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37 「許されるなら、天才だけを手許に置きたかったわ」
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カミナギ大佐は、はっとするほどの美人であると同時に、おいそれとは近寄れない雰囲気の持ち主でもあった。
ヴェルナーがいついかなる時に大佐をみても、いかにもという空気を身にまとっているのだ。自分は常に注目されているのだという意識があって、本人もそれを自覚し、楽しんでいる。つまり、自分が美人だと自覚している。
なにより、ヤスミンカのついでに自分が雇われているという引目がある。
そういうわけで、女性ととんと縁のない学生だったヴェルナーは、カミナギ大佐に対して、潜在的に苦手意識を持っている。
だからヴェルナーは、カミナギ大佐が訪ねてきたときは、うずたかく積まれた書類の山に埋もれて、極力気にしていない風を装うことにしている。
彼にとっての不幸は、大佐が訪ねてくるときは、部屋に一人きりであることである。
加えて言えば、退屈したカミナギ大佐は、おもちゃを求めて、第四研究室に顔をだしているきらいがある。
従ってカミナギ大佐が第四分室を訪問されるときにヴェルナーができるささやかな抵抗は、書類に集中して気づかないふりをするくらいのことである。ちなみに、嫌な現実を先送りにしているだけなので、全く効果はない。
その日は、六月のはじめの月曜日の夜だった。軍に雇われてから九ヶ月がたち、ヤスミンカにエタノールを用いたエンジン開発に注力すると指示した、まさにその夜である。
ヤスミンカを寮に返したあと研究室にとんでかえり、明日の試作用の書類作りに没頭していたとき、カミナギ大佐がやってきた。
カミナギ大佐はいつもの席でヴェルナーが作業しているのをみつけると、堂々たる足取りで彼の机にやってきた。そばにある椅子をひいて、ヴェルナーに向き合うように座り、足を組む。懐から葉巻の箱を取り出して、一本口に加えた。
一連の動作を、ヴェルナーは目の端でとらえていたけれど、試作依頼票とお財布帳に没頭しているふりをする。
大佐は、マッチの箱を取りだすと、わざとらしい動作でヴェルナーの視界の端に置いた。
ヴェルナーの体感では、耐えられたのは三秒と半分。
我慢できたのはそれだけだった。
それ以上、沈黙に耐えることは、いまの彼には不可能だった。
ヴェルナーは観念して書類から顔をあげる。
大佐の唇がすっと横に広がり、笑みを形作っていた。
早くつけろというように、口元に手を添えながら、煙草をくわえている。
マッチをすり、大佐のくわえた葉巻に火をつけた。甘い香りがほのかにする。葉巻の甘さだけではないように思われて、ヴェルナーは妙な胸騒ぎを感じた。
カミナギ大佐は、ふうっと煙を吐き出すと口をひらいた。
「それで、ヤースナちゃんのご機嫌はどう?」
「僕より、ヤースナに聞いた方がいいんじゃないですか」
煙に目をしかめながら、ヴェルナーは答えた。
「だって、あの子って、わたしをみたら噛み付いてくるんですもの」
「ヤースナは誰にでもそうですよ」
「なんででしょうね。あなたにだけは、親切なようなのだけれど」
「なんででしょうね」
ヴェルナーは投げやりに答えた。
からからとわらうカミナギ大佐。鮮やかな唇がみずみずしく光っている。
「やっぱりあなた、面白いわ。ロケットに飽きたらいいなさいね。わたし専属の副官にしてあげるわ」
「とても魅力的な相談ですね。書類の山から逃れられるなら」
軍では、ロケット開発に直接かかわりのない、どうでもいい雑務に追われることがままあった。予算のやりくりはともかくとして、お偉方の接待にはじまり、日程の調整に、サプライヤとの折衝、あげくは工員の予防接種の段取りまで押し付けてくる始末である。
かつての偉人たちも同じように、細々としたとるに足らないことに時間を割かれていることがあったのかもしれない。つまるところ、ひとの力を借りるというのは、雑務を押し付けられるのと同義であるというのが、ヴェルナーの理解だった。
「そう。まさにその書類の件できたのよ、今日は。
あなた、そんなことしてても大丈夫なの?
