もう海へは行かない

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2.昌樹《まさき》

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 どうせならもっと、こっ酷く振って欲しかった。

 今日、俺はフられた。否、曲がりなりにも付きあっていたんだから"別れた"か。それよりも"愛想をつかされた"という方が正確だろうか。大学も同じ、地元の高校からの付き合いだから、かれこれ3年。初めての恋人と言える相手だった。他に付き合った相手なんていない。少なくとも俺は。

 『他に好きな人が出来た』と言われた。

 あんなにすまなさそうに謝られたら、俺は一体どんな顔をすれば良かったんだ?
かえって惨めじゃないか。

 まあ、潮時だったんだろう。同じ大学じゃなかったら、もっと早く別れていたかもしれない。別にあの関係が、永遠に続くなんて思っていたわけじゃない。だけど、なんとなく、卒業までは一緒なんだろう、くらいには思ってた。彼は男にも女にも人気のある奴だから、望めば誰とだって付き合える。彼が見渡す限りで偶々、男と付き合えるのが俺しかいなかったから、付き合ってたようなもんだし。付き合いだした頃は、俺達はお互いにいろいろ持て余してた。そういうあれこれを、全部ひっくるめて一緒だったんだ。学校の時間も、部活の時も、受験の時も、俺の親が離婚した時も、ずっと彼が傍にいた。だからなんとなく、俺は彼を自分の人生の一部みたいに感じていたんだと思う。

 彼は目に涙を一杯溜めて、何度も言った。

 『ごめん。本当にごめん』

 別れ際なんて、寧ろ彼の方が名残惜し気にしてたっけ。俺の頭の中にある彼は、まだ顔を歪めて目に涙を溜めている。その顔が、どこか恨みがましく見えた。捨てられたのは俺の方だ。なのになぜ俺が後ろめたさを感じなければならないんだ。

 『好きな人』か。どんな奴だろう?大学の奴かな?明日、ゼミあるし。そいつと鉢合わせなんかしたら嫌だな。ああ、面倒臭い。

 気分はとてつもなく沈んでいた。だが自分の部屋に帰る気にはなれなかった。一人になるのが恐ろしかった。彼のことばかり考えてしまいそうで。

 なんか面白いことないかな。目的なく街をぶらついた。信号が青から赤へと変わるのを漫然と眺め、往来の人が行き交うのを見、雑踏の音を聞きながら、俺は自分を慰めた。

 たかが失恋したくらいでこの落ち込みようはどうだ。馬鹿馬鹿しい。彼等を見てみろ。あのサラリーマン。ストレスマックス、すごい顰めっ面だ。きっと今の俺より、ずっと複雑で困難な問題に直面してるんだろう。なのにあの足取りはどうだ。時速10キロは出てる。それなのに俺ときたら、失恋程度のことで、もう一歩も前に踏み出せずにいる。そう、俺には気力というものがない。昔からそうだ。俺という人間は、いつも惰性でしか動けないんだ。きっと、こんなところが駄目なんだろうな。そりゃあ愛想もつかされるわけだ。

 生ぬるい風が吹いていた。曇天が雨粒になって落ちはじめていた。雨は好きだ。丁度良い。いい感じに悲しい気分に浸れるじゃないか。俺は人気のない公園のベンチに座って、雨が本格的に降り始めるのを待った。

 雨脚はなかなか早まる気配を見せない。パラパラと降ってはあがり、またパラパラと降る。空を仰ぎ見た。戯れに雨粒が視界に入る瞬間を見極めようと、目を凝らした。曇天を背に雨粒は意外な近さで、不意に俺の視界に入ってきては、俺が目に留めるより早く落ち、地面を濡らす。また頭を上げ、空を見る。気の済むまで雨を眺めたあと、俺は立ち上がった。


◇ ◇ ◇


 『ぼく、あの時、あそこにいたんだよ』

 あの日、あの後のことは、はっきりとは覚えていない。別に酔っていたというのでもない。単にこれといって記憶に残るような出来事に遭うこともなく、いつものように家に帰りつき、次の日もまた、いつもと変わることなく何の特徴もないその日を過ごしたのだろう。

 だけどはっきりと言える事は、あの日、あそこには俺一人だった。俺をどこかで誰かが見ていたなんて、俺は全く思い当たらない。だがあの日、こいつは俺を見ていたのだという。あれが最初の出会いだったと、こいつは言った。あの日から全てが始まったんだと聞かされたのは、それから何ヶ月も後のことだった。

 「ひとめ惚れって、本当にあるんだね」

 水音みなとは歌うように言うと、涙を拭って笑ってみせた。
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