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番外編 最悪の一日?!
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今日は最悪だ。
冬麻はロッカールームでギャルソンの制服を脱ぎ捨てながら溜め息をついた。
今日の自分は酷かった。あり得ないオーダーミスをしたし、白身魚の種類を間違えて客に呆れられた。
一番酷いのは、なんにもないところで足がもつれて転んで、よりにもよってパティシエ渾身の記念日デザートプレートを床にひっくり返したことだ。
和やかな店内に皿の割れる音が響き渡ったときの、その場の全員から注がれるなんとも言えない視線。その場から消えていなくなりたかった。
記念日が台無しになった、お詫びをしろと男性客に迫られ、冬麻だけでは対応できずに責任者を呼べとディレクトールまで客に怒られた。
ディレクトールがその後の対応を代わってくれたため、どのような話になったのかまではわからない。だが、冬麻の失態をうまく収めてくれたようだった。
——久我さんに慰めてもらおう。
店を出れば、すぐ近くまで久我が車で冬麻を迎えに来てくれているはずだ。
今日は失敗ばかりで落ち込んでるんですと言えば、きっと久我は「大丈夫だよ」と冬麻を抱き締めて慰めてくれるはず。
いつもの職場近くの駐車場に、見慣れた白いポルシェが見える。ナンバープレートは1203。冬麻の誕生日と同じ数字が並んでいるその車は、間違いなく久我の愛車だ。
「久我さ——」
近くまで行って、運転席を見て、冬麻は愛しい人の名前を呼ぶのをやめた。
運転席にいたのは久我ではなく、久我の秘書の櫂堂だったからだ。
櫂堂は冬麻に気がつき、素早くかつ綺麗な身のこなしで車から降り、冬麻に頭を下げた。
「冬麻さま、申し訳ございません。社長は急遽外せない用事ができて、本日は私がマンションまで送らせていただきます」
「そうですか……」
社長業の久我は、こうやって時々突然の仕事が入ることがある。
まさか冬麻の迎えごときのために、大切な仕事をふいにしろとは言いたくないから、いつも気にかけないようにしている。
でも。
でも今日だけはひどくガッカリした。本当に何もかもがツイてない。まだ冬麻の災難は続くらしい。
「社長ではなくて私で申し訳ありません」
「いっ、いえっ!」
やばい。あからさまにガッカリした顔をしていたのかもしれない。櫂堂だって忙しい最中、わざわざ久我の代わりに来てくれただろうに。
「いいんですよ。このことを社長に報告したら飛び上がって喜ばれると思いますから」
櫂堂はいつも優しい。そして冬麻と違って仕事のミスなどなさそうだ。
完璧に仕事をこなせる人と自分を比べて、また勝手に落ち込んでしまう。今日はなんでこんなにネガティブな気持ちになるのだろう。
「久我さんは今日は遅くなるんでしょうか」
車の中で櫂堂にそれとなく訊ねてみる。
「はい。慌てて空港に向かわれましたから。今日は帰宅なさらないかもしれません」
「空港……」
それは今から飛行機で遠くに移動することになったということなのだろうか。
今は夜の九時。今から飛行機に乗るのなら、今日のうちに久我に会うことは叶わないだろう。
最悪だ。こんなに最悪な日に久我にも会えないなんて。
「痛っ!」
久我のマンションまで帰ってきて、簡単な夕食を作ろうとしただけなのに包丁で指を誤って切ってしまった。
慌てて止血して、傷の手当てをする。
深い傷じゃなくてよかったが、怪我をしたせいで、一気に料理を作る気力がなくなった。
「もう嫌だ……」
冬麻はソファに倒れ込む。
今日は厄日だ。いいことなんて何もない。
何もかもどうでもいいや、と冬麻の心もやさぐれていく。
不意に、ピーっと玄関の鍵が解除される音が聞こえた。
まさか、と思った。
冬麻はその音を聞いて身体を起こし、リビングから玄関へと続くドアのほうに視線を向ける。
「冬麻っ、帰ってる?!」
冬麻の名前を呼ぶ声。
この人から、冬麻は何万回、名前を呼ばれたんだろう。
「どうしたの?! 怪我した?!」
帰ってくるなり、久我は慌てて鞄を放り投げて冬麻のもとに駆け寄ってきた。
いつもきちんと自室に鞄を置きにいく久我が、めちゃくちゃ慌てている。どうやら、リビングのローテーブルに出しっぱなしになっていた救急箱を見て気がついたようだ。
「指?! 切ったの?! ごめん、俺のせいだよね、包丁新しく変えたから使い辛かった?!」
