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朧月夜に
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外へ出ると、想像通り、以前に朧月がかかっていた時のような景色が広がっていた。寂しい街灯は俯(うつむ)いて足元だけを照らしていて、月は優しい光でこの町をふんわり包み込んでいる。青白い光の中に浮かぶこの町は相変わらず死んでいるようだった。
まだ三月中旬とは思えないほどの暖かい空気が体にまとわりつくが、不快感はない。むしろ、春の到来を改めて感じながら夜の空気を吸って散歩をするのは気持ちが良い。
少し目をつむって歩いてみる。いつも通っている道だからか、案外恐怖心も感じずにすいすい歩ける。ある程度歩いて目を開けてみると、目の前には亡霊のような家々が先ほどまでと同じようにぼんやりとたたずんでいる。目新しさも感じなくなり、少し興(きょう)が冷めたので早足になりどんどん進む。
そのまま進むと左手にぼろぼろの公園が現れる。立ち止まらずにさらに前へ進む。すると、目の前にあの子の後ろ姿がかすかに、ちらりちらりと目に映る。彼女を追いかけようと、後ろ姿に向かって真っ直ぐに走り出す。しかしある程度近づいたところで、蜃気楼(しんきろう)のように彼女の後ろ姿が消える。後ろ姿が消えた場所で僕は呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。少し走ったのと、あの子の姿を見たこととで僕の鼓動があり得ないくらいに早く脈打つ。
激しすぎる鼓動を止めるために深呼吸をしながら辺りを見渡す。ここは、十か月前では、恐ろしくなって僕が逃げ出したあの場所だ。そして、またあの時と同じような葛藤(かっとう)が僕の脳を圧迫する。あの子を探しにこの先へ進んでみたいという思いと、もしあの子が見つからなかったら僕は本当にあの子がこの世のどこにも存在していないと思い知らされることになるという考えが体中を駆け巡り、動けなくなる。体は金縛りにあったように息苦しく膠着(こうちゃく)しているがこれまでになく頭は働いていて、あの子との記憶の渦の中に、もがきながら溺れている。その記憶の反復運動の中に、ひょいと章文の顔が割り込んでくる。その顔を思い出した時、何故だか呼吸が楽になった。瞬(まばた)きを二回ほどした後、手を少し開閉(かいへい)させて体が動くのを確認し、足を一歩、前に踏み出す。
自分の足の進むままに任せて歩いて行くと、ずいぶんと懐かしい場所に辿り着く。僕達が通っていた小学校だ。
昼間は子どもたちが元気に走り回っているであろうグラウンドはこんな夜分(やぶん)遅くではひっそりとしていて、その側には冷たいコンクリートの肌をした校舎がじっと眠っている。僕は少しの間その光景を見ながら、近くの田んぼ辺りに住んでいる蛙(かえる)達の鳴き声を聞いていた。しばらくすると、その鳴き声の中に、何かか細い声が混じっているのが分かった。よく耳を傾けてみるとどうやらそれは泣き声で、しかも女の子の泣き声みたいだ。
その泣き声をはっきりと確認した瞬間、僕は一心不乱に走り出す。フェンスをよじ登り、階段を下りて、グラウンドを横切る。まだまだ学内の構造は覚えていたので目的の場所へと最短の道で向かう。その場所に近づくほど泣き声が大きくなる。どうやら僕の勘は当たっていたらしい。少し立ち止まり、まだ胸をドキドキさせながら軽く深呼吸をして、今度はゆっくりとウサギ小屋に近づいていく。
九
スポットライトに照らされているみたいに、ウサギ小屋周辺だけがいやに明るい。むしろこの小屋が光源(こうげん)であるというふうでさえあった。少し中を覗き込んでみると、この明るさのわりに小屋の中はやけに暗い。ウサギが中にいるのかすらよく分からない。手前に敷かれてある草がかろうじて見えているだけだ。僕はあの時と同じように、獣臭に顔をしかめながら恐る恐る小屋の裏を覗きこんだ。
小屋の裏では小学生くらいの女の子が一人、こちらに小さな背を向けうずくまって泣いている。近づいてみると、その子はすごく震えていることに気が付いた。僕は傍(そば)にしゃがんで、右手でその子の手をそっと握る。その子は少し驚いた様子だったがしばらくすると泣き止み、ゆっくりこちらに顔を向ける。僕は微笑んでその子の顔をじっと見つめる。
その子は、長いまつ毛に覆(おお)われた、潤沢(じゅんたく)なとても愛くるしい目をしていて、鼻はすらりと鼻筋が通って、大きすぎず小さすぎず、おしとやかに顔の真ん中にひょこんと据えられていた。
