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覚悟 1

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 深い溜息を吐き出し、肩を落として事務所へ帰って来るマネージャーの姿を目にしたのは、もう何度目になるだろうか。

 最近では門前払いをくらっているのか、今まで置いてくるだけ置いて来た悠へのオファーの書類は、マネージャーの腕に抱えられたまま、開封された様子もなくそのまま戻って来るようになっていた。

 本格的に、此方とは一切の係わり合いを持たないと言う相手側の意思の表れなのかも知れないと心の中で落胆しながらも、疲れきっているマネージャーに極めて明るく労いの言葉をかければ、彼は本当に申し訳なさそうに眉を下げて謝罪の言葉を口にし、何度も伊織へ頭を下げる。

 けれど、彼を責めるつもりは毛頭なく、むしろこんな我侭に文句一つ言わず聞いてくれている事に感謝の意を述べると、今度は神妙な面持ちで、何か言いたそうに口を何度も開きかけている事に気がつき、どうしたのかと問えば、



「……実は、先方と懇意にしている大手事務所から、ウチとの接触をブロックされてるみたいなんだ」
「何だよ、それ……!」



 あまりにも予想外の事実に思わず声を上げると、周囲の反応を考慮したマネージャーが伊織を別室へと連れ出し、近くに誰もいない事を確認すると、再び事の詳細を説明し始めた。

 どうやら、先日発売した悠の写真集で共演していたタレントの所属する大手事務所が、悠の所属事務所と昔から懇意にしていたらしく、その伝であの写真集の共演が実現し、更にその仕事を通して悠を大変気に入った事から、執拗にオファを持ちかけ彼を困らせている伊織の事務所をブロックするように、裏から手を回していると言うものだった。

 権力のある大手事務所が格下の事務所に牽制をかける、よくある図式と話ではあったけれど、まさか自分がそんなことをされる立場になろうとは。

 ただでさえ悠と接触を図ることが難しいと言うのに、大手事務所がこうも手を回してしまっては、最早自分だけの問題ではなく、事務所の問題にもなって来る。

 下手をすれば、この業界を追い立てられる可能性も出てくるのだ。


「伊織くん、これ以上はもう……」


 マネージャーの言葉がそれ以上続くことは無く、けれど、彼が言いたい事は解っていた。


 ……これ以上はもう、止めた方が良い。


 追い立てられるのが伊織自身だけで済めば良いが、最悪の場合は事務所全体に多大な迷惑をかけてしまい兼ねない。

 そうすれば、多くのタレントや所属モデル、更には事務所のスタッフが路頭に迷うことになってしまうのだ。

 伊織の我侭ひとつの為だけに。

 突きつけられた現実は思っていた以上に重く、完全に四面楚歌。

 悠に伸ばし続けていたこの手は届くことなく、宙を彷徨い続ける事になるのだろうかと固く拳を握り締め、僅かに歪んだ視界を遮断するように目を閉じれば、その様子を見ていたマネージャーが、おずおずと口を開き、


「以前にも、聞いた事はあるけど……、伊織くんは、どうしてそんなに彼方 悠にこだわり続けているんだい?」


 この業界に悠の名が駆け巡ったと同時にオファーを出し、共演NGの文言と共に拒否されながらも諦めず、何度も食いついていた際に聞かれたその質問が、ひどく懐かしいなと思える程になっていた事に苦笑しながら、


「取り戻したいんだよ……」


 顔を上げ、震える声で搾り出した言葉に、何をと言う顔をしたマネージャーから視線を逸らすと、



「最悪、取り戻せなくても良いから…、せめて、悠に本当の事話して……、また、あの頃みたいにオレに笑いかけてくれたら……、それ以上はもう、何も望まないよ」



 脳裏に過ぎったのは、先日、偶然にも雑踏の中に見つけた悠の姿で、その隣に立っていた友人と思しき人物へ向けていたあの微笑みと眼差しは、幼い頃、いつも伊織の傍にあり、伊織にだけ向けられていたものと同じだった。

 それが今は別の人間に向けられていて、完全に悠の世界からはじき出されてしまった事を理解しながらも、諦めき切れずに手を伸ばし続ける自分の女々しさに、自嘲が漏れる。




『久世くん……。悠くんを誰かに取られてキミが泣く事になっても、知らないからね』




 以前、まことに呼び出された時に言われた言葉の意味はこう言う事だったのかと、名前も知らない誰かと並んで歩く悠の姿を眺めながら、心のどこかでまだ悠を取り戻す事ができると自惚れていた自分を、殴りたくなった。

 悠の手を離してから今の今まで、何故、こうなる事を考えられなかったのか。

 突き放され、ひどく傷ついた悠が伊織のものではない別の誰かの差し伸べた手を取る事を、何故、考えられなかったのか。




『先に言っておく。お前は、この選択を必ず後悔することになる』




 悠を守る術だと信じ、泣く泣く選択した答えは匂坂の言う通り、後悔と言う二文字になって圧し掛かってくる。

 やはりあの時、何があっても悠の手を離さず、傍にいることを選ぶべきだったのだ。

 傍にいて、自分の手で守ることを選ぶべきだったのに……、




『匂坂くん……、悠を、守ってやって欲しい』




 それを放棄し、全てを任せ背を向けてしまったあの頃の弱すぎる自分が憎くてたまらない。

 あの時、すぐ目の前にいる悠に向かって足を踏み出すことさえ出来なかった、臆病な自分が憎くてたまらない。


 ぎりりと奥歯が軋む音を聞きながら、此方に気づくことのない悠の姿を視線で追っていれば、悠の隣に立っていた男が繋いでいた手を見せ付けるかのように上げ、悠に何かを告げると、悠の表情が更に満ち足りたものに変わって行くのが見えた。


 久しく悠から消えていたその表情を、いとも容易く引き出して見せたあの男が、憎らしい。


 筋違いな嫉妬心で狂いそうになるのを堪えながら、二人の姿が人ごみへ紛れて行くのをただ眺めていれば、ほんの一瞬……、僅かではあったけれど、あの男がこちらを見やり唇を歪めた事を、伊織は見逃さなかった。


「マネージャー……、これで最後にするから、オレの我侭、聞いてもらっても良い?」

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