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6.芽生えた感情
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「えっ? 蔵橋さんの代わりに佐原を出張に連れて行くんですか?」
和泉は西野課長の言葉が信じられなくて、思わず聞き返す。
「蔵橋に他の仕事が入ってな。佐原と代わる事に決まったんだ」
「そんな……」
「蔵橋がいなくても和泉なら大丈夫だと俺は思ってる。ユウワ製薬のときの接待営業はふたりでうまくまとめたじゃないか。その調子で富久薬品からも新しい仕事を取ってこい」
富山県にある富久薬品への出張が決まっていたから今週は佐原と離れられると思っていたのに、まさか佐原と一緒に行くことになるとは思いもしなかった。
「新幹線と温泉宿の部屋の名義変更は依頼しておいた。佐原の許可も得ている。ひとりより心強いだろ? 和泉」
富久薬品の本社は市内から少し離れた場所にある。周囲で宿泊しようとすると温泉宿しかないので、富久薬品を訪れるときは誰もが同じ温泉宿に泊まることになる。
ここ最近、うまく佐原と距離を取って過ごしてきたのに佐原とふたりで温泉宿に宿泊することになろうとは。
大丈夫。部屋はひとりにひとつある。佐原とは別々だ。仕事が終わったらさっさと部屋に引きこもってしまえばいい。
一泊二日の富山出張の行きの新幹線で、隣に座っている佐原はとんでもないことを暴露してきた。
「絶対に阻止してやろうと思ったんだ。ありえないだろ、蔵橋さんとふたりきりで出張なんて」
「何やってんだよお前。だってこれは仕事だっ」
佐原は蔵橋と和泉の出張を断固阻止するべく画策したらしい。
蔵橋に対して自分が出張を代わりたいと申し出て、「先輩がいなくても和泉ならきちんと仕事をこなせる。俺がサポートするから」と直談判したことがここで判明したのだ。
「蔵橋さんのほうができるに決まってるだろ? 出張に行きたいなら、お前と蔵橋さんがふたりで行けばいい」
「和泉」
佐原がぐっと顔を近づけてきた。
「お前、最近俺を避けてないか……?」
佐原に迫られドキッとした。そのとおりだ。和泉は佐原を避けている。佐原の察しのよさには時々恐ろしくなる。
「そんなことないよ」
「じゃあ俺とお前でいいじゃないか。ほら、富久薬品の対策をするぞ。どんな相手か早く教えろ」
「それが教わる奴の態度かよ」
和泉が軽口を叩くと、佐原も「うるさいな」と同じく軽い口調で返してくる。気楽に話せる相手だと気持ちも上向いてくる。佐原といるととても楽しい。
「あのさ、デブいじりはダメなタイプ? ダイエットネタとか」
佐原に富久薬品の担当者の写真を見せたら、ふざけたことを言われる。
「ダメに決まってるだろ。実はすごく気にしてるタイプだっ」
「わかった。そこは一切触れない。あのさ、結婚はしてる? 子どもはいるかな」
佐原はガンガン質問をぶつけてくる。和泉の知る限りの情報は話せるが、佐原の質問量には敵わない。
商社の仕事は人と人を繋ぐ仕事だ。もちろん売っているのは物だが、取引をするのは人同士で、金銭が絡むため、取引の際に当然摩擦が生じる。その生産者と企業のあいだに入って気持ちのいい取引をするためには、相手の人となりを知っておくのは大切なことだ。
佐原の営業スタイルをみていて反省する。今までの自分は商品の説明ばかりしていて、相手のことを知ろうとはしなかった。
「よし、あとは和泉がいればなんとかなる。頼りにしてるよ、和泉」
笑顔で肩を叩かれ、胸がじんとなる。
佐原がいれば富久薬品から好印象をもたれるに違いない。頼りにしているのは和泉のほうだ。佐原がいてくれるだけで安心感がある。
佐原がケミカル事業部に来てもうすぐ一ヶ月になる。あれから佐原にプレイに誘われても、いつも和泉を気持ちよくさせるだけ。
和泉としてはDomのコマンドをもらっているので体調不良には陥らないが、佐原はどうなのだろう。
