い言葉だ。そのまま席から立ち上がる。まるで演説でもするかのように。
「そんなに危険な力なら、これ以上使わせちゃいけない」
「そ、そう……ね……」
ジェフリーの言葉に同調する形で、キッドもフォローをした。
「大丈夫、大丈夫だから……ね?」
キッドがミティアを抱き寄せ、落ち着かせようとしている。こういうときはキッドに任せるべきだとジェフリーは判断した。今の自分はミティアを励ますことはできても、支えることはできない。それでも、これ以上降りかかる理不尽から守ってあげたいと思った。
「次の調べものが決まったな」
立ったままジェフリーが力説する。
「不思議な力の正体はだいたいわかった。どうして使えるのか、その理由を突き止めるべきだ」
これだと言わんばかりに、自信満々に言う。
お茶で酔いを醒ましながら、竜次も頷いた。
「まぁ、そうですね。個人的には、ミティアさんの生い立ちも気になりますが……」
気になる指摘だ。
ジェフリーは立ったままぼんやりと思い耽った。ミティアには幼いころの記憶がない。それがわかれば大きく進む。親か、一緒に暮らしていたという兄がミティアの素性を知っている可能性がある。だが、その壁を乗り越えるためには大きな犠牲を払わないといけない気がしてならない。何を警戒しているのかというと、今の彼女が壊れてしまう予感がするからだ。変に近道を求めず、ゆっくりと情報を集めて着実に進めたい。
ミティアは兄の話に触れると、明るかった表情が急に陰る。亡くなった家族の話だからいい気分ではないだろうが、進んで話をしようとはしない。ジェフリーはそれが気がかりだった。
これは『恐怖』だ。ここまでミティアを中心に一致団結して、ひとつの目的に向かって奮起した。これからもしばらくは続きそうだが、今のところゴールも見えない。どうせなら、もう少し見えないままでもいいと思っていた。
「ふむ、これだけの情報と知識があるのはすごいですね。ほかにはどんなことが書いてあるのでしょう?」
竜次が紙を摘まんで興味津々にめくっている。種族戦争や難しい魔法の有効活用方法など、縁がなく難しい話ばかりが書いてある。あまりに専門的なので、理解ができない。
「綺麗な字なので読みやすいのですが、内容が難しくて基礎知識がないとわからないですね」
見終えると、特に質問もなく返した。医者と名乗れる頭をした竜次が見てわからないのだから、ほかの三人に理解できない。ましてや魔法には詳しくない。
返しながら竜次は質問をした。
「サキ君はどうしてこんなに難しいことを調べてまとめたのですか? 卒業論文と言っていましたよね?」
竜次の質問に、サキは自信に満ちた表情で答える。
「普通の人が興味を抱かないものこそ知るべきものだと、お師匠様に教わりました。教授からは絶賛を受け、ぜひとも寄贈してほしいとお願いされたので」
驚くほど立派な理由だ。さりげなく自慢するのもサキらしい。
サキは竜次と話していて、とあることを思い出した。
「沙蘭にも大図書館がありますよね? 先生もジェフリーさんも沙蘭の関係者だから、普通に入れるかもしれませんけど……」
「はぁ? 大図書館ってここだけじゃなかったのか!?」
地図を眺めていたジェフリーが、顔を上げて声を発した。
「えっ、そうですよ。あとは北の王都にもあったはずです」
サキはあたかも当然のように答える。
知らなかった。知識の街だからここにしかないのかとばかり思い込んでいた。それに、銀髪黒マントの男はここで何か得られるような口振りだった。生まれ育った場所にあるなんて驚いたと、兄弟が顔を見合わせる。
「そんな立派な建物、ありましたっけ?」
「俺は知らない」
「妹たちなら、知っているかもしれませんねぇ……」
独り言を言って、竜次が大きく頷いた。
「うん。ここで悩んでいても話は進みません。船が使えないのでしたら、陸路で沙蘭を目指しましょう。行っても入れるか怪しいですけれど、こういうときに身内の特権は使わなきゃ……ですね。お金もないですし!」
