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35.再会

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 その日の仕事は人員が足りず、昼から忙しくて、束の間の休憩のあとディナータイムに入ったところだった。

 目の前の仕事をこなしていると、皆がざわついているのに気がつき、冬麻もそちらを振り返った。

 久我だ。
 久我が来るなんて話は誰も知らなかったようで、慌ててディレクトール(支配人)が久我のもとに駆け寄り久我と話をしている。


「例の抜き打ちチェックじゃないかな……」

 市倉がボソッと耳打ちしてきた。
 そういえばちょっと前に、新入社員が配属された店舗には必ず抜き打ちで社長が訪問すると同期から聞いた。それもエリアマネージャーも知らないくらいの極秘訪問だと。

 やっぱりそうだったようで、久我には本部の経営企画室長が同行している。

 いや、これ相当な圧迫感だ……。忙しい日に限ってチェックに来るなよと思うが、冬麻は遠くから久我と室長のふたりの姿をチラ見することくらいしかできない。

 
 ——でも、久しぶりに久我さんに会えたな……。

 冬麻が久我を見ていても、目も合わないが、仕事の話をしている久我の姿は相変わらずスマートでできる社長といった雰囲気だ。それがまた余計に遠い存在に感じるが、もともと社長なんて雲の上の人なんだとすぐに思い直した。

 それに社長と室長の目を気にしていられないくらいに忙しい。とにかく今は仕事に集中するしかない。



「俺も手伝わせて」

 久我はディレクトールに声をかけた。

「え! 社長?!」

 当然だが、ディレクトールをはじめ、周囲は皆、久我の発言に驚いている。

「久しぶりにやらせてくれ。室長もやるかい? 君も経験者でしょ?」

 室長まで「冗談ですよね?!」と久我に返す。

「ロッカールームと制服を借りるよ」
「社長?! 本気ですか?!」

 驚く周囲をよそに、久我は「ロッカールームの場所はわかるから」と室長を連れて、店の奥へ行ってしまった。




 ものの数分でギャルソン姿に着替えてきた久我と室長。

「このコースメニューはよく知ってる。試食の時から食材の産地は変わってない?」とシェフと軽く話をしたあと、久我はこちらにやってきた。

 久我と目が合う。
 ふたりの間に色々なことがあって、久我と別れてから、この人と向かい合うことも、目が合ったのも初めてだ。



「二ノ坂くん、俺に指示をちょうだい」
「えっ?! いや……」

 いきなりそんなこと言われても……。

「遠慮しないでいいから」

 いや、なんで新入社員が社長をアゴで使うんだよ。さすがにそれは……。

「ここのことなら、君たちのほうがよくわかるでしょ? 俺は君の手となり足となり手伝うから、指示してくれる?」
「は、はぁ……いいんですか?」
「もちろん」

 人手がないから助かるけど、まさか社長と一緒に働くことになるなんて。
 
 それにしても、せっかく会えたのに久我の態度は以前と全然違う。ただの新入社員に対するそれのようだ。どこか他人行儀で、距離がある感じ。
 優しいけど、そこに恋人だったときの甘ったるさはなく、ちょっとだけ寂しく思った。

「市倉くんもだよ」

 給仕を終えて戻ってきた市倉にも久我は同じようなことを伝えている。市倉は「絶対無理です!」とめちゃくちゃ引いていた。




 ふたりも人員が増えたから、仕事がすごく楽になった。冬麻も客と談笑する余裕すらできた。

 経験者だと言うだけあって室長も優秀だけど、久我はやっぱりすごい。料理の知識は完璧だし、ソムリエ級にワインも知ってるし、会話も上手い、所作も綺麗。そして極めつけはイケメンが繰り出す超絶スマイル。

「ここの店員さん、すごいかっこよくない?」とか声が聞こえてきた。「あの人に会えるならまた来ようかな!」とも聞こえてきた。もし久我がこの店で働いていたら、予約が今以上に殺到しそうだ。
 何をやらせても完璧だし、すぐに人を惹きつける。本当にすごい人だ。



