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一章 5人の婚約者

逃げることにした

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 エルセント学園は6歳から通うことのできる、勉強に力を入れている学園。
 多くの貴族の子息令嬢が通っている学園で、12歳の6年生と15歳の9年生、18歳の12年生で卒業することができる。6年生と9年生で卒業した生徒は別の学園へ入学することが多いけれど、勉強に力を入れている学園から別の学園へ行こうと考える生徒は少ない。
 勿論私だって、他の学園に行こうとは考えていなかった。このまま姉と同じようにエルセント学園を12年生で卒業するつもりだった。
 あんなことが起こるまでは。

 その時の私は、3階から教室のある2階へ向かうために階段へと向かっていた。
 廊下で雑談をしている生徒はいたけれど、私の近くには誰もいなかった。だから私は階段に着くと、躊躇いもなく階段を下りはじめた。
 そして突然、強い力で背中を押された。はっきりと手の感触がした。
 驚く暇もなかった。後ろには誰もいなかった。足音もしなかった。それなのに、私は背中を押された。誰にかもわからずに、悲鳴を上げることもなく階段を落ちる。

 頭から落ちていることがわかったため、死ぬのだろうと思った。

 今からどうすることもできない。だから私は目を閉じて、階段から落ちた時の衝撃が痛くないものであることを願った。
 いくらなんでも痛いのは嫌だったから。

 けれど、衝撃はこなかった。誰かが受け止めてくれたのだとすぐに気がつき、目を開くとそこにいたのはハロルドだった。
 赤い目を細めて、私ではなく階段の上を見ていた。そこに私を突き落した人物がいるのかもしれない。
 犯人が誰なのか。気になった私はそこへ視線を向けようとした。

「お前! 階段から落ちたら死ぬこともあるんだぞ!」

 その声はハロルドのものではなかった。もう1人いるとは思ってもいなかった。声がした方へ視線を向けると、右足を階段に乗せているダンがいた。
 右手を強く握り、ハロルドと同じように階段の上を睨みつけている。どうやら犯人はまだそこにいるようで、私はハロルドに床に下してもらい漸く犯人を見ることができた。
 そこにいたのは、廊下ですれ違う程度で見たことのある獣人令嬢だった。

「あーら、ごめんなさい。偶然ぶつかってしまったみたい」
「何が偶然ですか」

 笑う獣人令嬢の種類はたしか、ブチハイエナ。普通にしていれば可愛い顔をしていた気がするけれど、今の顔は何と不細工なことか。思わず小さく笑ってしまった。
 私の横にいるハロルドは静かに怒ってはいるけれど、ダンのように大きな声を出すことはない。

「偶然ですもの。悪気はありませんわ」

 そう言って笑いながら立ち去って行く令嬢に悪びれた様子はなかった。
 それにしても、偶然ぶつかったなんて言い訳は感心してしまう。背中に手の感触を感じたのにぶつかったなんて。他に見ている人がいたらいいけれど、ダンとハロルドは偶然通りかかっただけだと思う。

「それにしても、私何かしたかしら?」
「そこかよ!?」
「彼女と関わりはないのですか?」
「廊下ですれ違う程度よ」

 私を突き落したのだから、何か関わりがあったと思うのが普通だろう。でも、私は彼女との関わりは全くない。
 けれど、彼女には私を階段から突き落とし、最悪死んでしまってもいいと思うようなことがあったのだろう。
 彼女が私を突き落したことと何か関わりがありそうな出来事はないかと考えて、1つだけ思いつくことがあった。

「ねえ、あの子に婚約者がいたりしない?」
「いや、分からねえな」
「アメリアと婚約した者の中には彼女と婚約している人はいませんね」
「お前、よく知ってるな。他にも知られてそうで怖い」
「何か疾しいことでもあるんですか?」
「あるわけないだろ!」

 ハロルドもわざと聞いているのだろう。口元には楽しそうに笑みを浮かべている。性格からダンは、言い返さずにはいられないのだろう。
 昔からダンとハロルドはこんな感じ。決して仲が悪いわけではないから、私はいつものように2人の会話を気にすることはない。

「そうだ。ハロルド、受け止めてくれてありがとう。偶然通りかかったの?」
「教室に戻る途中だっただけですよ」
「アメリアは何で3階にいたんだ?」
「前の授業で使った教材を片づけに行ってたの」

 前の授業で使った教材を担当教師が持ちきれなかったため、手伝いそのまま片づけも手伝っていただけ。そのため3階にいたのだけれど、さっきの獣人令嬢はどうして3階にいたのだろう。
 あの子の教室も私と同じ2階にある。
 もしかして、私を階段から落とすためだけに3階に来たのだろうか。そうだとしたら、会った時にお疲れ様とでも言った方がいいのかもしれない。
 いや、それはおかしい。笑顔を浮かべるだけにしておこう。それがいい。

 しかし、それが悪かったのかもしれない。
 あのブチハイエナの令嬢とは、次の授業が終わった休み時間に廊下で会った。だから私は笑顔を浮かべた。私にとってはあいさつ程度のつもりだったのだけれど、彼女はそう思わなかったらしい。
 苦虫を噛み潰したような顔をしたのだ。まさかそんな顔をされるとは思ってもいなかったから驚いた。私から顔をそむけると、足音がするのではないかと思うほど勢いよく走り去っていった。
 とても嫌な予感がした。

 その予感は的中してしまった。ブチハイエナ令嬢からよく嫌がらせを受けるようになってしまった。それは、とても小さな嫌がらせ。
 朝学園に登校したら、私の机に落書きがされていたり、上履きが隠されていたりと些細なこと。それらすべてが彼女がやったことだとは言えなかったけれど、そんな嫌がらせが続いた。可愛い嫌がらせとしか思わなかった。

 しかし、ある日。
 帰宅するために1人で階段を下りていた。また階段から落とされることもあるかもしれないと、あの日から背後の気配を探るようにはなっていたけれど上を気にすることはなかった。
 まさか水が落ちてくるとは思っていなかったから。

「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまったわ。ふふふ」
「あらあら。キャシー様、手が滑ってしまわれたのなら仕方がないですわ」
「そうですわよね。あら、また手が滑ってしまったわ」

 その言葉と同時に頭部に何かがぶつかった。それは、一度私の頭に落ちてから床に落ちて大きな音を立てた。
 どうやら掃除に使ったバケツだったようで、落ちたバケツから僅かに汚れた水が零れていた。
 もう溜息しかでてこなかった。いつかは水をかけられるかもしれないとは思っていたけれど、掃除後の汚水をかけられるとは思ってもいなかった。
 階段の上から聞こえる笑い声に、思わず手が滑ったなんて嘘でしょうと言いたくなった。狙わないと水をかけることも、バケツをぶつけることもできない。それを考えるとキャシーという令嬢は命中率がいいのだろう。それには感心してしまうほどだけれど、今命中率を見せつけなくてもいいのではないのだろうか。
 何も言わない私に、近くを通りかかる生徒は関わりたくないのか早足に立ち去って行く。虐めに関わりたいと思う人がいるはずはない。
 そう思っていたのに。

「大丈夫か?」

 まさか声をかけられるとは思ってもいなくて、驚いて顔を上げた。そこにいたのはローレンだった。心配そうに私の顔を覗き込み、その耳は下がっている。

「大丈夫よ。少し、驚いただけ」
「驚いたって……」

 私を頭の天辺からつま先まで見て、階段の上を見上げた。しかし、そこには誰もいなかったようでローレンは溜息を吐いた。

「雑巾、持ってきた」
「ここは俺達が片づけとくから」

 廊下から現れたのは綺麗な雑巾を手に持ったウェルドとケビンだった。どうやらローレンと一緒にいたようで、ローレンが私に声をかける前に雑巾を取りに向かったようだ。
 水飲み場に雑巾は置かれているので、それを持ってきたのだろう。

「でも、私が」
「ずぶ濡れの貴様が片づけても意味がない。いいから、アメリアは着替えるんだ」
「そのままじゃ風邪引いちゃうからな」
「ここ、まかせて」

 それぞれ私に声をかけてくれるので、私は頷いた。ローレンが私の手を引いてくれて、近くにあった空き教室に誰もいないことを確認すると私の手を離すことなく教室へと入った。
 手を離すとすぐにカーテンを閉めて、手に持っていたバッグを私の前にあった机の上に置いた。

「今日、俺様のクラスは体育があったから授業で使ったけど……、濡れたまま帰るよりましだろう。使え。タオルも入ってる」
「でも」
「いいから。俺様は教室の外にいる。着替え終わったら教えろ」
「わかった」

 静かに教室を出て扉を閉めたローレンはどうやら扉に寄りかかっているようで、扉についている窓から彼の角が見えていた。
 私はカバンを後ろの机に置いて、バッグから上下のジャージとタオルを取り出した。タオルで濡れた頭を拭いてカバンも拭いてから、カーテンがしっかりと仕舞っていることを確認して制服を脱いだ。
 思っていたより濡れてはいなかったけれど、一応体全体を拭いて行く。拭き終わったら机にタオルを置いてジャージを履いた。ローレンは足が長いため、私にとって長かったため1つだけ折った。上着のジャージを着て、ファスナーを上げると着替えたことをローレンに伝えた。
 声を聞いてローレンがすぐに教室の扉を開いて入って来た。私は自分の制服を畳んでいた。この制服をどうやって持って帰ろうかと考えていた。両手に抱えて持って行くしか方法はないかと思った時、突然ローレンがバッグの中からシャツを取り出した。

「どうしたの? 着るの? もしかして、さっきの水かかった?」
「違う! どうしてお前は中に何も着てないんだ! 着ろ!」

 そう言って私にシャツを押しつけてくるから、私は頷いてそれを受け取った。着ないと怒られるだろうと思ったのと、ローレンの顔が僅かに赤くなっているのを見てそれ以上何も言えなかったのだ。
 教室から出て扉を閉めたローレンを見て、素直にシャツを着ることにした。上着を脱いでシャツを着るだけだったからまたすぐにローレンに声をかけた。
 教室に入って来たローレンは何も言わず私の近くにあった椅子に座った。

「制服はバッグに入れて持って帰れ」
「でも、汚れるわよ?」
「構わない」
「ありがとう。ローレンは優しいね」
「ふん。優しくなんかない」

 そう言って顔をそむけたローレンは、目だけを私に向けていた。何か言いたいことがあるのだろうと思って、私は制服をバッグに入れると椅子に座りローレンを見た。そうすれば話すだろうと思ったから。

「いつもいじめられてるのか?」

 思った通り話しはじめた。

「いつもじゃないわ。たまにかしら?」
「いつから」
「たしか、婚約者ができて間もなくかしら? いつもは別の子だったんだけど、今日の子達は初めてね」
「やり返さないのか」
「意味がないでしょう? それは、ローレンが一番わかっているんじゃなくて?」
「まあな。……何かあったら言えよ」
「ありがとう」

 まだ何かを言いたそうにしながらもローレンは静かに椅子から立ち上がった。私も椅子から立ち上がり、カバンを背負いバッグを手に持った。
 教室から出ると、そこには壁に入りかかっているウェルドとケビンがいた。どうやら片付けが終わって、中に入らずに待っていたようだ。
 もしかすると話を聞いていたかもしれないけれど、2人は何も言わなかった。

「頭、大丈夫?」
「そうだ! バケツぶつけられたんだろ?」
「大丈夫よ。たんこぶもできてないもの」

 バッグを持っていない手で触って確認してみるけれど、たんこぶもなければ痛みもなかった。
 大丈夫痛かったのはあの一瞬だけ。虐められて心がいたかったなんてのはきっと、気のせい。

「俺様だったら、この自慢の角が折れてたかもしれないな」
「俺達がバケツぶつけられても、ローレンがぶつけられることは絶対にないだろ」
「たしかに」
「なんでだよ」

 冗談半分で話す3人に私は小さく笑った。
 そのあと私は途中まで3人と一緒に帰宅した。余程心配だったのか、私を家まで送ると言ってくれたけれど、学園の外に出てしまえば他の大人の目もあるからなのか一度も何かをされたことはなかった。
 だから大丈夫と言って、3人とは別れた。勿論、何もされることはなく無事に帰宅した。
 両親やメイドや執事には、私を見て驚かれたけれど転んでバケツの水をひっくり返してしまったと嘘を吐いた。
 誰にもいじめられていることは知られたくなかったから。
 着替えをすませると、ローレンに借りたシャツとジャージ、それにタオルをメイドがすぐに受け取り洗濯をはじめた。
 私はメイドにお礼を言って部屋に戻るとベッドにダイブした。
 泣きたくなったけど、泣かなかった。ここで泣いてしまったら負けだと思ったから。

