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5.ゆらぐ気持ち
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「和泉っ! 今まで悪かった!」
月曜日の朝。会社に着くなり、先輩の蔵橋にいきなり頭を下げられた。
「蔵橋さん、どうしたんですか?」
和泉にはまったく状況が掴めない。
「和泉ってさ、何も言わずに仕事ができちゃうから気づいてやれなかったけど、仕事大変じゃん。無理なら無理って言ってくれよ、俺だって手伝えるからさ」
「えっ……?」
蔵橋だけじゃない。同じ班のみんなが「和泉さん、ごめんなさい」と謝ってきた。
「品質管理のマニュアル作成、教えてよ。和泉しかできないのはおかしいし、できることはやるから」
「蔵橋さん、ありがとうございます……」
マニュアル作成をひとりで一手に引き受けるのは正直キツかった。それを少しでも代わってもらえたら他の仕事に時間を割けるようになる。
「誰かが長期で休む可能性だってある。ひとりに負担がかからないよう、できるものは仕事を複数人で共有していこう」
西野課長まで、和泉を助けるような発言をしている。和泉の仕事は有資格者がやるべきことだとされ、和泉しか担当していなかったため、誰に任せることもできなかった。
今までこのようなことはなかったのに、何が起きたのだろう。
「そうだ和泉。ユウワ製薬との契約、ほぼ確実なんだろう? あとは先方の条件待ちだな。ユウワ製薬が決まれば他にも原薬を売り込みやすくなる。なんたってユウワと取引してるとなれば他社も食いついてくるぞ。価格はかなり譲歩してもいい」
西野課長の手に握られているのは、ユウワ製薬からの回答メールをプリントアウトしたものだ。わざわざ課長にメール内容を見せるために用意したものだろう。このメールを閲覧できるのは和泉の他、ただひとりしかいない。
「おはようございます」
「おー! 佐原おはよう。昨日はありがとな!」
西野課長と佐原が挨拶を交わし、そこに蔵橋が会話に加わる。三人はどうやら昨日、一緒に出かけていたらしい。何番ホールのときの課長のニヤピンがどうだの、バンカーからのショットがどうだの話をしているから、ゴルフコースを回ってきたようだ。
「和泉おはよう」
佐原に肩を叩かれ、いつものよそいきの顔でにっこり微笑まれる。そのくらい佐原なら普通の態度のはずなのに、妙にドキドキした。
佐原と偽のパートナーになると約束して以来、初めて会ったからかもしれない。なんとなくあの日の夜の触れ合いを思い出してしまう。
「お、おはよう、佐原」
「和泉、あれから少し休めたか? 無理はしてない?」
佐原が背の高さを和泉に揃えてまで、和泉の顔をじっと覗き込んでくる。
「だ、大丈夫だ」
まさか朝からいきなり佐原はグレアを発したりはしていないだろうが、どうも直視できない。危険な感じがして、つい目を逸らしたくなる。
「お前の大丈夫は信用ならないからな」
「なんだよ、信用ならないって」
「だってそうだろ? ぶっ倒れる寸前まで無理するような奴なんだから」
和泉が反論してやろうと思ったら、佐原は同僚に挨拶され、和泉に背を向け同僚と別の話をし始めた。
その会話に混ざってきたのは、営業事務の渋谷だ。
「佐原さんっ、ゴルフまで上手なんですか?」
「子どもの頃からやってたから」
「えーっ、珍しくないですか? ちっちゃい頃からゴルフやってる人って」
渋谷は佐原と話をしているとき、声がワントーン上がる。佐原にしょっちゅう話しかけているところを見ると、渋谷は佐原のことを狙っていることがバレバレだ。
渋谷は美人だからいつも言い寄られるだけなのに、自分から積極的になっている姿を初めて見た。
