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14.夢のあとさき
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◇ ◇ ◇
軌道修正しよう。
俺はいつまでも"水音"のことを引き摺っているわけにはいかない。卒論に試験、全てが今に賭かっている。いままでやってきたことを考えると、何れも落とすわけにはいかなかった。正直なところ、頭がオカシクなる程に勉強した覚えもなければ、プレッシャーを感じていたかも怪しい。だが、それでも俺は、自力で自分を立て直さなければならないと考えた。
それには一連の"水音"の出来事を、一刻も早く頭から追い出すことが必要だった。追い出すと言ったって、俺はそうと決めてすぐさま無条件にそれを実践できてしまうような人間じゃない。それには俺なりの"落とし所"が必要だった。
"水音"は、今現在、俺の前には居ない。
それが純然たる事実だった。俺が認識していないということは、今の時点で彼は存在しない人間なのだ。
そして、俺は少し前まで"水音"を存在していたものだと考えていた。
根拠はこの部屋に残る彼の痕跡だ。今思えば、写真の一枚でも撮っておけばと後悔したが、そんなものがあったらあったで、余計に収集がつかなくなりそうだとも思った。今時、その気になれば、偽の写真だって画像だって簡単に用意できる。
俺は多分、一時的におかしくなっていたのだろう。
そして恐らく、そのついでに"水音"という架空の人物を作り上げ、彼の存在を裏付ける痕跡を、あたかもその人物の持ち物であるかのように自分で用意し、彼が実在していたかのように装った。
なんのためにそんなことをと自分でも不思議だが、おかしくなっていた時の事だからわからない。そしてそれ故に、それ等を記憶していなかった、ということも考えられる。
なんだか、小説や映画のオチで使い古された、つまらない顛末だが、それが現実的に見て一番妥当な落とし所だと思えた。
『"水音"は俺が作り出した妄想だった』
そう考えると、これまでの全ての出来事に合点がいく。第一、男と別れた孤独なゲイの所に、ある日突然、肉食系の可愛いゲイの居候(元彼にも似たタイプ)がやってくるなんて、どんだけ都合のいい妄想だよ?想像のレベルが"盛りのついた中学生"並だ。我ながら恥ずかしい。
それに考えてみろ。あの猛獣クリームが俺以外の人間に牙を向かないワケがない。クリームをペットホテルに連れて行ってくれた親父の奥さんだって、ホテルの人だって、奴の凶暴さには辟易していた。ましてや元彼なんて、仔猫の時から顔を合わせていたのに、懐かないばかりか積極的に攻撃さえした。最終的にはそれで彼の足が遠のいたくらいだ。
だけど"水音"とは、最初から俺と同じか、それ以上に上手くやっていた。単に相性がいいんだと思っていたが、俺に都合よく作られた妄想なら上手くいって当然だ。あの時点で気付いておくべきだったんだよな。
大体、水溶性の人間なんていうものの一体どこに信憑性があるんだ。そんな人間が存在していたら、銭湯もプールも海水浴場も大惨事だ。
そう考え始めると、急に気持ちが軽くなった。
きっと"あの海の日のこと"には理由がある。いつまでもそんな妄想にうつつを抜かしている場合じゃないと、きっと自分自身でもオカシクなった頭のどこかでわかっていたのだろう。
あれは切欠に過ぎなかった。
『"水音"が海に溶けた』というのは、現実離れした都合のいい妄想を終わらせるための単なる象徴的な終止符の打ち方だったのだ。
きっと2人でバーベキューをしたなら、"水音"は着火剤の様に瞬く間に燃え上がって備長炭みたいになってただろうし、映画にいけばポップコーンのように弾けて映画館の床に散らばってた筈。
美術館に行ったなら、きっと"水音"は画額か彫刻に吸い込まれて、気付くと彼は、いずれかの作品の"中の人"だったってオチだ。そう。それなら、美術館に行けばよかった。少なくとも、溶けてしまうのはあまりにもビジュアル的にキツかった。そうすれば、俺も熱中症になることもなかったし、クリームだって長い外泊で更に性格が荒れることもなかった。
『 …それに、出来れば綺麗な"水音"のままの姿を心に留めておきたかったから』