久我は冬麻の左手をとり、怪我の処置をした場所を必死な顔で確認している。人差し指を少し切っただけの小さな怪我なのに。
「久我さんのせいじゃないですよ」
久我の慌てっぷりが可笑しくて、ふふ、と笑いたくなる。
「いいや俺のせいだ。冬麻を守るのが俺の役目なのに、こんなことは許されない。冬麻に怪我をさせるなんてあり得ないだろ。絶対にダメだ」
久我の理論は相変わらずめちゃくちゃだ。仕事はあんなに理路整然とやってのけるのに、冬麻に対してはいつも久我オリジナルの謎理論が展開される。
「冬麻は休んでて。あとは俺が作るから」
久我はソファにかけてあったブランケットを広げて冬麻の身体を包み込む。
これはこれで気持ちがいい。でも、冬麻の望んでいるものじゃない。
「あの……久我さん……」
「何?」
「これじゃなくて……久我さんがいいです。久我さんに抱き締めて欲しい……」
久我とは恋人同士なのだから、少しくらい我儘を言ってもいいのではないだろうか。今日は色々あってすごく心が疲弊している。ちょっとだけでもそばにいて欲しい。
久我は冬麻のすぐ隣にきて、すぐさま抱き締めてきた。冬麻も久我の身体に腕を回した。
冬麻の希望どおりに久我の腕で抱き締められてたまらない気分になる。
久我と一緒に暮らすことに決めてよかった。
今日みたいに落ち込んだ日の終わりに、久我に会えることがすごく嬉しい。
「今日の冬麻は一段と可愛い。どうしたの? こんなに俺に甘えてくれるなんて」
久我は冬麻の身体を持ち上げて、自分の膝の上に座らせた。そしてぎゅっとさらに密着するように抱き締めてくる。
「いいじゃないですか、たまには。今日はすごく疲れちゃったんです。何も聞かないでただそばにいてください……」
本当は色々言いたいこともある。でも、久我がそばにいてくれるだけでもいいなんて思えるくらいにここはすごく安心する場所だ。
「冬麻が何も言わなくても俺は全部わかってるつもりだよ。オーダーミスも、冬麻は悪くないよ。今日はふたりも欠員が出ていたんだから、いつもより忙しかったよね……」
外苑前の店に欠員が出ていたことを久我は把握していたらしい。久我の会社は何百店舗も飲食店を経営しているのに店舗の欠員の状況まで知っているとは驚きだ。
「メインの魚の産地が今日だけ変わったのも、天候不良で船が出なかったせいでいつもの魚が入荷していなかったことを伝え忘れたシェフが悪い。気にすることないよ」
「えっ……」
なぜそのことを知っている……? 監視カメラで監視してたとしてもさすがにわからなくないか……?
「記念日プレートのことで迷惑をかけたカップルには、俺からお詫びの品を贈らせてもらったから、もう大丈夫だよ」
「はいっ?! あれは支配人が担当してくれたんじゃ……」
「俺、冬麻を迎えに近くに来てたから。ディレクトールから対応を代わったんだ。びっくりした、あのカップルは俺のこと社長だって知ってたよ。俺が行ったら急にかしこまってた」
「く、久我さん、時々テレビにも出てますからね……」
敏腕経営者特集や飲食業界対談など、久我はメディアにも顔を出すことがあるから、きっとそれで久我を知っていたのだろう。
「最後は新人ギャルソンを叱りつけて申し訳なかったって、俺に謝ってた。俺じゃなくて冬麻に直接謝って欲しかったよね」
久我は冬麻の背中を優しくさすってくる。
「失敗した俺が悪いんですから、大丈夫です……」
「いいんだよ、冬麻が頑張ってることは俺が一番よくわかってる。俺がもっと早く駆けつけられたらあの男に冬麻は怒られないで済んだのにね。遅くなってごめん」
いや、一店舗のちょっとしたいざこざに対応するため、わざわざ社長が飛んでくること自体がおかしいだろ。
「冬麻のこと、俺はいつでも見守ってるよ」
そのセリフ、聞こえはいい。
だが要は監視カメラをチェックしたり、秘書を使って冬麻の行動を逐一確認するストーキング活動のことを指しているのだろう。
「急な出張はどうしたんですか?」
「出張?」
「はい。櫂堂さんが、久我さんは急な仕事で空港に向かったって」
それを聞いて今日は久我に会えないんだとガッカリしたのに、どうして久我は帰ってきたのだろう。
「あぁ。記念日プレートの作り直しでディナーの時間が延びて、飛行機に間に合わないって言うから俺が車でカップルを空港まで運んだんだ」
「久我さんが?!」
「うん。昼間、取引先の人をアルファードに乗せて店舗回りしてたから。外苑前の店の近くの駐車場に、車停めてたし」
「普通そこまでしないでしょ……」
迷惑をかけた客とはいえ、社長自ら車で空港まで送迎するか?!