その子は、ほんのり膨らんで、しかし硬さをも持ったピンク色の唇を震わせながら僕をしばらく見つめる。彼女自身の哀愁(あいしゅう)の相(そう)と、周囲の仄(ほの)青くやさしい色とが相まって、その顔はとても幻想的な美しさを帯びている。
数秒間、お互い見つめあっていると、突然僕の頬を伝って雫(しずく)が一滴流れ落ちた。僕がそれに気づくと、今度はダムが決壊(けっかい)したように激しく涙が溢(あふ)れだす。声まで上げて恥ずかしげもなく泣きわめく。映画などでは、こういう時に主人公は微笑んだまま静々(しずしず)と涙を流すだろう。でも、僕は、静々となんて泣けるはずがなかった。
彼女が僕の手をぎゅっと強く握りしめる。それに応じて、僕はもっと強く手を握り返す。それを繰り返すうちに、僕は冷静さを取り戻していった。そして、まだ彼女が震えていることに気が付く。それでも僕は何もできなくて、ぼうっと隣り合って座っている。僕たちは何も喋らずにただ黙り込んでいる。何かを話す必要なんてなかった。
突然、近くの木から、ジジジジと鳴いて一匹の、季節外れの蝉が飛び立った。僕らはあっけにとられてその木をしばらく眺めた後、お互いに顔を見合わせる。一つ気が付いたが、この時にはもう、彼女が僕と同じ年くらいに変化していた。
沈黙の中、静かに時は流れていく。その間、僕はずっと悩んでいた。この腕で彼女を抱きしめようかと。しかし、確実に今、僕の目の前にいる彼女だが、これ以上少しでも衝撃を与えると消え去ってしまいそうなほど、どこか頼りない存在に思えた。このままそっとして置けば、しばしの間は一緒にいられるだろう。しかし、今も抱きしめてあげられなかったら、この後悔は一生残る。
そんな迷いを抱えて彼女の方に目を向ける。彼女もそれに気づき僕の方に顔をやる。彼女の瞳はあの頃と同じように優し気に、幸せそうに微笑んでいた。それでも、やはりあの時と同じように顔全体に、寂しげな様子も薄く表れていた。この彼女の寂しさに、昔から本当は、僕はずっと気がついていた。それでもその寂しさをぬぐいとってあげることはできなかった。僕が臆病だから。
そんな僕の考えを知ってか知らずか、彼女はもっと優しげに、健気に微笑む。その笑顔を見て僕は彼女を抱きしめようとする。
しかし僕の腕が彼女の体に触れたその時、彼女の体は光の飛沫(しぶき)となって中空(ちゅうぞら)を舞っていった。僕の足元には青いバラがただ一輪、置かれているだけであった。
まだ三月中旬とは思えないほどの暖かい空気が体にまとわりつくが、不快感はない。むしろ、春の到来を改めて感じながら夜の空気を吸って散歩をするのは気持ちが良い。
少し目をつむって歩いてみる。いつも通っている道だからか、案外恐怖心も感じずにすいすい歩ける。ある程度歩いて目を開けてみると、目の前には亡霊のような家々が先ほどまでと同じようにぼんやりとたたずんでいる。目新しさも感じなくなり、少し興(きょう)が冷めたので早足になりどんどん進む。
そのまま進むと左手にぼろぼろの公園が現れる。立ち止まらずにさらに前へ進む。すると、目の前にあの子の後ろ姿がかすかに、ちらりちらりと目に映る。彼女を追いかけようと、後ろ姿に向かって真っ直ぐに走り出す。しかしある程度近づいたところで、蜃気楼(しんきろう)のように彼女の後ろ姿が消える。後ろ姿が消えた場所で僕は呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。少し走ったのと、あの子の姿を見たこととで僕の鼓動があり得ないくらいに早く脈打つ。
激しすぎる鼓動を止めるために深呼吸をしながら辺りを見渡す。ここは、十か月前では、恐ろしくなって僕が逃げ出したあの場所だ。そして、またあの時と同じような葛藤(かっとう)が僕の脳を圧迫する。あの子を探しにこの先へ進んでみたいという思いと、もしあの子が見つからなかったら僕は本当にあの子がこの世のどこにも存在していないと思い知らされることになるという考えが体中を駆け巡り、動けなくなる。体は金縛りにあったように息苦しく膠着(こうちゃく)しているがこれまでになく頭は働いていて、あの子との記憶の渦の中に、もがきながら溺れている。その記憶の反復運動の中に、ひょいと章文の顔が割り込んでくる。その顔を思い出した時、何故だか呼吸が楽になった。瞬(まばた)きを二回ほどした後、手を少し開閉(かいへい)させて体が動くのを確認し、足を一歩、前に踏み出す。
自分の足の進むままに任せて歩いて行くと、ずいぶんと懐かしい場所に辿り着く。僕達が通っていた小学校だ。