もう三ヶ月しかないとおもうのだけれど」
カミナギ大佐に悪意はない。
きっと、彼女にとっては、予算を使うために、書類を作成することが心から理解できないのだ。
大佐が先ほどから開いたり閉じたりしている、アルニャーニャの懐中時計は、ヴェルナーの生活費一年分に相当する。
つまり、そういうこと。
この世には持つ者と持たざる者がおり、持つ者には、持たない者が感じる世の中の理不尽さに気づくことができないのだ。
ヴェルナーは自分の実力の無さを極力意識しないようにしながら、どう伝えれば良いか考えていると、カミナギ大佐は細い目を少しだけ見開いた。それから、前にもまして目を細めてみせた。
「あなた、いま、自分がどうしようもない馬鹿だって思ってるでしょう?」
「そんなことないですよ」
「嘘おっしゃい。目が泳いでいるわよ」
ヴェルナーは慌てて、大佐を見た。
「ほら、やっぱり」
カミナギ大佐はくつくつと笑った。
ヴェルナーは目元に手をやり、拭った。軍に入ってから、目元を抑えることが習慣になってしまっていた。そんなときは、いつも考える。なんで自分は、ヤスミンカと一緒に軍に雇われているのだろう、と。
ヤスミンカが開発に集中できる環境をつくれ、ということだと思い、時間帯を推して仕事を進めるわけだが、大佐は理解してはくれない。
「話を戻すのだけれど、なぜ、あなたは苦手な事務処理の仕事をしているのかしら」
「そりゃあ、あと試作の完成まで三ヶ月しかないからですよ」
「あら、やっと試作をするのね」
具体的な数字がでたことで、カミナギ大佐の意識が少しだけそれたようである。
「利便性と経済性を説いて、やっと納得してもらいました」
「では、設計思想がやっと固まったのね。わたしにも説明していただけるかしら?」
「いや」
どこから説明したものか、思案にくれるヴェルナーにカミナギ大佐が指摘する。
「あなたにツィオルコフスキーを紹介したのは、誰だったかしら」
ぐうの音もでないほどの正論であり、事実だった。
カミナギ大佐が手配した論文を元に、ヴェルナーはロケット開発の深い部分に携われるようになったのだから。
「燃焼室は魔物なんです」
ヴェルナーは直近の問題をうちあける。
「金属は二○○○度もあれば、すべて溶けてしまいます。この熱を制御下に置く確実な手段を足がかりにしなければ、ロケットの開発は不可能なんです。
それに、排ガスの温度を下げることが叶えば、移動以外にも排ガスを利用することが可能になります」
「操舵に使いたいものね」
カミナギ大佐は的確に話をとらえていた。まるで、わかっていたことを確認しているようだった。
ヴェルナーは首肯した。
「限られた予算で、僕たちがまともに飛ばせるようになるには、これしかありません。もちろん、まだ影も形もない技術ですけれど」
「そうね。わたしも賛成よ。ちゃんとわかってるじゃない」
打てば響くような答えである。ヴェルナーは、ついに耐えきれなくなって尋ねた。
「前から思っていたんですが、あなたが直接、ヤースナと話し合ったらいいんじゃないですか」
あきらかに、軍はヤスミンカを欲しがっていた。
連行され、事故のあらましを説明され、民間での開発ができなくなったと知らされたときの絶望たるや。
何もかもが終わったと感じたときの恐怖たるや。ヴェルナーはあのときに抱いた感情を、生涯忘れることはないだろう。
感情的に叩きのめされたところに、カミナギ大佐からの勧誘である。
王立図書館で、ヴェルナーに融通を聞かせてくれたきれいなお姉さんが、突如現れていったのだ。
あなたを助け出す代わりに、ヤスミンカ嬢を軍に引き入れろ、と。
とっさにヴェルナーは、ヤスミンカには自分が不可欠だと主張し、結果、軍に潜り込むことができたことは幸運以外のなにものでもない。
もちろん、ロケット開発に携われることは、嬉しい。至上の喜びだといってもいいくらいだった。
けれど、ヴェルナーは、軍の研究者と触れあうたびに、自分は場違いなんじゃないかと思うことがあるのだ。
自分は、たまたまロケットを作っていたから、ヤスミンカに出会っただけの、ただの高校生なんだと。
ヤスミンカがより良い環境を手に入れたのなら、別のつきあいがあるのではないかと。
そういう、もやっとした感情から、目を背けることができないまま、九ヶ月をすごしてきた。