「しないね。冬麻のためになるならってやっただけで、普通はそんなことしないよ」
「久我さん……」
ホント変な人だ。この人は普通じゃない。すごく変わってる。
冬麻が顔を上げたら、久我と視線が重なった。
いつもどおりの完璧で美しい顔だ。
ちょっと変態で、ストーカー気質なところがあるけれど、冬麻は久我のことが好きだ。
恋人同士、自然な流れで久我が冬麻に近づいてくる。
「冬麻。お腹すいたよね、夕食食べる? それとも俺が夕食作ってる間に先にお風呂に入る?」
「ひぁ……っ」
久我は囁きながら耳梁を舌で舐めてくるから、冬麻の身体がゾクゾクした。
「それとも俺? 抱き合うだけじゃなくて、もう少し俺と深く繋がりたい?」
いや、恥ずかしくてここでイエスなんて言えるわけがない!
「……キスがいい。久我さん、俺にキスして」
冬麻が呟くと、久我が目を見開いた。久我にとって予想外のことだったのかもしれない。
「か、軽くでいいから、あの……お願いします……」
ダメだ! めちゃくちゃ恥ずかしい!
久我とは何度も唇を重ねているが、こんなふうに改めてお願いするのはすごく照れる。
「冬麻……俺、夢見てるのかな。冬麻が俺に抱きついてきたり、キスしてっておねだりしてくるなんて、俺、今日という日を忘れない。こんな幸せな日はないよ」
久我はいつも大袈裟だ。
冬麻だって、愛情表現は苦手だけど久我のことを好きだと思っている。
れっきとした恋人だし、キスのおねだりくらい……あれ、したことなかったかもしれない……?!
「んっ……!」
久我が唇を重ねてくる。三度ついばむようなキスをされたあと、そこから濃厚なキスが始まった。
「んっ……あ……」
久我がスーツのジャケットを脱ぎ捨て、冬麻の身体を弄ってくる。
あれ、おかしなことになってるぞ。冬麻がおねだりしたのは軽いキスだけなのに。
そういうことをする前に、普通にお腹空いたし。とりあえず風呂入ってさっぱりしたかったし。
「冬麻。もう一回だけキスのおねだりしてみてよ」
「えっ? はいいっ?!」
「『久我さん、俺にキスして』って言ってみて」
「なんでスマホ取り出すんですか?!」
いやこんなに堂々と録画しようとする奴がいるか?! バレバレだぞ?!
「聞きたい。何度でも聞きたいんだけど冬麻はなかなか言ってくれないから、音声を残しておきたいんだ」
「嫌です!」
「お願い冬麻。言ってくれたら今夜はいつも以上に気持ちよくなることしてあげるから」
「あぁっ……!」
どこ触ってる?! いきなりズボンの中に手を入れてそんなところを触るなんて!
「冬麻。俺ね、冬麻のこと大好き。今すぐキスしたい。だから聞かせて。冬麻のおねだり」
「えっ……あのっ、おかしいって……!」
キスしたいなら勝手にすればいいだろ?! なぜ人に恥ずかしいことをわざわざ言わせようとする?!
「冬麻。俺の手だけでイっちゃいそう。ホント可愛い冬麻」
「あっ……あぁ…ぅっ……」
久我はずるい。冬麻の弱いところを全部把握しているから冬麻にはなす術もない。
仕方がない。おねだりセリフを言うしかないのか……?!