昼間は子どもたちが元気に走り回っているであろうグラウンドはこんな夜分(やぶん)遅くではひっそりとしていて、その側には冷たいコンクリートの肌をした校舎がじっと眠っている。僕は少しの間その光景を見ながら、近くの田んぼ辺りに住んでいる蛙(かえる)達の鳴き声を聞いていた。しばらくすると、その鳴き声の中に、何かか細い声が混じっているのが分かった。よく耳を傾けてみるとどうやらそれは泣き声で、しかも女の子の泣き声みたいだ。
その泣き声をはっきりと確認した瞬間、僕は一心不乱に走り出す。フェンスをよじ登り、階段を下りて、グラウンドを横切る。まだまだ学内の構造は覚えていたので目的の場所へと最短の道で向かう。その場所に近づくほど泣き声が大きくなる。どうやら僕の勘は当たっていたらしい。少し立ち止まり、まだ胸をドキドキさせながら軽く深呼吸をして、今度はゆっくりとウサギ小屋に近づいていく。
九
スポットライトに照らされているみたいに、ウサギ小屋周辺だけがいやに明るい。むしろこの小屋が光源(こうげん)であるというふうでさえあった。少し中を覗き込んでみると、この明るさのわりに小屋の中はやけに暗い。ウサギが中にいるのかすらよく分からない。手前に敷かれてある草がかろうじて見えているだけだ。僕はあの時と同じように、獣臭に顔をしかめながら恐る恐る小屋の裏を覗きこんだ。
小屋の裏では小学生くらいの女の子が一人、こちらに小さな背を向けうずくまって泣いている。近づいてみると、その子はすごく震えていることに気が付いた。僕は傍(そば)にしゃがんで、右手でその子の手をそっと握る。その子は少し驚いた様子だったがしばらくすると泣き止み、ゆっくりこちらに顔を向ける。僕は微笑んでその子の顔をじっと見つめる。
その子は、長いまつ毛に覆(おお)われた、潤沢(じゅんたく)なとても愛くるしい目をしていて、鼻はすらりと鼻筋が通って、大きすぎず小さすぎず、おしとやかに顔の真ん中にひょこんと据えられていた。
その子は、ほんのり膨らんで、しかし硬さをも持ったピンク色の唇を震わせながら僕をしばらく見つめる。彼女自身の哀愁(あいしゅう)の相(そう)と、周囲の仄(ほの)青くやさしい色とが相まって、その顔はとても幻想的な美しさを帯びている。
数秒間、お互い見つめあっていると、突然僕の頬を伝って雫(しずく)が一滴流れ落ちた。僕がそれに気づくと、今度はダムが決壊(けっかい)したように激しく涙が溢(あふ)れだす。声まで上げて恥ずかしげもなく泣きわめく。映画などでは、こういう時に主人公は微笑んだまま静々(しずしず)と涙を流すだろう。でも、僕は、静々となんて泣けるはずがなかった。
彼女が僕の手をぎゅっと強く握りしめる。それに応じて、僕はもっと強く手を握り返す。それを繰り返すうちに、僕は冷静さを取り戻していった。そして、まだ彼女が震えていることに気が付く。それでも僕は何もできなくて、ぼうっと隣り合って座っている。僕たちは何も喋らずにただ黙り込んでいる。何かを話す必要なんてなかった。
突然、近くの木から、ジジジジと鳴いて一匹の、季節外れの蝉が飛び立った。僕らはあっけにとられてその木をしばらく眺めた後、お互いに顔を見合わせる。一つ気が付いたが、この時にはもう、彼女が僕と同じ年くらいに変化していた。
沈黙の中、静かに時は流れていく。その間、僕はずっと悩んでいた。この腕で彼女を抱きしめようかと。しかし、確実に今、僕の目の前にいる彼女だが、これ以上少しでも衝撃を与えると消え去ってしまいそうなほど、どこか頼りない存在に思えた。このままそっとして置けば、しばしの間は一緒にいられるだろう。しかし、今も抱きしめてあげられなかったら、この後悔は一生残る。
そんな迷いを抱えて彼女の方に目を向ける。彼女もそれに気づき僕の方に顔をやる。彼女の瞳はあの頃と同じように優し気に、幸せそうに微笑んでいた。それでも、やはりあの時と同じように顔全体に、寂しげな様子も薄く表れていた。この彼女の寂しさに、昔から本当は、僕はずっと気がついていた。それでもその寂しさをぬぐいとってあげることはできなかった。僕が臆病だから。
そんな僕の考えを知ってか知らずか、彼女はもっと優しげに、健気に微笑む。その笑顔を見て僕は彼女を抱きしめようとする。
しかし僕の腕が彼女の体に触れたその時、彼女の体は光の飛沫(しぶき)となって中空(ちゅうぞら)を舞っていった。僕の足元には青いバラがただ一輪、置かれているだけであった。
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