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恋文 01
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通勤の列車から望む日暮れ時の街は、その夕陽が映えるほどに栖原友作の気持ちを滅入らせた。その理由が何故なのか、友作自身にもずっと分からなかった。だがこの頃では、少しずつその理由が分かってきたような気がする。
広告代理店に勤めて二十年が過ぎようとしていた。美術大学出身の友作にとって視覚に訴える仕事は天職であるように思えたし、またやり甲斐もあった。しかしそこは食べていくための仕事だから、それなりの不満も飲み込まなければならない。それでも社内では出世を果たしたし、妻の多英も確かにそれを喜んでくれた。子供にも二人恵まれ、自分の人生はまあまあ成功であったとも思っていた。だが、二十年ぶりにあれの名前を耳にした時、果たしてこれでよかったのかと友作は疑念を持ってしまったのだ。
あれとは、栗塚晃司のことである。栖原友作と栗塚晃司とは同じ大学の同期で、同じアトリエで画架を並べる間柄であった。時々は街へ繰り出して、一緒に酒を飲み、酒の力を借りてプライベートなかなり込み入った話もした。友作は晃司の芸術家としての資質を認め、晃司は友作の卓越したデッサン力を讃えていた。だが二人の間に拭えぬ溝ができたのは、他でもない今の友作の妻である多英を巡ってのことであった。
晃司は絵を描くこと以外は子供のように素朴な気質で、口もあまり達者には回らない方である。友作と言えば洒脱な言い回しやユーモアなどで、女学生の間でも人気があった。多英はアトリエの中ではマドンナ的な存在で、専攻の美術というよりも彼女が所属する軽音楽部でのボーカル担当として人気を集めていた。
友作が晃司らと共に数人で街へ飲みに出た時のことである、隣合わせた晃司が酒のせいでもあったろう、珍しく恋愛について語り始めた。晃司は言う。
「男兄弟で育った僕はあまり女性が得意ではないんだ。女を相手にして、それからどうしていいのか分からない。その点、誰とも気軽に話ができる友作が羨ましいよ」
「案外、軽薄な男だと思われているかも知れないけどね」
「軽薄だってかまわないさ。僕は好きな娘がいても、遠くから憧れて見ているだけだ。何も出来ない、行動を起こせない」
「へえ、誰かそんな娘がいるのか?」
晃司はしばらく黙り込んだが、やがて小さく頷いた。日頃は美術の話しかしない晃司が女の話をするなどとは、やはり酒に酔ってのことであろうと友作は思った。友作も酔いに任せて言った。
「晃司も隅には置けないなあ、誰だよ、言ってみろよ」
「言ったからといって、どうにもならないだろ?」
「そんなことはないよ、僕が力になれるかも知れないだろ?」
「力に?」
「ああそうさ。芸術一本槍の晃司には、女性のこととなると少しハードルが高いかも知れない。僕が晃司に代わって思いを伝えることだって出来るかも知れないだろ?」
「確かに、それは可能かも。でもこんなことって、自分でやらなきゃ意味がないよ」
「じゃあやって見せろよ」
「でも、相手が相手だからね、とても僕の手に届くとも思えないよ」
「だから誰だよ、その高嶺の花は?まさかアトリエのアイドル、茜川多英だなんて言うんじゃないだろうな?」
するとまた晃司は黙り込んでしまった。友作は言う。
「まさか····、茜川か?」
晃司は小さく頷いた。友作はしばらく店の天井を仰ぎ、それから言う。
「茜川多英は美術学科だけではなくて、全校の男子学生憧れの的なんだぞ。止めておけ、競争が厳し過ぎる」
「でも仕方がないだろ?好きになってしまったものは」
「好きになるのは勝手だが、それだったら玉砕覚悟だな」
「玉砕だろうが、撃沈だろうがかまわないさ。これまでこんな気持ちになんてなったこともない。初めての経験なんだ。僕もどうしていいのか分からないんだ」
「初恋の相手が全校のアイドルかよ····」
広告代理店に勤めて二十年が過ぎようとしていた。美術大学出身の友作にとって視覚に訴える仕事は天職であるように思えたし、またやり甲斐もあった。しかしそこは食べていくための仕事だから、それなりの不満も飲み込まなければならない。それでも社内では出世を果たしたし、妻の多英も確かにそれを喜んでくれた。子供にも二人恵まれ、自分の人生はまあまあ成功であったとも思っていた。だが、二十年ぶりにあれの名前を耳にした時、果たしてこれでよかったのかと友作は疑念を持ってしまったのだ。
あれとは、栗塚晃司のことである。栖原友作と栗塚晃司とは同じ大学の同期で、同じアトリエで画架を並べる間柄であった。時々は街へ繰り出して、一緒に酒を飲み、酒の力を借りてプライベートなかなり込み入った話もした。友作は晃司の芸術家としての資質を認め、晃司は友作の卓越したデッサン力を讃えていた。だが二人の間に拭えぬ溝ができたのは、他でもない今の友作の妻である多英を巡ってのことであった。
晃司は絵を描くこと以外は子供のように素朴な気質で、口もあまり達者には回らない方である。友作と言えば洒脱な言い回しやユーモアなどで、女学生の間でも人気があった。多英はアトリエの中ではマドンナ的な存在で、専攻の美術というよりも彼女が所属する軽音楽部でのボーカル担当として人気を集めていた。
友作が晃司らと共に数人で街へ飲みに出た時のことである、隣合わせた晃司が酒のせいでもあったろう、珍しく恋愛について語り始めた。晃司は言う。
「男兄弟で育った僕はあまり女性が得意ではないんだ。女を相手にして、それからどうしていいのか分からない。その点、誰とも気軽に話ができる友作が羨ましいよ」
「案外、軽薄な男だと思われているかも知れないけどね」
「軽薄だってかまわないさ。僕は好きな娘がいても、遠くから憧れて見ているだけだ。何も出来ない、行動を起こせない」
「へえ、誰かそんな娘がいるのか?」
晃司はしばらく黙り込んだが、やがて小さく頷いた。日頃は美術の話しかしない晃司が女の話をするなどとは、やはり酒に酔ってのことであろうと友作は思った。友作も酔いに任せて言った。
「晃司も隅には置けないなあ、誰だよ、言ってみろよ」
「言ったからといって、どうにもならないだろ?」
「そんなことはないよ、僕が力になれるかも知れないだろ?」
「力に?」
「ああそうさ。芸術一本槍の晃司には、女性のこととなると少しハードルが高いかも知れない。僕が晃司に代わって思いを伝えることだって出来るかも知れないだろ?」
「確かに、それは可能かも。でもこんなことって、自分でやらなきゃ意味がないよ」
「じゃあやって見せろよ」
「でも、相手が相手だからね、とても僕の手に届くとも思えないよ」
「だから誰だよ、その高嶺の花は?まさかアトリエのアイドル、茜川多英だなんて言うんじゃないだろうな?」
するとまた晃司は黙り込んでしまった。友作は言う。
「まさか····、茜川か?」
晃司は小さく頷いた。友作はしばらく店の天井を仰ぎ、それから言う。
「茜川多英は美術学科だけではなくて、全校の男子学生憧れの的なんだぞ。止めておけ、競争が厳し過ぎる」
「でも仕方がないだろ?好きになってしまったものは」
「好きになるのは勝手だが、それだったら玉砕覚悟だな」
「玉砕だろうが、撃沈だろうがかまわないさ。これまでこんな気持ちになんてなったこともない。初めての経験なんだ。僕もどうしていいのか分からないんだ」
「初恋の相手が全校のアイドルかよ····」
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