「佐原はすげぇよ! プロ並みにゴルフがうまい! 一緒に回った俺の得意先の人が佐原をまたゴルフに誘ってんの。アドバイスが的確でさ、途中から佐原のこと専属のキャディー扱いだもんな!」
蔵橋も会話に加わる。気づけば佐原を中心に人の輪ができている。
佐原がこの部署に来てから気がついたが、佐原は口数はそう多くはないのにいつも会話の中心にいるようなタイプの男だ。
Domだから支配的かと思いきや、話してみると佐原は優しい男だ。偉ぶるところはなくて、意外に世話焼きで、頼れるし、みんなに好かれる理由がわかる。
和泉はこういうときにスッと皆の話題に入っていけない。コミュニケーション下手なので、つい集団の輪から距離を取ってしまう。もっとうまく職場の人たちと付き合っていかなければと思っているのに。
「和泉は?」
「えっ?」
佐原がわざわざ和泉に寄ってきてまで話しかけてきた。
「和泉は、どっちが好き? 夏と冬」
「えっ? 俺っ? ……冬かな。寒いけど雪降るとテンション上がるし」
咄嗟に聞かれて適当に答えたら「なんだその子どもみたいな発想は」と佐原に笑われた。
「い、いいだろ別に」
子どもっぽいと貶され、妙に恥ずかしくなる。
「いいよ、和泉らしくて。雪だるまでも作って庭を駆け回ってろよ、童顔のお前にはお似合いだ」
「おい、佐原っ!」
からかわれたのが悔しくて、佐原を小突いたら、「意外だ」と蔵橋に驚かれた。
「和泉って大人しい奴かと思ってたのに、佐原といると違うんだな」
「違いますって、こいつがいっつも俺に絡んでくるからですよ」
「へぇ……。和泉って実は案外、面白い奴?」
「面白くないですって、このふざけた男が原因なんですっ」
そんなことを言い合っているうちに、気がついたら会話の輪の中に入っていた。こんなふうに馴染んで話をしたことなどなかったのに。
普段仕事の話しかしないが、こうやって同僚と打ち解けてみると楽しいことに気がついた。
そんなことに気がつけたのも、ここに佐原がいたからかもしれない。
月曜日の朝。会社に着くなり、先輩の蔵橋にいきなり頭を下げられた。
「蔵橋さん、どうしたんですか?」
和泉にはまったく状況が掴めない。
「和泉ってさ、何も言わずに仕事ができちゃうから気づいてやれなかったけど、仕事大変じゃん。無理なら無理って言ってくれよ、俺だって手伝えるからさ」
「えっ……?」
蔵橋だけじゃない。同じ班のみんなが「和泉さん、ごめんなさい」と謝ってきた。
「品質管理のマニュアル作成、教えてよ。和泉しかできないのはおかしいし、できることはやるから」
「蔵橋さん、ありがとうございます……」
マニュアル作成をひとりで一手に引き受けるのは正直キツかった。それを少しでも代わってもらえたら他の仕事に時間を割けるようになる。
「誰かが長期で休む可能性だってある。ひとりに負担がかからないよう、できるものは仕事を複数人で共有していこう」
西野課長まで、和泉を助けるような発言をしている。和泉の仕事は有資格者がやるべきことだとされ、和泉しか担当していなかったため、誰に任せることもできなかった。
今までこのようなことはなかったのに、何が起きたのだろう。
「そうだ和泉。ユウワ製薬との契約、ほぼ確実なんだろう? あとは先方の条件待ちだな。ユウワ製薬が決まれば他にも原薬を売り込みやすくなる。なんたってユウワと取引してるとなれば他社も食いついてくるぞ。価格はかなり譲歩してもいい」
西野課長の手に握られているのは、ユウワ製薬からの回答メールをプリントアウトしたものだ。わざわざ課長にメール内容を見せるために用意したものだろう。このメールを閲覧できるのは和泉の他、ただひとりしかいない。
「おはようございます」
「おー! 佐原おはよう。昨日はありがとな!」
