【完結】歪の檻にて囚われた美しき彼女の罪と罰、その末路とは

天代智

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真 side 6

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 美香は一瞬、身を竦めたものの、

「私たちだけ、というわけにもいかないでしょ。確かに、さっきは驚いたけれど、彼もまた被害者の一人であることに変わりはないんだから。それに『お腹が空いた』って、ずっと言っているんでしょう?」

 そう言って小走りに、缶を抱えたまま診察室を出て行った。まるで、私から逃げるように。

 バタン、と診察室の扉が閉まった。

「美香っ」

 私は慌てて、彼女を追いかけようとした。それを、鈴木が手を握って制止する。

「待ってください。もしかしたら、美香ちゃんにも何か考えがあるのかもしれませんよ。そんなに心配しなくとも……」

「考えとは何だっ。そんなもの、あるわけないだろうっ」

 すっかり頭に血が上ってしまった私は、鈴木の手を乱暴に振り払うと、力任せに扉を開けて診察室を出た。

 探す間はなかった。美香と平の姿はすぐに見つかった。

 平は変わらず、背中を丸めてソファに座っていた。美香は彼の背後に寄ると、

「平さん」

 と肩に手を置き、名前を呼んだ。

「これ、よければ少し食べませんか? きっとお腹も、少しは満たされるでしょうから」

 続いて、もう一方の手で乾パンの入った缶を平に差し出した。

 が、彼は動かない。下を向いて、「う、う……」と何やら短い声を漏らしている。

「平さん? どうしたの?」

 些細な異変に気づいた美香が、心配そうに平の顔を覗き込んだ。

 その瞬間、平は咆哮のような声をあげて、美香に襲いかかった。

「きゃああ!」

「美香っ」

 熊のような巨躯の男に掴みかかられた美香は悲鳴をあげ、必死に抵抗した。私は手に拳を作り、平の背中を力いっぱいに殴った。

「やめろっ、やめるんだっ」

「ま、真さんっ」

 そこそこ体重のある私が殴っても、肉が厚過ぎるせいで効かないのか、平は美香から離れることを止めない。こちらの呼びかけにも応えず、まるで理性を失った獣のようだ。

 私は急ぎ、診察室へ戻ると、「何? どうしたの?」と、異変に気づいた潤美たちの質問に答えることなく、空いている丸椅子を掴むと、再びロビーへと駆け込んだ。

 そして丸椅子の脚をそれぞれ両手で掴み上げると、平の頭を目掛けて振り落とした。

「このっ。このおっ」

「ぎゃっ! ぐええっ!」

 二回、三回と、私は力任せに平の頭を殴打する。さすがにこれは効いたのか、平は短い悲鳴をあげつつ、後頭部を手で押さえながらその場に倒れ込んだ。

 とどめだ!

 そう心の中で叫ぶと、私は最後とばかりに丸椅子を振り翳した。

「ストップ!」

 しかし、それを振り下ろすことはできなかった。

 どこから飛んだのか、力強い声が私を羽交い絞めにした。

「ストップですよ、真さん。ストップ。これ以上はオーバーキルです」

「はあっ、はあっ」

 いつになく真剣な鈴木の声が、激昂する私を宥めた。何だ。何が起こった? 辺りを見渡すと、衣服を乱され倒れている美香の隣で、頭を押さえた平が芋虫のように蠢いていた。

 これは何だ。私がやったのか? 美香は? 無事か? 平は死んだのか? 私は……

 恐ろしくなった私は、掴んでいた丸椅子をその場に落とした。同時に、潤美とショウコが恐々とした顔で、こちらへやってくる。

「何、今の……何だったの?」

 私は「違う」と首を振りながら、潤美を見た。

「わからないんだ。いきなり、彼が、変貌して……美香を、襲って……それで……止めようと……」

「それは、わかるんだけど……」

 わかるけれど、わからない。そんな目をする潤美は、私から少し離れた位置で立ち止まった。そして倒れている美香に気づくなり、潤美は駆け寄り「大丈夫?」と彼女の体を抱き起しながら、震える背中を擦った。

「私は、美香を……助けようとして……それで……」

「ええ。わかっていますよ。平君も生きていますし、正当防衛です。罪には問われませんよ」

「あ、ああ」

 私は無実だ。そう言われているのだろうが、私の手には、まだなお人を殴っているような感覚があった。

『罪、告白セヨ』

 なぜか、犯人からのメッセージをここで思い出した。違う。私は罪を犯していない。暴漢から恋人を守るために、仕方がなかったんだ。

「……に、よ……」

 誰かの震える声が聞こえた。

 視線を泳がすと、美香や潤美よりも離れた場所から、ショウコが目を剥いてこちらを見ていた。肉が落ちた自身の頬を、爪が食い込むほど掴み下げ、酷く怯え始めた。

「鬼……鬼よ……! 鬼よ、鬼なのよ……! ああ、どうしよう……! 鬼っ。鬼に……ああ、鬼になっちゃった……、なっちゃったんだわっ」

「人が……鬼に、なる……?」

 私はもう一度、平を見た。

 妙だぞ。今しがた美香を襲った平は、人というよりは獣、獣というよりは化け物のようだった。人が変わったなんてものじゃない。まるで、目に見えない何かが、彼に憑依したようだった。

