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25 「まさか。わたしはヤスミンカよ?」

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 シャワールームから出てきたヴェルナーは、珍しく本も開かず窓からじっと夜空を見上げるヤスミンカに、おもわず声をかけた。

「話しかけてもいいかい」

「もちろん」

 ヤスミンカはゆっくりとヴェルナーの方を向き、小さな唇で笑みを形にしてみせる。

「お腹がすいたなあなんて、考えていただけだから」

「君が己の食欲に関心をもつだなんて、貴重な発見だね」

「失礼しちゃうわ。わたしだって女の子なのよ?」

 彼女は頬をふくらませて、それからまた、窓枠に寄りかかって空を見上げた。

 ヴェルナーは彼女の横に腰をおろすと、同じように夜空を見上げた。
 外灯係はすでに火を落としてしまっており、月あかりがないことも相まって、澄み渡る満点の星空だった。立派な黒板のうえに、思い思いに書いた子どもの落書きのように、星々は自由にまたたいていた。また、新月だった。ヤスミンカがここに来てから、まだ一月しか経っていないことに気がついて、本当に驚いた。

「ねえ」

 ヤスミンカがささやくようにいう。まるで星を起こしてしまわないか心配しているような、優しい声だった。

「これだけ星があるのなら、ひとつふたつ付け足したって、誰も気づかないとおもわない?」

「どうだろう。星座が変わったって大騒ぎにはなるかもね」

「あなた、風情がないっていわれない?」

「ないよ。だって、女の子と夜空を見上げたことなんて、いちどもないんだから」

 ヴェルナーは鼻をならした。ヤスミンカは、愉快でたまらないという表情で、窓枠から身をのりだして、足をぶらぶらさせる。

「みてなさいよ。わたしが、人工の星も乙なものだっていわせてみせるわ」

「ずいぶん大きくでたね」

「理論的には、十分可能なんですもの。要は、この大地の回転に合わせて、人工の星は落ち続けられるようにすればいいだけでしょう?
 うまく軌道に乗せたら、あとはいまみたいに夜空をながめるだけ。簡単でしょう?」

「君がいうと、本当にそんな気がしてくるから不思議だよなあ」

「本当に?」

 ヤスミンカがふりかえった。彼女は、ヴェルナーの微かな迷いやためらいを見逃すまいと、鋭い視線を向けた。

「本当さ」

 ヴェルナーはうなずいた。
 彼女はにっこりと笑って、ヴェルナーの手首にそっと触れた。

「ヴェルナー。わたしは悔しい。悔しいわ。悔しすぎておかしくなりそう」

 静かな口調だった。興奮はしておらず、声を荒げてもいなければ、熱に浮かされているわけでもなかった。ただ、事実を事実として受け止めている。そんな言い方だった。

「地球があと、八分の一でも小さければ、わたしたちのロケットは、とうの昔に宇宙を手にしているというのに。
 いまのわたしたちは、そのはるか手前で、宇宙を渡る船はおろか、重力を振り切ることにすら、苦労しているのよ。
 わたしたちを地上に縛りつける重力が、わずらわしいと心から思うわ」

「でも、そんなに悪いことばかりでもないと思うよ」

 ヴェルナーは、ヤスミンカの手を握りかえした。

「そう?」

「だって。あっさりロケットを組み上げることが出来ていたら、僕もヤースナも、こうして星空を見上げることなんてなかったはずだから」

 ヤスミンカは声をたてて笑った。

「そうね。あなたみたいな朴念仁が、絶世の美少女と同じ時間を過ごせることなんて、なかったに違いないものね」

 ヤスミンカは楽しそうにいう。

「でも、やっぱり悔しくはあるわ。どうして神さまは、人類の可能性を薄いベールの向こう側にお隠しになられたのかしら。そんなことをしてくださらなければ、わたしはもっと、自由に生きられたはずなのに」

「いまの君が自由でない?」

 青年は興味深げに尋ねた。ヤスミンカは真剣な面持ちでうなずいた。

「天才って忙しいのよ。わたし、まわりが見えなくなっちゃうのよ。あなたも知ってるでしょう」

 ヴェルナーは、基地を思い浮かべた。彼女が来てからは、ずいぶんと粉っぽくなったのは確かだったし、彼女がそこかしこに落書きするものだから、綺麗にすることもあきらめている。まわりが見えないというより、気を使っていないように思えなくもない。それだけ思い詰めるというか、一途な面がないとはいえなくもないのだろう。ヴェルナーは、少しだけ穏やかな言い回しを選んでいった。

「まあ、そんな傾向がないとは言い切れないね」

「ふとしたとき、これまで全く見えていなかったものが、垣間見えてしまうの。薄い膜だかベールだかが風に揺られてゆらめいて、出来た隙間から一筋のひかりが差し込んでくる感覚。そうなると、わたしは自分ではどうしようもなくなって、手を伸ばさずにはいられなくなって、一日とか二日とか、ひどいとき一ヶ月も、垣間見た景色を厳密な科学の言葉に置き換えようと悪戦苦闘するわけ。
 ところかまわず、容赦なく、なんの前ぶれもなく、神さまはみせてくださりやがるのよ」