本当は支配的で過激なプレイを望んでいるのではないか。尚紘みたいに無理をして、Dom抑制剤で支配欲を抑え込んだりしているのだろうか。
「朝が早くて眠くなってきた。和泉、着いたら起こしてくれ」
佐原は新幹線の座席を少しリクライニングさせ、座席にもたれて目を閉じた。
佐原が眠ったと思われるころ、そっと様子を伺ってみる。
佐原は目を閉じて優しい呼吸を繰り返していた。
佐原の寝顔は綺麗だ。まつ毛の一本一本まで、見惚れるくらいに綺麗だ。
「Domだって休みたいときもあるんだな……」
誰にも聞こえない小さな声で呟いてみる。
いつも仕事と戦ってばかりの佐原の無防備な姿。眠っている佐原は少し幼く見えて、つい目を奪われる。
和泉を構って騒がしくしていると思ったら、子どもみたいにあっという間に眠ってしまう。
一緒にいて気がついたが、佐原は意外と可愛い面がある。
佐原のこんな姿はきっと会社の誰も知らないと思う。佐原は仕事中は隙のない、完璧な姿しか見せない。和泉といるときだけ、不意につまらない冗談を言ってみたり、今みたいに寝顔を晒したりする。
いつもの仕返しをしてやろうか、と思った。
時間の早い新幹線だから、車内は空いている。今ならば誰も見ていない。
プレイと称していつも佐原に頬にキスをされるから、一度やり返してやりたいと思っていた。
和泉は息をこらえて佐原の滑らかな頬に唇を寄せていく。吐息で佐原に気づかれたら大変なことになる。
佐原を起こさないようにそっと、頬にキスをする。
ただ触れるだけの、なんてことのないキスを。
キスのあと、素早く離れて佐原の様子を伺う。よかった。何も気づかずに眠っているようだ。
前を向いて座席に座り直してから、思わず頬が緩む。
佐原にキスしてしまった。
このことは誰にも言わない。佐原にも、尚紘にも内緒だ。
自分の心の奥底に沈めてしまおう。誰にも知られず、自分自身ですら騙して、この気持ちは最初から存在しなかったことにする。
佐原のことは好きにならないと決めている。和泉には尚紘がいて、佐原には貫地谷部長がいる。
佐原とは同僚のままでいたい。偽のパートナーを解消して、佐原がいなくなるその日まで。
和泉は西野課長の言葉が信じられなくて、思わず聞き返す。
「蔵橋に他の仕事が入ってな。佐原と代わる事に決まったんだ」
「そんな……」
「蔵橋がいなくても和泉なら大丈夫だと俺は思ってる。ユウワ製薬のときの接待営業はふたりでうまくまとめたじゃないか。その調子で富久薬品からも新しい仕事を取ってこい」
富山県にある富久薬品への出張が決まっていたから今週は佐原と離れられると思っていたのに、まさか佐原と一緒に行くことになるとは思いもしなかった。
「新幹線と温泉宿の部屋の名義変更は依頼しておいた。佐原の許可も得ている。ひとりより心強いだろ? 和泉」
富久薬品の本社は市内から少し離れた場所にある。周囲で宿泊しようとすると温泉宿しかないので、富久薬品を訪れるときは誰もが同じ温泉宿に泊まることになる。
ここ最近、うまく佐原と距離を取って過ごしてきたのに佐原とふたりで温泉宿に宿泊することになろうとは。
大丈夫。部屋はひとりにひとつある。佐原とは別々だ。仕事が終わったらさっさと部屋に引きこもってしまえばいい。
一泊二日の富山出張の行きの新幹線で、隣に座っている佐原はとんでもないことを暴露してきた。
「絶対に阻止してやろうと思ったんだ。ありえないだろ、蔵橋さんとふたりきりで出張なんて」
「何やってんだよお前。だってこれは仕事だっ」
佐原は蔵橋と和泉の出張を断固阻止するべく画策したらしい。
蔵橋に対して自分が出張を代わりたいと申し出て、「先輩がいなくても和泉ならきちんと仕事をこなせる。俺がサポートするから」と直談判したことがここで判明したのだ。
「蔵橋さんのほうができるに決まってるだろ? 出張に行きたいなら、お前と蔵橋さんがふたりで行けばいい」
「和泉」
佐原がぐっと顔を近づけてきた。
「お前、最近俺を避けてないか……?」
佐原に迫られドキッとした。そのとおりだ。和泉は佐原を避けている。佐原の察しのよさには時々恐ろしくなる。