竜次は拳を作って力説する。悪い癖だが空回りだ。だが、目的地として定めていた沙蘭に行く理由が濃いものになった。これだけは間違いない。
「あの、サキさん?」
ミティアは立ち上がって深々と頭を下げた。
「わたしのために、ありがとうございます」
「えっ……いえ、お役に立てたならよかったです。これからもっとお力になりたいので、よろしくお願いしますね」
サキが指で頬を弄りながら照れている。その様子を見て、キッドが牙を向けた。
「言っておくけど、ミティアに変なことをしたら許さないから」
ある意味この流れが定着して安心する。忠告を入れるキッドは、間違いなく一同の気を緩めないようにする重要な役割だ。
「さて、ジェフたちは用事があると言っていましたね?」
竜次はメモを広げながら、サキとジェフリーに目を向ける。
「ほかの話はいいのか? 作戦会議って言っていたよな?」
「今できることは、買い物リストをまとめるのと進路の下調べ。凝った作戦会議は、これから議題をメモにしておきます。本会議は明日、疲れを清算してからがいいでしょう? あとは、私が必殺技でも思い出せば万々歳ですね」
竜次が話しの流れを変えた。話がその流れなら、約束を済ませないといけない。ジェフリーは立ったまま、サキに向かって言う。
「よし、お師匠さんに会いに行こう」
「はいっ!!」
サキの返事は明るかった。早く彼の足枷を解いてやりたいと、ジェフリーは思いを強める。
ジェフリーとサキは夜の街に出た。噴水広場はまだ賑わっている。
「前夜祭なのにまだ明るいな。そもそも王都祭って何だ?」
「作物の収穫を祝ったり、魔法学校やお城の一部が一般開放されたり、騎士団の方々が武芸を披露したり、パレードもあります。あとは何があったかなぁ……」
話だけでも賑やかなのが伝わってくる。ジェフリーは王都祭を知らなかった。魔導士狩りがあってから開催するようになったのだろうと思った。
「世の中、嫌なことばかりだから、そういうお祭りもたまにはないと、心が救われないよな」
「嫌なこと……」
裏通りを歩きながらサキが呟く。
「ジェフリーさん」
「どした?」
「僕って生きていても、いいんですよね?」
サキの足が止まった。声が震えている。
「ギルドに行ったのなら、ジェフリーさん以外の人たちは僕の親の正体を知っています。ジェフリーさんはそれを知っても、僕と今までと同じ接し方ができますか?」
サキが覚悟を持った目で、ジェフリーをじっと見ている。
遠ざかる賑やかな声と音。暗い道に相応の話だ。
「魔導士狩りが憎いなら、僕を憎むかもしれません」
「お前、何を言って……」
「僕は魔導士狩りに遭いながら、その魔導士狩りの首謀者に拾われました」
裏通りだからなのだろうか。風がやけに冷たく感じる。
「この街にいる限り、嫌でも耳に入るでしょう。ローレンシア一家は殺し屋の集団です」
サキは言ってからため息をついた。友だちの関係は終わったと思っていた。ところが、ジェフリーは腕を組み、笑いながらサキに向かって言う。
「ばーか。お前はお前だろ。親は関係ない」
サキの暗く辛辣な表情が驚きに変わった。
「へっ? あ、えっ?」
「馬鹿って言ったんだよ」
ジェフリーは言ってからさっさと歩き出した。
本来、いい反応をするべきだろうが、サキは気持ちの切り替えが追いつかない。ジェフリーがなぜこんなことを言うのかと、頭の中は疑問でいっぱいだった。
「名前に縛られるならいっそ捨てるか、名乗るのをやめるといい」
「あっ……」
「もっとも、名前よりも縛られているものがあると思うけどな。お前は固定観念が強すぎるんだよ。もっと柔軟にならないと、これから生きていくのに苦労するぞ?」
この街で育ったのなら、名前を隠して暮らすのは難しいかもしれない。だが、サキはこの街を出るつもりでいる。気持ちをわかってくれる優しい人たちと、本当の友だちになってくれるかもしれないジェフリーと。