"水音の持ち物"を片付け始めた。アイツの持ち物と思われるものを、ダンボールに纏める。もろもろのやるべきことが落ち着いたら、いずれ処分しよう。
元々俺のものだけど、シェアしてた服とかどうしよう?…捨てた方が賢いだろうな。
スノードーム、小さな街に降る雪。こんなものを俺は一体どこから入手したんだろう?自分で買ったっていうんなら気持ち悪い。その時どんな顔してたかなんて、もう考えたくない。なんとなく持ち上げて、かざしてみた。アイツは、よくこうやって窓辺に座って光に透かして眺めてたよな。あの、考え事をしているような放心しているような横顔を思い出した。ガキっぽいな、と思ってた。でもそんな仕草が気に入ってた。ちょっと綺麗だって思ってたんだ。
駄目だ。
また妄想に入ってる。ありもしない思い出ごとダンボールに放り込んだ。
ふと、ベッドの脇にある本棚に目を移して、アイツの持ち込んだ本を仕舞い忘れてたことに気付いた。奴の持ち込んだとされるそれらと、自分のものとを選別するのは簡単だった。
そもそもタイトルからして、俺なら絶対に手にすることのない、センスを疑わざるを得ない少女趣味なタイトル。忍耐の限界を試されているとしか思えない、子供っぽく甘ったるい、都合のいい御伽噺みたいなラブストーリーだった。
俺はそれらをパラパラと捲り読みしながら、これを男が読むのもどうかと思うが、書いた人間もいるのだな、などと当然の事を呆れ混じりに思ったりした。まったく呆れる。俺の妄想とそう変わらないじゃないか。それらに混じって、古い文庫本が出てきた。
『アンデルセン童話集1』
表紙のカバーすらなく、反り返り変色して折れ曲がっている。背中が傷んでいて、今にもバラバラになりそうだ。それをテープで丁寧に補強してある。擦り切れて、ボロボロだけど持ち主に大切にされていたのがわかる。なんだろう。この擦ったような茶色っぽいシミ?汚れは。血ってことはないだろうか?こんなもの、どこから持ってきたんだろう?"水音"のものなのか?
試しにパラパラと捲ってみる。『裸の王様』や『幸福の長靴』『人魚姫』。子供の頃に何度か見たっきりの、誰でも知ってる物語。俺も母に読んでもらった記憶がある。懐かしさから俺は拾い読みしはじめた。
大体の内容は知っているけれど、こうやって年取ってから読み返してみると、意外と新鮮だった。余計な装飾や技巧に頼らない、衒いのないシンプルな文体。言葉の美しさに驚いた。世界で起こる様々な事象に向けられた鮮やかな視点。子供向けの翻訳のためだろうけれど、やさしい語り口。
『人魚姫』なんか、以前の俺ならリアリティ無視、荒唐無稽、所詮は子供向けのファンタジーだと思っただろうが、王子の愛を得られずに海の泡になって消えてしまう、なんて結末も、水音のことが頭にあると、ああ、そういうこともあるのかな、と思えてくる。
水音は、ここにある本の中のような甘い恋愛を夢見ていたのだろうか。アイツは何も言わなかったけれど、この部屋で、俺の傍らで、そんな甲斐のない夢を描いていたのだろうかと思うと、居たたまれない気分になった。
もっと優しくしてやればよかった。もっと気の利いた言葉があったのかもしれない。それが出来なかったとしても、俺が気まぐれに恋愛の真似事なんかしようとしなければ、アイツはまだここに居たかもしれないのに。あの時、なぜ俺は『デート』なんて言ってしまったんだろう。それも半分は冗談のつもりだったんだ。それで水音は、無理にでも俺に合わせようとしてしまったんだ。俺はこれっぽっちもアイツを気に掛けてこなかったのに。
気付くと手元の本を濡らしてしまっていた。慌てて手で拭う。本を本棚に戻し、ダンボールの中身を元あった場所に戻した。ソファに横になり、天井を見渡した。
こうして水音もこの部屋の天井を眺めていたんだろう。どんな気持ちで過ごしていたんだろう。彼がこの部屋に居た時、俺は多分、幸福だったんだ。あの時は、これっぽっちもそんな風には思わなかったけれど、俺は水音にずっと助けられていた。
俺は水音を忘れない。幻覚でも、妄想でも構わない。水音と過ごした数ヶ月間、俺は満たされていたんだ。実在するかどうかわからない彼の帰りを待ち続けたり、恋しがったりすることくらい、どうってことない。そんな気がした。