「二ノ坂くん、それ、俺が運ぶよ」

 冬麻がテーブルを片付けているといつの間にかすぐそばにいて、代わりに食器を運んでくれた。

「あ、ありがとうございます……」

 一瞬ドキッとしたけど、そのあと久我は別の人も同じように手伝っていたから、冬麻だけを特別扱いしたわけではなさそうだ。



 結局久我は最後まで手伝ってくれた。社長と室長が店内清掃まで手伝っていくと言うので周りは必死で止めたが「俺がやりたいからやらせてくれ」と久我は聞かず、周りが折れた感じだ。
 でもやりたいと言うだけあって、久我はどこか楽しそうだ。

「室長、君はこの店の立ち上げメンバーだったよね?」

 と、室長とふたりで雑談をしながらも手際よく仕事をこなしている。



 ——久我さんは俺と別れても寂しくなさそうだな……。

 別れたから、ずっとそのことを引きずって落ち込んでいて欲しいとは思わないけど、冬麻としてはかなりの出来事だったのに、久我にとっては大したことではなかったのかと、少しショックを受けた。


 まぁいいや、仕事をしようと目の前のテーブルを運ぼうとしたときだ。

「二ノ坂くん、こっちは俺が持つね」

 久我が急にやってきて、冬麻と反対側のテーブルの角を持ちあげて運ぶのを手伝ってくれる。

「ありがとうございます……」

 すぐに気がつくし、優しいところは相変わらずなんだな。





「あの、社長。このあと少しお時間ありませんか?」

 全部の仕事が終わったあと、パティシエの女の子・水野が久我におずおずと声をかけた。

「なに?」
「み、みんなでご飯でも食べようって話になって、その……よかったら……一緒にどうですか……?」
「いいよ」
「えっ! いいんですか?!」

 久我の即答に水野は目をぱちくりさせている。ダメ元で声をかけていて、まさかOKがもらえるなんて思わなかったのだろう。

 それにしても即OKなんて、ずいぶん暇な社長だな。パティシエの水野はたしかに可愛い。だから社長に声をかける係に任命されたのだろうが、呆気なく了承するなんて簡単すぎる。

「俺こそ声をかけてもらえて嬉しいよ。上司とプライベートでも話すなんてみんな嫌がるものだろ? 気を遣って誘ってくれてるならみんなの食事代だけ置いて帰るよ」
「ちっ、違いますっ! 奢ってもらおうとかそう言うんじゃなくて……。私、前から社長とお話ししてみたくて……」
「じゃあ丁度いい機会だね。俺もみんなからの忌憚きたんのない意見が聞けたら嬉しいな」
「あっ、ありがとうございますっ!」

 いつの間にか、社長との食事会に参加したい人を募り始めている。



 ——俺はどうしよう……。

 気になるけど、久我が女子にチヤホヤされているさまを見たくない気もする。

「二ノ坂、面白そうだから参加してみようぜ? タダ飯食えそうだし」

 市倉がニヤリと微笑みながらぽんと冬麻の肩を叩いてきた。

「市倉先輩行くんですか?」
「うん。二ノ坂お前もな。俺とお前と参加するってことでいい?」
「はい……」

 まぁ行ってみようかな。久我さんともう少しだけ同じ空間にいられるチャンスだし。
 ここで離れたら、また次いつ会えるかわからないから。






 店舗の従業員のうち十名以上が集まり、居酒屋で食事をすることになった。
 久我は皆の輪の中心に座るように促されて、冬麻は一番端っこの席にいる。みんなお酒もたしなみながら食事を楽しんでいる。
 久我はみんなと楽しそうに会話をしている。日本酒を注がれたりしてなかなかのハイペースで飲んでるが、酔っ払っている様子は微塵も感じられない。とてもアルコールに強い体質みたいだ。