ジェフリーにも名前を気にする機会はあった。その気はなくても、家柄と名前はまとわりつく。それゆえに、名前に縛られるという気持ちを汲み取るのは容易だった。名前以外にも固定観念が強いと話した。サキがいくら優秀でも、自分はこうなのだと思い込んでいる部分が気になった。言ってすぐに直るものではない。ジェフリーは友だちとして長い目で見ようと思った。
「そっか、簡単なことだったんだ……」
「難しい勉強ばっかりしてるから、簡単な問題が片付かないんだよ」
「手厳しいなぁ、お師匠様みたい。でも、そうですね」
そのお師匠様、アイラに会うために町外れの孤児院の一角に足を運んだ。目立たないが、明かりがある。軽く声をかけて中に入った。
アイラは適当に積んだ本の上に座っていた。ほつれた髪の毛を気にしている。埃っぽい空気が喉を刺激した。
昨日来た時よりは、幾分か片付いているようだ。厚みのない本は紐でくくってあり、壺や置物といった古美術品が大小に仕分けされている。何か心境の変化があったのだろうか。
「お、来たかい?」
アイラは立ち上がって、左手を伸ばし、うしろのカバンから数枚の紙束をつまみ出した。
「さぁて、答えを聞こうかジェフリー」
待っていたと言わんばかりの態度だ。これを見たジェフリーは、呆れながらため息をついた。
「その右手、どうしたんだ。今日はあの煙たいやつは吸ってないのか?」
アイラの右の手の平に大判の絆創膏が貼られている。ジェフリーの指摘のように、アイラはキセルを持っていない。質問を受けているのに、にこにことしながら首を傾げていた。
勘がよければ気がつくだろうが、アイラはとぼけるつもりだ。
「大図書館で俺たちにちょっかいを出したの、あんただろ?」
ジェフリーの言葉に、サキは目を丸くした。
「えっ、そうなんですか!?」
「お前もおかしいって気がつけ!」
二人のやり取りを見たアイラが、手を叩きながら大笑いをした。
「あーっはっはっは……こりゃ参った。さすがケーシスさんの息子だ」
ケーシスとは、ジェフリーと竜次の父親の名前だ。孤児院の関係者だったら、知っていてもおかしくはない。どうせ質問をしても、アイラから期待する答えはない。わかっていて、触れないように意識した。今はただアイラを問い詰めたい。ジェフリーが強めに言う。
「何の目論見かは知らないが、俺たちの力量を試したんだよな? あんたの策には乗った。だが、交渉は決裂だ!!」
アイラはばれてしまったのなら、仕方がないと開き直った。
「でも、いらないってこったぁないんじゃないかい?」
「お師匠様……?」
サキは眉をひそめながらアイラをじっと見る。ジェフリーと何の話をしているのだろうかと、疑問を抱いていた。
「ほしい情報は自分の手で得ることにした。頼んだ情報はいらなくなったが、その代わり頼みがある!」
アイラが歯を見せて笑い、ふんぞり返って腕を組んだ。もう何を言われるのか、これからどうしたいかをわかっている様子だ。
「あんたとの約束はまだ果たせていない。だから、これからサキを俺たちの旅に同行させたい。あんたは師匠でもあり、育ての親だよな?」
「ジェフリーさん!?」
またもサキが泣きそうになっている。今日だけで、何度この表情をしているのだろう。
「さぁて、どうしたもんかね……」
これはアイラのキャッチフレーズだ。彼女の場合は、先を見据えている言動でもありそうだ。
ジェフリーはアイラに鋭い眼光を向ける。
「あんたは殺し屋をしているローレンシア一家とは違う。名前だけで、独立した人だよな?」
「そうさ。そんなに嫌なら名前を捨てたらいい。街の外まで追って来やしないよ。今は戦争もしていないんだから、殺し屋は儲からない。もう虫の息の組織なんだし、家出人にかまっているほど人員はいないだろうさ」
「それだけじゃないよな!」
アイラが苦虫を噛みしめたような表情を浮かべた。ジェフリーが何を言いたいのか、わかっていないようだ。ジェフリーの訴えは続いた。
「あんたは、保護者だろう? ちゃんと子離れしておかないと後悔するぞ」
保護者と言われ、やっと気がついたようだ。アイラは笑みを浮かべながら、ジェフリーに渡すはずだった紙の束をカバンにしまった。交渉は決裂したのだから、渡す理由はない。