一年で成果を出すと契約して、あと三ヶ月しかないのだ。ここまで追い込まれては、ヴェルナーとしては、力不足だと認めざるを得なかった。
だからこその、発言だった。
ヴェルナーは、背筋を伸ばして、カミナギ大佐をみつめた。真摯に、答えが知りたかった。ところがカミナギ大佐は、机に頬杖をつき、煙を胸いっぱいに呑んで、吐き出した。
「わたしだって、許されるなら、天才だけを手許に置きたかったわ」
ヴェルナーがいついかなる時に大佐をみても、いかにもという空気を身にまとっているのだ。自分は常に注目されているのだという意識があって、本人もそれを自覚し、楽しんでいる。つまり、自分が美人だと自覚している。
なにより、ヤスミンカのついでに自分が雇われているという引目がある。
そういうわけで、女性ととんと縁のない学生だったヴェルナーは、カミナギ大佐に対して、潜在的に苦手意識を持っている。
だからヴェルナーは、カミナギ大佐が訪ねてきたときは、うずたかく積まれた書類の山に埋もれて、極力気にしていない風を装うことにしている。
彼にとっての不幸は、大佐が訪ねてくるときは、部屋に一人きりであることである。
加えて言えば、退屈したカミナギ大佐は、おもちゃを求めて、第四研究室に顔をだしているきらいがある。
従ってカミナギ大佐が第四分室を訪問されるときにヴェルナーができるささやかな抵抗は、書類に集中して気づかないふりをするくらいのことである。ちなみに、嫌な現実を先送りにしているだけなので、全く効果はない。
その日は、六月のはじめの月曜日の夜だった。軍に雇われてから九ヶ月がたち、ヤスミンカにエタノールを用いたエンジン開発に注力すると指示した、まさにその夜である。
ヤスミンカを寮に返したあと研究室にとんでかえり、明日の試作用の書類作りに没頭していたとき、カミナギ大佐がやってきた。
カミナギ大佐はいつもの席でヴェルナーが作業しているのをみつけると、堂々たる足取りで彼の机にやってきた。そばにある椅子をひいて、ヴェルナーに向き合うように座り、足を組む。懐から葉巻の箱を取り出して、一本口に加えた。
一連の動作を、ヴェルナーは目の端でとらえていたけれど、試作依頼票とお財布帳に没頭しているふりをする。
大佐は、マッチの箱を取りだすと、わざとらしい動作でヴェルナーの視界の端に置いた。
ヴェルナーの体感では、耐えられたのは三秒と半分。
我慢できたのはそれだけだった。
それ以上、沈黙に耐えることは、いまの彼には不可能だった。
ヴェルナーは観念して書類から顔をあげる。
大佐の唇がすっと横に広がり、笑みを形作っていた。
早くつけろというように、口元に手を添えながら、煙草をくわえている。
マッチをすり、大佐のくわえた葉巻に火をつけた。甘い香りがほのかにする。葉巻の甘さだけではないように思われて、ヴェルナーは妙な胸騒ぎを感じた。
カミナギ大佐は、ふうっと煙を吐き出すと口をひらいた。
「それで、ヤースナちゃんのご機嫌はどう?」
「僕より、ヤースナに聞いた方がいいんじゃないですか」
煙に目をしかめながら、ヴェルナーは答えた。
「だって、あの子って、わたしをみたら噛み付いてくるんですもの」
「ヤースナは誰にでもそうですよ」
「なんででしょうね。あなたにだけは、親切なようなのだけれど」
「なんででしょうね」
ヴェルナーは投げやりに答えた。
からからとわらうカミナギ大佐。鮮やかな唇がみずみずしく光っている。
「やっぱりあなた、面白いわ。ロケットに飽きたらいいなさいね。わたし専属の副官にしてあげるわ」
「とても魅力的な相談ですね。書類の山から逃れられるなら」
軍では、ロケット開発に直接かかわりのない、どうでもいい雑務に追われることがままあった。予算のやりくりはともかくとして、お偉方の接待にはじまり、日程の調整に、サプライヤとの折衝、あげくは工員の予防接種の段取りまで押し付けてくる始末である。
かつての偉人たちも同じように、細々としたとるに足らないことに時間を割かれていることがあったのかもしれない。つまるところ、ひとの力を借りるというのは、雑務を押し付けられるのと同義であるというのが、ヴェルナーの理解だった。
「そう。まさにその書類の件できたのよ、今日は。
あなた、そんなことしてても大丈夫なの?