「社長って、いまお付き合いしてる人、いるんですか?」

 宴もたけなわ、酔った勢いもあるのか、水野がなかなかに踏み込んだ質問を久我に投げた。
 その頃には各々近くの人たちだけで別れて会話をしていたのに、水野の質問に社長がどう答えるか気になったようで、皆の注目が一気にふたりの会話に集まった。

「いないよ」

 久我のあっさりとした答えに「ほんとですかっ?!」と水野が返す。

「本当だよ」
「えっ、社長は今、フリーなんですか?!」
「そういうことになるね。実は、少し前に別れたばっかりなんだ」
「え!! 最近まで付き合ってた人がいたんですか?!」

 水野だけじゃない、その場のみんなが驚いている。
 久我は明け透けに話しすぎだ。社長の恋愛話は、社内の噂の恰好のターゲットになる。社長に最近まで恋人がいたと、明日にはかなりの範囲まで広がるんじゃないのか。

「うん。いたよ」
「えーっ! なんで別れちゃったんですか?!」

 水野の話を聞きながら、「誰だろ……」と呟いている市倉の声が聞こえてきた。
 まさか久我と最近まで付き合っていたのは冬麻だったなんて誰も思いもしないんだろう。

「俺が無理言って付き合ってもらってたようなものだから、うまくいくはずがなかったんだよ」
「ウソ! 社長がそこまで……どれだけすごい人なの……」
「俺に好かれていい迷惑だったと思うよ」
「え! 社長! そんなこと絶対ありませんよ!」
「ありがとう、そう言ってくれて。もう終わったことだから。さ、俺が独り身になったっていう暗い話は終わりにしようか」


 もう終わったこと——。

 たしかに別れたけど、冬麻としては未だにそれを受け入れられずにいたのに、久我の中ではあっさりと「終わったこと」になったのか。

 あわよくば元の関係に戻れるんじゃないか、まだ冬麻のことを忘れたりはしていないんじゃないか。そんなふうに考えて、久我のことで心を乱されている自分がバカらしく思えてきた。

 ——なんだよ、未練があるのは俺だけかよ!

 冬麻は目の前の日本酒を一気に呷る。こんな飲み方はしたことがないが、ムシャクシャしてアルコールの力を借りて気を晴らしたくなった。



 酔いが回ってきて、気分が悪くなり、冬麻は席を立ち、トイレに向かった。
 吐き出したくても何も吐けなくて、少し休憩してから席に戻ろうとした。

 途中、廊下の隅で電話をしている久我を見かけた。久我は結構な量を飲んでいるはずなのに相変わらず乱れもない、完璧な姿だ。
 久我はビジネスの電話をしているようで、電話を片手に鞄から資料を取り出して何やら難しそうなことを話している。

 ——生きる世界が違いすぎるんだよ。

 底辺の社員と、企業トップの社長。久我は本来なら触れ合うことすらないくらいの相手だ。


 すっかり遠くなってしまった久我の背中を見て涙が溢れてきた。
 もう一度だけ振り向いて欲しい。冬麻が必要だと、やり直したいと囁いて欲しい。
 一歩、二歩と吸い寄せられるように久我に近づいていく。

 冬麻は足元がふらつき、つんのめる。
 あっと思ったときには顔面から久我の鞄に突っ込んでいた。

「えっ!!」

 久我が驚いて声を上げた。

 やばいやばいっ。早く起き上がらないとと、身体を起こそうとするが、思ったように身体が動かない。
 冬麻の顔面に当たったふわっとしたものは、人形だった。クリームイエローの長袖とグレーベージュのハーフパンツを着たふわふわの人形。奇しくも冬麻がいつも着ているルームウェアにそっくりだ。

 ——なんで鞄にこんなものが……?