「今度、いつ会えるかわからないぞ」
ジェフリーはサキの背中を押して、アイラの前に行かせた。
「お……おかあさ……」
アイラはサキを強く抱きしめた。
「あいよ。そうだね。行っておいで……」
サキの頭を撫でる彼女は、母親の顔をしていた。師弟関係の前に、長年面倒を見ていたのだから、情があって当然だ。
名前よりももっと重い、『親子』という足枷がお互いをつないでいた。『離れる』はもっと言うと、親元から『独立する』のが正しい。
ジェフリーは、サキが子どものように泣きじゃくるのを落ち着くまで眺めていた。自分にはこんな思い出がない。彼が家族を失っても、行きついた先がアイラで羨ましい。
黙って見ているジェフリーだが、行方の知れない両親に思いを馳せていた。なぜなら、親のぬくもりも、愛情も知らないからだ。生まれてから、一度も会ったことがない。深く考えないようにしていたが、目の当たりにすると思い出す。親がいないも同然の自分が虚しく思った。
「この子は優秀だけど、ちょいとばかし非力でね。でも、外の世界でもあんたたちの役に立ってくれるだろうさ」
「実力は、大図書館でわかったさ。あんたの教育はすごいな」
知り合って短期間だが、ジェフリーはサキの実力を知っている。大図書館で助けてもらった。だがサキの育ての親はアイラだ。彼女もすごいのは間違いない。
「ここ一週間くらい、世界の情勢が悪いみたいでね。あたしもこの街を出るつもりさ。こういうときはギルドで仕事をして、賞金を稼いだ方がいい。あたしだってちゃんとした家がほしいからね」
アイラは世界の情勢を気にしていた。ギルドの関係者だと言っていた。
話しぶりから、大図書館でジェフリーたちの邪魔をする形になったのはたまたまだろう。事前に察知して、誰かが重要書物から情報を得ようとするのを阻止した。誰を邪魔したかったのかはわからない。ほしい情報をくれると言っていたのだから、少なくとも自分たちではなさそうだ。しかもアイラは紙束を持っていた。これも誰かの論文かもしれない。気にはなったが、話が長くなりそうだ。ジェフリーよりも前に竜次に会っていたのなら、こちらの事情をある程度は読んでいたのかもしれない。何を探していたのか、わかっていた可能性もある。ジェフリーは頭の片隅に留める程度にしておこうと、言及しなかった。
アイラも変わろうとしていた。彼女もどこかできっかけを待っていたのかもしれない。
心なしか気持ちが晴れた。ジェフリーも救われた気がする。
サキはアイラに質問をした。
「お師匠様もお世話になりますか?」
「今はそのときじゃないさ、でも、そうさね。どっかで会うかもしれない……とだけ、期待させておこうかね?」
アイラが同行しないのはわかっていた。わかっていて、ジェフリーからその件には触れなかったし、誘いもしなかった。
「世話になった。こいつとは仲良くするから安心してほしい」
「その心配はしていないさ。でもね……」
アイラは鋭い眼光をジェフリーに向けた。
「人によっては、知らない方が幸せなこともあるんだよ。探求心を持つのは悪くないけどね」
ジェフリーはアイラから殺気を感じ、生唾を飲み込んだ。忠告になるのだろうか。一体何を指すのか、具体的な話はない。圧倒され、何も言い返せなかった。
アイラの真剣な表情は解かれた。何事もなかったように陽気に歯を見せて笑う。
「さぁて、あたしはこのがらくたどもを処分するかね。ほら、邪魔だよ。さっさと行きなさい!」
ジェフリーもサキも強制的に追い出された。
別れが味気なかったせいで嫌な気持ちはなかった。
ジェフリーはアイラから感じた殺気が気になっていた。あれは何の忠告だったのだろう。サキは気にならないのだろうか。
「僕、もっとお役に立てるように頑張ります!!」
「唐突に何だよ……」
サキは自由を手に入れた。彼はこれから何が待っているのだろうかと、高揚感でいっぱいのようだ。ジェフリーの気がかりなど、話したところで些細なことと感じるに違いない。
せっかくなので、ジェフリーも明るくなるように話題を膨らませる。