彼はそれ以上のものを、俺に与えていてくれていたのだから。
軌道修正しよう。
俺はいつまでも"水音"のことを引き摺っているわけにはいかない。卒論に試験、全てが今に賭かっている。いままでやってきたことを考えると、何れも落とすわけにはいかなかった。正直なところ、頭がオカシクなる程に勉強した覚えもなければ、プレッシャーを感じていたかも怪しい。だが、それでも俺は、自力で自分を立て直さなければならないと考えた。
それには一連の"水音"の出来事を、一刻も早く頭から追い出すことが必要だった。追い出すと言ったって、俺はそうと決めてすぐさま無条件にそれを実践できてしまうような人間じゃない。それには俺なりの"落とし所"が必要だった。
"水音"は、今現在、俺の前には居ない。
それが純然たる事実だった。俺が認識していないということは、今の時点で彼は存在しない人間なのだ。
そして、俺は少し前まで"水音"を存在していたものだと考えていた。
根拠はこの部屋に残る彼の痕跡だ。今思えば、写真の一枚でも撮っておけばと後悔したが、そんなものがあったらあったで、余計に収集がつかなくなりそうだとも思った。今時、その気になれば、偽の写真だって画像だって簡単に用意できる。
俺は多分、一時的におかしくなっていたのだろう。
そして恐らく、そのついでに"水音"という架空の人物を作り上げ、彼の存在を裏付ける痕跡を、あたかもその人物の持ち物であるかのように自分で用意し、彼が実在していたかのように装った。
なんのためにそんなことをと自分でも不思議だが、おかしくなっていた時の事だからわからない。そしてそれ故に、それ等を記憶していなかった、ということも考えられる。
なんだか、小説や映画のオチで使い古された、つまらない顛末だが、それが現実的に見て一番妥当な落とし所だと思えた。
『"水音"は俺が作り出した妄想だった』
そう考えると、これまでの全ての出来事に合点がいく。第一、男と別れた孤独なゲイの所に、ある日突然、肉食系の可愛いゲイの居候(元彼にも似たタイプ)がやってくるなんて、どんだけ都合のいい妄想だよ?想像のレベルが"盛りのついた中学生"並だ。我ながら恥ずかしい。
それに考えてみろ。あの猛獣クリームが俺以外の人間に牙を向かないワケがない。クリームをペットホテルに連れて行ってくれた親父の奥さんだって、ホテルの人だって、奴の凶暴さには辟易していた。ましてや元彼なんて、仔猫の時から顔を合わせていたのに、懐かないばかりか積極的に攻撃さえした。最終的にはそれで彼の足が遠のいたくらいだ。
だけど"水音"とは、最初から俺と同じか、それ以上に上手くやっていた。単に相性がいいんだと思っていたが、俺に都合よく作られた妄想なら上手くいって当然だ。あの時点で気付いておくべきだったんだよな。
大体、水溶性の人間なんていうものの一体どこに信憑性があるんだ。そんな人間が存在していたら、銭湯もプールも海水浴場も大惨事だ。
そう考え始めると、急に気持ちが軽くなった。
きっと"あの海の日のこと"には理由がある。いつまでもそんな妄想にうつつを抜かしている場合じゃないと、きっと自分自身でもオカシクなった頭のどこかでわかっていたのだろう。
あれは切欠に過ぎなかった。
『"水音"が海に溶けた』というのは、現実離れした都合のいい妄想を終わらせるための単なる象徴的な終止符の打ち方だったのだ。
きっと2人でバーベキューをしたなら、"水音"は着火剤の様に瞬く間に燃え上がって備長炭みたいになってただろうし、映画にいけばポップコーンのように弾けて映画館の床に散らばってた筈。
美術館に行ったなら、きっと"水音"は画額か彫刻に吸い込まれて、気付くと彼は、いずれかの作品の"中の人"だったってオチだ。そう。それなら、美術館に行けばよかった。少なくとも、溶けてしまうのはあまりにもビジュアル的にキツかった。そうすれば、俺も熱中症になることもなかったし、クリームだって長い外泊で更に性格が荒れることもなかった。
『 …それに、出来れば綺麗な"水音"のままの姿を心に留めておきたかったから』
"水音の持ち物"を片付け始めた。アイツの持ち物と思われるものを、ダンボールに纏める。もろもろのやるべきことが落ち着いたら、いずれ処分しよう。
