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ある男の来訪

慧 side 2

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「いやはや、長いことお待たせしました。今度こそ、どうぞ上がってください」

 時間にして約二十分後。上にロングTシャツ、下にジーンズを纏った私は改めて男を招き入れた。

 まだなお、目元が不安を訴えてはいるものの、湯上りで多少なりともさっぱりした私の顔を見たからだろうか。男は意を決したように部屋の中へと足を踏み入れた。顔につけ直したマスクも外す気はないようだし、少なくとも臭いの方はいくらか防げるだろう。

 いっそ、近くの喫茶店にでも入って用件を済ませた方がお互いのためかもしれないが、急に現れた男相手に場所代を含めワンコイン以上もする飲み物を払ってやれるほど、私の心は広くないし金もない。それに昨今では、お国様が愛煙家を排除しようとやっきになっているんだ。わざわざ外に出て肩身の狭い思いをするのは嫌だった。

 男はつま先が擦り減った革靴を脱ぐと、ご丁寧にも壁側に踵をつけて揃えた。続いて、手にしていた有名百貨店のロゴが印字された紙袋を「大したものではないけれど」というお決まりの文句とともに、私へと差し出した。

「おや、これはどうも。中身はお菓子ですかね。ありがとうございます」

 しかしこういった気遣いはできるくせに、なぜ事前の訪問連絡は寄越さないのでしょうね、という文句が喉元まできていたものの、私は男の骨ばった手から紙袋を受け取った。心なしか、彼が安堵しているようにも見えた。

 僅かに指に触れても嫌がる様子はない。ああ、よかったと私は胸を撫で下ろした。

 弁明しておくと私自身、決して風呂が嫌いなわけではない。ただ毎回入浴のタイミングを逃してしまっているだけだ。今回はシャワーのみだが、それでも起き抜けの頭は冴えた気がする。

 それにしても髪が伸びた。頭が重いし目元にかかる前髪が視界を邪魔する上にこそばゆい。いっそバリカンでも買って刈り上げてしまおうか。そうすればパン粉のような細かいフケが髪に纏わりつくこともないだろうし、洗った後にいちいちドライヤーで乾かす必要もないだろう。

 心の中で大胆な断髪を決意する私は、男にダイニングテーブルへ腰かけるよう促した。1DKの部屋では客を持て成すことのできる場所は限られていた。

 なのに男は、ダイニングよりもさらに向こうへ顔をやった。そこは私が先ほどまでぐーすかと寝ていた寝室だ。見られても不快にならないよう、わざわざ布団は畳んでおいた。しかし彼が見ているのは畳まれた布団ではなく、その向かい側にある小さな仏壇だった。

 男は飾られた私の父、母、姉の写真を一通り流し見た後、「お線香を上げさせてもらえないだろうか」と断りを入れてきた。人として最低限の礼儀だろうが、こちらとしては用件だけを済ませてさっさと帰って欲しかった。

 舌打ちをしそうになったものの、奥に佇む三人の遺影と目が合ってしまい、溜まった唾を飲みこんでから「蝋燭を用意するので、ひとまずここにおかけください」と言って視線を伏せた。

「失礼」と一言告げてから、男は躊躇いなく椅子に座った。私相手には臆したくせに、物相手には臆さないのか。その違いは何かと考えると、衛生的かそうでないかだろう。築二十年にもなるこのアパートは建て付けこそ悪いものの、部屋の中に置いてある物自体は意外と少なく、さっぱりとしている。最低限の掃除がされていれば他人の目から見ても汚くは感じないんだろう。実際、汚かったのは私自身だ。

 テーブル上のランチョンマットは二枚とも出したまま、私はキャビネットからライターを手に取り仏壇のもとまで行くと、蝋燭の用意を始めた。マッチは使わないし、そもそもない。あれはすぐにしけってしまう。

 ライターを着火させ、立てた蝋燭に火をつける。たちまち揺らめくように灯る橙の炎が、今は憎らしい。そもそも、私がつけたかった火はこちらの白い棒ではなかった。

「お願いします」

 線香を見えるところに用意してから、くるりと振り返って男を促した。

 男が立ち上がった際、椅子の脚とフローリングの床が擦れる音が短く響いた。引っ掻くような嫌な音だと顔を顰めながら、私はダイニングへ引っ込んだ。

 仏壇前に来た男は、慣れた動作で品よく膝を折り畳み一礼した。そのまっすぐな背筋は、見ていて惚れ惚れとするほど優美に感じた。やはり、真っ当に生きる人間は何をやってもそつなくこなすんだな。そんなことをぼんやりと思いながら、彼が線香を上げる姿を少し離れた場所から眺めた。

 それにしても、物故した三人の微笑む写真を前に、彼はいったい何を考えながら手を合わせているのだろうか。関わりはあっても血の繋がりはない他人に、何を想うのだろう。私だったら、それらしいポーズをとることだけに頭を集中させ、合掌を終えてしまうというのに。

 さて、普段は客人を招くことのない家だからお茶請けの類を常備していない。冷蔵庫の中もハムや卵、それと食べ残しの漬け物くらいしか残っていなかった。今しがた貰った菓子を出してもいいが、それは蝋燭の火を用意する際、仏壇に供えた。あちらも自分が買ってきた菓子を食べたいわけではないだろう。

 お茶請けは早々に諦め、せめて飲み物くらいは出そうとキャビネットを漁った。向こうはスーツを着ているし、外は寒くなかっただろうが、冷たいものよりも温かいものを出す方が無難だろう。

