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16 「爆発してたまるもんですかっ」

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「液体温度、圧力ともに正常」

 ヴェルナーは緊張した面持ちで、計測機の示す文字を読み上げた。

「漏出もなしだ、お嬢さん。水素も酸素も、ちゃんと容器の中にある」

 リンドバーグがずらりと供給系の正常を告げる。

「結構。二人とも、表情がとてもかたいけど、緊張することはないのよ。爆発したとしても、もう吹き飛ばす屋根がないんだもの」

 ヤスミンカが肩をすくめて、ため息をついてみせた。ヴェルナーもリンドバーグも、声を出して笑った。年下の女の子に気をつかわれる程度には、自分たちは緊張していたらしい。ヴェルナーは肩を軽く動かしてから、計器に視線を戻し、手元の点火ボタンを軽く握った。

「それでは、試作一号機の試験を開始しましょう。バルブを解放して」

「了解」

 リンドバーグが取手を回す。その後、速やかに物影に退避。彼が隠れるのを確認したヤスミンカは、ヴェルナーにうなずく。
 ヴェルナーは声を張り上げた。

「点火まで、三、二、一、燃焼開始」

 ヴェルナーがぬき身のエンジンに息を吹き込んだ。その閃光がきらめいた。青白い炎が水平にのびて、ガレージから吹き出した。排気の勢いはすさまじく、外気でただちに冷却され、白い雲を生み出した。

 大地から伸びる拘束を振り払おうと、エンジン全体が、がたがたと震えた。
 試験は短いものだった。ヴェルナーが十と五秒を数えるころ、エンジンから火が消えた。規定の燃料をつかいきったのである。

 燃料の尽きたエンジンは、先ほどとはうってかわっておとなしくなった。沈黙のとばりが降りた。その場の三人は、黙ってロケットを見つめ、互いをみつめあった。
 最初に声をあげたのは、リンドバーグだった。

「やった、のか」

 うわずった声で、誰かにというより自分自身に言っているようだった。

「爆発はしていないみたいだね」

 ヴェルナーが渇いた声でいった。

「爆発してたまるもんですかっ」

 ヤースナが弾んだ声でいいながら、エンジンへと駆け寄る。燃焼室に亀裂が生じている様子はなく、べったりと張りつけられた配管に剥がれたあとはみられない。
 燃料は正しく燃焼室の周りを循環し、水素と酸素の化学反応が生み出した熱を吸収しながら、燃焼室に送りこまれていた。ヤスミンカはため息をついた。今度のはほっとした吐息だった。
 見事なほどに、彼女の思い描いたとおりの結果である。

「いつ、上に飛ばすんだ?」とリンドバーグ。

「まさか。今度は横に飛ばすのよ」

 ヤスミンカは鼻息荒く答えた。

「それじゃ、めざせ一キロだね、ヤースナ」

「それじゃあ夢がないわ。めざせ地平線にしましょう」

「いいね。その表現。俺は好きだな」

「決まりだね。めざせ地平線」

 さっそく、エンジンにかぶせる筐体の構想設計にとりかかかった。黒板をまえにヤスミンカがチョークをとり、ラフスケッチ書きつける。ヴェルナーらが意見し、さらに形が変わってゆく。

 皆、自分たちが天翔るロケットを夢みた。目前に鎮座するエンジンが、否応なく想像力をかきたてるのだ。みな、子どものように無邪気だったし、夢を語ることが許される空間だった。

 議論がひと段落つくと、青年らは、おきまりの武勇伝を語る。
 くだもの屋をロケットで吹き飛ばした事件をはじめ、線路で汽車に向けて飛ばして車掌に叱られたり、大人顔負けの展望台をつくったり。努力の方向がわからずに、勢いだけを持て余していた日々の出来事をである。
 驚いたことに、ヤスミンカから笑いをとることにさえ成功した。

 ひとつの困難を共に乗り越えた充実感が、三人を優しくつつんでいた。
 ガレージから夕陽がさしこみ、彼女の頬をあかくそめる。まぶしそうに目を細めながら、ヤスミンカがいった。

「正直に告白すると、わたし、ゆうべはまるで、世界が荒野のような気がしたわ。昨日は荒野。おとといも荒野。けれど、今はこんなにも気分がいい。これなら、枕を高くして眠れるにちがいないわ」

