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安穏 1

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「悠、デートしようぜ!」

 一日の授業も終わり、各々がどのようにして今日の残された時間を過ごそうかとざわめいていた教室が、玲央の発したその一言でしんと静まり返り、悠はそれに何と返せばこの空気を元に戻せるのだろうかと頭を悩ませる。

 けれど、そんな悠の様子はもとより、妙な勘繰りを始めたクラスメイトの様子さえも気に留めていない玲央は、「聞こえなかった?」と改めて同じ台詞を先程よりも大きな声で繰り返す為か深く息を吸い込み始め、慌ててその口を押さえ込むと、引きずるように人気の少ない校舎の端にある階段へと彼を引っ張り出した。

 途中、廊下で人とすれ違うたびに一体何事かと刺さる視線が痛かったけれど、今頃教室であらぬ誤解をし、興味本位で噂をしているだろうクラスメイトの視線よりはマシであると小さく溜息を吐き出せば、悠の拘束を自力で外した玲央が息を整えているのが見え、一体どう言うつもりなのだと若干痛む頭を抑えて先程の言動について問いただすも、彼はきょとんとした顔をして、「そのままの意味だけど」といつもの笑みを浮かべて見せるだけだった。

「まあ、ぶっちゃけデートって言うか、ちょっと俺の用事に付き合って欲しいだけなんだけど」
「だったら、あんな紛らわしい言い方しないで最初からそう言ってくれ……」

 あらぬ誤解を招き噂を立てられると面倒なんだと続ける悠に、相変わらずの調子で悪いと口にする玲央はどこか憎めず、今日もまた彼のペースに飲まれている事に気づいたのだが、それも悪く無いと心の中で苦笑する。

 特に断る理由もないとその誘いを受け入れるべく了承の言葉を口にすれば、善は急げとばかりに玲央は教室へ鞄を取りに走り出し、あまりのはしゃぎっぷりに、転んだり誰かとぶつかってしまわないだろうかと冷や冷やしたものの、どうやらそれは心配無用のようで、すいすいと器用に人波の間を縫って行く後ろ姿に、安堵の溜息を漏らした。




『頼まれたって離れてやらねーから、安心しろよ』




 あの日を境に、玲央と共にいる時間はより一層増え、以前は彼の仕草や言動を目にする度に重ねて見ていた伊織の面影も、橘 玲央と言う存在を強く認識している今となっては、徐々に薄れ始めていた。

 仲良くなり始めた頃は、玲央の言動ひとつで過剰な反応を示してしまう事に自己嫌悪し、同時に、純粋に友達としての付き合いを望んでいる彼に対し失礼な事をしていると言う罪悪感にも苛まれていたのだが、それも少しずつではあるけれど、なくなっている。

 いつでも、自分の傍に差し出されていた手を取っただけで世界が広がり、こんなに気持ちが救われるものだったのかと改めて思い、そして、あんなにも情けない姿を曝け出しても突き放すことなく受け入れ救い出してくれた玲央に感謝していた。



「悠、なに嬉しそうな顔してんの?」



 いつの間に戻って来ていたのか、二人分の鞄を抱え此方の様子を不思議そうに見ていた玲央に「なんでもない」と答えると、自分の鞄を受け取って、昇降口へ向かい二人並んで歩き始める。

 その途中、いつもなら玲央と行動を共にしているはずの鬼頭の姿が一向に現れない事に気づき、彼のことは誘わなくて良いのかと訊ねて見れば、「今日は、悠とデートするって言ったろ?」と、あまり的を得ていない返答があり、けれど、その言葉から推察するに恐らく、鬼頭の方が配慮してくれたのかも知れないと、少しだけ申し訳ない気持ちになった。

 こう言ってしまうと大変失礼かもしれないのだが、鬼頭もタイプは異なるが悠同様に学校では浮いた存在であった為に、何となく、彼と唯一対等に渡り合える貴重な友人の玲央を横から奪い取っているような気分になってしまうのだ。

 鬼頭が同じ中学に通っていた事も剣道部にいた事も知ってはいたが、直接彼と関わるようになったのは高校に入学し、玲央と仲良くなってからの話で、実際鬼頭が自分の事をどう思っているのかはわからない。

 けれど時折、此方の様子を観察するような彼の視線が、そう思わせてしまう原因の一つになっているのかも知れない。
(別段悪意などは感じないが、気になる上に落ち着かないのだ)

 何となく後ろ髪を引かれながら靴を履き替えていれば、突然目の前が緑色に染まり、けれど、至近距離にありすぎた為にそれが一体何であるのか判別できず、すぐさま距離を取ってみると、どうやら目の前にある緑の塊は、小さな王冠を被ったカエルのパペットで、

「春ちゃんから、悠のお供するよう仰せつかったカエル王子です」

 行儀良くお辞儀して見せたパペットと、それを動かしている玲央のなりきりの完成度に、思わず噴出してしまった。

 玲央は得意げに胸を張ると、持っていたパペットを外し悠の左手にそれをはめて見せる。

 妙に肌触りの良い布で作られたパペットをまじまじと眺めていると、


「それ、今、巷で流行ってるやつなんだと。幸福のカエル王子って、悠は知ってる? さっき鞄取りに行った時に、春ちゃんから預かって来た」


 ごく自然に受け取ったカエルのパペットを左手にはめたまま昇降口を出て、カエルの小さな手を動かしてみたり、お辞儀をさせて見る。

 しかし、何故これを自分にと疑問に思っていると、


「最近また元気なかったろ? そのカエル、春ちゃんなりに心配した結果」
「……心配? 鬼頭くんが?」
「春ちゃんって、ああ言う感じだからすっげーわかり辛いけど、結構見てんだぜ、周りのこと」


 まさか、微塵の興味も示さなかったはずの鬼頭が……?

 心の中でそう続けたつもりの悠だったのだが、驚きと動揺のせいか、全て口から言葉となって飛び出していたようで、隣で腹を抱えて大笑いする玲央に若干引きつつも、鬼頭からそんな素振りは一度も感じたことはないと続ければ、「典型的なツンデレってやつだからな」と肩を震わせながら後ろを見てみろと言わんばかりに指をさされ、素直に従い振り返ると、校舎の窓の影からこっそりこちらの様子を窺う鬼頭の姿が見えた。
(隠れているつもりなのだろうが丸見えだ)


「鬼頭くん……、姿が丸見えなんだけど」
「悠がそれ、ちゃんと受け取ったか気になったんだろ。そもそもプレゼント選びのセンスが壊滅的。カエル王子って……! 春ちゃんがどんな顔してソレ買って来たかと思うと……笑える……!」


 笑いながら先を歩いて行く玲央の後を追う為に一旦足を踏み出したものの、思い留めて再び鬼頭を振り返る。

 もしかすると、いつも感じていた鬼頭のあの視線は、彼なりの気遣いの表れだったのかも知れない。

 あまり親しい間柄とは言えないけれど、こうして自分を気にかけてくれている事が、嬉しいと素直に思えた。


 ……今度、鬼頭には何かお礼をしよう。


 彼がそれを素直に受け入れてくれるかは、解らないけれど。

 左手にはめたままのカエルのパペットの頬に口付け、鬼頭のいる方へ向かって小さく振って見せると、彼は眼鏡のフレーム押し上げ、何事もなかったかのように窓際から離れて行った。

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