 幸い、引き出しからインスタントのドリップバッグコーヒーを見つけた。袋から一パックだけ取り出すと、電気ケトルでお湯を沸かす。仏壇からこちらに戻ってきた男から「お構いなく」という定型句をもらいつつ、私はカップと対になるソーサーを用意した。

 カップにセットしたコーヒーへ沸騰したお湯を注ぐと、たちまち立ち上る馥郁とした香りが鼻腔を通過する。最近のインスタントは芳醇さが売りなのだろうか。コーヒー独特の酸味が好きとは言えない自分に、それは少々刺激が強く感じられた。

「どうぞ」

 ソーサーに乗せたコーヒーを差し出すと、男は驚いたように目を見開いた。「あ」と声を漏らしたものの、結局は何も言わず、ただカップを見つめたまま、今度は両眉をハの字にさせた。何だろう。もしやコーヒーが苦手だったのか?

 しかし男の視線を辿るとそれはカップではなく、私の手元を見つめていることに気がついた。正確には、着古してすっかり伸びてしまった袖口から垣間見える私の左手首。その内側にある無数の線に、だ。

 やれやれ。これだから事前のアポイントメントが欲しいんだ。こちらもわざわざ誰かに見せつけたいわけではない。だからといって隠したいことでもないが、他人の憐憫の顔をいちいち目にするのも鬱陶しい。この男も、何も初めて目にするものでもないだろうに。ああ、本当にイライラする。さっき煙草を吸えなかったから余計にだ。

 努めて平然を装いつつ、「ああ、これですか」と、私は自身の左手首にある線……リストカットについて触れた。

「ついね、やってしまうんです。人と話さずに、ただぼーっと過ごしていると、暇だなぁ、消えたいなぁって、思っちゃって。なんだか無性に、この世から消えたくなるんです。何もかもを投げ捨てて、泡のように消えてなくなりたいって。せっかく、平穏な日常に戻ってこられたというのに、いまだ、そんな感覚に陥ってしまうんですよ。こういうのを衝動って言うんでしょうか?」

 別段、死にたいと思わずとも、手首に浮き出る青い筋を眺めているだけで衝動は起きる。体に蔓延る木の根のようなこの血管を、無性に切り裂きたくなるのだ。

 そうして噴き出る赤黒い血を見ると心が落ち着く。はっきり言って、悪い趣味だ。消えたいと思うことはしばしばあるが、決して死にたいわけではない。その違いは何かと聞かれると、苦痛を伴っているか、いないかだと思う。リストカット程度の痛みは気にならない。だが、苦しいのは嫌だ。

 だからいつも手加減をする。深くは切らないから、ある程度血を流せばそこで止まる。衝動も消える。しかしそれでも治まらない時は、その傷口をわざと開いて新たに裂けたヒビからの鮮血を、鉄臭さとともに楽しむ。

 私はこれをフェチの一種だと思っている。共感されないこの愉悦は、他人からしてみれば病気と思われても仕方のない行為だ。

 真人間には理解できないことだろう。私もそれを求めていない。中途半端な共感も、上辺だけの同情も必要ない。

 イライラする。やはり駄目だ。身体が煙草を求めている。今、吸わなければこれから始まるであろう男の話にも集中できやしない。今日まで音沙汰のなかった人間だ。きっと長丁場になる。

 私はキャビネットから先ほど容器に戻した折れかけの煙草を取り出しつつ、「一本だけ、いいですか?」と男に断りを入れた。短く頷かれた後、ライターと灰皿を掴んでいそいそと寝室へ向かう。男の前で吸ってもよかったが、その姿を見られるのが嫌だった。きっと黙って、こちらをジッと見つめてくるに違いない。それに換気をしたかったというのもある。

 寝室に入り、窓にかかるドレープカーテンと無地のレースを一緒に掴んで横へ流した。その瞬間、燦々と降り注ぐ陽光が容赦なくこちらを照らし、眩しさを感じた瞼が自然と下がった。

 顔は俯いたまま少しだけ窓を開けると、咥えた煙草に火をつけた。ゆっくりと吸って煙を口に含み、煙草を離しつつ息を吸い込む。

 ああ、これだ。これが私の求めていたものだ。もっと早く吸えばよかった。そう思うほど、苛立ちはあっという間に消えてなくなった。

 すっかり、楽ばかりを選ぶようになってしまった。他人との接触を避け、毎日寝てばかりの生活に、煙草の本数と共に増えていくタール数。加えてリストカットの趣味だ。私が医者なら早々に匙を投げている。

 もちろん、はじめからこうだったわけではない。以前は友人と呼べる人間もいたし、バイトとはいえ人並みに勤めた時期もあった。人らしい人生を、歩んできた。そのはずだった。

 少し勢いをつけて吸ってしまったのか、気管支が刺激されてその場で小さく咳き込んだ。ああ、駄目だな。肺がすっかり弱っている。やはり煙草は体に悪いということか。喫煙だけはするなと、姉からも口酸っぱく言われてきたというのに、因果なもんだ。

 だが、それも私の健康を思ってのことだったのだろう。これから長く、そして健やかに生きたい意思などない私には、もはやうるさいただの小言だ。

 用意したコーヒーに、男はなかなか手をつけない。遠慮をしているのか、警戒をしているのか、それとも……。何にせよ、早々に戻った方がよさそうだ。

 指に挟んでいた煙草を灰皿に押しつけ火を消すと、私は男が待つダイニングテーブルへと戻り、向かい合う形で椅子に座った。

「さて。毎日がご多忙のお医者さんが、今日はいったい何の御用で我が家にいらっしゃったんでしょう?」

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