もう三ヶ月しかないとおもうのだけれど」
カミナギ大佐に悪意はない。
きっと、彼女にとっては、予算を使うために、書類を作成することが心から理解できないのだ。
大佐が先ほどから開いたり閉じたりしている、アルニャーニャの懐中時計は、ヴェルナーの生活費一年分に相当する。
つまり、そういうこと。
この世には持つ者と持たざる者がおり、持つ者には、持たない者が感じる世の中の理不尽さに気づくことができないのだ。
ヴェルナーは自分の実力の無さを極力意識しないようにしながら、どう伝えれば良いか考えていると、カミナギ大佐は細い目を少しだけ見開いた。それから、前にもまして目を細めてみせた。
「あなた、いま、自分がどうしようもない馬鹿だって思ってるでしょう?」
「そんなことないですよ」
「嘘おっしゃい。目が泳いでいるわよ」
ヴェルナーは慌てて、大佐を見た。
「ほら、やっぱり」
カミナギ大佐はくつくつと笑った。
ヴェルナーは目元に手をやり、拭った。軍に入ってから、目元を抑えることが習慣になってしまっていた。そんなときは、いつも考える。なんで自分は、ヤスミンカと一緒に軍に雇われているのだろう、と。
ヤスミンカが開発に集中できる環境をつくれ、ということだと思い、時間帯を推して仕事を進めるわけだが、大佐は理解してはくれない。
「話を戻すのだけれど、なぜ、あなたは苦手な事務処理の仕事をしているのかしら」
「そりゃあ、あと試作の完成まで三ヶ月しかないからですよ」
「あら、やっと試作をするのね」
具体的な数字がでたことで、カミナギ大佐の意識が少しだけそれたようである。
「利便性と経済性を説いて、やっと納得してもらいました」
「では、設計思想がやっと固まったのね。わたしにも説明していただけるかしら?」
「いや」
どこから説明したものか、思案にくれるヴェルナーにカミナギ大佐が指摘する。
「あなたにツィオルコフスキーを紹介したのは、誰だったかしら」
ぐうの音もでないほどの正論であり、事実だった。
カミナギ大佐が手配した論文を元に、ヴェルナーはロケット開発の深い部分に携われるようになったのだから。
「燃焼室は魔物なんです」
ヴェルナーは直近の問題をうちあける。
「金属は二○○○度もあれば、すべて溶けてしまいます。この熱を制御下に置く確実な手段を足がかりにしなければ、ロケットの開発は不可能なんです。
それに、排ガスの温度を下げることが叶えば、移動以外にも排ガスを利用することが可能になります」
「操舵に使いたいものね」
カミナギ大佐は的確に話をとらえていた。まるで、わかっていたことを確認しているようだった。
ヴェルナーは首肯した。
「限られた予算で、僕たちがまともに飛ばせるようになるには、これしかありません。もちろん、まだ影も形もない技術ですけれど」
「そうね。わたしも賛成よ。ちゃんとわかってるじゃない」
打てば響くような答えである。ヴェルナーは、ついに耐えきれなくなって尋ねた。
「前から思っていたんですが、あなたが直接、ヤースナと話し合ったらいいんじゃないですか」
あきらかに、軍はヤスミンカを欲しがっていた。
連行され、事故のあらましを説明され、民間での開発ができなくなったと知らされたときの絶望たるや。
何もかもが終わったと感じたときの恐怖たるや。ヴェルナーはあのときに抱いた感情を、生涯忘れることはないだろう。
感情的に叩きのめされたところに、カミナギ大佐からの勧誘である。
王立図書館で、ヴェルナーに融通を聞かせてくれたきれいなお姉さんが、突如現れていったのだ。
あなたを助け出す代わりに、ヤスミンカ嬢を軍に引き入れろ、と。
とっさにヴェルナーは、ヤスミンカには自分が不可欠だと主張し、結果、軍に潜り込むことができたことは幸運以外のなにものでもない。
もちろん、ロケット開発に携われることは、嬉しい。至上の喜びだといってもいいくらいだった。
けれど、ヴェルナーは、軍の研究者と触れあうたびに、自分は場違いなんじゃないかと思うことがあるのだ。
自分は、たまたまロケットを作っていたから、ヤスミンカに出会っただけの、ただの高校生なんだと。
ヤスミンカがより良い環境を手に入れたのなら、別のつきあいがあるのではないかと。
そういう、もやっとした感情から、目を背けることができないまま、九ヶ月をすごしてきた。
一年で成果を出すと契約して、あと三ヶ月しかないのだ。ここまで追い込まれては、ヴェルナーとしては、力不足だと認めざるを得なかった。
だからこその、発言だった。
ヴェルナーは、背筋を伸ばして、カミナギ大佐をみつめた。真摯に、答えが知りたかった。ところがカミナギ大佐は、机に頬杖をつき、煙を胸いっぱいに呑んで、吐き出した。
「わたしだって、許されるなら、天才だけを手許に置きたかったわ」
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