「頑張る前にまずは食って栄養をつけろ。険しい道は越えられないぞ?」
「さっき先生にも栄養剤をもらったしなぁ……うん、それも頑張ります」
「ったく、前向き思考でいいな」
街の明かりを眺めながら話す。夜も深くなろうというのに、まだ明るい。
「ジェフリーさん、くだらないこと聞いてもいいですか?」
「ん?」
大通りへ向かう石段を下る。サキが声を弾ませながら質問をした。
「ジェフリーさんはミティアさんのこと、好きなんですか?」
ジェフリーは石段を踏み外しそうになった。
「ほんっとうにくだらないな……」
ジェフリーは引きつった笑いをした。だが、お互い表情まで見えていない。それでもサキは、質問を続けた。
「彼氏……っていうのは否定していましたけど、そうなんですね。へぇ……」
「知り合って日が浅い。好きも嫌いもわからない」
「ミティアさん、お綺麗ですよね。ぶつかったとき、女神様かと思いました。僕、彼氏に立候補しようかなぁ?」
サキがあまりにも歯の浮くようなことを言うものだから、ジェフリーはため息をついて夜空を仰いだ。
ミティアは美人だが、調子はずれなことを言って空気を乱す。適当にあしらっていた。真正面から相手をするのは疲れると思っていた。あくまでも、ジェフリーが個人的に思っていることだ。ほかの人がどう思っているのかは自由だろう。サキのほかにも、彼女に下心を持つ人物を知っている。
「兄貴が超絶アプローチをしているぞ。好敵手になる相手をよく見ろ」
「えええええええええええ……」
今度はサキが石段を踏み外しそうになっていた。
「か、敵う気がしないです……」
言ってからサキはひどく落ち込んでいた。
実際、竜次はミティアに対して反応がいい。その一方で、ミティアの本心はまったく見えないままだ。今はそんな色恋沙汰を考えている余裕がないのかもしれない。でも、もし本気でミティアが好きだと思っているのなら応援してもいいとジェフリーは思っていた。
「先にどうぞ、僕ちょっと飲み物を買ってから行きます」
宿に戻って、ロビーでサキと別れた。時間はもうすぐ日が変わる。
皆は寝てるだろうと思って、ジェフリーはだらしなくあくびをしながら入室した。
「あっ、ジェフリーさん、おかえりなさい」
ミティアがぱたぱたと走り寄った。
キッドはパーテーションの仕切りの裏で寝ているらしい。普段着の着替えがハンガーにかかって見えた。
上目遣いをするミティアのうしろでは、竜次が伊達眼鏡をかけたまま床で寝ている。典型的な酔っ払いの見本のようだ。一体、どこまでだらしないのだろうか。この調子だと、『必殺技』は絶対に思い出していない。きちんとした人間を振る舞おうとしている、はりぼてが崩れようとしている。いや、もう崩れたかもしれない。そう思いながらジャケットを脱ごうとするジェフリーの前で、ミティアはじっと待っている。
「あ、あの……」
手を胸の前で組んで、上目遣いは続いた。
「明日は準備で忙しいぞ。休んでおけ」
ジェフリーは、何か訴えて来そうなミティアを突っぱねようとする。
「お願いがあって……」
組んでいた手を解いて、ジェフリーの右手をぎゅっとつかんだ。しっとりとした温かい手だ。
「わたしのお相手をしてくれませんか?」
「……は?」
ミティアは上目遣いのまま頬を赤らめている。
深夜のせいか妙な艶っぽさを感じたが、これは疲労による錯覚だ。ジェフリーは控えめに解釈した。
「お相手って……」
「すごく、恥ずかしいです。こんなお願い……」
夜這いの趣味でもあるのかと疑ってしまうが、変な期待は振り払わないといけない。そんな期待などしてはいけない状況のはずだ。ジェフリーは邪念を払うようにかぶりを振って、苦笑しながら目線を合わせる。
「何のお相手か、肝心な部分を言え」
「あっ、そうでした」
ミティアはようやく言葉が足りていないと自覚した。
本当に天然なのだろうか。どうも狙っているような気もする。ジェフリーは怪訝な表情を浮かべた。
「こうやって面と向かって言うの、恥ずかしいですが、剣術のお稽古のお相手です。わたしがお願いするの、ほかに何か心当たりがありますか?」
やはりそうかと言わんばかりの脱力感。この流れが当然であって安心もしている。ミティアの調子はずれな発言に驚かされるのはこれが初めてではない。何もしていないのにさらに疲れた。いや、たまにはこのとぼけた性格の彼女に意地悪でもしてみるかと、ジェフリーはわざとらしく嘲笑った。
「俺とデートでもするのか?」
いつものようなとぼけ方をするのかと期待した。だが、ミティアは小動物のように首を傾げている。
「わたしとデート……したいですか?」
「ったく、あほくさい……」
ジェフリーは質問に質問で返され急に不機嫌になった。期待する反応ではなかったからだ。手を払って荷物の中を探った。
「あれ? まだ起きてらしたのですか?」
サキが部屋に戻った。手には紙パックの飲み物を持っている。微糖コーヒーと文字が見えた。この魔導士は寝ないつもりのようだ。
「剣術の稽古をつけてくれ、だとさ」
荷物から木刀二本を引っ張り出して、ジェフリーはため息をついた。
サキが刺すような疑いのまなざしを向ける。誰かに似ていると、ジェフリーは直視しないようにしていた。
「変なお稽古、つけないでくださいよ?」
「疑うなら見に来るか?」
ジェフリーは一応、誘いの声をかけた。
稽古の内容は、サキには縁のない剣術だ。興味はないとジェフリーは思った。だが、サキは大きく頷いた。
「剣術……見たいです。勉強します」
「お前の専門じゃないことは知ってる。だから冗談なんだが……」
ジェフリーの失笑に、サキは頬を膨らませた。
「フィラノスでは剣術を見る機会がほとんどありません。それに、もっと腕前を知っておかないと」
サキが見たいと言っていた理由は、思いのほか勉強熱心なものだった。聞いたミティアはうれしそうにしている。だがジェフリーはサキの思惑を知って呆れた。サキの視線はうれしがっているミティアに向いている。
鍵をかけて外出した。
三人は噴水広場に足を運んだ。ここなら多少は騒いでも噴水の音にかき消される。
賑やかだった前夜祭の反動だろうが、人がいない。畳まれたテントや机などはあるが、広さは十分にある。動けば気にならないだろうが、空気が冷たい。
サキは噴水の前の手すりに寄りかかって静観していた。
「まず、何も考えずに来いよ」
ジェフリーがミティアの手並みを拝見しようと受け身の体勢を取った。ミティアは、なっていない構えのままおろおろと困った様子だ。
「あ、あの……」
「いちいち何だ?」
「わ、わたし、本当はほとんど戦えないんです!!」
「……は?」
ジェフリーはミティアの言葉に拍子が抜けた。
一行はフィラノスに向かう途中でワニと臨戦した。そこで剣の構え方がなっていなかった。おかしいとは思っていたが、まさか本当に護身用だったとは。
「あとこれ、すごく重いです」
ミティアは練習用の木刀が重いと言い出してしまい、ジェフリーは困惑してしまった。稽古以前の問題だ。
「あー……よし、わかった」
ジェフリーは額に手を着いてため息をついた。せっかくの機会だ。一応の手は考える。
「ミティアは何のクラスに通っていたんだ?」
ジェフリーは判断材料がほしいと思った。剣術学校に通っていた話は出会ってすぐ聞いているので、間違いではない。ミティアの技量を知る機会がなかった。
「えっと、武芸術です。踊ったり曲芸を披露したり……」
ジェフリーが質問をするも、返ってきた答えが拍子抜けでめまいがする。外の世界で戦うのは一番向かないクラスだった。名前の通り剣術を応用した舞や、戦に出る兵を囃す役割をする。国のお偉い様に呼ばれる芸者と変わらないと耳にした記憶があり、ジェフリーはあまりいい印象を抱いていなかった。
野外授業を強いられていたジェフリーが通っていたクラスとは正反対だ。
「軽い剣でしたら、多少の応用はできます。自分から攻め込むのは、ほとんどわからないです」
ミティアに何を教えたらいいのか、わからない。
「じゃあ、何だ? 受け身から攻め込むのが得意なのか?」
