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至福 1

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 ━━━早朝。

 冬の冷たい空気に肩を竦めながら、すっかり見慣れた階段を上って到着したのは目的の部屋の前。

 指先でクルクルと悪戯にまわされ、キーホルダーにぶら下がるカエル王子のマスコットとぶつかりあって、不規則な金属音を奏でている鍵をドアノブに差し込み押し開けば、よく知った香りが玲央を出迎える。



「お邪魔しまーす」



 改めてそんな挨拶を口にする必要もないくらいに足繁く通っているこの部屋の構造は、既に勝手知るったるなんとやらで、迷うことなく玲央の目指す部屋は、ただひとつ、整頓されたリビングを突っ切った真正面にある、一枚の扉を隔てた向こう側。

 朝のひんやりとした空気にさらされたドアノブを握ってゆっくりドアを開けば、殺風景なベッドルームで無防備にも寝姿を晒しているこの家の主、彼方 悠の姿が見えた。

 カーテンの隙間から零れる朝陽に、玲央のものとはまた違う漆黒の髪が照らされ艶やかに輝いていて、引き寄せられるかの如く彼の眠るベッドに腰掛け、それに指先を通せば、見た目通りの滑らかな感触を残してすべり落ちて行く。

 モデルを辞めてしまった今でも何ひとつ変わらない悠の姿に感心し、一向に目を覚ます気配のない彼の髪色とは対照的な白磁の肌を突付いて見るものの、この程度の刺激で起きるはずもなく、



「悠、起きろよー。そんな無防備な姿晒してっと、悪戯すんぞー」



 言うが早いか、少し乾いた悠のくちびるに自らのくちびるを押し付けると、息苦しいのか僅かにくぐもった声が悠から漏れ聞こえ、起きたのだろうかと薄く瞼を開いて見たものの、その視線が悠の瞼に隠れた瞳を捉える事はなかった。



 ……相変わらず、無防備すぎ。



 前々から悠の寝起きは他人よりも倍悪い事は知っていたけれど、ここ最近は休日返上の登校と夜遅くまで時間を費やし課題を消化する事に精を出し過ぎているせいか、一段とそれが酷くなっているような気がしてならない。

 ベッド付近の床を見やれば、課題と思しきプリントが何枚か散乱していて、恐らく昨晩も眠る直前まで時間を惜しみベッドの上でそれらと睨めっこしていたのだろう。

 悠がモデルを辞めた代償は、玲央が思っていた以上に大きなもので(世間的にも打撃は大きかったようだ)、契約期間の残り半年分の仕事を短期間で一気に詰め込んでしまった為、出席日数は当然不足し(本来であれば悠は学業優先のスタンスをとっていた為、土日の休日や冬期休暇などを使って仕事をこなしていたのだ)、それを埋める為の条件として全休日返上での登校・特別講習と、この部屋の机の上に山積みになっている課題の消化を容赦なく提示され、けれど、それについて悠は何一つ愚痴を零すことも無く、着実にこなしていた。

 更に生活環境までガラリと変わり、悠の引退の真相を暴こうと毎日のように周辺をマスコミらしき人間がうろつき始め、以前借りていたマンションを引き払いはしたものの、実家近辺もその余波で騒然として帰ることもままならず、現在はあのマンションよりも少し質素なこのアパート(とは言っても良物件の類だと思う)で事の収束を待ちながらの生活を余儀なくされているのだ。

 未だ多くの噂も絶える事はなく、学校でも嫌と言う程好奇な視線に晒され、それでも悠は「有名税だから」と言って普段と変わらずに過ごし、それでもきっと、精神的に相当負担がかかっているに違いないと、玲央は悠の目の下に薄く浮かび上がっているクマをそっと指先でなぞった。



「……俺なんかの為に、お前の持ってたもの全部、捨てなくたって良かったのに」



 けれど、これが悠なりに考えた精一杯の自分への誠意であるのだと聞いたあの時、確かにそれを嬉しいと心の中で打ち震える自分がいたのも事実なのだ。

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