 武藤といい、平といい、考えられない事態が立て続けに起こっている。もはや神隠しも、心霊現象も、何でも、信じてしまいそうな心境に陥っていた。

 私は強く頭を振った。駄目だ。飲み込まれるな。思考を放棄するな。しっかりしろ。今は予測できない事態に陥り、混乱しているだけだ。ここで私が動けなくなってしまったら、美香は。美香は……

 そうだ。美香は、何をしている? 守りたい対象が、なぜ自ら危険な境地に陥ようとしているんだ。どうして私の言うことを聞かない。勝手に動き回られては、守れるものも守れないだろうが。

 美香の方を見ると、乱れた衣服を直しながら、潤美に支えられてよろよろと立ち上がっていた。よほど恐かったのか、彼女の体は震えていた。ほら見ろ。私の制止を振り切って勝手に行動したからだ。

 私は被害者であるはずの美香に、沸々とした怒りを感じていた。武藤が消えた時もそうだ。私はロビーにいろと言ったのに、彼女はそれを守らず、一人で勝手に上がって来た。その間に、犯人に襲われでもしたら? 武藤たちのように不可解な事態に見舞われでもしたら? 私の行動はすべて無駄となるじゃないか。このままでは死んでしまうというのに、どうして彼女はこちらの思う通りにしてくれないのか。

 ぷっくりとした上唇を震わせる美香と目が合った。私は「余計なことをするな」と目で訴えた。

「真さん。真さん。こっち、手伝ってください」

「鈴木?」

 不意に、鈴木が私を呼んだ。鈴木は倒れている平の様子を、彼の傍で見ていた。「まさか、死んだのか?」と尋ねると、「気絶しているようです」と鈴木は返した。

 そして何を思ったのか、鈴木は平の腕を持ち上げつつ、もう反対の腕を顎で示した。

「今がチャンスです。また目覚めた時、彼がどんな行動に出るのかわからない。一旦、そこのトイレにでも閉じ込めちゃいましょう」

「あ、ああ……」

 閉じ込める、ということに一瞬気が引けたものの、そうする他ないとすぐに頭を切り替えた。

 私は体を屈めて、鈴木とは反対の、平の左腕を持ち上げた。すると、美香がまたもや……

「待って。それはよくないわ。気絶している人を閉じ込めるなんて……」

「いったい誰のせいでこうなったと思っているんだ。君が軽率な行動をしたからだろう。少しは反省しろ」

 私は美香を叱咤した。

 優しさも、人を想うその心根も、彼女の長所。それが今は、大いに邪魔だ。

 私から強く言われた美香は、自分の胸の前で両手を強く握ると、それ以上は何も言わずに顔を伏せた。

 それから、私と鈴木は気絶した平を運び、一階の角にあるトイレに詰め込むように押し入れた。小窓が開いていることで少しは悪臭が薄れているのか、それとも鼻が慣れてきたのか、最初に入った時ほど臭いは気にならなかった。

 鈴木が扉を閉めつつ、

「平君、結構な重量級ですからね。扉なんてすぐにぶち破りそうだし……」

 と言って動きながら、視線をあちこちに向けて、

「あそこの自販機、移動させます?」

 階段横の自販機をさし、私に尋ねた。

「自販機か。全員で取り掛かれば、運べるかな」

 鈴木の言うように、平ほどの体格であれば扉などすぐに破ってしまうだろう。何らかの重しは必要だ。自販機なら簡単には開けられないだろうし、最適にも見えるが、それを運ぶには人手が必要だ。

 すると、手伝いたくないからなのか、ショウコが私たちの間に割って入り、

「こ、ここのソファは? これなら男性二人だけでも運べるし、二台ほど重ねれば……そ、そうすれば、いくらあの人でも、中から出てこられないでしょうし……」

「そうね。一生閉じ込めておくってわけにもいかないしね。助かった後に、警察にあれこれ突かれたら厄介よ」

 潤美とともにソファで扉を封じるように言ってきた。

 全員が気力、体力ともに限界となっていた。それでも時間は、半日も経っていないのだろう。

「鈴木君。ソファを運ぼう」

「了解です」

 私は鈴木とともにソファを運び、トイレの扉の前へ重ねるように二台置いた。

「これでもう、大丈夫かしら」

「わからない。彼ほどの体重があれば、もしかしたら……」

 心配そうにソファ向こうの扉を見つめる潤美に私は、

「三階へ移動しよう。二階は個室だらけだし、いざという時に逃げ場がない。平はさほど体力があるようには見えないし、たとえ出てきたとしても、三階までは上がってこないかもしれない」

 そう言って、全員であの人形たちが転がる三階へ移動するよう提案した。

「美香」

 名前を呼ぶと、美香は「はい……」と消え入りそうな声で返事をした。
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