 秘密を告白するように、ひそやかな声である。
 わずか二週間に満たない交流のなかで、彼女は胸の内を明かしてくれる程度には、気に入ってくれたらしい。そう考えた途端、ヴェルナーは、胸の内に説明のつかないもやもやした感情が湧き上がるのを感じた。

 けれど、同時に、普段のヤスミンカからは苦い静寂も感じられた。
 今にも折れてしまいそうな違和感だった。あるいは、張り詰めた糸がきれてしまうような、あやうさだった。しばらく彼女の横顔をながめ、やがて気づいた。いつもの不敵な、自信に満ちた笑みがなかった。いまの彼女は、年相応の女の子にみえた。

「今日が、終わってしまうわ」

 ヤスミンカは静かにいった。

「今日はここに泊まっていくかい?」

 ヴェルナーが冗談めかしていう。

「悪くない案ではあるんだが、我々が泊まりこむには、この工房は田舎すぎる。また今度だな」

 リンドバーグがいった。
 ヤスミンカは小さく頷いた。

「そうね。また明日ね」

 ヤスミンカが立ち上がる。自分で幕を引くように。
 自転車を押してきたリンドバーグが、ヴェルナーにいう。

「後ろに乗るかい、ヴェルナー?」

「僕も自転車だよ。知ってるだろ?」

「ひとの好意は受け取っておくものだぜ。お嬢さんはどうだい」

「もうすぐ迎えが来るはずだから」

「それじゃあ、先に帰るよ。やり残した課題があるんだ。お先に失礼、ヴェルナー、お嬢さん」

「ああ」

「また明日」

 リンドバーグを見送ってから、会話はなかった。ヤスミンカは昼間と変わらない様子で、黒板に向かっている。けれど、普段ならとめどなく書き滑らせているはずのチョークを握りしめたまま、彼女の右手は動かなかった。

「ねえヤースナ」

 ヴェルナーはひかえめにいった。

「なに」

「親と喧嘩でもした?」

 ヤスミンカは、眉をひそめた。

「なぜ?」

「僕が家に帰りたくないときってのは、たいてい、両親とうまくいかなかったときだからさ」

「うまくいかないという表現からは、限りなく嘘の匂いがするわ。叱られたとき、の間違いでしょう?」

「半分正解。母さんにとっての僕は、行動力と素晴らしい才能に恵まれた息子だった。
 まあ、父さんからは、手がつけられない無軌道な坊主、だったけれど」

「いいご両親だったのね」

 ヤスミンカはしみじみといった。再び、沈黙のとばりが降りた。
 心なし、さきほどよりも苦い静寂だった。どうしたものかと頭を悩ませるヴェルナーだったが、沈黙を破ったのはヤスミンカだった。

「ありがとう」

「なにが?」

「あなたの気遣いに」

「僕は別に」

「もうすこしわざとらしくなければ、見逃してあげていたのだけれど」

 ヤスミンカが、苦笑した。ヴェルナーは、むくれると同時に安心した。

「もう知ってるだろう? 僕は不器用なんだ」

「知ってるわ。だから、ありがとうっていったのよ」

 ヤスミンカは口元に笑みを浮かべて首を傾げてみせた。それから彼女は、ランプに灯りをいれた。
 太陽は山の向こうにしずみ、残り香ならぬ残り火が、空の端をわずかに染めるのみである。

「ヤースナ。さすがに迎えが遅すぎるんじゃないかな。本当に、なにがあったんだい?」

「迎えなんてこないわよ。嘘をついてごめんなさい。付人はお金がかかりすぎるから、暇を出したの」

 ヤスミンカは、机を並べながらいった。
 まるで、泊まるための寝台をあつらえていうるようで、ヴェルナーは一抹の不安を覚えた。
 そして、嫌な予感というものは、得てして当たるもので。

「わたしはここに泊まるつもり。だから、先に帰っていいわよ」

「本当に、両親と喧嘩したのか?」

「もっと単純な話よ。帰る家がない。それだけ。わたしの家は、あれになったから」

 ヤスミンカが指したのは、二人を興奮の渦に巻き込んだ試作一号エンジンだった。
 驚愕するのは青年の方である。

「なんだって!?」
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