52 / 60
本題
慧 side 2
しおりを挟む
二〇二二年十月二十日 愛知県N市 鈴木宅。
「ごめんね、孝治君。君のコーヒー、勝手に出しちゃった」
「それは構わないけれど、淹れ方はわかった?」
「苦手でも、そのくらいはできるよ」
私がそう言うと、孝治君は「なら、よかった」と言って、ケトルでお湯を沸かし始めた。
孝治君は新しく、人数分のお茶を淹れてくれた。誠さん、私の順でカップを置くと、自身は立ったまま彼専用の猫柄のマグカップを左手に取った。残念ながら、この部屋には椅子が二脚しかない。席の譲り合いが始まったものの、結局のところ客である誠さんが折れて、向かいに私が座った。
「なんだか、夫婦というよりは姉弟みたいだね」
誠さんが私と孝治君を交互に見ながら、しみじみとそう言った。ああ、だからか。私が孝治君のことをこの子やあの子呼ばわりしていたから、誠さんは変な顔をしたんだ。それもそうか。自分の夫のことをこの子呼ばわりなんて、普通はしないのかもしれない。いくら彼が私より年下だとしても、だ。
「そうですね。感覚としては、姉弟が一番近いのかもしれません。ずっと友達でしたから。それに、友達以上の関係には絶対に発展しませんし」
「絶対?」
「私がゲイなんです」
「ああ、そうだったんですね」
孝治君はさらりと、カミングアウトをした。誠さんにならいいと思ったのだろう。その反応は予想通りで、誠さんは特に表情を変えず、頷いた。
二人がマスクを取ったのは挨拶の時だけで、今はカップに口をつける以外は互いにマスクをしている。外では新型のウイルスが流行っていると、孝治君からは聞いている。私は普段から外に出ないため、それは必要ないと思っていた。
しかし、一人だけマスクをしていないことが気になったのか、孝治君がキャビネットの中から新品のマスクを取り出し、私へと差し出した。
「慧さん。一応、マスクはつけた方がいいよ。屋外はいいけれど、ここ、屋内だから」
「外に出ない引きこもりなのに?」
「神谷さんも今はしているでしょ」
「わかった、わかった」
私がマスクを受け取ると、それをつける前に孝治君が、
「髪もだけど、眉や口周りが綺麗になっている。さっぱりしたね」
と言うので、
「君が何も言わないのをいいことに、女を捨てていたからね。いや、あれは酷かったな」
「そのままでも可愛いのに」
「そんなことを言ってくれるのは、君だけだよ。誠さんの方は、ドン引きだったから」
言いながら、私はマスクで口元を覆った。すると、誠さんは慌てた様子で、否定するように両手を振った。
「そうではないよ。私はてっきり、慧ちゃんが私のような男に対して恐怖を抱いていると思っていたから、躊躇いなく招き入れてくれたことに驚いていたんだ」
さりげなく“ちゃん”付けをされているわけだが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。向こうにしてみれば、十歳以上も歳の離れた相手だ。もう三十路手前の女とはいえ、まだまだ子どもと接するような感覚なのかもしれない。実際、彼と初めて出会った時、私はまだ子どもだった。でもそうか……姉が生きていたら、この十二年間も今のように、私は慧ちゃんと呼ばれていたのかもな。
「それと、君があまりにも美香に似ているものだから……」
そう言って目を伏せる誠さんは、複雑な笑みを口元に浮かべていた。
「なんだ。そうだったんですか」
私は脱力したように言った。だったら、わざわざ髪や体を洗う必要もなかったか。そう思いながら、私は本題を切り出した。
「それで? 誠さんの言う、とある人物とは、佐藤祥子さんですか?」
尋ねると、誠さんは口を噤んだ。なぜ、言わない? 私が首を傾げると、隣で立っている孝治君がお茶を啜り終えてから、
「ああ、守秘義務ですね。でも、こんなところまでやって来て、今さら守秘義務も何もないでしょう?」
と、誠さんに向かって皮肉交じりに笑った。
私もつられて笑いながら、
「ダラダラと昔話をしてしまったけれど、あなたが本当に聞きたいことは十二年前の事件ではなく、今年の五月に起きた方の事件ですよね。さっきの報道番組を見るまであの人が死んだなんて知らなかったから、ついグダグダと話してしまっていたけれど……」
誠さんの前で私は拳を作ると、それを頤に添えながら天井を見上げた。
「さて、どこから話しましょうかね」
「ごめんね、孝治君。君のコーヒー、勝手に出しちゃった」