 翌日、隣の教室へ向かいローレンに私が夜に作ったクッキーと一緒に洗濯をしたジャージとシャツ、タオルを入れたバッグを返した。
 ローレンは顔に似合わず、甘いクッキーが好きだ。だから、いつもより甘めに作ったローレンのためのクッキー。
 甘いクッキーだと伝えると、とても嬉しそうな顔をした。ローレンは思っていることが顔に出るのでとてもわかりやすい。
 同じクラスのウェルドとケビンにもお礼にクッキーを渡した。ウェルドは苦いものが好きなため、ビタークッキー。ケビンはお菓子なら何でも好きだから、ローレンに渡したクッキーとウェルドに渡したクッキーの2種類。
 2人も嬉しそうにしてくれたから、私も嬉しくなった。だから、またいじめられても大丈夫と自分に言い聞かせた。

 毎日のように些細ないじめがあり、私がいじめだと気づかないものもあった。そして、何故か私をいじめる人が増えていく。
 それだけがどうしてかわからなかった。自分で気がつかない内にいじめたくなるほどの、嫌なことをしていたのかもしれないと考えたけれど関わったことのない人からもいじめを受けるのだ。おかしいとしか思わなかった。
 もしかすると日ごろのストレスを、いじめられている私を見て同じようにいじめて発散しようと思ったのかもしれない。

「少しはこっちの気持ちも考えてほしいな」

 廊下で歩いていて突然足を引っかけられて転ぶなんて思わなかった。軽く膝をすりむいてしまい、痛む足を手当てするためにあの日使った教室に逃げ込んだ。
 泣きたくなったけれど、我慢して呟いた声は震えていた。この教室には誰もいない。だから誰にも聞かれていない。そのことに安心して私は右手をすりむいた膝に翳して、目を閉じた小さく呟いた。

「治癒力を高めよ」

 そうすると、膝が小さく白く光りすぐに光が収まった。すると、すりむいた膝は綺麗に治っており痛みもなくなっていた。
 これは、私が生まれた時から持っている『回復魔法』。魔法は、この世界に住む全ての種族の中でも一握りだけが持っていると言われている。
 私の身近で、魔法を使える人がいるのかは知らない。聞いたこともなければ、私も誰かに話したこともなかった。きっと両親だって知らないだろう。
 教室から出て、なるべく他の生徒に会わないように職員室の前を通って教室に戻ろうと思った。いつもは用事がなければ職員室には近づかない。だから今まで気がつかなかった。その学園の存在に。
 職員室の前にある掲示板に貼り出された学園案内の紙。足を止めてその紙をじっと見て内容を確認した。

 入学試験に合格すれば、15歳から入学することができるガラウェルド学園。エルセント学園からは少し遠いいけれど、自宅から通える距離にある魔法学に力を入れている学園。
 入学試験で合格ラインに達していたとしても、魔法を使えない者は入学することができない。ここなら、私は入学することができる。ただ、試験に合格すればの話。
 この学園にどれだけ魔法が使える人がいるのかは知らない。けれど、私が魔法を使えることを知っている人はいない。だから、誰もここに入学しようと考えているとは思わないはずだ。
 そう思うと、行動は早かった。すぐに職員室の扉を叩いて入室すると担任教師の元まで向かった。ガラウェルド学園に入学したいこと、『回復魔法』が使えることを伝えると隣にある別室へと通された。
 担任教師と1対1で話をし、『回復魔法』が使えることを証明した。偶然指を切って怪我をしていた担任教師の怪我を治したのだ。
 それにより魔法が使えることを納得してもらい、私は両親も魔法が使えることを知らないことと、誰にもガラウェルド学園を受けることを伝えないでほしいと伝えた。担任教師は何も言わずに頷き、私にガラウェルド学園の資料を見せてくれた。
 今のところ希望者はいないというガラウェルド学園は私にとっては、最高の逃げ場所だった。魔法を学べる場所があることも初めて知った。
 いつか自分の魔法を役立てたいと考えていたから、ガラウェルド学園には本当に行きたいと思った。私の成績だとガラウェルド学園に入学することは可能だと伝えられたけど、その日から毎日帰宅するといつも以上に勉強をした。
 もしも合格できなかったら嫌だったから。
 私はこの日、誰にも伝えることはなくガラウェルド学園にいじめから逃げることを決めた。



―――――
担任教師……担任でいいのでしょうけど、あえてそのように表示しております。名前はない。
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