「基本はそうです。ほとんど実践ではやったことがないんですけど。そういう踊りはありますから」
ミティアがどう動くのか想像がつかない。とりあえず攻めてみればわかるのだろうか。
「じゃあ、俺から攻めるから、受け身を取ってみろ」
「はいっ! 遠慮なく、本気でどうぞ!!」
絶対に押し負けて、やっぱり無理だと情けない声を出すに決まっている。だが受け身の体勢になった途端、ミティアは見たことのない真剣で勇ましい表情になった。
木刀がぶつかり合って軋んだが、ミティアは腕の力ではなく、足に体重を乗せて受け身を取っている。
「なるほど、基礎はできてる」
「えへへ……」
真剣な表情が一瞬だけ緩んだと思ったら、ミティアの反撃が始まった。受け止める力に身を任せ、勢いをつけるように一瞬だけ身を引いた。この動きは誰かに似ている。
ジェフリーは受け流してかわした。ミティアの勢いは止まらず、下からジェフリーの顔面をめがけて振り上げた。これもかわしたが前髪をかすめる。
「っぶな……」
そのままミティアは流れるような動きでジェフリーの懐に踏み込んだ。首に木刀を当て、不意を取るつもりが彼の喉骨にぶつかる。
「わっ、わわっ……」
木刀が重たいのか、踏み込んだ足が崩れた。
ミティアはスカートを乱し、膝を着いた。扱いが不慣れなゆえに、ぶつかってしまったことを謝った。
「ご、ごめんなさい!! そんなに強くないと思いますが、痛かったですよね?」
軽くぶつかった程度だが、ジェフリーもぶつけられた自分が悪いと割り切った。それよりも、ミティアの動きが気になった。
「それは『舞い』か?」
ジェフリーの質問にミティアはこくこくと頷いて立ち上がった。彼女は見る人を魅了し、しなやかで不思議な動きをする。
ジェフリーは自分なりの考えを述べた。
「動きが大きいから隙も多いが、その不規則な動きなら対人で有効かもしれない。正面から仕掛けてくるのかと思っていたが動きが読めなかった。けど、対人で剣を振るなんてまずないだろうな」
ジェフリーは腕を組んで唸り、考え込んだ。教え方がわからないからだ。
「僕、朱雀の舞が見たいです」
サキが一部始終を見て口を挟んだ。聞き慣れない言葉だが、『舞い』なのだから技なのかもしれないとジェフリーは想像した。
質問を聞いたミティアが慌てふためく。
「さ、さすがにそれは恥ずかしいです!! それにもっと短くて軽い剣じゃないとできません!!」
「僕も本でしか知りませんが、すけすけでひらひらとした衣装で披露するんでしたっけ?」
「わぁぁぁぁぁ……やめてくださいぃぃぃぃ……」
ミティアは顔を真っ赤にして、重いと言っていた木刀をぶんぶんと振り回している。この様子だと、よほど恥ずかしいのだろう。ジェフリーは舞いを詳しく知らず、興味を持った。
「サキは舞いを知ってるのか?」
ジェフリーの質問に、サキは首を傾げた。
「えっ、だって『舞い』って沙蘭の剣術がベースですよ?」
物知りなサキが言うのだから、そうなのだろう。そういえば、一瞬引いて返すのは竜次と一緒の動きだった。やっとここで思い出したが、もっと教えてもらう『先生』を選ぶべきではなかろうか。勝手を知ったジェフリーはしかめっ面になってしまう。
「それなら、兄貴に習えばいいじゃないか。俺が教えるのはおかしいだろ?」
ジェフリーが言った途端、ミティアが寂しそうな表情になった。
「そんな、おかしくなんてないのに。わたし、そんなに面倒かな……」
肩も落ち、ひどく落ち込んでいる。この場が気まずい空気になった。
ジェフリーが説得を試みる。決して邪険にしているわけではないと理解してもらわなくては。
「いや、本質が違うから、俺が教えても参考にはならないだろ?」
「ずるいです、サキさんとは仲良くしてるのに……」
「あのだな、サキは俺の友だちで仲間でもあるんだから当然だろう?」
「わたしのこと、嫌いですか? わたしとは仲良くしてくれないんですか?」
「稽古をつけてほしいと言っていたから場を設けたのに、どうしてその話になる!?」
