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第3話:「無自覚系の天然はコワイ」
しおりを挟むカラン、カラン。
何かを混ぜる音がする。
いいにおいと温かい空気の中で目が覚めた。
どうやら、何かの料理の匂いらしく、それをかき混ぜる音のようだ。
「あ、起きたかな?」
少し離れた調理場と思われるところから振り返って声をかけられた。
ふわりと綻んだ、彼の優しい笑顔に胸がドキリとする。
自分の顔が赤くなってしまっていることにも気がつかずに、私は彼の元へ行こうと立ちあがろうと、した。
「…痛ッ」
だが、すぐに襲った鋭い痛みに顔を顰めてしまう。
「ヴェリきゅん、大丈夫!?」
彼は私の元へと心配そうに駆け寄ってきて、足にそっと優しく触れてきた。
「片方、裸足だったからね……痛かったでしょ?先に一回、傷口を洗った方がいいかもしれない」
幸い小さい傷だからよかったね、と笑う彼に思わず見惚れてしまう。初めてお会いした時から思うが、どうして、こんなにも彼から目が離せないのだろうか。
つい、彼の顔を見つめ続けそうになって、ハッと我に返る。
いけない、いけない。
私としたことが、また大事なことを聞き忘れるところだった。
「すみません、助けていただいたのにお名前を…貴方様のお名前をお聞きしていなくて。既にご存知だと思いますが、私の名前はヴェリキュス・ロ・ラベリッタと申します。貴方様のお名前をお伺いしても、よろしいでしょうか…?」
彼の方が背が高くて、つい見上げるような形になってしまう。羨ましい。私はどれだけ頑張っても、そこまで背が伸びなかったのに。
顔を伺うように見つめると、何故か少し顔を赤らめて、しどろもどろとしながら私に言葉を返してくれた。
「あれ!俺、名乗ってなかったっけ?俺、ダメだな~ヴェリきゅんのこと一方的に知ってるからって、ちゃんと名乗りもしないなんて」
そう言って彼は乾いた笑みを浮かべながら片手で頬を掻く。彼は一つ深呼吸をして姿勢を正すと、気を取り直すように、にこやかに自己紹介をしてくれた。
「俺の名前は、杜若響。名乗るのが遅くなってごめんね、ヴェリきゅん。これから仲良くしてくれると嬉しいな」
私に真っ直ぐと目を合わせて、笑った。黒くて、しかし光の加減によってほのかに紫に見える瞳。
あの夢の中で見た紫の花を思わせる色だと思った。この瞳をできるなら、ずっと見つめていたい。そんなことを思わせる美しい色だと思う。
「かきつばた、ひびき…様?」
一言たりとも間違えたくなくて、噛み締めるように、ゆっくりと彼の名前を呼んだ。
「様なんて…!俺につけて呼ばなくていいよ!」
「でも、命の恩人に対してそのような…」
「俺が許してるからいいのっ!あ、そういえば。ヴェリきゅんの世界風に言えば、俺の名前はヒビキ・カキツバタかな」
話をはぐらかされたような気がしないでもないが、当人がそこまで仰るのだから無理にこちらの希望を通すのは筋違いだ。
様が駄目だとするならば…
「ヒビキさん……?」
言葉の発音など、合っているかわからず、首を傾げながらそう呼ぶと、どこからかゴボッという物凄い音がした。
「どこからか、大きな音がした気がするんですけど、今のはなんでしょう…?何かの前触れとかではないですか?大丈夫でしょうか…?」
「ウンウン、大丈夫ダヨ。何事もナイヨ。ウン、安心シテ。やばー…尊すぎて出血死するかと思た」
安心して、の後が小声すぎて聞こえなかったが、大丈夫だそうなのでホッとする。ここが異世界なので何かとんでもないことが起きたのではないかと不安になってしまった。
「ヒビキでも、ヒビキくんでも、ヴェリきゅんの好きなように呼んでね!!」
「ではこのまま、ヒビキさんとお呼びしても?」
「喜んで!」
そう言って、ヒビキさんは顔を綻ばせた。
嬉しそうに笑う顔に目が離すことができない。まただ。
どうしてこんなにも私は、ヒビキさんから目を離せないのだろう。そして何故、私の胸はこんなにも高鳴っているのだろう。
───こんなにも、頬が熱いのだろう。
何か、とんでもない感情に気がつきそうになるのを、私は気がつかないフリをして、ずっと気になっていたことを触れることにした。
「………あの、ずっと前から気になっていたのですが、そのヴェリきゅんって私のことでしょうか?」
……すると、よくぞ聞いてくれました!と言わんばかりに、ヒビキさんは瞳を輝かせた。
「本人を前にしてこんなこというのはアレなんだけども。最初、ゲームを始めた最初の段階は君のことをヴェリキュスってそのまま呼んでいたんだ。けれどね、ゲームを進めていくうちにヴェリきゅんの可愛さが限界突破しちゃってね!胸キュンが止まらなかったから、ヴェリキュスに近い、ヴェリきゅんという呼び方が俺の中に天啓の如く降って湧いてね。この呼び方が一番ベストなのでは!?と思って、それからヴェリきゅんって呼ぶようになったんだよ」
興奮したように、ヒビキさんはそう言った。正直、話の半分も理解できなかった。
私が可愛い……?
殿下に可愛げがないと言われたこの私が…?
両親からも貴方には愛らしさがないと言われた私が……?
か、か、可愛いだってッッ!??
じわじわと、ヒビキさんの言葉の意味が浸透して理解した瞬間、衝撃が走った。
「可愛いって、この、私がですか……?」
顔に熱が集まっていくのがわかる。
醜くく見えるだろう顔が赤くなった私を、ヒビキさんは愛おしそうに目を細めてどこか恍惚とした表情で見つめた。
「ほら。やっぱり、ヴェリきゅんは可愛いよ」
そっと、私の頬にヒビキさんの長い指が触れる。
顔の繊細さとは異なる男らしい手に胸がドキドキとした。
「少し泥がついてるね、傷をサッと洗ってからご飯を食べてもらおうかと思ったけど、やっぱり先にお風呂に入ってもらった方がいいかな」
び、びっくりした…!
心臓がバクバクと鳴っている。
顔に土が付いていたのか…!
そ、そうだよな、あんなに森の中を走り回ってたのだから泥が付いていても、おかしくない。
て、てっきり私を────。
いやいや!何を考えているんだ、私は!
「き、汚いですよね…!申し訳ありません。ただでさえ、ご迷惑をおかけしているのに大変恐縮なのですが…その、湯浴みをさせていただくことは可能でしょうか?」
恥ずかしくなって、尻すぼみになりながら言うと、ヒビキさんはクスリと笑った。
「もともと、そのつもりだったからね。もちろんいいよ。ちょっとお風呂を用意するには時間がかかるし、お風呂に浸かるのは傷があるうちは良くないかもしれない。とりあえず、傷口を洗うのと体の汚れを落とすためにシャワーに入ってもらおうかな」
歩けそう?と尋ねられて、立ち上がるのだけを手伝っていただけたら、と答えると当然のように私の手を握り、私の脇の下に腕を回してゆっくりと気遣うように立ち上がらせてくれた。
「大丈夫?肩を貸そうか?」
立ち上がってみると、足に痛みが走る。思ったより、足を傷つけてしまっていたようだ。
「…すみません、大丈夫だと思ったのですが、怪しいのでお願いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん、いいよ」
ヒビキさんに肩を貸していただくと、密着する形になった。ヒビキさんからは甘くて優しい、とても良い香りがする。
殿下の香水ばかりが強くて遠慮したくなる匂いとは違う、彼の優しい性格を表したような爽やか且つフローラルな香り。
思わず、匂いに惹かれるように身体を近づけるとヒビキさんの肩がびくりとした。いけない、もしかしたら私から変な臭いがしたのかもしれない。汚れていた私の服から、ヒビキさんが着替えさせてくれたようだ。今は清潔な長めのシャツを着ているので服から臭うということはないだろうが、もしかしたら私自身が臭い可能性がある。大丈夫だろうか。
「すみません、森の中で魔物から逃げ回っていたので臭い…ですよね」
「え!?どうしたの?!!そ、そんなことないよ。臭いどころか、むしろ…あ、いや!こんなこと言ったら変態みたいだし、えっと……」
早口すぎて、そんなことないよ、から後が聞き取れなかったが何か思うところがあったのは確かだろう。
やはり、早く身体を洗わなくては。
浴室と思わしき場所に案内されると、私の世界とは違う内装に驚く。
先程、寝かされていた部屋もそうだったが照明一つをとっても、私のいた世界より技術が何倍も何十倍も上なのは見て取れた。
どういった素材なのか全くもって検討もつかないが、私の世界には存在し得なかった素材で出来ていると思われる。そんな造りをした浴室だった。
「使い方はどう?わかりそう?」
ヒビキさんに尋ねられ、使い方を予想してはみたものの、初めて見るものばかりで全くもって見当がつかない。
「…すみません。私の世界のものとはかなり違っていて、何か粗相をして壊してもいけないので、申し訳ないのですがお教えいただいてもよろしいですか?」
「もちろんだよ!乙女ゲームとして出てきてた世界だったし、こっちの世界と、もしかしたら似てるかと思ったんだけど…どうやら違うみたいだね。中世ヨーロッパ風だったし、こっちの方が文明は発達してるのかな。ヴェリきゅんの世界とは違うお風呂、今から順番に教えていくね!」
ヒビキさんはそう言うと、私たちの直ぐ近くの壁に掛けられていた蛇のように長いが先端にいくにつれて少し大きくて丸い形をした物を手に取った。
「これはシャワーヘッドと言ってね。このたくさん付いている小さい穴から水が出てくる物なんだ。実際に出してみるね」
ほら、と言ってシャワーヘッドと言われる物の近くに備え付けられていたレバーを捻ると本当に水が出てきた。
「すごいですね!本当に水が出てきました…!魔法みたいです」
年甲斐もなく、興奮してしまう。
私のいた世界ではお風呂は湯船に湯を溜めて、そのお湯で身体を洗うシステムだった。その為にお風呂は贅沢品で、貴族である私さえも、週に三日入れれば良い方だったのだ。
それを、このように好きなだけ水が出せるのであれば、余分な水を使わなくて済むし、加えて水が汚れなくて済む。
溜めたお湯をそれぞれ順番に使う為に最後に使う人間は、ある程度、汚れたものを使わなくてはいけなかったのだ。この世界のお風呂事情を聞いて、私の世界のお風呂事情を鑑みるとお風呂に入っていたはずなのに、反って身体を汚していたように思える。仕方がないとはいえ、こうして発達した文明を目の当たりにすると余計にそう思えてしまうのだ。
この出てくる水はどこからきているのか、そしてどうやって溜められているのかなど興奮してしまい、私はヒビキさんに質問しまくった。
その度にヒビキさんは一つ一つ、丁寧に答えてくれて、その度にヒビキさんの人柄や優しさを改めて感じた。
(こんな愚かな私を、ゲームというものの物語で知ったとはいえ、助けたいと思うかどうかは人それぞれのはずだ。かなり悪者として見える状況下だったはずなのに、そんな私を助けたいと思ってくれて、尚且つ実際にこうして私に手を差し伸べてくれている。思ったからといって、それができない人もいる。いや、思うだけになってしまう人の方が大半だろう…本当にヒビキさんには頭が上がらない)
アレを実現されたい、コレを導入したい、ただそう願望を言うだけで何も行動しなかった殿下とは違う。
───なんて、素敵な人なんだろう。
関わる時間が増えるたびに、ヴェリキュスの響に対する想いは増してく一方だ。
「これで、ある程度の説明は終わったかな。シャンプーやボディーソープは肌に合わなかったり、匂いが苦手なようであれば教えてね。別のものを一緒に買いに行こう」
「ありがとうございます。何かわからないことがあれば、その都度またご質問させていただきますね」
ヒビキさんは、もちろんだよ!と元気よく答えてくれた。
普通であれば、何度も聞かれたり様々なことを質問されるのは鬱陶しかったり、面倒だったりする筈だ。けれど、ヒビキさんはそれを感じさせず、それはそれは嬉しそうに楽しそうに言動してくれる。
────本当に優しい方だな。
殿下からも、その取り巻き。果てには家族にまで冷遇されたヴェリキュスにしてみれば、響の姿は太陽そのものであった。
少しずつではあるが、前いた世界によって凍りついてしまっていたヴェリキュスの心を、響は確実に溶かしていた。
「服は破れたり、ほつれたりしているところもあるけど前の世界のものだし、捨てるのもなんか違うから洗おうと思うんだ。脱いだら俺に渡してくれるかな?」
「ありがとうございます。はい、わかりました」
響は失念していた。
ヴェリキュスがあの環境で育ったにも関わらず、純粋培養だということを。そして、貴族はお風呂介助をされるのが当たり前で彼がある程度、裸を見られるのに慣れていることを。
加えて、響は失念していた。当たり前すぎるが故に言葉を端折ってしまったのだ。俺が出て行ってから脱いでね、お風呂から上がったら脱いだ服を渡してねと言うのを────。
「あ、そうだ。確か新品のボディスポンジがここにあったはず」
ガサゴソとヴェリキュスに背を向けて、響は引き出しを開けて買い溜めておいたはずのボディスポンジを探していた。
大きな音を出して探していたのがいけなかったのか。響は背後から発せされていた衣擦れの音に気がつかなかったのだ。
「あ、あった!はい、ヴェリきゅん。よかったらコレ使って!身体を洗う為の道具で泡立てて使うボディスポンジって言って────」
「身体を洗う為の道具なんですか?初めて見ました…!」
響は忽ち言葉を失った。
目の前の絶景があまりにも眩しすぎたからだった。
土で所々汚れているが、それでもわかるほどに透き通る白く滑らかな肌。胸にある尖りは薄いピンク色で、誘うような様子で、ぷるりと柔らかそうに存在感を主張している。
視線が下にいくにつれて存在するのは、愛らしくも綺麗な響とは違うソレで──────。
響の顔は真っ赤に染まっていた。
「ヴァァァぁぁぁぁ!!!!!し、失礼しましたぁッ!!!」
響は奇声を発すると、動揺しながらも丁寧にボディスポンジをヴェリキュスの手に渡し、勢いよく飛び出した。
ヴェリキュスは何が起こったのか、わからず首を傾げるばかり。そして、考えた末に頓珍漢な答えを捻り出した。
「はっ!もしかして、私の身体があまりにも土で汚れていて驚いてしまったのかもしれない。お見苦しいものをお見せしてしまった…ヒビキさんを安心させるためにも綺麗に洗わなくては!」
謎の使命感に駆られたヴェリキュスは力強くボディスポンジを握りしめると意気揚々と浴室へと入っていった。
一方、勢いよく飛び出した彼はといえば。
「天然ってコワイ…………」
ずるずるとリビングの扉に、もたれたまま蹲ったのだった。
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