「久我さん、俺にキスして……」
そう冬麻が言ったときの久我のこの上なく嬉しそうな顔は、きっと忘れられない。
ついでにこのあと散々気持ちよくさせられた痴態も。こっちはすっかり忘れたいのに、忘れられない。
——完。
冬麻はロッカールームでギャルソンの制服を脱ぎ捨てながら溜め息をついた。
今日の自分は酷かった。あり得ないオーダーミスをしたし、白身魚の種類を間違えて客に呆れられた。
一番酷いのは、なんにもないところで足がもつれて転んで、よりにもよってパティシエ渾身の記念日デザートプレートを床にひっくり返したことだ。
和やかな店内に皿の割れる音が響き渡ったときの、その場の全員から注がれるなんとも言えない視線。その場から消えていなくなりたかった。
記念日が台無しになった、お詫びをしろと男性客に迫られ、冬麻だけでは対応できずに責任者を呼べとディレクトールまで客に怒られた。
ディレクトールがその後の対応を代わってくれたため、どのような話になったのかまではわからない。だが、冬麻の失態をうまく収めてくれたようだった。
——久我さんに慰めてもらおう。
店を出れば、すぐ近くまで久我が車で冬麻を迎えに来てくれているはずだ。
今日は失敗ばかりで落ち込んでるんですと言えば、きっと久我は「大丈夫だよ」と冬麻を抱き締めて慰めてくれるはず。
いつもの職場近くの駐車場に、見慣れた白いポルシェが見える。ナンバープレートは1203。冬麻の誕生日と同じ数字が並んでいるその車は、間違いなく久我の愛車だ。
「久我さ——」
近くまで行って、運転席を見て、冬麻は愛しい人の名前を呼ぶのをやめた。
運転席にいたのは久我ではなく、久我の秘書の櫂堂だったからだ。
櫂堂は冬麻に気がつき、素早くかつ綺麗な身のこなしで車から降り、冬麻に頭を下げた。
「冬麻さま、申し訳ございません。社長は急遽外せない用事ができて、本日は私がマンションまで送らせていただきます」
「そうですか……」
社長業の久我は、こうやって時々突然の仕事が入ることがある。
まさか冬麻の迎えごときのために、大切な仕事をふいにしろとは言いたくないから、いつも気にかけないようにしている。
でも。
でも今日だけはひどくガッカリした。本当に何もかもがツイてない。まだ冬麻の災難は続くらしい。
「社長ではなくて私で申し訳ありません」
「いっ、いえっ!」
やばい。あからさまにガッカリした顔をしていたのかもしれない。櫂堂だって忙しい最中、わざわざ久我の代わりに来てくれただろうに。
「いいんですよ。このことを社長に報告したら飛び上がって喜ばれると思いますから」
櫂堂はいつも優しい。そして冬麻と違って仕事のミスなどなさそうだ。
完璧に仕事をこなせる人と自分を比べて、また勝手に落ち込んでしまう。今日はなんでこんなにネガティブな気持ちになるのだろう。
「久我さんは今日は遅くなるんでしょうか」
車の中で櫂堂にそれとなく訊ねてみる。
「はい。慌てて空港に向かわれましたから。今日は帰宅なさらないかもしれません」
「空港……」
それは今から飛行機で遠くに移動することになったということなのだろうか。
今は夜の九時。今から飛行機に乗るのなら、今日のうちに久我に会うことは叶わないだろう。
最悪だ。こんなに最悪な日に久我にも会えないなんて。
「痛っ!」
久我のマンションまで帰ってきて、簡単な夕食を作ろうとしただけなのに包丁で指を誤って切ってしまった。
慌てて止血して、傷の手当てをする。
深い傷じゃなくてよかったが、怪我をしたせいで、一気に料理を作る気力がなくなった。
「もう嫌だ……」
冬麻はソファに倒れ込む。
今日は厄日だ。いいことなんて何もない。
何もかもどうでもいいや、と冬麻の心もやさぐれていく。
不意に、ピーっと玄関の鍵が解除される音が聞こえた。
まさか、と思った。
冬麻はその音を聞いて身体を起こし、リビングから玄関へと続くドアのほうに視線を向ける。
「冬麻っ、帰ってる?!」
冬麻の名前を呼ぶ声。
この人から、冬麻は何万回、名前を呼ばれたんだろう。
「どうしたの?! 怪我した?!」
帰ってくるなり、久我は慌てて鞄を放り投げて冬麻のもとに駆け寄ってきた。
いつもきちんと自室に鞄を置きにいく久我が、めちゃくちゃ慌てている。どうやら、リビングのローテーブルに出しっぱなしになっていた救急箱を見て気がついたようだ。
「指?! 切ったの?! ごめん、俺のせいだよね、包丁新しく変えたから使い辛かった?!」