元々俺のものだけど、シェアしてた服とかどうしよう?…捨てた方が賢いだろうな。
スノードーム、小さな街に降る雪。こんなものを俺は一体どこから入手したんだろう?自分で買ったっていうんなら気持ち悪い。その時どんな顔してたかなんて、もう考えたくない。なんとなく持ち上げて、かざしてみた。アイツは、よくこうやって窓辺に座って光に透かして眺めてたよな。あの、考え事をしているような放心しているような横顔を思い出した。ガキっぽいな、と思ってた。でもそんな仕草が気に入ってた。ちょっと綺麗だって思ってたんだ。
駄目だ。
また妄想に入ってる。ありもしない思い出ごとダンボールに放り込んだ。
ふと、ベッドの脇にある本棚に目を移して、アイツの持ち込んだ本を仕舞い忘れてたことに気付いた。奴の持ち込んだとされるそれらと、自分のものとを選別するのは簡単だった。
そもそもタイトルからして、俺なら絶対に手にすることのない、センスを疑わざるを得ない少女趣味なタイトル。忍耐の限界を試されているとしか思えない、子供っぽく甘ったるい、都合のいい御伽噺みたいなラブストーリーだった。
俺はそれらをパラパラと捲り読みしながら、これを男が読むのもどうかと思うが、書いた人間もいるのだな、などと当然の事を呆れ混じりに思ったりした。まったく呆れる。俺の妄想とそう変わらないじゃないか。それらに混じって、古い文庫本が出てきた。
『アンデルセン童話集1』
表紙のカバーすらなく、反り返り変色して折れ曲がっている。背中が傷んでいて、今にもバラバラになりそうだ。それをテープで丁寧に補強してある。擦り切れて、ボロボロだけど持ち主に大切にされていたのがわかる。なんだろう。この擦ったような茶色っぽいシミ?汚れは。血ってことはないだろうか?こんなもの、どこから持ってきたんだろう?"水音"のものなのか?
試しにパラパラと捲ってみる。『裸の王様』や『幸福の長靴』『人魚姫』。子供の頃に何度か見たっきりの、誰でも知ってる物語。俺も母に読んでもらった記憶がある。懐かしさから俺は拾い読みしはじめた。
大体の内容は知っているけれど、こうやって年取ってから読み返してみると、意外と新鮮だった。余計な装飾や技巧に頼らない、衒いのないシンプルな文体。言葉の美しさに驚いた。世界で起こる様々な事象に向けられた鮮やかな視点。子供向けの翻訳のためだろうけれど、やさしい語り口。
『人魚姫』なんか、以前の俺ならリアリティ無視、荒唐無稽、所詮は子供向けのファンタジーだと思っただろうが、王子の愛を得られずに海の泡になって消えてしまう、なんて結末も、水音のことが頭にあると、ああ、そういうこともあるのかな、と思えてくる。
水音は、ここにある本の中のような甘い恋愛を夢見ていたのだろうか。アイツは何も言わなかったけれど、この部屋で、俺の傍らで、そんな甲斐のない夢を描いていたのだろうかと思うと、居たたまれない気分になった。
もっと優しくしてやればよかった。もっと気の利いた言葉があったのかもしれない。それが出来なかったとしても、俺が気まぐれに恋愛の真似事なんかしようとしなければ、アイツはまだここに居たかもしれないのに。あの時、なぜ俺は『デート』なんて言ってしまったんだろう。それも半分は冗談のつもりだったんだ。それで水音は、無理にでも俺に合わせようとしてしまったんだ。俺はこれっぽっちもアイツを気に掛けてこなかったのに。
気付くと手元の本を濡らしてしまっていた。慌てて手で拭う。本を本棚に戻し、ダンボールの中身を元あった場所に戻した。ソファに横になり、天井を見渡した。
こうして水音もこの部屋の天井を眺めていたんだろう。どんな気持ちで過ごしていたんだろう。彼がこの部屋に居た時、俺は多分、幸福だったんだ。あの時は、これっぽっちもそんな風には思わなかったけれど、俺は水音にずっと助けられていた。
俺は水音を忘れない。幻覚でも、妄想でも構わない。水音と過ごした数ヶ月間、俺は満たされていたんだ。実在するかどうかわからない彼の帰りを待ち続けたり、恋しがったりすることくらい、どうってことない。そんな気がした。
彼はそれ以上のものを、俺に与えていてくれていたのだから。
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