 ふわふわ人形にぽふっと顔を埋めたお陰で顔の怪我はなかった。だが、完璧なビジネスマンの鞄にそれは似つかわしくない。

「二ノ坂くんっ」

 久我が冬麻の身体を引き上げてくれた。自力で動きたいのに頭が痛くて身体に力が入らない。だいぶ飲み過ぎたのかもしれない。


「うわっ、二ノ坂! 大丈夫か!」

 市倉の声だ。冬麻が転んでぶつかり、派手な音がしたから駆けつけてくれたようだ。

「しっかりしろ! 返事、できるか?」

 市倉はいつも優しい。四月の頃から冬麻のことに目をかけてくれてる。

「社長も大丈夫すか? お荷物や服は汚れてませんか? すみませんっ。うちの二ノ坂が迷惑かけて……」
「いや俺は大丈夫。それより二ノ坂くんを」

 やばい。ものすごく迷惑をかけているとわかっていながら冬麻はその場から動けない。

 誰かに身体を担ぎ上げられた。不安定になり、落とされたくなくてその誰かの身体にしがみつく。

 あったかい。人の温もりを感じる。最近はずっとひとりだったからなんだか懐かしい気持ちになってきた——。




 意識は朧げだが、担がれた身体はどこかに下ろされた。感触から車……? タクシーかもしれない。
 やがて車が発進した。冬麻は後部座席に乗せられているようで、前から誰かの会話が聞こえる。

「今後は家に置いておくことにする」

 とても聞き覚えのある声だ。

「さようですね。それがよいと思います。誰かに見つかったら大変なことになりますからね」

 もうひとりは誰だろう……。

「『冬麻くん』ごめんね。君とはもうずっと一緒にはいられないんだ……」

 『冬麻くん』って……なんのことだ……?

「社長。人形に話しかけるのはいかがなものかと」
「うるさいな。じゃあ誰に話かければいいんだよ!」
「ご本人です」
「無理だ」
「すぐそばにいらっしゃいますよ」
「駄目だ」
「先ほど社長が抱えていらっしゃったとき、社長はご自身がどんな顔をなさっていたのかお気づきになりませんでしたか?」
「知らん。それにあれは事故だ。市倉に触らせるくらいならと俺が連れてきた。それだけのことだ。もう触れない。会うのもこれっきりにする」
「社長……」
「等身大」
「はい?」
「察しろ。等身大を用意しろ。もう二度と本人には触れない」
「わ、わかりました……」

 ふたりの会話を耳にしながら冬麻の意識は朦朧とし、やがて意識は遠のいていった。




 翌日の朝になり、冬麻が目が覚めると、実家のベッドの上にいた。
 冬麻は必死で昨夜のことを思い出す。
 職場のみんなと居酒屋にいて、飲み過ぎて倒れて、それ以降の記憶はひどく断片的だ。


 部屋から出て、父親と目が合った途端に「冬麻! 何やってんだ! 皆さんに迷惑かけて!」と開口一番怒鳴られた。

「昨日俺、どうやってここまで……」

 青山から冬麻の家まではかなりの距離がある。車でも40分以上はかかる距離だ。

「社長と秘書さんがふたりでお前を連れてやってきたんだ。こんなところまで送ってくださったんだぞ! 普通ならあり得ない!」
「社長が……? 信じられない……」

 別れた恋人に、ここまでしてくれたのか。もう終わったことだって言ってたのに……。

「今度会ったら謝るんだぞ!」

 今度久我に会えるのはいつになるんだろうか。

 ——まだ、俺のこと好きでいてくれてるのかな……。

 ここまでしてくれたなんて、やっぱり社長と新入社員の域を超えているのでは、と思う。
 いや、違う。子供の誕生日に取り引き先の人を早く家に帰すなど、久我は度を超えて周りの人に優しくすることがある。
 今回だって酔い潰れた社員を見捨てることができずに秘書に命じて送ってくれたのだろう。
 




 





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