久我は冬麻の左手をとり、怪我の処置をした場所を必死な顔で確認している。人差し指を少し切っただけの小さな怪我なのに。
「久我さんのせいじゃないですよ」
久我の慌てっぷりが可笑しくて、ふふ、と笑いたくなる。
「いいや俺のせいだ。冬麻を守るのが俺の役目なのに、こんなことは許されない。冬麻に怪我をさせるなんてあり得ないだろ。絶対にダメだ」
久我の理論は相変わらずめちゃくちゃだ。仕事はあんなに理路整然とやってのけるのに、冬麻に対してはいつも久我オリジナルの謎理論が展開される。
「冬麻は休んでて。あとは俺が作るから」
久我はソファにかけてあったブランケットを広げて冬麻の身体を包み込む。
これはこれで気持ちがいい。でも、冬麻の望んでいるものじゃない。
「あの……久我さん……」
「何?」
「これじゃなくて……久我さんがいいです。久我さんに抱き締めて欲しい……」
久我とは恋人同士なのだから、少しくらい我儘を言ってもいいのではないだろうか。今日は色々あってすごく心が疲弊している。ちょっとだけでもそばにいて欲しい。
久我は冬麻のすぐ隣にきて、すぐさま抱き締めてきた。冬麻も久我の身体に腕を回した。
冬麻の希望どおりに久我の腕で抱き締められてたまらない気分になる。
久我と一緒に暮らすことに決めてよかった。
今日みたいに落ち込んだ日の終わりに、久我に会えることがすごく嬉しい。
「今日の冬麻は一段と可愛い。どうしたの? こんなに俺に甘えてくれるなんて」
久我は冬麻の身体を持ち上げて、自分の膝の上に座らせた。そしてぎゅっとさらに密着するように抱き締めてくる。
「いいじゃないですか、たまには。今日はすごく疲れちゃったんです。何も聞かないでただそばにいてください……」
本当は色々言いたいこともある。でも、久我がそばにいてくれるだけでもいいなんて思えるくらいにここはすごく安心する場所だ。
「冬麻が何も言わなくても俺は全部わかってるつもりだよ。オーダーミスも、冬麻は悪くないよ。今日はふたりも欠員が出ていたんだから、いつもより忙しかったよね……」
外苑前の店に欠員が出ていたことを久我は把握していたらしい。久我の会社は何百店舗も飲食店を経営しているのに店舗の欠員の状況まで知っているとは驚きだ。
「メインの魚の産地が今日だけ変わったのも、天候不良で船が出なかったせいでいつもの魚が入荷していなかったことを伝え忘れたシェフが悪い。気にすることないよ」
「えっ……」
なぜそのことを知っている……? 監視カメラで監視してたとしてもさすがにわからなくないか……?
「記念日プレートのことで迷惑をかけたカップルには、俺からお詫びの品を贈らせてもらったから、もう大丈夫だよ」
「はいっ?! あれは支配人が担当してくれたんじゃ……」
「俺、冬麻を迎えに近くに来てたから。ディレクトールから対応を代わったんだ。びっくりした、あのカップルは俺のこと社長だって知ってたよ。俺が行ったら急にかしこまってた」
「く、久我さん、時々テレビにも出てますからね……」
敏腕経営者特集や飲食業界対談など、久我はメディアにも顔を出すことがあるから、きっとそれで久我を知っていたのだろう。
「最後は新人ギャルソンを叱りつけて申し訳なかったって、俺に謝ってた。俺じゃなくて冬麻に直接謝って欲しかったよね」
久我は冬麻の背中を優しくさすってくる。
「失敗した俺が悪いんですから、大丈夫です……」
「いいんだよ、冬麻が頑張ってることは俺が一番よくわかってる。俺がもっと早く駆けつけられたらあの男に冬麻は怒られないで済んだのにね。遅くなってごめん」
いや、一店舗のちょっとしたいざこざに対応するため、わざわざ社長が飛んでくること自体がおかしいだろ。
「冬麻のこと、俺はいつでも見守ってるよ」
そのセリフ、聞こえはいい。
だが要は監視カメラをチェックしたり、秘書を使って冬麻の行動を逐一確認するストーキング活動のことを指しているのだろう。
「急な出張はどうしたんですか?」
「出張?」
「はい。櫂堂さんが、久我さんは急な仕事で空港に向かったって」
それを聞いて今日は久我に会えないんだとガッカリしたのに、どうして久我は帰ってきたのだろう。
「あぁ。記念日プレートの作り直しでディナーの時間が延びて、飛行機に間に合わないって言うから俺が車でカップルを空港まで運んだんだ」
「久我さんが?!」
「うん。昼間、取引先の人をアルファードに乗せて店舗回りしてたから。外苑前の店の近くの駐車場に、車停めてたし」
「普通そこまでしないでしょ……」
迷惑をかけた客とはいえ、社長自ら車で空港まで送迎するか?!
