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解散宣言 03
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さあ自由にしろと言われても、友作の生活はそうそう変わるものでもない。大きな違いは多英がまったく家事をしなくなり、その分の自分の負担が増えたことだが、それなどは友作にとって何でもないことであった。
一番の痛手は多英がまったく他人行儀となり、自分とはコミュニケーションを取ろうとはしないことであった。話しかければ返答はする。ただそれだけのことで夫婦の会話というものではない。
それ以前に多英がずっとヘッドフォンを着けたままでいるので、友作の存在は彼女の中にはないようであった。しかしそんな態度にもすぐに慣れた。それが彼女の求める自由なのだと思うと、むしろ微笑ましくなるくらいであった。
それからは仕事のあとはほぼ毎日のように目白のアトリエへ寄り、時間が来て講師としての役割を終えると、自分の制作を続けた。あまり大きな絵は描けないけれど、邪魔にならない程度のキャンバスに油絵を描いて過ごすことが日課となった。時々はそれを所長の栗塚晃司が覗き込む。
「モノクロのデッサンが名人芸だけに、さすがに絵具を使うと苦労するようだね」
友作は筆を置いて立ち上がる。
「二十年もサボっていたんだ、そんなに簡単にはいかないよ」
「でも僕は友作の才能は認めていたけどね。いずれ優れた画家になるだろうと思っていた」
「しかしそうなったのは晃司の方だった」
「いや僕なんて大学の准教授になれただけで満足してしまう器だ。とてもひとかどの画家になんてなれやしないよ」
「僕こそ何者でもない人間だ」
「何者でなくてもいい。自分が表現できればそれでいい。ま、それが一番難しいんだけどね」
友作は座ってまた絵筆を取った。晃司が言う。
「それじゃ僕はお先に失礼するよ、後の戸締まりをよろしく」
友作が振り返ると、晃司は何やら美鈴に話し掛け、二人は一緒にアトリエを退出した。もう少し描いていこうと思ったが、美鈴の後ろ姿が眼に浮かんで画面に集中できなくなってしまった。
それから友作は思う。自分は美鈴のことを気にしている。晃司と一緒にここを出たことが気になって仕方がないのだ。親子ほど歳の差があるというのに、いつの間にか美鈴に惹かれてしまっている自分が情けなかった。
戸締りをしようとしてアトリエの窓の錠を掛けて回っていると、まだ一人生徒が残っていることに友作は気がついた。これまで一度言葉を交わしたことのある生徒で、確か大学に在学中だということを聞いたことがある。
名前は宮岡清晴という男子学生である。友作は宮岡に声をかけた。
「こんな遅い時間まで頑張るね、でもそろそろ教室を閉める時間だよ」
「あ、はい、うっかり時間を忘れていました。すぐに帰り支度します」
「まあゆっくりでけっこうだよ。今日は私も早めの店仕舞いだったからね」
「はい、ありがとうございます。ところで栖原先生、今度時間のある時でけっこうですので、少しお訊きしたいことがあるのですが?」
「長くならなければ、別に今でもかまわないよ」
「はい····」
宮岡は片付けをしながら話す。
「僕は親の意向で普通の大学に進んだのですが、それでも画家になる方法はあるんでしょうか?」
「画家なんて職業はないんだと、確かマティスだかが言っていたね。絵を描きさえすれば、それで君は画家だよ」
「でもそれで食べていくにはどうすれば?」
「まず、食べていけるなんて考えない方がいいね。例えば君が詩人になろうとして、さて詩人としてどうやって食べていけばいいのかい?」
「でも現実に職業画家はいるわけで」
「絵だけで食べている者もいるにはいる。詩を書いて食べているものもいるにはいる。ごく一握りだけどね。だからそれらは例外中の例外だと言える。だから少なくとも私に絵で食べていく方法は答えられないな。むしろその質問は栗塚先生に訊いた方がいいかも知れない。彼の方が僕よりもより画家であるから」
「画家というのは度合いの問題なんですか?」
「ああ、僕はそう思っているよ。たくさん絵を描けば、それだけ画家としての度合いが高くなる。それだけの問題だと思うな」
「何だか、少しだけ解ったような気もします」