西野課長と佐原が挨拶を交わし、そこに蔵橋が会話に加わる。三人はどうやら昨日、一緒に出かけていたらしい。何番ホールのときの課長のニヤピンがどうだの、バンカーからのショットがどうだの話をしているから、ゴルフコースを回ってきたようだ。
「和泉おはよう」
佐原に肩を叩かれ、いつものよそいきの顔でにっこり微笑まれる。そのくらい佐原なら普通の態度のはずなのに、妙にドキドキした。
佐原と偽のパートナーになると約束して以来、初めて会ったからかもしれない。なんとなくあの日の夜の触れ合いを思い出してしまう。
「お、おはよう、佐原」
「和泉、あれから少し休めたか? 無理はしてない?」
佐原が背の高さを和泉に揃えてまで、和泉の顔をじっと覗き込んでくる。
「だ、大丈夫だ」
まさか朝からいきなり佐原はグレアを発したりはしていないだろうが、どうも直視できない。危険な感じがして、つい目を逸らしたくなる。
「お前の大丈夫は信用ならないからな」
「なんだよ、信用ならないって」
「だってそうだろ? ぶっ倒れる寸前まで無理するような奴なんだから」
和泉が反論してやろうと思ったら、佐原は同僚に挨拶され、和泉に背を向け同僚と別の話をし始めた。
その会話に混ざってきたのは、営業事務の渋谷だ。
「佐原さんっ、ゴルフまで上手なんですか?」
「子どもの頃からやってたから」
「えーっ、珍しくないですか? ちっちゃい頃からゴルフやってる人って」
渋谷は佐原と話をしているとき、声がワントーン上がる。佐原にしょっちゅう話しかけているところを見ると、渋谷は佐原のことを狙っていることがバレバレだ。
渋谷は美人だからいつも言い寄られるだけなのに、自分から積極的になっている姿を初めて見た。
「佐原はすげぇよ! プロ並みにゴルフがうまい! 一緒に回った俺の得意先の人が佐原をまたゴルフに誘ってんの。アドバイスが的確でさ、途中から佐原のこと専属のキャディー扱いだもんな!」
蔵橋も会話に加わる。気づけば佐原を中心に人の輪ができている。
佐原がこの部署に来てから気がついたが、佐原は口数はそう多くはないのにいつも会話の中心にいるようなタイプの男だ。
Domだから支配的かと思いきや、話してみると佐原は優しい男だ。偉ぶるところはなくて、意外に世話焼きで、頼れるし、みんなに好かれる理由がわかる。
和泉はこういうときにスッと皆の話題に入っていけない。コミュニケーション下手なので、つい集団の輪から距離を取ってしまう。もっとうまく職場の人たちと付き合っていかなければと思っているのに。
「和泉は?」
「えっ?」
佐原がわざわざ和泉に寄ってきてまで話しかけてきた。
「和泉は、どっちが好き? 夏と冬」
「えっ? 俺っ? ……冬かな。寒いけど雪降るとテンション上がるし」
咄嗟に聞かれて適当に答えたら「なんだその子どもみたいな発想は」と佐原に笑われた。
「い、いいだろ別に」
子どもっぽいと貶され、妙に恥ずかしくなる。
「いいよ、和泉らしくて。雪だるまでも作って庭を駆け回ってろよ、童顔のお前にはお似合いだ」
「おい、佐原っ!」
からかわれたのが悔しくて、佐原を小突いたら、「意外だ」と蔵橋に驚かれた。
「和泉って大人しい奴かと思ってたのに、佐原といると違うんだな」
「違いますって、こいつがいっつも俺に絡んでくるからですよ」
「へぇ……。和泉って実は案外、面白い奴?」
「面白くないですって、このふざけた男が原因なんですっ」
そんなことを言い合っているうちに、気がついたら会話の輪の中に入っていた。こんなふうに馴染んで話をしたことなどなかったのに。
普段仕事の話しかしないが、こうやって同僚と打ち解けてみると楽しいことに気がついた。
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