「衝動っていうのは、想像もつかないけれど」

 でしょうね、ヤスミンカは肩をすくめて見せる。

「いわゆる天才の光景ってやつみたい。なお悪いのは、わたしはその閃きを垣間見るのが大好きな人間らしいってことよ」

 ヤスミンカは、困ったように、髪の毛をはらった。ヤスミンカの潤んだ目と視線が交差し、ヴェルナーはどきりとした。

「だってわたし、おかしいのよ。友だちと喫茶店にはいって一時間でも二時間でもおしゃべりしたり、古本屋で大衆小説を選んでみたり、クラスの男の子を観察して誰が格好いいだとか話したいだとか感じたことが、一度もないんですもの。
 わたしは友だちと喫茶店で無駄話をして時間を潰す楽しさなんてちっともわからないし、小説なんて誰かの自慰行為を眺め続けるなんて苦痛だと考える人間だし、となりの誰それさんの外見なんてわたしの人生にこれっぽっちも影響ないと思わない?」

 ヴェルナーはどんな表情をすればいいのかわからなくて、結局、こわばった笑みを浮かべた。
 ヤスミンカは、手の甲で彼の頬にふれた。ヴェルナーと視線があうと、彼女はにっこりと微笑んだ。そんな顔をしないで、と彼女の笑顔は語っていた。

「わたしが好きなのは、理路整然としている科学であって、いくら考えても答えがでない難問であって、夢を追いかけている自分が前に進んでいるという実感なのよ。
 いまのわたしがやりたいことは、空を超えてみたい。地球の輪郭をみてみたい。お母さまのところへ行ってみたい。ただ、それだけ。
 わたしにはそれが出来るってわかっているから、わたしにしか出来ないと思ってるから、やりたいって思うのよ。

 もし仮に、わたしからこの情熱を取り去ってしまったとしたら、死んでしまうと思うわ。わたしの人生は、どんどん味気なくなって、しぼんでしわしわになっちゃうに違いないもの。だから、どんなに失敗しても、どんなに疎ましくっても、わたしは続けるわ。

 わたしは、もがく自分の姿が、そんなに嫌いじゃない。
 根っこのところでは、新しいことを知るのが好きだから。あたらしいことを好きだと思える自分が好き。あたらしいことに挑戦するのが大好き。

 完全に人間の頭の中だけで組み上げられた数学は、その純粋で純真なところは奥深く、かぐわしいと思うし、機力とか航空力学とたわむれている時間は、至福の時間だし、機械油の匂いも、最近は悪くないんじゃないかって思えるようになってきているの。

 こんなかわった趣味の女の子、この世に二人といないとおもわない?
 わたしは世界で唯一の価値をもつ、唯一無二の女の子だもの」

 青年は、ヤスミンカの髪を、わしわしとなでた。抗議するヤスミンカ。けれど彼女は肩の力を抜き、ヴェルナーにしなだれかかっていた。きっと、いつものように目を細めていることだろう。

「ヴェルナー、こんなわたしだけど、好きになってくれる?」

 ヤスミンカがいった。

「君のこと、好きだよ」

「その言い方、きらいよ」

「好きだよ、ヤースナ」

「うん」

 ヤスミンカは、身体をはなし、にっこりと笑っていった。

「じゃあ、はやくわたしの横にならんでね」

 正直、高すぎる目標だとヴェルナーは思う。
 妥協は、ヤスミンカの自身の意地と誇りが許さないのだろう。あるいは、隙を見せてはいけないと、経験的に知っているからかもしれない。
 その点で、たしかに青年は恵まれていた。ヤスミンカとの暮らしは、彼女が努力のひとだと気づかせてくれたからだ。

 普段の彼女は、何かとせわしない。
 家ではいつでも本を広げ、ノートにアイデアをまとめている。彼女が手を休めるのは、食事と、お風呂と、眠るときだけの生活だった。
 それでいて、基地では常に作業か自分の考えを発信するばかり。そこでは、気づきはあっても、学んでいるという姿勢は微塵も感じさせない。

 ヤスミンカの見せてくれた、天才のみる光景。それは、彼女の絶え間ない努力に下支えされたものであった。
 そして、当の本人は、ヴェルナーを待つどころか、日々精進しているのである。

「いますぐにでも、SY-03にとりかかりたいね」

 ヴェルナーはいった。

「深夜なのに?」

 ヤスミンカが喉の奥で笑う。
 君を一人ぼっちになんてできないから、と素直に心情を口にするのははばかられた。だからヴェルナーは、苦しい言い訳をする。

「なんだか無性に、手を動かしたくなったんだ」

「何いってるのよ。SY-02は湖の底よ。発射してから、三秒とちょっとで、ぼんっ、だったでしょ」

 ヤスミンカはからからとわらった。

「部品どりも使い回しも、おしゃか。まっさらで、いちからやり直し。はてさて、どれだけの時間と労力が必要になることやら」

「そうだね」

「失敗が辛かったら、やめてもいいのよ」

「冗談じゃないよ」

 ヴェルナーは、ロケットを諦めるだなんて考えたこともなかった。

「ヤースナの世界を、僕は一緒に見るんだろう?」

 彼女は微笑んだ。とってもうれしそうな微笑だ。すくなくとも、ヴェルナーはそう感じた。

「今回のは、すこし性急すぎたわね。もっと地に足ついた準備も必要だったわ。おかげであなたは疲れているし、わたしも疲れている。だから、しばらく休みましょう」

「わたしにだって思うところはあるってことよ」

「次の試験については、大丈夫、心配しないで。わたしがきちんとするから」

 ヤスミンカはいった。ひっそりと、何かを決めた様子だった。

「ねえ、ヤースナ」

「なに?」

「無理してない?」

「まさか。わたしはヤスミンカよ?」

 そのヤスミンカは、とても愛らしかった。生まれてから一度も傷ついたことのない女の子みたいな顔だった。

 ああ、これなら大丈夫だ。
 そのときのヴェルナーは、本当にそう思ったのだ。
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