「だからたくさん絵を描いて、より画家に近づいてください」
宮岡は少し首を傾げながら片付けを続けた。友作は宮岡が帰って行くのを見送った後、戸口に鍵をかけアトリエを後にした。
一番の痛手は多英がまったく他人行儀となり、自分とはコミュニケーションを取ろうとはしないことであった。話しかければ返答はする。ただそれだけのことで夫婦の会話というものではない。
それ以前に多英がずっとヘッドフォンを着けたままでいるので、友作の存在は彼女の中にはないようであった。しかしそんな態度にもすぐに慣れた。それが彼女の求める自由なのだと思うと、むしろ微笑ましくなるくらいであった。
それからは仕事のあとはほぼ毎日のように目白のアトリエへ寄り、時間が来て講師としての役割を終えると、自分の制作を続けた。あまり大きな絵は描けないけれど、邪魔にならない程度のキャンバスに油絵を描いて過ごすことが日課となった。時々はそれを所長の栗塚晃司が覗き込む。
「モノクロのデッサンが名人芸だけに、さすがに絵具を使うと苦労するようだね」
友作は筆を置いて立ち上がる。
「二十年もサボっていたんだ、そんなに簡単にはいかないよ」
「でも僕は友作の才能は認めていたけどね。いずれ優れた画家になるだろうと思っていた」
「しかしそうなったのは晃司の方だった」
「いや僕なんて大学の准教授になれただけで満足してしまう器だ。とてもひとかどの画家になんてなれやしないよ」
「僕こそ何者でもない人間だ」
「何者でなくてもいい。自分が表現できればそれでいい。ま、それが一番難しいんだけどね」
友作は座ってまた絵筆を取った。晃司が言う。
「それじゃ僕はお先に失礼するよ、後の戸締まりをよろしく」
友作が振り返ると、晃司は何やら美鈴に話し掛け、二人は一緒にアトリエを退出した。もう少し描いていこうと思ったが、美鈴の後ろ姿が眼に浮かんで画面に集中できなくなってしまった。
それから友作は思う。自分は美鈴のことを気にしている。晃司と一緒にここを出たことが気になって仕方がないのだ。親子ほど歳の差があるというのに、いつの間にか美鈴に惹かれてしまっている自分が情けなかった。
戸締りをしようとしてアトリエの窓の錠を掛けて回っていると、まだ一人生徒が残っていることに友作は気がついた。これまで一度言葉を交わしたことのある生徒で、確か大学に在学中だということを聞いたことがある。
名前は宮岡清晴という男子学生である。友作は宮岡に声をかけた。
「こんな遅い時間まで頑張るね、でもそろそろ教室を閉める時間だよ」
「あ、はい、うっかり時間を忘れていました。すぐに帰り支度します」
「まあゆっくりでけっこうだよ。今日は私も早めの店仕舞いだったからね」
「はい、ありがとうございます。ところで栖原先生、今度時間のある時でけっこうですので、少しお訊きしたいことがあるのですが?」
「長くならなければ、別に今でもかまわないよ」
「はい····」
宮岡は片付けをしながら話す。
「僕は親の意向で普通の大学に進んだのですが、それでも画家になる方法はあるんでしょうか?」
「画家なんて職業はないんだと、確かマティスだかが言っていたね。絵を描きさえすれば、それで君は画家だよ」
「でもそれで食べていくにはどうすれば?」
「まず、食べていけるなんて考えない方がいいね。例えば君が詩人になろうとして、さて詩人としてどうやって食べていけばいいのかい?」
「でも現実に職業画家はいるわけで」
「絵だけで食べている者もいるにはいる。詩を書いて食べているものもいるにはいる。ごく一握りだけどね。だからそれらは例外中の例外だと言える。だから少なくとも私に絵で食べていく方法は答えられないな。むしろその質問は栗塚先生に訊いた方がいいかも知れない。彼の方が僕よりもより画家であるから」
「画家というのは度合いの問題なんですか?」
「ああ、僕はそう思っているよ。たくさん絵を描けば、それだけ画家としての度合いが高くなる。それだけの問題だと思うな」
「何だか、少しだけ解ったような気もします」
「だからたくさん絵を描いて、より画家に近づいてください」
宮岡は少し首を傾げながら片付けを続けた。友作は宮岡が帰って行くのを見送った後、戸口に鍵をかけアトリエを後にした。
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