「しないね。冬麻のためになるならってやっただけで、普通はそんなことしないよ」
「久我さん……」
ホント変な人だ。この人は普通じゃない。すごく変わってる。
冬麻が顔を上げたら、久我と視線が重なった。
いつもどおりの完璧で美しい顔だ。
ちょっと変態で、ストーカー気質なところがあるけれど、冬麻は久我のことが好きだ。
恋人同士、自然な流れで久我が冬麻に近づいてくる。
「冬麻。お腹すいたよね、夕食食べる? それとも俺が夕食作ってる間に先にお風呂に入る?」
「ひぁ……っ」
久我は囁きながら耳梁を舌で舐めてくるから、冬麻の身体がゾクゾクした。
「それとも俺? 抱き合うだけじゃなくて、もう少し俺と深く繋がりたい?」
いや、恥ずかしくてここでイエスなんて言えるわけがない!
「……キスがいい。久我さん、俺にキスして」
冬麻が呟くと、久我が目を見開いた。久我にとって予想外のことだったのかもしれない。
「か、軽くでいいから、あの……お願いします……」
ダメだ! めちゃくちゃ恥ずかしい!
久我とは何度も唇を重ねているが、こんなふうに改めてお願いするのはすごく照れる。
「冬麻……俺、夢見てるのかな。冬麻が俺に抱きついてきたり、キスしてっておねだりしてくるなんて、俺、今日という日を忘れない。こんな幸せな日はないよ」
久我はいつも大袈裟だ。
冬麻だって、愛情表現は苦手だけど久我のことを好きだと思っている。
れっきとした恋人だし、キスのおねだりくらい……あれ、したことなかったかもしれない……?!
「んっ……!」
久我が唇を重ねてくる。三度ついばむようなキスをされたあと、そこから濃厚なキスが始まった。
「んっ……あ……」
久我がスーツのジャケットを脱ぎ捨て、冬麻の身体を弄ってくる。
あれ、おかしなことになってるぞ。冬麻がおねだりしたのは軽いキスだけなのに。
そういうことをする前に、普通にお腹空いたし。とりあえず風呂入ってさっぱりしたかったし。
「冬麻。もう一回だけキスのおねだりしてみてよ」
「えっ? はいいっ?!」
「『久我さん、俺にキスして』って言ってみて」
「なんでスマホ取り出すんですか?!」
いやこんなに堂々と録画しようとする奴がいるか?! バレバレだぞ?!
「聞きたい。何度でも聞きたいんだけど冬麻はなかなか言ってくれないから、音声を残しておきたいんだ」
「嫌です!」
「お願い冬麻。言ってくれたら今夜はいつも以上に気持ちよくなることしてあげるから」
「あぁっ……!」
どこ触ってる?! いきなりズボンの中に手を入れてそんなところを触るなんて!
「冬麻。俺ね、冬麻のこと大好き。今すぐキスしたい。だから聞かせて。冬麻のおねだり」
「えっ……あのっ、おかしいって……!」
キスしたいなら勝手にすればいいだろ?! なぜ人に恥ずかしいことをわざわざ言わせようとする?!
「冬麻。俺の手だけでイっちゃいそう。ホント可愛い冬麻」
「あっ……あぁ…ぅっ……」
久我はずるい。冬麻の弱いところを全部把握しているから冬麻にはなす術もない。
仕方がない。おねだりセリフを言うしかないのか……?!
「久我さん、俺にキスして……」
そう冬麻が言ったときの久我のこの上なく嬉しそうな顔は、きっと忘れられない。
ついでにこのあと散々気持ちよくさせられた痴態も。こっちはすっかり忘れたいのに、忘れられない。
——完。
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