ハハハ

辻田煙

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第4話「天使の嘘」

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 シャワーの音がうるさい。まるで豪雨の中にいるように音が籠る。
 花梨が持っている肉切り包丁からは、赤黒い液体がぽたぽたとタイル張りの床に垂れ、排水溝に流れていく。花梨は興奮しきっている頭の中でどこか安堵を覚えていた。
 全裸で正解だった。まさかここまで血だらけになるとは。
 花梨は息が荒く、薄い肌には汗が流れており、このままでは脱水症状になりかねない状態だと分かっていた。冷たい頭の芯で、そろそろ休むべきだ、と判断を下す。さらに、冷静にこの後の時間の計算が働く。
 紫苑は両親が帰ってくるのは何週間も先だと言っていた。だから、しばらくは一人暮らしみたいなものだ、と。彼の両親が連絡がないことに気付いて日本に帰ってくるにしても、すぐには来られない。
 時間は、ある。

「きっついなぁ……」

 花梨は溜息をつくしかなかった。
 まだまだ切る部分は多い。バラバラにして、海に捨てようと考えていたが――正直、想像以上だ。人の肉もとうの昔に見飽きている。
 彼女の目の前にあったのは、いくつかのブロックに分けた紫苑の死体だった。もはや、ただの肉塊と成り果てた姿。喉の部分だけが何度も刺され、他のブロックよりも損壊が激しい。
 床は血だらけで、そこに死体が散らばっている。
 花梨は、なんだか似たような光景を見たことがある気がしてならなかった。じっとその場で全体を俯瞰する。徐々に浮かんでくる。
 ああ、そうだ。あの時だ。なんで忘れていたんだろう。



 今年の三月の終わり――花梨はクローゼットの中に隠れていた。彼氏を問い詰めるつもりだったのだ。今となって名前も覚えていない彼を。
 あの時は確かに愛していた。
 だからこそ憤っていた。
 彼は噓をついていた。
 彼は浮気をしていた。
 それを友人から知った。
 ただ、聞きたかった。でも、彼はのらりくらりと話題を逸らし、話してくれなかった。その内、また目撃談が上がった。
 もう、耐えられなかった。本人の口から訊かなければならなかったのだ。
 二人きりで、かつ、彼が逃げられない場所が良いと考え――彼の家に侵入し、部屋の中のクローゼットに隠れた。
 いつの間にか、そう行動していた。
 彼が入ってきた。
 電話で誰かと話している。
 誰だろう。ひどく親しげだ。

「花梨? ああ、大丈夫、大丈夫。もう彼女じゃないって。ホント、ホント、好きなのはお前だけに決まってるだろ」

 あまりにも軽い声で、花梨を否定していた。
 すっと心が凪いだ。ぐるぐると回っていた思考が、澄み渡っていく。
 顔を上げると、クローゼットの中にはネクタイがあった。学校の制服用のものだろう。花梨はそれを手に取った。
 そこからは一瞬だった。
 クローゼットを開けると、彼がこちらを向き、驚いた顔をした。花梨は猛然と走り、彼を押し倒して馬乗りになりネクタイを彼の首に巻いて締め上げた。
 通常だったら、男子の彼に力では敵わなかっただろう。でも、この時の花梨は異様な興奮に身が包まれていた。馬鹿力が出たのか、彼の首はよく締まった。両手は真っ白になり、ぶるぶると震えていた。
 最初はうめき声も上げていたが、やがて静かになった。
 彼はなにも話さなくなっていた。
 彼は――死んでいた。
 家には彼の家族もいたはずだが、どうやって逃げ出したのかは思い出せない。気付いた時には、唯一証拠となりうるネクタイを握り締めて、夕闇の中を走っていた。
 ネクタイは別日に電車に乗って海へ行き、流した。きっと、見つかることはないだろう。
 そして――そうだった。彼を殺した次の日からだった。思い出した。
 朝、リビングに降りると、両親の背中に翼が生えていたのだ。それなのに、二人ともいつものように過ごしていた。テレビを見ても、SNSで流れてくる動画を見ても、学校に行っても。一日中、翼に囲まれていた。それは花梨自身も同じだった。
 朝の洗面台、翼の存在に気付いたのは花梨自身の翼が最初だった。洗面台の鏡で自分を見た時に映っていたのだ。一枚一枚の羽根が見えるほどの鮮明さで、背中から生えている翼が。
 色は――黒だった。



 花梨が湯気で曇っていた鏡を手で拭き取ると、肩で息をしている姿が見えた。

「黒い翼……」

 笑いが込み上げてきてしょうがなかった。鏡の中で、大口を開けた自分が映る。同じことの繰り返しだ。笑いが収まらない。腹をよじり、死体を置いた浴室の中で、笑い声が響く。
 深呼吸をしようと試みる。息を吸う、震える呼吸を繰り返す。花梨は目一杯に浴室の空気を取り入れる。
 なんて、熱い空気。なんて鉄臭い。
 長く、長く、息を吐く。
 花梨は、一旦浴室から出ることにした。このまま作業を続けても効率が悪い。後処理も考えると、ある程度の休憩は必須だ。
 浴室の扉を開ける。エアコンのひんやりとした空気が花梨の身体を包み、昂っていた興奮が少しだけ収まっていく。だが、笑い声は止まらない。
 どうせ笑うのなら、この笑いにしよう。前回も同じ気持ちだったに違いない。

「……ハハハ」

 掠れた声を上げる。
 笑う、笑え。

「ハハハ」

 これはおまじない。新しい恋を見つけるのだ。
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