急に剣術を教えてほしいと言い出したかと思ったら、今度は仲良くしてくれないのかと駄々をこねている。大図書館で力を合わせて戦った話が、そんなに気になったのだろうか。
困っているジェフリーに、サキが再び助け舟を出した。
「教えるのに困っているのでしたら、初歩的なところからどうですか?」
「あぁ、そうだな。それならいいかもしれない」
「対策を話すとは思いますが、陸路で沙蘭を目指すのはかなり厳しいと思います。フィラノスから沙蘭へ定期船があったくらいですよ」
言ってからサキは小さい手帳を取り出した。勉強のメモのようだ。
「ギルドで凄腕の冒険者やハンターを雇って、護衛やお供をお願いしてもいいと思いますが、雇った人が必ずしもいい人とは限らないですからね。この先を考えたら僕たちも、個々で強くならないといけません」
サキの指摘は正しい。このままだらだらと旅をしていると、いずれは大きな敗北を味わうかもしれない。運がよかったから今があるといっても過言ではない。ジェフリーは山道やフィラノスへ向かう平原を思い返した。
「今こうして旅をする理由はわたしにあります。でも、そのせいで誰かが怪我をするのは絶対に嫌です。傷ついてもらいたくない……」
ミティアも危機感を募らせた。その場に居合わせたせいで巻き込んでしまったと、責任を感じているようだ。
剣術の稽古をつけてもらいたい理由が転々としたが、確かに怪我や命の危機にさらされては困る。特にこれからは、険しい道のりになると予想される。
「俺だって無職のまま死にたくはないな……」
ジェフリーは恨めしいくらい現実的な理由を発した。フィラノスで用事が済めば仕事を探そうとは思っていた。だが、まだ先はありそうだ。将来のことが定まっていない。本当に無職で死のうものならば、そのつもりはなくともずいぶんと虚しいものだ。
「ジェフリーさん、お願いします」
縋るミティアの顔が迫る。これだけでも仕方がないと折れてもいいが、彼女は木刀を握った手を震わせた。
「わたし、強くなりたい……」
力強い表情がジェフリーに向けられた。
見慣れない表情にぞくっとさせられる。この華奢な腕と細い背中で、一体何を背負うつもりだろうか。ジェフリーはぼうっと見とれてしまった。サキの刺すような視線が向けられ我に返った。
咳払いをしながら、真面目に教える。
「……じゃあ、まず持ち方か。どうやって持っている?」
「えっと、こんな感じです。でもこれ、どうしても重くて」
「そこを頑張って、もう少し背筋伸ばせ。脇はこれくらいにして。この重さに慣れたら、使っている剣がもっと速くなるかもしれない」
ミティアはジェフリーの指導を熱心に聞いていた。実践し、首を傾げながらも改善を試みていた。
サキは勉強をしながら、時折その様子を微笑ましく見ていた。剣術はさっぱりだが、何か力になれるものはないかと探っている。
「俺や兄貴より力はないけど、速いから打数で勝負できるな」
「ほ、本当ですか? 頑張ります! ううん、頑張らせてください!!」
「こういうの、もっと的確にアドバイスしてくれる人がいたらいいんだろうけど……」
ジェフリーが時々手を握り、うしろから手を回すこともあったが、ミティアは嫌がらなかった。
ミティアが理解したところで、攻め込ませると、まだ隙があるが、切込みからの追い打ちまでかけられた。学びが早く、大進歩だ。気がつけば、汗だくになっていた。細く華奢な腕から繰り出される剣は、読みが難しい。
ここに速さと打数が加わると、受ける側も疲労が増す。ジェフリーにとってもためになった。竜次と手を合わせるより、自力が上がりそうだ。
深夜だったはずが、空が明るくなるまで打ち込んだ。
サキは普段から夜更かしをしている癖でもあるのだろうか、あまり眠くない様子だ。
これから自分たちはどれくらい成長できるのか、苦労も多そうだが楽しみだった。
また一つ、知らないことを知った。
このとき、皆が抱いていた強くなりたい思いはまだ微かなものだった。
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