「それは構わないけれど、淹れ方はわかった?」
「苦手でも、そのくらいはできるよ」
私がそう言うと、孝治君は「なら、よかった」と言って、ケトルでお湯を沸かし始めた。
孝治君は新しく、人数分のお茶を淹れてくれた。誠さん、私の順でカップを置くと、自身は立ったまま彼専用の猫柄のマグカップを左手に取った。残念ながら、この部屋には椅子が二脚しかない。席の譲り合いが始まったものの、結局のところ客である誠さんが折れて、向かいに私が座った。
「なんだか、夫婦というよりは姉弟みたいだね」
誠さんが私と孝治君を交互に見ながら、しみじみとそう言った。ああ、だからか。私が孝治君のことをこの子やあの子呼ばわりしていたから、誠さんは変な顔をしたんだ。それもそうか。自分の夫のことをこの子呼ばわりなんて、普通はしないのかもしれない。いくら彼が私より年下だとしても、だ。
「そうですね。感覚としては、姉弟が一番近いのかもしれません。ずっと友達でしたから。それに、友達以上の関係には絶対に発展しませんし」
「絶対?」
「私がゲイなんです」
「ああ、そうだったんですね」
孝治君はさらりと、カミングアウトをした。誠さんにならいいと思ったのだろう。その反応は予想通りで、誠さんは特に表情を変えず、頷いた。
二人がマスクを取ったのは挨拶の時だけで、今はカップに口をつける以外は互いにマスクをしている。外では新型のウイルスが流行っていると、孝治君からは聞いている。私は普段から外に出ないため、それは必要ないと思っていた。
しかし、一人だけマスクをしていないことが気になったのか、孝治君がキャビネットの中から新品のマスクを取り出し、私へと差し出した。
「慧さん。一応、マスクはつけた方がいいよ。屋外はいいけれど、ここ、屋内だから」
「外に出ない引きこもりなのに?」
「神谷さんも今はしているでしょ」
「わかった、わかった」
私がマスクを受け取ると、それをつける前に孝治君が、
「髪もだけど、眉や口周りが綺麗になっている。さっぱりしたね」
と言うので、
「君が何も言わないのをいいことに、女を捨てていたからね。いや、あれは酷かったな」
「そのままでも可愛いのに」
「そんなことを言ってくれるのは、君だけだよ。誠さんの方は、ドン引きだったから」
言いながら、私はマスクで口元を覆った。すると、誠さんは慌てた様子で、否定するように両手を振った。
「そうではないよ。私はてっきり、慧ちゃんが私のような男に対して恐怖を抱いていると思っていたから、躊躇いなく招き入れてくれたことに驚いていたんだ」
さりげなく“ちゃん”付けをされているわけだが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。向こうにしてみれば、十歳以上も歳の離れた相手だ。もう三十路手前の女とはいえ、まだまだ子どもと接するような感覚なのかもしれない。実際、彼と初めて出会った時、私はまだ子どもだった。でもそうか……姉が生きていたら、この十二年間も今のように、私は慧ちゃんと呼ばれていたのかもな。
「それと、君があまりにも美香に似ているものだから……」
そう言って目を伏せる誠さんは、複雑な笑みを口元に浮かべていた。
「なんだ。そうだったんですか」
私は脱力したように言った。だったら、わざわざ髪や体を洗う必要もなかったか。そう思いながら、私は本題を切り出した。
「それで? 誠さんの言う、とある人物とは、佐藤祥子さんですか?」
尋ねると、誠さんは口を噤んだ。なぜ、言わない? 私が首を傾げると、隣で立っている孝治君がお茶を啜り終えてから、
「ああ、守秘義務ですね。でも、こんなところまでやって来て、今さら守秘義務も何もないでしょう?」
と、誠さんに向かって皮肉交じりに笑った。
私もつられて笑いながら、
「ダラダラと昔話をしてしまったけれど、あなたが本当に聞きたいことは十二年前の事件ではなく、今年の五月に起きた方の事件ですよね。さっきの報道番組を見るまであの人が死んだなんて知らなかったから、ついグダグダと話してしまっていたけれど……」
誠さんの前で私は拳を作ると、それを頤に添えながら天井を見上げた。
「さて、どこから話しましょうかね」
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。


隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる