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54 「一本もらえるかしら」

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「ヴェルナーは、まだ寝てるの?」

 ヤスミンカは朝から何度も、彼の研究室に足を運んでいたのだが、いっこうに彼を見つけられないでいた。
 
 朝には弱くとも寝坊をしたことはないヴェルナーが遅れるのは、いままでに一度だってなかったことだ。
 全く持って、部屋を別々にするべきではなかったと、ヤスミンカは密かに後悔する。
 けれど、一緒の部屋に住み続けていたら恥ずかしすぎて死んでしまっているので、いまのように所内で顔を合わせるのが落としどころなのだろうという、いつもの結論に落ち着くのが、彼女の近頃の思考パターンだった。

 昨日の成功がよほど 嬉しかったのだろう。
 打ち上げが成功したときの興奮を思い出し、ヤスミンカ自身も笑みが浮かぶのを自覚する。
 それにしても、昨日は、その場の勢いとはいえ、大変な事をしてしまった。
 彼に抱きつき、あろうことか、キスまでしてしまっただなんて。

 キスである。
 乙女の純潔である。
 それを捧げてしまったのだ。
 まあ、初めてではないのだけれど。

 でも、みんなの前でやったのは、はじめてだった気もする。
 なんと取り返しのつかないことをしてしまったのか。
 まあ、見られるくらいどうでもいいわ。
 ヴェルナーが嫌じゃなかったら……。

 ひょっとして、それで怒ってしまって、来るのをやめてしまったのだろうか。
 だとしたら、どんな顔で向かい合えばいいの?
 あ、やだ。嫌われたくない。
 会いたくない。
 合わせる顔がない。

 でも、やっぱり会いたい! 

 思考が暴走しつつあることを自覚したヤスミンカは、無意識のうちにチョークを手にとる。
 考えがまとまらない時は思考を文字に落としこむのが習慣である。
 ヴェルナーが来ても読めないくらいに汚く書き殴れば、恥ずか死ぬことはない。
 起こす午後になっても来なければ、迎えをやればいいだろう。
 そう決断したのが、十時すぎ。

 しかし、正午を告げる鐘がなり、食事の時間になってもヴェルナーは現れなかった。
 仕方なしにひとりで昼食をとり、だんだん怒りが湧いてきたのが十三時ごろ。

 お茶の時間を過ぎた頃には、ヤスミンカは、心のなかにある気恥ずかしさと怒りとの隙間に、一抹の不安が育ち始めているのを自覚した。

 何か火急の用ができたのだろうか。
 体調が優れずに、部屋でひとり苦しんではいやしないか。

 さすがに不安になり、ひとを使って様子をみにいかせ、報告を受けたのが十六時。
 彼の宿舎がもの抜けのからであったという。

 カミナギ大佐が訪ねてきたのは、自室で報告を受けたヤスミンカが、思わず立ち上がったその瞬間であった。

「なんのよう?」

 反射的にするどい視線を向けるヤスミンカを軽くいなしながら、カミナギ大佐は告げた。

「ヴェルナーが更迭されたそうよ」

 ヤスミンカが噛みつかんばかりの勢いでいった。

「あなた、何をしたの?」

 どういうこと、とは聞かない。
 何かなければ、カミナギ大佐が訪ねてこないことくらい、ヤスミンカは承知している。
 そして、重大な局面で冗談をいう人間でない、と信じるくらいには、ヤスミンカは大佐を信頼していた。

「わたしじゃないわ」

「ヴェルナーはいまどこに?」

「ベルリンの、アルプレヒト通り八番地」

 大佐が苦々しげにいった。
 ヤースナの顔色が、目に見えて悪くなった。

「ディエーラ……」

 ディエーラ。
 プロイセン警察施行令状第十四条の適用外とされる組織である。
 憲法により保障されていた人権のほとんどを剥奪した状態での取り調べが可能であり、反乱分子を保護という名目で拘束、強制収容所へ送り込む権限を担っていた。

 俗世からは遠くはなれたペーネミュンデにすら、彼らの噂は届いていた。
 彼らに危険分子とみなされた人物は、夜と霧のなかに消えてしまい、その後の消息の一切は不明となる、と。

「いつからかしら」

「おそらく、昨夜の解散直後から今朝方にかけて」

 ヤスミンカが時刻をみた。十六時をすこしまわったところである。
 十二時間は経過してしまっている。
 悪名高い彼らに拘束され、半日以上たってしまっているのだ。
 自分が浮かれているあいだに、ヴェルナーは消えてしまうかもしれないというのだ。
 彼がどんな目に合わされているか想像するだけで、ヤスミンカはこっけいなほどに震えてた。
 震える手で、受話器に手を伸ばした。
 その手を、カミナギ大佐が押しとどめる。

「待ちなさい、ヤスミンカ大尉。あなたが騒いだところで、なにがかわるというの?」

 ヤースナちゃんではなく、ヤスミンカ大尉と呼んだ。己の立場を自覚するよう、ほのめかしてのことだった。

「彼なくして、ロケット開発は不可能よ」

「あなたはそう考えているかもしれない。でも、上はそのようには見ていないのよ」

「だから、彼を拘束したと」

「そう考えるのが自然でしょうね」

 大佐はソファに腰かけると、懐から葉巻を取り出し、あざやかな手つきでマッチを擦り火をつける。
 微かな甘い香りが部屋に立ち込めた。
 
 ヤスミンカは頭をわしわしとかき乱した。
 彼女の感情を表すかのように、ぐちゃぐちゃに。

 ヤスミンカの感情のうち、もっとも大きな割合を占めるのは、怒りだった。
 大切なものを傷つけられた怒り。
 かすめとられた憤り。
 あるいは、ヴェルナーをあっさり取り上げようとする権力者に対する反逆心。

 けれど、もっともヤスミンカを駆り立てたのは、そんな、生やさしい感情ではなかった。
 青年が傷つけられているかも、という嫌な思考が脳裏をかすめるたびに湧き上がる、言葉にできない衝動だった。
 ヤスミンカは怒り以外の感情を自覚するたびに、自傷するかのように、髪を乱した。
 そうしなければ、自分が別の、弱々しい存在になってしまうように思えたから。

 だが、大佐の悠長な態度は、ヤスミンカの武器である分析力を取り戻させもした。
 ヤスミンカのなかの冷静な部分が、大佐から最大限の情報を引き出すことを提唱したからだ。

 カミナギ大佐は曲がりなりにも上官であり、開示されている情報量がヤスミンカよりも格段に多い。
 従軍歴も長く、軍内部に独自の耳を持っている可能性もあった。
 なにより、ヤスミンカが青年の失踪を把握した直後に、大佐は、彼が更迭されたという情報を握っていたのである。

 ヤスミンカは、深く深く、息をはいた。
 身体の全部がしぼんでしまいそうなくらい、深く、長いため息だった。
 彼女は思い出す。
 感情に従い、考えることをやめた、あの喫茶店で、どうなったのかを。
 あのときは、偶然、うまく事が運んだだけ。
 
 今度は、理性を手放してはならない。
 考える事を、辞めてはならない。

 いまは、ヴェルナーは未だに無事であると仮定して、行動するべきときだ。
 出来るう限り、最善の手を。
 ヤスミンカは努めて冷静に聞こえるよう、ゆっくりとした口調でいった。

「一本もらえるかしら」
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