「そんなことないよ」
「じゃあ俺とお前でいいじゃないか。ほら、富久薬品の対策をするぞ。どんな相手か早く教えろ」
「それが教わる奴の態度かよ」
和泉が軽口を叩くと、佐原も「うるさいな」と同じく軽い口調で返してくる。気楽に話せる相手だと気持ちも上向いてくる。佐原といるととても楽しい。
「あのさ、デブいじりはダメなタイプ? ダイエットネタとか」
佐原に富久薬品の担当者の写真を見せたら、ふざけたことを言われる。
「ダメに決まってるだろ。実はすごく気にしてるタイプだっ」
「わかった。そこは一切触れない。あのさ、結婚はしてる? 子どもはいるかな」
佐原はガンガン質問をぶつけてくる。和泉の知る限りの情報は話せるが、佐原の質問量には敵わない。
商社の仕事は人と人を繋ぐ仕事だ。もちろん売っているのは物だが、取引をするのは人同士で、金銭が絡むため、取引の際に当然摩擦が生じる。その生産者と企業のあいだに入って気持ちのいい取引をするためには、相手の人となりを知っておくのは大切なことだ。
佐原の営業スタイルをみていて反省する。今までの自分は商品の説明ばかりしていて、相手のことを知ろうとはしなかった。
「よし、あとは和泉がいればなんとかなる。頼りにしてるよ、和泉」
笑顔で肩を叩かれ、胸がじんとなる。
佐原がいれば富久薬品から好印象をもたれるに違いない。頼りにしているのは和泉のほうだ。佐原がいてくれるだけで安心感がある。
佐原がケミカル事業部に来てもうすぐ一ヶ月になる。あれから佐原にプレイに誘われても、いつも和泉を気持ちよくさせるだけ。
和泉としてはDomのコマンドをもらっているので体調不良には陥らないが、佐原はどうなのだろう。
本当は支配的で過激なプレイを望んでいるのではないか。尚紘みたいに無理をして、Dom抑制剤で支配欲を抑え込んだりしているのだろうか。
「朝が早くて眠くなってきた。和泉、着いたら起こしてくれ」
佐原は新幹線の座席を少しリクライニングさせ、座席にもたれて目を閉じた。
佐原が眠ったと思われるころ、そっと様子を伺ってみる。
佐原は目を閉じて優しい呼吸を繰り返していた。
佐原の寝顔は綺麗だ。まつ毛の一本一本まで、見惚れるくらいに綺麗だ。
「Domだって休みたいときもあるんだな……」
誰にも聞こえない小さな声で呟いてみる。
いつも仕事と戦ってばかりの佐原の無防備な姿。眠っている佐原は少し幼く見えて、つい目を奪われる。
和泉を構って騒がしくしていると思ったら、子どもみたいにあっという間に眠ってしまう。
一緒にいて気がついたが、佐原は意外と可愛い面がある。
佐原のこんな姿はきっと会社の誰も知らないと思う。佐原は仕事中は隙のない、完璧な姿しか見せない。和泉といるときだけ、不意につまらない冗談を言ってみたり、今みたいに寝顔を晒したりする。
いつもの仕返しをしてやろうか、と思った。
時間の早い新幹線だから、車内は空いている。今ならば誰も見ていない。
プレイと称していつも佐原に頬にキスをされるから、一度やり返してやりたいと思っていた。
和泉は息をこらえて佐原の滑らかな頬に唇を寄せていく。吐息で佐原に気づかれたら大変なことになる。
佐原を起こさないようにそっと、頬にキスをする。
ただ触れるだけの、なんてことのないキスを。
キスのあと、素早く離れて佐原の様子を伺う。よかった。何も気づかずに眠っているようだ。
前を向いて座席に座り直してから、思わず頬が緩む。
佐原にキスしてしまった。
このことは誰にも言わない。佐原にも、尚紘にも内緒だ。
自分の心の奥底に沈めてしまおう。誰にも知られず、自分自身ですら騙して、この気持ちは最初から存在しなかったことにする。
佐原のことは好きにならないと決めている。和泉には尚紘がいて、佐原には貫地谷部長がいる。
佐原とは同僚のままでいたい。偽のパートナーを解消して、佐原がいなくなるその日まで。
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