もう海へは行かない

これっとここれっと

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15.嵐のまえ

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◇ ◇ ◇


9月に入ったばかりだった。大き目の台風が迫って来ているらしい。暴風雨で私鉄路線のダイヤが、すでにいくつか見送りになっていた。

 俺は電車で自宅最寄駅まで辿り着くのを早々に諦め、徒歩で帰宅することを選んだ。生温い風が縦横無尽に吹き荒れていた。傘をどう差そうと、濡れない方法が見つからなかった。俺は雨風を凌ぐのを諦めた。コンビニでゴミ袋を買い、カバンの中のタブレットPCとテキストを包み、簡単に防水対策をすると、そのまま自宅を目指した。雨に濡れるのは嫌いじゃない。風の抵抗がない分、まだこの方が歩き易い。

 三駅分の距離は実際歩いてみると、思いのほか長かった。無理にでもすし詰めの鈍行列車に乗った方が恐らく早く帰れただろう。そうは思っても今更だ。なんとかアパートに戻った時には20時をまわっていた。

 濡れて重くなったブルゾンを脱ぎながらエントランスを通り抜け、部屋への廊下に出ると、人影が見えた。俺の部屋の前辺りに、ドアを背にして誰かが座り込んでいる。見覚えのある姿だった。認識した瞬間に足が止まった。心臓の鼓動が一気に跳ね上がり、俺は顔を拭った。

 水音だった。
妄想なのか幻覚なのかはわからない。
    
 は俺に気付くと、遠目にもわかるほどの満面の笑顔をこちらに向けた。驚くほどの速さで、ぱっと立ち上がると、あの、少し男にしては甲高い懐かしい声で俺の名を呼んだ。

 「マサキ!」

 足が震えていた。踏み出す一歩が重かった。それでも俺はのろのろと彼に歩み寄った。近付いた先に見えた彼の頬は、涙で濡れていた。俺は、腹から込み上げてくるものを押し殺しながら、なんとか平静を繕った。

 「どこ行ってたんだよ?急にいなくなるからびっくりしただろ。心配したんだぞ。探したんだからな」

 言いながらも、かすかに足が震えていた。

 水音は気まずそうに濡れた頬を手で拭いながら、例の上目遣いで俺を見た。色の濃い黒い瞳が、忙しなく瞬いていた。水音の横をすり抜け、部屋の鍵を探し、ドアを開ける。ドアが止まるところまで、大きく開け放ち、俺は水音を振り返った。

 「入る前になんか言うことない?」

 「え?!」

 水音は驚いたように一瞬動きを止め、体を縮めて言った。

 「…急にいなくなって、ごめんなさい…?」

 「ちがう」

 「…えっと…昌樹、怒ってる?」

 「怒ってない」

 「…えっと、あの…」

 水音が俺を見上げ、困惑気に唇を尖らせ口篭る。もどかしくて、つい先に手を出してしまった。力いっぱい水音の体を抱きしめる。

 「あいたかった!」

 俺の腕の中で、水音は身動ぎし、俺の背に腕を回すと、強く力を込めながら言った。

 「僕も!僕もあいたかった!あいたかったよ!ずっと昌樹のこと考えてた!ずっとここに戻ってくることだけ考えてた!」

 水音の額にキスした。瞼にも、涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬にも、まだ何か言おうとしていた唇にも。そしてもう一度、強く抱きしめる。水音だ。俺の腕の中に彼がいる。嘘みたいだけど、ここにちゃんといる。水音の髪に顔を埋め、水音の匂いを嗅ぐ。ちょっと埃っぽい雨の匂いに混じって、夏の終わりに似た水音の匂いがした。

 俺達は抱き合ったまま部屋に雪崩れ込んだ。足が縺れて、そのままキッチンの床に地味にダイブしてしまった。背骨をぶつけたのと、タブレットを下敷きにした以外は、巧く転んだ方だと思う。呻きを堪えながら、水音の体の重みを確かめた。

 「昌樹!大丈夫?!」

 「うん…水音は?どこもぶつけてない?」

 「うん、昌樹がクッションに…」

 そう言いながら慌てて立ち上がろうとした水音を、手を伸ばして引き寄せた。

 「待って。まだ余韻に浸ってたいから」

 もう一度抱きしめる。懐かしい、恋しい、水音の感触。柔らかい髪や肌。体温。そうして俺達はしばらくの間、キッチンの床に寝転がって抱き合った。水音が俺の腕の中で体を縮めながら、顔をこちらにねじ向けた。

 「昌樹、ずっと黙っててゴメン。全部話すよ。全部…」

 「うん。…今すぐじゃなきゃダメ?」

 「えっ?!」

 水音が体を起そうとする。

 「話さなくていいの?!」

 大きく見開いた目、目玉が転がり落ちそうだ。きっと泣き過ぎのせいだ。真っ赤でちょっと腫れぼったくなった頬。でも、この部屋で一緒に過ごしていた時と変わらない水音の姿だった。彼の姿も仕草も全てが愛しく見えた。柔らかい髪を撫でる。細くて癖のない真っ直ぐなしっとりとした綺麗な黒髪。いつまででも撫でていられそう。

 「ちがう。話してもらうけど。この流れからすると、ここは一先ず仲直りセックスかな?って…」

 「…」

 「ダメ?」

 「昌樹、許してくれくれるの?」

 「許すとか、許さないとか、そういう問題じゃない」

 「…うん」

 「…よかった、もう逢えないかと思ってた。ありがと、戻ってきてくれて。ずっと、もう一度逢えたら言おうと思ってたんだ…水音のことが好きだって。愛してる。だからどこにも行かないでって。ずっと傍に居て…」

 水音の大きな目からまた大粒の涙がポロポロ溢れ出した。ちょっと泣き過ぎなんじゃないか?あんまりにも止め処なくて、見てる方が不安になる。

 「ありがとう。…昌樹、待っててくれたんだ」

 「うん。それと、あと、お姫様抱っこも絶対やっとこうって」

 「!ぇ…えっと、その前に、シャワー使っていい?」

 「うん、溶けたりしないなら…でも、もうちょっと待って。まだ、もうちょっとだけこのまま」

 ふと水音の背後に目をやると、玄関のドアが開きっぱなしだった。まあ、いいか。水音を抱きしめたまま、俺は目を閉じた。いいよ。そんなのどうでもいい。今、目の前に水音が居さえすれば、それ以外のことは後でいい。

 「なんか変。ちょっとだけだけど…いつもの昌樹じゃないみたい」

 「水音だって泣き過ぎ。いつもみたいに笑って」

 「…昌樹、もしかして僕の本読んだ?」

 「うん、水音のこと、知りたかったからね。全部調査済み」

 「あれ読んだの?…少女趣味って思ったでしょ?」

 「思ってないよ。…… やっぱりちょっと思った。だけど水音らしいって、思った」

 「…なんか、恥ずかしい」

 腫れぼったくなった頬を擦りながら、水音が笑った。水音の手が俺の頬を包み、唇を重ねてきた。

 「昌樹、大好き。遇った時からずっと。僕の王子様…」
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■ こんなものも書いています!! ■

    

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